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微熱のせいで重い身体を引きずりながら廊下を進む。膨大な慰謝料と共に与えられた家はお前は貴族か? と聞きたくなるほどに広く、防音もセキュリティもしっかりしているが、目的地まで行くのに時間がかかるのが難点だ。
夏樹としては今まで住んでいた1LDKのマンションで十分なのだが、フェロモンが安定するまでは番と共に生活を営む必要があると医師に言われたため、渋々、ここに住むことを承諾した。番といなくてよくなれば即マンションに戻り、この一軒家は売り出そうと思っている。
(……だるい)
三十歩も動いていないのに身体は限界に近い。壁に背中を預けて、床に座る。喉奥から込み上げてくる吐き気をどうにか押し留めようと可能な限り、体を丸くさせた。
深く息を吸い込み、吐き出して、呼吸だけに意識を集中させていると甘やかな香りが近づいてくるのに気がつく。
無意識に、夏樹は目元を緩めた。彼が、番が、自分のそばに来てくれる。それだけで気怠い身体も絡みつく不安も吐き気すら、無くなったように錯覚した。
「……夏くん?! どうしたのっ」
どたばたと忙しない足音と共に現れた阿久津悠人は端正な顔を真っ青にさせ、手を伸ばした。
けれど、熱で桃色に染まる頬に触れる寸前で手を止める。
(なんで、撫でてくれないんだよ。……いや、撫でられても気色悪いだけだ)
夏樹は宙を彷徨う手を凝視する。
その大きな手で撫でて欲しい。
——オメガのように扱わないで。
心地よい声で名前を呼んでほしい。
——俺はアルファであって、オメガではない。
番に心配されたいオメガの本能とアルファとしてのプライドがせめぎ合う。思考も身体も徐々にオメガへと変化していくが、長年、アルファとして生きてきたのだ。プライドはそう簡単に変えられない。
今にもその手に縋りつきそうになる自分が嫌になって、夏樹は床へと視線を落とした。
「まだ、本調子じゃないでしょ。寝ていなくちゃ、立てる?」
「……いい。飯、食いに行くから」
「ベッドまで運ぶよ。夏くんはゆっくり待ってて」
そう言うと悠人はそっと、壊れ物に触れるかのように夏樹の背中と膝裏に触れて、持ち上げる。急に高くなった視界と浮遊感に驚いた夏樹は、悠人の首に腕を回した。
すると甘やかな香りはいっそうと強くなる。夏樹はその香りを辿るように首筋に顔を埋めようとした。
(俺はアルファ! なんで悠人なんかのフェロモンで安心するんだよ!)
自分の意志とは反する身体を呪う。唇を噛みしめ、その痛みで自制を試みた。
「いいから降ろせ。重いだろう」
「夏くんは軽いよ」
「俺、お前より体重あるんだけど」
言った直後、今は違うと思った。夏樹と悠人の身長はさほど変わらないが幼少期からサッカークラブに所属していた夏樹の方が筋肉があり、体重も重かった。
けれど、この一週間、ほぼ食わなかったためか夏樹の体重は激減している。服越しでも分かるほど、腕も足も腹も、筋肉がなくなった。
おそらく、オメガになりつつあるから。オメガはアルファと比べて筋肉がつきにくいとされている。
「夏くん、ごめんね」
そっと耳に囁かれた懺悔の言葉。毎日のように聞かされる言葉に辟易しながらも嫌味のひとつをぶつけてやろうと夏樹は面をあげた。
回転が速い頭は何パターンもの嫌味の言葉を考えるが、どれも音となることはなかった。
「僕、ずっと夏くんのために尽くすからね」
それも懺悔の言葉だが、声は蜂蜜を溶かしたように甘い。申し訳なさなど微塵も感じない。その証拠に夜の森を思わせる黒髪の奥底、自分を見下ろす榛色の瞳は爛々と輝き高揚していた。
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