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「君のこと、ずっと好きだった。俺と付き合ってくださいっ」
憧れの先輩の上ずった声が、夢のような台詞を口にするのが聞こえる。私はその声に潜む情熱にうっとりしながらも、頭の片隅はひどく冷静だった。
「はい」
はにかんだ彼女の声が響く。同じ学年でいちばん可愛いと言われている女の子だ。膝の力が抜けて、私は校舎の陰に隠れてしゃがみこんだ。そのあとも二人の仲睦まじそうな会話が切れ切れに届いたが、もうその内容に聞き耳を立てる気力はなかった。
皆の呆れた顔が浮かんでくる。
『夏実、ホントに行くの』
『競争率高いよー。先輩モテるんだから』
バスケにしか興味がないのかと思っていた先輩は、ちゃんと恋愛もしていた。毎日声をかけてくれて、私のプレーを褒めてくれてたのは、本当に単純に試合で頼れる後輩だったからなんだ。自惚れていた自分を後ろから蹴り飛ばしてやりたい。
明日から夏休みが始まる。
部活が終わって、先輩が一人になるチャンスをずっと窺っていた私は、追いかけて想いを告げるどころか、彼が他の人に告白する場面に遭遇してしまった。
これ以上惨めな状況って、ある?
「サイアクの夏になりそう…」
二人がいなくなってからも立ち上がれず、そこに座り込んでいると、自分が情けなくて涙が出てきた。もう学校中の皆が帰ってしまうまで、誰にも会いたくなかった。人知れず泣いていると、急に変な音がした。
プシュッ
何か降ってきたと思って顔を上げると、私の頬にかかったそれは、甘い香りをさせてしゅわしゅわと音を立てていた。
「わりい。シェイクしすぎた」
私の頭にコーラの雨を降らせたのは、同じバスケ部の新吾だった。たっぷり三十秒はお互いに見つめ合っていたと思う。ここだけ目撃した人は、私たちが恋に落ちたんだろうと勘違いするほどに。
「新吾。コレ何のつもり…」
「ほんっと、ごめん! 手元が狂ってさ。取りあえず水で流そう」
だばだばとあふれるコーラをすすりながら、新吾が片手で拝む仕草をした。炭酸並みに気が抜けて、私はがっくりとうなだれた。
「えー、いいよもう…」
「乾いたらベタベタになるぞ」
「新吾がそれ言うの?」
彼は私の腕を取って水道まで引っ張って行った。ホースの端を持つと、繋いである蛇口を捻って指先で水流を押し潰した。
「ちょ、何して…」
顔に水しぶきが飛んできた。いや、と言うよりもバケツで水を浴びせられた勢いだった。顔を背けても頭のてっぺんから私に降り注ぐ。水音の合間に彼の声が届いた。
「おまえ、真っ直ぐすぎ。もうちょっと探り入れるとか、駆け引きするとかあるだろ」
「新、ねえっ…、やめ…」
「当たって砕けて、散らばってる場合じゃねえよ」
下手に声を上げたり呼吸すると鼻に入ってくる。私は顔を両手で覆ったが、容赦ない乱暴なシャワーに髪の毛もTシャツもじっとりと水を含んで重くなり、しずくが滴り落ちる。ここだけ切り取ったら、絶対イジメでしかない。
あきらめて肩の力を抜くと、もうどうにでもなれという気持ちが湧いてきた。失恋の涙も、甘いコーラも醜い自尊心も全部流れていく。私はただ水に体を委ねていた。
唐突にホースの雨が止んだ。目を開けようとすると頭からふわっと何かを被せられた。洗剤の残り香が鼻先を掠めた。
「風邪ひかしたらごめん」
わしゃわしゃと大きな手が、タオルの上から私の髪を撫で回す。小さな子どもみたいに突っ立ったまま、私は彼の手でもみくちゃにされた。
「でも、すっきりしただろ」
労るような優しい声音だった。
もしかして
最初からそのつもりで…
「だからって、こんなのあり得ないよ」
「うん。でも、いつも元気なおまえが泣いてたら、俺どうしていいかわかんない」
「こんな急にびしょびしょにされたら、私もどうしていいかわかんない」
「ははっ。ごめん」
今日は眩しく晴れている。雨の予報はゼロだった。
「ここだけ雨が降ったことにすれば」
「適当なことばっかり言わないでよっ」
タオルを掴んで振り払うと、目の前にびしょ濡れの新吾が立っていた。
「何で新吾も濡れてるの」
「いやー。方向変えるの、結構ムズいんだわ」
へらへら笑う彼の前髪が濡れて額に張り付いている。私は呆れて、タオルを彼に被せてぐしゃぐしゃと拭いてやった。
「痛い」
「自業自得!」
『今日の天気は、晴れ時々コーラ、ところによりどしゃ降りとなる見込みです。雨はすぐにやんで、また晴れ間が広がるでしょう』
テレビでお馴染みの気象予報士の声が、頭の中で読み上げている。
「今、笑ってるでしょ」
くぐもった彼の声が聞こえた。
「全然」
「嘘だ」
「動かない! まだ拭いてる」
タオルをめくろうとする新吾を遮って、私は背の高い彼の髪を乾かし続けた。まだ湿っている自分の髪に、夏の太陽が当たる。青空にも気づかれないくらい、あっという間に私の涙は乾いてしまった。
まだしばらくは先輩のことを思い出してしまうだろうけど、新吾が降らせたコーラと水道水の雨は、私の黒歴史をポップな失恋の思い出に変えてくれた。タオルの下から派手なくしゃみが聞こえて、今度こそ私は笑いをかみ殺した。
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