私情雨

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 玄関で兄が靴を履き潰して座っている。先端が折れている中古の虫取り網を力強く握り締めていて、もっと短くなっちゃうよと思わず言いたくなってしまう。盛夏のジメジメとした暑さと室内の冷房が混ざりあって、二の腕に汗が滴っている。 「お母さん、雨止んだ!?」 「お兄ちゃん、諦めなって」 「絶対にやだあ! 僕もカブトムシ欲しいもん!」  多分学校の友達に自慢でもされたのだろう。すぐに対抗心剥き出しにする癖はずっと変わらないなあと呆れながら、リビングの大きな窓から空を眺める。雲の切れ目から青空が顔を出していて、晴れるのかこのまま降り続けるのか分からない。  私情を優先出来るなら空が茜色に焦がれるまでこのままがいいなと思う。兄が遊びに行くと大抵は泥だらけになって帰ってきて、お母さんが物凄く怒ってしまうのだ。最近は私のせいで外出禁止令も出ていたから反動で沢山遊びたくなる気持ちも分かる。それでも怒られる姿を見たくないから今日だけは兄の味方にはなってあげられない。 「早く止まないとカブトムシ逃げちゃうよ!」  水溜まりが溜まりすぎると地面が迷惑してしまうから程々に降り続けるのを期待しながら隣に座る。私の天気予報ではこの後兄は渋々諦めて、二階の自室で昆虫図鑑を読むだろう。そして明日の計画を立てて、夏休みの宿題を見ないふりしてお昼寝をする。それか窓から見える縞模様の横断歩道を確認してバニラ味のアイスクリームを食べたくなるかもしれない。合わない掌の大きさに目を細めながら、私は夏と冷房の中間を漂っていた。  私の天気予報が大外れしたと悟ったのはそれから半時間後に雨の勢いが収まってきた時だった。兄は母の制止を振りほどいて外に飛び出した。止める手段の無い私はその様子を後ろから見守って、そのままお母さんの居るソファに行った。お母さんは机上にいるペラペラの私を見て泣いている。  ずうっと、私に謝っている。  その雨を止める手段を私は持っていない。 「声が届いたらいいのになあ……」  兄かお父さんが居る時は周りに迷惑にかけない様に気丈に振舞っているが、一人になると兄よりも子供っぽく泣き散らしてしまう。傍に誰かが居ないと壊れてしまうのに、心のかくれんぼが上手だから罪を抱えたまま苦しんでいる。幽霊になった私は何もしてあげない。透明な掌を重ねようとしても、もう全て遅すぎるのだ。  私はその様子を見る度に胸が締め付けられる。この体で色々な事を『お勉強』してきたから、いつしか私は兄よりも随分と賢くなってしまった。私が居なくなってから半年が経って、兄は私の不在を既に乗り越えていた。もしかすると妹が居たなんて記憶も朧気で、愛着すら端から無かったのかもしれない。今の兄にとって私はカブトムシ以下の存在だと言う事が堪らなく寂しい。あれだけ一緒に居て、同じアイスクリームを食べていたのに、私は忘れられてしまったのだ。 「行ってくるねお母さん。ちゃんと帰ってくるから」  隣に居ると泣きたくなるから兄の背中を追う。きっと近くの街路樹を使って友達に負けないカブトムシを探しているだろう。そんな所には中々居ないよと言う為の口は透明になって、ただ一方的に見つめる事しか出来ないのが酷く口惜しい。雨は完全に上がって雲の切れ目から青色が周りへと滲み始めていた。    曲がり角を二回曲がって発見した兄は座り込んで、何かを凝視している。まさかカブトムシが地面に住んでいたのかと回り込むと、そこには色褪せた横断歩道があるだけだった。何を考えているのか私は多分分かっている。 「バニラアイス食べたいなあ……」  私と兄の間は近く見えるのに本当は無限に遠い。私のどうでもいい天気予報は一部当たったが結局大した意味も無い。すぐに思考は変わってまたカブトムシを探しに行くのだろう。そして遠い未来では素敵な大人になって、雨が降ろうが上がろうが誰にも止められる事無く歩みを進めていく。お母さんもお父さんも私という雨を耐え忍んで、過去として綺麗に忘れ去る日が来る。    その日が来たら、私は何を思うのだろう。鬱屈とした思いが頭を悩ませる。そんな感傷に浸る暇があるなら兄を見守らなければと強く思う。兄は近所の駄菓子屋でなけなしのお小遣いを支払ってアイスクリームを買った。古びたテレビからニュースが流れている。そのまま虫取り網をベンチに立てかけて、陽光に照らされながら封を開けようとする。 「あれ、何で二本入りの奴を買ったんだろう?」  兄は少し悲しそうな顔をして困っていた。結局もう一本のアイスクリームは駄菓子屋のおばちゃんに渡して、そのまま家に帰ってしまった。  私は何故困っていたかを考えて、咀嚼して、答えに辿り着き、そのまま胸の内にしまった。当然喜んではいけないから密やかにこう思った。  まだ忘れられてなくて良かったと。  そんな私情の雨を秘めたまま私は兄の後ろについて行く。いつか皆と触れ合える時が来るまで、私は隣で待っている。
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