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「ほんと騒がしいね、毎度」
オフィスの自席に着くと、隣で冷酷淡々とパソコンのキーボードを打ち込むこいつは、吉野 美緒。俺と同い年の27のくせして、バツイチという社会大先輩の女だ。2年前に中途入社して、わずか半年で正社員になり今に至る。ちなみに顔はちょっと可愛い。
「あ、そういえば社内で噂になってたよ。今朝課長に告白しようとして振られたんだって?」
「ぶふぉっ」
俺はコーヒーをあたかもギャグ漫画のように吹き出した。
「なんだよ、それ。俺の左肩にゴキがいて、それ見て課長が一目散に逃げただけだよ」
またしてもその場が一瞬凍りつく。
吉野の視線は俺の左肩。
「まさか、まだ!?」
俺は左肩を見るも何もいない。そうさ、奴はさっきゴキブリ専用のガス放射器で処罰したはず。
「お前、その服……着替えたのか?」
「いんや?」
ドゴッ。
それはそれは、鈍い音。
俺の脇腹に放たれた鉄の拳は、女のものとは言えど大ダメージ。
「今すぐ着替えてこい!い・ま・す・ぐ!」
忘れていた。こいつ稀に見るほどの潔癖症だった。特にゴキブリとハエに対しては、親でも殺されたのかと思えるほどの反応を見せるんだよ。
俺は言われるがままに雨天時用の替えのワイシャツに着替え、再びオフィスへ。でも、まあコーヒー吹き出して汚れたし、一石二鳥だ。俺は理不尽に感じたそれを無理やり誤魔化した。
席に着くと、すでに朝礼がはじまろうとしていたところだった。
「ゴホン、では本日もよろしくお願いします」
「「よろしくお願いします」」
それぞれ挨拶をこなし、激務に取り掛かる。
俺がいること会社は、自動車部品の製造を担う下請け会社。バックに大手会社が入っているからか、給与や福利厚生などは申し分ない。酷いのはこの業務量。
日々の物価高により、人件費は大幅カット。多数の取引先とやり取りをする為か、午前中はメールチェックで終わることがほとんどだ。逆に言えば、このメールチェックの効率の良さと、量でその日の残業有無が決まる。
しかも、今日はなんと言っても月曜日。確実に残業dayだ。
「しっかし、なんで取引先ってのは土日休み関係なくメール送ってくんのかね。ほんと月曜日はブルーだぜ」
そう。月曜日は土日分のメールも溜まる為、みんな結構なフラストレーションを感じているのだ。
カチカチ、コトコト、カタカタ……
室内には常にキーボードを打つ音が合唱している。俺はこの時間が本当に嫌い。
「まったく、絶対やめてやる。こんな会社!」
ボコッ……
キーボード音の中に聞きなれない音が響いた。俺の脳天から。
「減らず口叩いてないでびしっとやれ」
課長の手には厚めの難しそうな本。それは俺の脳天にぶつかっていた。
「はい、はい。やりゃいいんでしょ、やれば」
「なんだその口の利き方は!それにお前と言うやつは、朝から不衛生極まりない!生活がだらしないんだ」
「な、あれは俺のせいじゃないでしょ!大体課長が一目散に逃げるから、俺変な勘違いされたんですからね!」
周囲はそんな俺らを見てクスクス笑う。この時間はちょっと好きだ。堅苦しいつまらない業務の中、皆を笑顔にする太陽みたいじゃないか、俺。課長はスタスタと席へ戻って行った。
再びキーボードの音に包まれた空間の中、隣の無愛想な女が無駄口を叩く。
「あんた、ほんと課長と仲良いよね。付き合っちゃえば?」
「な、どこがだよ。どう考えても犬猿の仲だろ」
「お似合いだと思うけど」
話しかけるくせに俺の方は一切見ず、手だけはキーボードを打つ社会大先輩に俺はフンと鼻を鳴らした。
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