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家に帰ると、ぼくは家出の支度をする。シャワーを浴びて、汗だくの服を着替えて、お財布や大好きなぬいぐるみ、必要な荷物を大きな鞄に詰め込んだ。すっかり重たくなってしまったけれど、これで長旅だってできるはずだ。通帳だとかも持っていこうと思ったけれど、落としたら困ると渡してくれなかった。
「侑、雨降るから傘持ってきな」
「……持った」
「夜は寒いからね」
「……上着も持った」
「いってらっしゃい」
家出するって伝えても、大荷物を持っていても、いつも通りの調子で見送るお母さん。ぼくが怒ってるのも、悲しんでるのも、何にも伝わっていない。
思えばぼくが学校に行かなくなってから返事がないことも多いし、会話が噛み合わないことも増えた。ぼくの言葉や気持ちはどれだけ伝わっているのかもわからない。
昼間あれだけ暑かったのに、外に出ると既に雨が降っていた。ぼくの代わりに泣いてくれているのかもしれない。
ぼくは入れたばかりの折りたたみ傘を開いて、家を出る。玄関の閉まる音が後ろから聞こえて、大きく一歩踏み出した。
予定も行く先も何も決めずふらふらと夜に外に出るのは初めてで、ちょっとした冒険気分だった。
「……雨なのに暑い」
痛む足も、変わらず蒸し暑い気温も、降りしきる雨も、濡れた靴も、ぼくの気持ちをどんよりとさせる。
唯一の希望だった近所のクリームソーダのあるお店も、あと三十分で閉まってしまう。
ぼくは今日食べ損ねたいろんなものを想像しながら、あてもなく歩く。
大きなクリームソーダのしゅわしゅわプールに、食べても食べてもなくならないぐるぐるソフトクリーム。頭が痛くならないふわふわのでっかいかき氷に、てっぺんが見えないくらい積み重なったパンケーキ。
遊べなかったクレーンゲームは、夜通し遊べたらいいのに。なんたって今夜は帰らないのだ。時間はいくらでもある。
じめじめの空気と悲しい気持ちをかき消すように幸せな空想をしながら歩いていると、ふと、知らぬ間に一軒の店に辿り着いた。
喫茶店かレストランだろうか。白くて綺麗なお城のような立派な建物には『カケラ堂』という柔らかな手書きの看板がかかっている。
少しだけ開いている窓からは甘くて美味しそうな匂いがして、ぼくはつい、ふらふらとそちらに向かう。
「いらっしゃいませ」
深々と頭を下げ出迎えてくれた店員さんは、きちっとした燕尾服姿。しかし首から上には可愛らしいくまの被り物をしていた。
何かのイベントだろうか。一瞬面食らったけれど、可愛らしいその姿に思わず笑みが浮かぶ。
「あ、えっと……甘い匂いがして……ここ、何屋さんですか?」
「ふふ、何でもございますよ。そうですね、今ですとクリームソーダもかき氷もソフトクリームも……あとはパンケーキもパフェもあんみつもクレープもご用意しております」
「えっ、本当!?」
今まで食べたいと想像してきたものを次々羅列され、さっきまで土砂降りのどんより気分だった心も晴れやかになった。
「あ、でも……ぼくあんまりお金なくて……」
「ああ、うちはお金はいただきません」
「えっ?」
「その代わり、お客さまがご満足された暁には『あるもの』をいただきたいのです」
「あるもの、って……?」
よくわからない提案に、なんとなく嫌な予感がする。被り物の向こうの目が、確かにぼくを捉えるのがわかった。ぼくは思わず息を飲む。
「それは……」
「それは?」
「食べてからのお楽しみです」
「全然楽しみじゃないよ!? こわいやつじゃん!」
むしろ不安が増すばかりだ。その誘惑に乗るか、外に飛び出してまたあてもなく雨の中を歩くか。
家に帰るなんて選択肢はなくて、ぼくは目の前のくまと扉の向こうのすっかり暗い外を見比べる。
「おやめになりますか?」
「……、……い、いただきます」
ぼくは誘惑に勝てなかった。
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