全一話 真夏の奇跡

1/1

9人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

全一話 真夏の奇跡

 真夏の太陽が照りつける昼下がり、一台の車が「プープー」とクラクションを鳴らして由香と尚子の前を通り過ぎた。耳をつんざくような轟音の後に、怪我をした幼い少女がひとり取り残されていた。いや、もう少しで彼女はすごいスピードで走り去る車に轢かれていたのかもしれない。  運転手は少女に一片の優しさも見せずにその場を去った。雨上がりのぬかるみから泥水を撥ね飛ばし、彼女は全身ずぶ濡れになってしまった。    由香たち姉妹は学習塾に向かう途中で、思いがけなく身勝手な車に出くわしていた。常日頃から何の変哲もない退屈な時間を過ごしていた彼女たちにとって、それは魔物を見るような、刺激的な珍しい出来事だったのかもしれない。  由香は逃げ去った情のない男に怒りが込みあげて、もう許せなかった! もしそこに石でもあったら、放りつけてやりたかった。そう苛立ちながら、「ママ、ママ……」と泣き叫んでいる女の子のことが心配になった。  それはお散歩中にしては信じられない異様な光景だった。ひとりで見通しが悪い道路脇を歩く少女の靴下には血が滲んでおり、痛々しい姿を見せていた。  汗まみれで涙を流し、洋服まで汚れた少女の姿に、彼女たちは一瞬で心を引き寄せられた。「お嬢ちゃん、大丈夫? どうしたの、いくつ?」と先に声をかけたのは、姉の尚子だった。女の子は彼女たちに指を三本差して見せた。少女はきっと三歳なのだろう。 「うん、ママを探しに行くところだったの」と話した。彼女は萌音と名乗り、怪我をしながらも、なんとか話すことができた。  由香たちは彼女の言葉に愕然とし、心配になった。昼間とはいえ、こんなに車の交通量が多い道路を、小さな子がひとりで歩くのはとても危険だった。それは、少女にとって命がけの大冒険だったのかもしれない。 「一緒に探しにあげようか? ママはどこにいるの?」と由香が優しく話してあげると、「スーパーに買い物かもしれない」と少女は小さな声で呟いた。尚子もすぐにその場に駆け寄り、ふたりで女の子の力になることにした。  姉妹は、泣いている汗だくの女の子をひとりでこれ以上放っておけなかった。それは神さまから授けられたような思いがけない出来事だった。  家に送り届けるまでの道すがら、萌音ちゃんと話しながら彼女のペースに合わせて寄り添った。彼女は「昼寝している間にママが居なくなったの!」と教えてくれた。歩き疲れた彼女を姉の尚子がおんぶしながら、ふたりはゆっくりと進んだ。  しばらく歩くと、萌音ちゃんの家にたどり着いた。そこには「孫が神隠しにでも遭ったかもしれない」と心配そうに探していた白髪のおばあちゃんの姿が見えた。事情を聴いてみると、少女の母親はスーパーに行ったわけではなく、急な呼び出しを受けてお弁当屋さんのパート仕事に出かけたらしい。  そして、同じ敷地内に住む祖母に娘を預けていたという。萌音ちゃんはママが買い物に行ったと勘違いし、寂しさに耐えきれず、内緒で家を飛び出して探しに行ったのだった。 「本当にありがとう」と祖母は何度も感謝の言葉を述べ、涙を浮かべながら頭を下げた。由香と尚子にとって、この偶然の救出劇は、もう二度と経験できない奇跡のような出来事だった。  後日、警察署長は姉妹の勇気と思いやりに感謝状を手渡した。「小さい子が事故に遭う可能性がある中、勇気を持って保護していただいた。近くには用水路や沼地もあり、子どもにとっては危険も多い。しかも、当日は熱中症になりそうな暑い日でもあった。本当にありがとうございました」と話し、ふたりの行動を称賛した。  感謝状をもらっても、由香と尚子には自慢する気持ちなど毛頭なかった。あと一回同じことをやれと言われても、それはもう二度とできなかったからだ。彼女たちにとって、この出来事は一度きりの奇跡であり、心からの行動だったのだ。  しかし、その心の中には見返りを求めることのない純粋な愛が溢れていた。彼女たちの行動は、まるで天使のような無償の優しさであり、その思い出は永遠に心に刻まれることだろう。  ✽.。.:*・゚ 〈おしまい〉。.:*・゚ ✽  最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。ご感想やご意見をいただけますと幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加