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「ねぇ、夜明け前の空の色、見たことがある? 」
居酒屋のバイトを終えて、僕は同僚のわこさんと自転車に乗ったまま、横断歩道の前で信号待ちをしていた。
「僕はだいたい夜明け前、カーテン閉めて寝始めますから、見たことがないわけじゃないけどあんまり意識しないです。空なんて雨が降りそうかどうかぐらいしか…… 」
正直に答えると
「ピッピッピッ」
信号が変わる音がして
「そうだよね、ひろとくん、お疲れ様」
そう言って自転車で僕の前を走った。
物事には順序とかタイミングとか縁とか自分の意志とは別に色々あるのだろう。僕が初めてわこさんと同じシフトに入った日、わこさんの腕は真紫に内出血していた。腕だけじゃなくタオルをかけてごまかしているけれど首や胸元にもそれはあったのだと思う。
「店長、わこさん、大丈夫ですか? なんか身体に── 」
僕は立ったまま厨房でまかないの鶏天丼を食べているとき、休憩をしていた店長に話しかけた。
「ああ、ああいうのは本人が目が覚めないと周りが何を言っても無駄だ。『私がいなきゃとか私だけが理解してあげている』きっと、わこはそんなふうに例え暴力を振るう彼であっても蝉のようにくっついているんじゃないか? ひろと、わこが気になるなら全力でぶつかってみろよ。まんざらでもないんだろ? 」
「あっ、いや、僕にも── 」
そう言ったところでわこさんがタイミング悪く厨房へ入ってきた。
「店長、刺し身についてる大根のけんがパサパサだってお客様から…… 」
「何番だ? 」
「カウンター席の3番です」
店長が慌てて厨房から出ると
「ひろとくん、『僕にも好みがあります』って言いたかったんだよね? 」
わこさんは一瞬だけ真顔で言ったあと
「お疲れ様です」
そう言って厨房のドアを閉めた。
好きとかじゃなく、僕はなぜかわこさんが気になっていた。なぜ自分を傷つける人と一緒にいるのか、これからまた暴力をふるわれるかもしれないのに、なぜそんな家に帰るのか、もしかしたら、わこさんは居酒屋で働きながら、その人を養っているのだろうか? 今日こそは聞いてみたくて僕は倍速で自転車を漕いで追いかけた。
今流行りのおしゃれな電動自転車じゃない僕が2万で買った自転車は倍速で漕ぐとギーギーとうるさい音がした。音で気づいたのか、わこさんは振り向いて僕を待った。
「何? ついてきてるの? 」
「いやっ……あのぅ……、正直に言うとなんで暴力をふるう彼のところへ帰るのかなって疑問があって」
「ああ、心配してくれてるわけだ? なら大丈夫だよ。彼はもう他の女の人のところへ行ったから。そんなに心配なら部屋に見に来る? 」
「えっ? 」
「大丈夫よ。何もしないから」
僕は返事をすることなく、そのまま、わこさんの背中についていった。立ち仕事で足が疲れているはずなのに僕が倍速で漕ぐ速さと同じぐらいの速さで颯爽と夜の街をわこさんは自転車で走り抜けていた。
「あそこよ」
わこさんが指差す方向を見て
「凄いですね、あんなお洒落なマンション!! 」
僕が言うと
「違う!! その真向かいに小さなアパートが見えるでしょ? あのアパート!! 」
「えっ? 」
ひろとくんさぁ、なんか『えっ? 』しか言わないね。そう言うとわこさんは横断歩道の前で自転車から降りて信号機のボタンを押した。
水曜日の深夜、普通の声で話してしまえば響くほど街は寝ていた。
わこさんが住んでいるというアパートも1階の集合ポストのところの灯りがついているだけだった。
「ここに停めてね」
そう言われて僕はわこさんが停めた横に自転車を停めた。
「どうぞ」
昔ながらの差し込み式の鍵でドアを開ける姿を見ながら、僕がなぜついてきて、わこさんがなぜ部屋に見に来る? と僕を誘ったのか、これからこの部屋で何を僕は見るのか、汗が乾かないうちにまた新たな汗が僕の背中には流れていた。
「古いでしょ? 家賃34000円なんだ」
そう言いながらわこさんは冷蔵庫の中から缶のサイダーを2本取り出した。そして、わこさんが和室の電球をつけると部屋の壁にはまるで引っ越しするみたいに段ボールが積み重なっていた。
「わこさん、引っ越すんですか? 」
「まだね、決まってはないの。ここにいるときっといつかまた彼が来るだろうし、それがきっといいことではないことはわかってるから」
そう言いながら閉めていたカーテンを開けた。僕とはそうならないことを宣言したみたいに。そして、蚊取り線香を持ってきた。
「ひろとくん、ここからね、見える夜明け前の空の色が格別なの。まるで神様からご褒美をもらったような気持ちになれるぐらい」
何を言ってるんだ? と思いながら、僕は手渡されたサイダーのプルタブを開けた。椅子じゃない──、畳にどう座っていいかわからず僕は胡座を組んで、わこさんは少し離れたところで三角座りをした。空の色よりも僕は薄暗い部屋の中を見渡していた。
真っ先に目についたのは本棚の上の空の水槽だった。
「魚、飼ってたんですか? 」
「ああ、彼がね、柄にもなく風水とか気にする人で部屋の中に動きがあるもの、魚を飼うといいとかでよくお祭りで金魚すくいをしてたの。たいていはすぐに亡くなるんだけど、1匹だけ彼が【らん】って名前をつけていた金魚は1年以上生きてたかな。最後はお腹を天井に向けるみたいに泳いで亡くなったけれど彼が泣いたのはあとにも先にも【らん】が亡くなったときだけ」
本棚の上の空の水槽ひとつにも、わこさんに暴力をふるう男の思いがあるのだと思ったら、なんだか今、ここにいる自分に激しく後悔をして
「やっぱ、帰ります」
僕は立ち上がろうとした。
「ひろとくん、見て!! 今よ、今!! 」
立ち上がろうとする僕のTシャツの袖を持ってわこさんは僕の身体を外の方に向けさせた。
「この空の色!! 」
まだ夜は明けていない僕のG-SHOCKは左に3の数字を表示していた。
「本当に一瞬だけなの。本当に一瞬だけこの色になるのよ」
興奮気味に話すわこさんの気持ちがわかるほど僕は何度も目をこすって空を見た。夜はまだ明けていない──、なのに空はあのカクテルの、或いは夏祭りのかき氷、【ブルーハワイ】の色をしていた。ほんの数分だけ。僕がスマートフォンで空を撮ろうとすると
「残したいものほど、写真に撮らないほうがいい」
わこさんは空を見ながら僕に言った。
「彼も見てたんですか? この空の色」
「ううん、彼が暴れ疲れて寝たとき、ふっとベランダに出たの。その時、たまたま空を見て逆に夢の中に入ってしまったのかって、さっきのひろとくんみたいに何度も目を擦ってみた。美しいよね、居酒屋の冷蔵庫に冷やしてあるブルーハワイの色とにているのに全然違う。しばらくすると今度は嫉妬する気持ちみたいな夕暮れでもないのに空に朱色が生まれてくるの」
僕が目の前にいるのに、僕の存在よりも夜空の色を熱く語るわこさんを一瞬だけぐしゃぐしゃにしてやりたいと思った。
泳ぐ魚がいない水槽に、別の女のところに行った男のことをまだ【彼】と言うことにも。
まるで僕は小さなビニール袋に入れられて連れてこられた金魚だ。
「わこさん、じゃあ帰ります」
今度こそ、立ち上がった。
「今日はひろとくんも確か休みだったよね? お疲れ様。ごめんね、空の色見せたくて付き合わせて」
「いいえ、僕がストーカーみたいにわこさんについていこうとしただけですから」
キスをするタイミングとか抱きつくタイミングは愛しさからくるものだと思っていた。でも僕はやっぱりわこさんをぐしゃぐしゃにしたかったんだ。わこさんを、というよりどう考えたって馬鹿な男に振り回されている馬鹿なわこさんを。
ドアを開けるふりをして玄関で抱きついた。骨が折れそうなぐらい強く、強く──。穏やかだと思っていた自分の中に初めて感じた不甲斐なさだった。
床でわこさんに重なる僕、わこさんは僕をもとめていなかった。求めていなかったから
「金魚って死ぬ前にこんなふうに天井を見ていたのかな? 」
僕の身体の中の熱が一気にひくように、まるで好きにしてくれというように。僕は再び玄関のドアを開けた。
目に飛び込んできたのは夜が明ける空だった。
「ごめんなさい」
後ろも振り向かず、まだ床で天井を見ているはずのわこさんに向けて僕は謝った。鍵が閉まる音もわこさんが立ち上がる音もしなかった。停めてあった自転車に鍵を差し込もうとしたとき、雨雲のようなグレーの重々しい影が見えた。一瞬でわかった。僕は
「あっ、忘れ物をした」
わざと男に聞こえるように言って
「わこ、わこ」
開いているはずのドアを叩いた。
ドアを開けたわこさんの目に僕の背後にいる男が映る。
「ごめん、私にも影がいたんだわ。だから、ごめん、もうここには来ないで」
わこさんは僕を部屋に入れた後で玄関の外にまだいた男に向かって言った。そしてその後で
「本当にごめん。このままだといつか私は警察を呼ぶことになる。本当にごめん」
深々と男に頭をさげている姿が見えた。
「寝るタイミングを見失ったね」
わざと『カチャ』と音を立ててドアを閉めた後、空の水槽を見ながら立ち尽くしていた僕にわこさんは笑いながら言った。
そうやって空の水槽に水を注ぐみたいに僕の中に、あるいは僕が最初に水道の蛇口をひねって、わこさんは僕の中の空っぽの水槽の中に少しずつ入ってきたのだ、あの一瞬の夜明け前の空みたいな色をして、卑怯にもどっちにもとれる言葉を放ちながら。
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