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目を細めて覗いてみても、なにも見えないんだろうな、きっと。
見るたびにそう思っていた、細すぎるストロー。足元に転がっていた。無意識に、潰れた上履きの踵で弄んでいた。ストローの先は歯の形に凹んでいた。その歯は、ストローから数センチ離れたところに転がっていた。無意識に、拾い上げた。その持ち主は、歯から数メートル離れたところに転がっていた。一瞥し、背中を向けた。
「精神的な問題なのね、きっと」
おれたちが籍を置くクソ私立校に臨床心理士として赴任した中年女性は、心得顔でそう分析した。控えめな口調は同情じみていたが、彼女に若槻の“精神的な問題”を追及しようという気がさらさらないことは、だれの目にも明らかだった。若槻にもそんなことはわかっていただろう。彼は失った奥歯の行方に関してはひとことも喋らず、ババアの眼鏡の奥の瞳を嘲るように肩を竦めた。如才ない笑みを浮かべ、後退した。
お役ごめんとばかりに教壇から自分の机に戻ると、若槻はプレイボーイのサックに手を突っ込み、彼のいうところの精神安定剤を取り出した。
長方形の紙パック。パッケージには斜め書きのアルファベットが羅列していた。細いストローを使ってオレンジ・ジュースを吸い上げながら、若槻は斜向かいのおれの席に目を向けた。
喉を隆起させてオレンジの絞り汁を飲み干すと、若槻は絆創膏の下の筋肉を綻ばせて眩しげに微笑んだ。
放課後。若槻は窓際の自分の席でロブグリエを読んでいた。斜向かいの席で、おれはマガジンを広げていた。今年のミス・マガは最悪だった。乳牛のように肥大した胸を見せ付けるように突き出して、阿呆のように口を半開きにしている。おれはなんだかさとうきびを口に突っ込まれたような気分になって、読みもしないページを次々に捲った。
クラスメイトたちが帰路につき、残った暇人どもを追い出すべく、放送委員が機械ごしに形式ばった挨拶で促してきても、おれたちは視線を上げることすらせずずっとそうしていた。
音を上げたのはおれのほうだった。一歩と宮田くんの戦いをバタンとシャット・アウトすると、わざと大仰な動作で立ち上がり、若槻の前に立った。
若槻の手から文庫を奪い取り、床に放る。ロブグリエとはまったく恐れ入ったね。どこまで厭味な男か。
「クソばばあになにもいわなかったな」
若槻は目を上げなかった。床のロブグリエに視線を落としたまま、静かにいった。
「歯を返せ」
「は?」
「ぼくの歯を返せ」
笑った。そのつもりだった。うまくいっている自信はなかった。
「あれは告白だったんだ」
「知ってる」
「じゃ、あれがおまえの断りかたか」
「きみはいつもふられたら殴るのか」
若槻が無表情な顔で見上げてきた。日の落ちかけた教室の中、おれたちはにらみあった。
24時間ほど前のことだ。おれは学食で買った80円のオレンジ・ジュースを手に、今こうしているように若槻の席の前に立っていた。
悪いけど。
おれの差し出した長方形を目にした若槻が口にした言葉は、こうだった。
「おれ、ヴァレンシア産のでなきゃだめなんだ」
若槻は腰を折り曲げてロブグリエを拾い上げようとした。おれは薄い本を踏みつけた。ため息とともに、若槻はおれをにらんだ。
「そういったろ」
「それは体質的な問題か。それとも精神のほうか」
「おまえに関係あんのかよ」
若槻の口調にはじめて怒気がさした。なんとなく嬉しくなって、おれは微笑した。
「臨床心理士は、殴ったのがだれかわかっていたよ」
笑うおれを鋭くにらんで、若槻はいった。
「精神的に問題があるのはおまえのほうだ」
「それがどうした」
「……ぼくの歯」
下唇を痙攣させて、若槻はいった。
「それと本。返せ。今すぐ」
おれは無言で口を開けた。ジーン・シモンズ気取りで舌を突き出した。白い欠片を目にして、若槻は唇を噛みしめた。
椅子の倒れる音。立ち上がった若槻に、おれは唇を塞がれていた。無遠慮に押し入ってくる舌先の目標を察し、咄嗟に舌を引っ込めようとしたが、遅かった。日がな一日口の中で転がしていた歯は、敢えなく持ち主のもとへ還っていった。
「すげえ技。舌を巻いたぜ。なんちゃって」
おれの冗談はどうやら気に入られなかったようだ。若槻は口から出した奥歯を大切そうに制服のポケットにしまった。侮蔑の視線をおれに向けると、本を拾い上げた。背骨を直線に保って教室を出ていった。
無人の教室に突っ立ったまま、おれは乾いたままの唇を舌先でなぞった。前歯の表面に、わずかに残った酸味。
ヴァレンシア産のでなくては、だめになりそうだ。おれも、きっとこれから。
おわり。
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