蕩人坊

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 海を目の前に、人の足ばかり見ていた。夏らしい茶色のサンダル、グレーのウォーキングシューズ、白い革靴、自分の靴。穏やかな海の音は人々の陽気な声に消されてしまっていた。その大体の声は、落ちるなよ。崖がすぐそこだからと言ってここで足を滑らす者はそういないだろう。自らそうしない限り。 「水平線は落ち着くなぁ」  私は崖にあたる小さな波ばかり見下ろしていた。 「もうちょっと前行ってくるね」  晴恵はそう言って身軽に飛んで私の視界に入り、両手を広げている。ようやく顔を上げても水平線は彼女の背中で途切れてしまっていたけれど、曇り空に色を足すには充分な景色だった。後ろ髪とスカートの緩やかな揺れが空気ごと誘惑してしまって、水の匂いをも入り混じって私の鼻腔まで刺激した。このまま深呼吸でもしたらどうにかなってしまいそうで、邪な胸のざわつきを払うように咳払いをした。 「少し戻って店でも見ようよ」 「うん」  振り向いた彼女に目は合わさず手だけ差し出した。そうすると晴恵は当たり前のように手を握る。  水玉柄のシャツに白いスカート、茶色の小さな鞄を肩に提げた髪の短い女性がひとり、人気のない通りで写真を撮っていた。まるで誰かそこにいるみたいに。草木に隠れてしまいそうになった一瞬、少し笑ったように見えたのは気のせいだろうか。  並ぶお店で目立っていたのはやはり魚介類が豊富に並んだお店であったけれど、苦手な私は海鮮焼きの匂いから自然と離れた。他のお土産屋に入ると鼻を摘みたくなるようなどこか懐かしい匂いがして、結局どこに入っても居心地の良い空間はなさそうに見えた。 「お坊、子供の時こんなん好きやったやん」  和風のキーホルダーがいくつかあった。きらきら金や銀の刀や、竜が施された剣、観光地名が書かれた海の物など。 「小さい男の子はこういうのが好きなんや」 「買うてあげよか?」  悪戯っぽい笑顔でそう覗く仕草は歳上に見えなく可愛らしい。 「もういらん」  私は恥ずかしそうに笑って見せた。
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