蕩人坊

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 遊覧船は海に線を引きながら遠くに行ってしまった。海が二つに仕切られたようで、波の線をすっと目で追っている様は飛行機雲を視線でなぞるのと同じように思えた。空も海も、人を慰めるのがお上手なこと。自然が魅せる小さな絶景ひとつひとつが、人間の言葉を遥かに越える慰めになり得る。 「水平線の上でお空が焼けるとこんなに一面赤くなるんやな。岩まであんなに色づいて」 「これじゃ夕焼けで顔が赤いんか、心が動いて頬が赤いんかわからんな」 「誤魔化せるでいいやんか」 「ほぉ、誤魔化したいと?」  意地悪に覗き込んでやるとそっぽを向いて、違うわ、と耳が赤くなっていた。夕焼けひとつで幸福の海を見ていられる私たちは紛れもなく幸福であると同時に、こんな高所から見下ろしてはいけないのではないかと居心地が悪くなった。悲観しすぎかもしれない。けれど人前で愛で盲目になってしまうのが怖いタチなのだから仕様がない。  早く周囲の人間の記憶から私を消したい衝動に耐えられなくなり、下を向いたまま早歩きでお便所へ。晴恵も今はその方が気が楽なようで素っ気なく行ってらっしゃいと返した。  もちろん心情は書いた通りなのだけれど、あの女性の顔を少し覗き見たいのがもう一つ裡に隠した理由だった。実は催してなどいません。一人になるための理由を聞かれなくて一番楽なので多用しているに過ぎない。  この女性の周りだけほんとに時間が止まっているのではないかと疑ったのも束の間。時間が止まっていたかもしれないなんて私でも、いやきっと誰にでもある。側から見れば呆然としていただけでしょうけれど、本人の脳内では数時間分の回想が流れていることがある。そうと気づくと、焼けた空を反射させている瞳はこの世界などとうに見ていないようだった。硝子の玉が埋め込んであると書けてしまうそのお顔の不気味さは、海の無数に反射した光よりも美しい。確かに肉体は此処にあれど、硝子の玉の中を意識が放浪しているように見えるほど現実味がない。  五歩ほど隣に佇んでいる私に気づく気配などなし。ほんの数ミリ浮き沈みする胸が、息をしているという現実だけ教えてくれている。近くをすれ違ってもやはり息をしていた。私も息をしていた。
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