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疲れた。
帰宅すると、あかりがついている。
黄色く染まったイチョウの葉っぱみたいな電灯。柔らかい淡いこの光は、見るだけでホッとする。
ああ、帰ってきたんだなぁと感じさせてくれる。
「ただいま。」
声をかけて、コートを脱いでハンガーにかけて。洗面所にタタタッと走って、そこで手を洗って、ガラガラうがいをして。
それからようやく、リビングへ行って。そして、顔を合わせる。
「よっ、お母さん。今日はコロッケ買ってきたよ。夕ご飯に食べようね。」
「うん……?」
優しく流れる銀色の髪。
白くしもぶくれした、ぼんやりした顔。
赤いセーターに身を包んでいる、小柄な体。
ふかふかの柔らかそうなソファの上を覗き込めば。そこには老いた私の母が、座っているのだった。
母は、ん? と振り向いて、言う。
「ごめんね、みいちゃん。よく聞こえなかった……」
母は最近、耳が遠い。
こうして私の発言を聞き返すことも増えてきた。
……でも。
「コロッケ、買ってきたよ。一緒に、食べようね。」
「ん……?」
「コ、ロ、ッ、ケ。」
「あぁ……。」
私はニッコリ笑って、何度でも丁寧に発音し直してあげる。
チャンスはあと一回、なんて。そんな意地悪なことは言わない。というか、言いたくない。
思う存分聞いてね、という意図を込めて、しっかりはっきり言葉を紡ぐ。
ああ、コロッケね。みいちゃん、ありがとう。
そう言って、母は笑った。
私も笑って、台所へ向かう。メインは買ってきたけれど、それだけでは夕食が寂しい。白ごはんやお味噌汁やキャベツの千切りなんかを用意するために、いそいそとエプロンをつけて冷蔵庫に向かう。バタン、と開ける。材料を物色する。んー、と悩みながら、あれとこれとそれと、と具材を引っ張り出す。トマトを切って出しちゃおっかな、などと思いつく。
やっぱり、と私は思う。
こういう日常が一番いいな、と。
他人に点数をつけるためにルールの歯車に徹するなんて、そんなの私には合ってない気がする。
丁寧に、丁寧に、人と静かに向き合っていくのが、私という人間の本質なんじゃなかろうか。
だから。
こうして母と過ごすひとときはとても大事なものだ。
「みいちゃん……ごめん。忘れちゃった……今晩のお夕飯のおかずは、何だっけ……」
「コロッケ。」
「ん……?」
「コ、ロ、ッ、ケ。」
……たまに、さすがに少し鬱陶しくは、なるけれど。
でも、まあ。
「あぁ……コロッケ……ありがとう、みいちゃん。」
こんなにほのぼのとした母の顔を見れば。
ちっぽけな鬱陶しさなんて、嫌でも吹っ飛んでしまうものだ。
生まれてきてよかった。
こんな夜には、静かに思う。
トン、トン、と包丁を下ろしながら。私はただ、静かに微笑む。
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