ヤンさんの思い出

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 ヤンさんが少年のことを知ったのは、さらにその十日ほど後だった。  いつもなら三日と空けずにヤンさんに会いに来る少年と、最近会わないな、と思っていたところに、少年が受けた仕打ちを聞いた。  少年は、夕涼みに、薄暗い街中を歩いていた。  そこへ中国人の一団が通りがかり、絡んできた。  一団は全部で七人、全員大人だった。昼間、日本人の取引先からひどい不義理を受けて、憤り、酔っぱらっていた。  七人のうち二人が、残り五人を止めようとしたが、止められなかった。  暗い中でのこと、酔っぱらっていたせいで、暴行者たちは、自分たちがやりすぎてしまっていることに、なかなか気づかなかった。  骨は折れていなかった。  しかし顔がひどく腫れ上がり、少年は、しばらく家の中で寝て過ごした。  狭い下町のうわさで、事の次第を聞いたヤンさんは、すぐに少年の母親を訪ねた。  なぜ自分に相談してくれなかったのか、自分ならばすぐにでも犯人を調べ上げて、そのつぐないをさせてやるのに。  普段穏やかなヤンさんが、この時だけは、顔が火のように赤かったという。  母親は答えた。 「あの子から、ヤンさんにだけは言わないでと言われたんです」 「どうして。僕は、親代わりとは言わないけど、あの子を身内と思っているんですよ」 「あの子もそうなんです。自分を痛めつけたのが中国人だと知れれば、ヤンさんが深く傷つくと思って」  ヤンさんは、少年に会わずに帰った。  そしてその日の午後には別の場所へ出かけた。  彼がなにを考えてそのような行動に出たのかは、今では知れない。  ヤンさんは仲間をつたい、すぐに暴行を行った一団の寮を突き止めると、そこに踏み込んでいった。  そして、もう日本人には愛想が尽きた、中国人同士仲良くしようじゃないか、と持ち掛けた。  七人の中国人は、人気の高いヤンさんの加入を喜んだ。  その日の夜に、八人で飲みに出かけた。  酔っぱらった七人は、寮に戻ると、次々にヤンさんに後ろ手に縛られていった。  ヤンさんは酔っていなかった。  そして、昼間のうちに寮に来た時に物陰に隠しておいた、大型のレンチを取り出した。 「よくも子供を傷つけてくれたな。今からお前らの顔を、これでつぶしてやる」  そして、ごつんごつんと七人の頭を殴って回った。  しかし、顔をつぶすどころか、頭にこぶができる程度で、しかも一発ずつしか殴らなかった。  痛みと恐怖で泣いて震える七人に、ヤンさんは言った。 「上等な人間は、本当は、人をだまし討ちになんてしないんだろうな。お前たち、二度と人を傷つけるんじゃないよ」  この話はあっという間に広がって、いろんな人が、ヤンさんについていろんなことを言った。  ヤンさんを敵だとみなす人がたくさん現れた。  それから、東京では誰も――おれも――ヤンさんを見なくなった。 ■  それから、いつくかのオリンピックが開かれ、終わった。  ある春の日曜日、品川区のある小学校の体育館が解放され、市民のための臨時の――といっても毎週のことなのだが――卓球場と化していた。  そこで卓球をやりに来ていた壮年の男性は、使い込んだラケットと、新品のラケットを持って、若い別の男性に、思い出話をしていた。 「すまないね、年寄りの思い出話を聞いてもらって。それがね、ヤンさんて人の話です。 おふくろは亡くなったし、引っ越しもしたし、こうしてヤンさん用のラケットを買って、お守りみたいにして卓球やってきたけども。 もう一度会いたいとずっと思ってきたけど、おれもいい年だし、もう無理かなあ。さすがに、亡くなってるかな」  そういって撫でた頭の毛は、だいぶ薄くなっていた。  驚いたのは、話を聞いていた若い男性である。口をぱかりと空けて、目を見開いている。 「驚いた。僕は生まれも育ちもこのあたりなんですが、そっくりの話を聞いたことがあります。 少し前まで、隣町の中学校の体育館で、僕はあるおじいさんと、こんなふうに解放された卓球台で一緒に卓球をしていました。 『日本はいい国だよね、休みに日にこうして、学校が卓球やる場所を与えてくれるんだから。でも、中国のほうがもしかしたらそういう場所は多いのかな』 なんていうんで、言葉が流暢なので気づかなかったんですが、中国の方だと。 あの様子だと、まだお元気だと思いますよ」  ……その方は、 「その方は、どこに?」 「二丁目のほうです。行ってみますか?」  ぜひ。 「住所はおおよそ分かる程度ですが、なんとかなると思います。 その方も、自分用の使い込んだラケットと、それとは別にいつも新品のラケットを持っていました。 届けたい人がいるんだ、って言ってましたね。 見せてもらったことがありますが、バタフライのかなりいいやつですよ」 「……おれのも……」 「え?」 「おれのも、バタフライなんです。負けた時に言い訳できないように、いいやつをね」  体育館を後にして、歩き出す。  膨大な思考と感情が胸の中にあふれ、少し足がふらついて、頭もくらくらした。  春の空は、そんな日でもあっけらかんと晴れていた。 終
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