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全てが終わった後では、不満などある筈がなかった。
紗央里は足下で横たわる弟を見下ろしながら、
荒れた息が落ち着くのをただ待っていた。
弟の命がこの世界からなくなって、1番悲しむのはお母さんだろう。
そうなるであろう事は容易に想像出来た。
何故ならお母さんは弟が産まれた時から愛情を全て弟に注いで来た。私という子供がいる事も忘れてしまったかのように可愛がり贔屓をしていたからだ。
紗央里は、命の脱殻となった弟を見た時のお母さんの姿を思い浮かべた。髪の毛を振り乱し血塗れで横たわる弟の身体にしがみつき泣き崩れる姿は紗央里の心を暖め、そして喜ばせた。自然、頬が緩み紗央里は微笑んだ。
私の想像通りになったその時は、お母さんに寄り添い一緒に泣いてあげようか。そう思い紗央里は手にした錆びた鉄筋を放り捨てた。
弟はいつの間にかこんな物を幾つも拾って来ていたようだ。勿論、私を殴る為に。多分、素手で殴る事に飽きてしまったからだろう。
紗央里は荒れた息が整うの待ってから、このいたいけな自分の手で叩き潰した弟の顔を見下ろした。
もはや原型をとどめていないその顔をみながら、紗央里は思った。今日を限りに、金輪際、弟が私を見る事は出来ないのか。それが現実になったと思うと胸の中にあったどんよりとした物が徐々に薄れていった。
私は、弟が嫌いだった。特に私を見る時に見せる弱者をさげずむようなその2つの眼が嫌いだった。赤ちゃんの頃からそうだった。可愛いなんて思った事など、1度もなかった。
その眼はお母さんとそっくりで、黒目にはいつも紗央里を軽蔑する光で満ちていた。
「あんたはあいつにそっくりだ。側にいられるだけで苛々する」
お母さんは私を見るたびそういった。
そしてその気持ちは自然に弟に刷り込まれていった。
言葉を理解出来るような年頃になると、弟もお母さんに倣い同じ言葉で私を馬鹿にするようになった。
私が頭に来て弟に手をあげると、その後は必ずお母さんから何十倍にもなって返された。そしてお母さんは弟に耳打ちし私を殴るように命令した。
「アイス買ってやるから、蹴飛ばせ」
「オモチャ欲しかったら、お母さんが良いっていうまで殴るんだよ」
弟は嬉々として私を殴った。
その弟は、今は顔の輪郭もわからない程、どす黒く腫れていた。鼻は潰れ唇は裂けている。
頬は陥没し額は割られ大量の血が流れだしていた。
弟が私を殴る為に用意していた鉄筋が両眼から突き出していた。それは紗央里が何度も何度も何度も奇声を上げながら突き刺したものだった。お陰で指の腹や手の平が摺り切りれ血が滲んでいる。
紗央里は弟の横顔を踏み付け窓の方へと近づいた。
開け放たれた窓から生温い風が部屋に入り込んで来ていた。
紗央里は窓枠に腰掛け雲一つない空を見上げた。
目を閉じると自然とお父さんの姿が思い浮かぶ。
「紗央里、良いかい?あの空の向こうには綺麗な花や美しい鳥や獣達が仲良く暮らし、嫌な事なんか1つもない世界でたった1つだけの楽園があるんだ。もし辛い事や悲しい事があったらその楽園の事を思い浮かべるんだよ?何故かというと、そこに行けるのは寂しい思いをしたり悲しい思いをした人だけ行く事が出来るからだよ。お父さんが紗央里の側からいなくなるのは、いつか紗央里が楽園に行く為に必要な事だからなんだ。わかるね?」
確かあの時の私は否定も肯定もしなかったと思う。今となっては楽園というありもしない世界の話を持ち出し、私を丸め込もうとしたお父さんの安っぽい話に、紗央里は馬鹿みたいに笑った。
でも、弟を殺した後では、現実に楽園というものが存在している可能性を紗央里は否定しなかった。
今の自分の気持ちがまさに楽園にいるような清々しい気分だったからだ。
紗央里は胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。
お母さんが帰って来るまでまだ時間はあった。
紗央里は、弟をここから引きずり出しお母さんが帰宅して直ぐに弟に気づく場所へと運ばなければと思った。
その時が紗央里にとって最大のチャンスだからだった。
それが上手く行けば、弟を殺した瞬間の時のように、再び楽園にいるような気分を味わえるかも知れない。
ひょっとしたら楽園へと続く扉が、突然、現れて私をそちらへとエスコートしてくれる騎士や王子様が現れないとも限らない。紗央里の楽園に対する妄想が加速していく。
紗央里は窓枠から降りて弟の両足を掴んだ。
持ち上げて部屋から引きずり出す。
玄関より、ダイニングテーブルに座らせようか。
それともお母さんのベッドの中が良いだろうか。
どちらにせよ、もう少ししたらお母さんは帰って来る。
そう思うと、自然、紗央里の頬は紅潮した。
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