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針が深緑色の糸を掬ってするりと通り抜ける。生地の裏表を行ったり来たり、ボタン穴の縁が隙間なく埋められていく。慣れた様子で右袖の穴かがりを終えた八代柚希は顔を上げた。品のある焦げ茶の髪は肩口でふわりと丸まっており、横髪は落ちてこないようピンで留められている。
「好きだね」
「好きです」
隣に座る由坂菜絵は胸を張って答えた。二人きりの家庭科室で黙々と穴かがりを進める真剣な横顔を、迷いなく動く手指を見る時間は、菜絵にとって高校生活の中で最も好きな時間だった。
「三年生になっても来てくれますよね?」
「一応参加するつもりだけど」
「私みたいに初めて洋服作る人が来ても、ちゃんと先輩できるか不安なんです」
「菜絵ちゃんも使った洋裁部入門冊子があるから大丈夫だよ」
柚希は左袖のボタン穴もかがっていく。ぼんやりとした西日が針をきらめかせた。二人きりの家庭科室は今日が最後になる可能性を秘めている。
「ここに来てよかったです、柚希先輩に会えたから」
柚希は翳りのある瞳で菜絵を一瞬、見た。
「チョコレート色のワンピースなら、作ってあげるよ」
「柚希先輩に作ってもらえるなら何でも嬉しいです。私、去年の文化祭の青いワンピースも好きだし、その淡い緑色のブラウスも好きなんですよ。だから何でもいいんです」
文化祭では四月から九月の間に仕立てた服を一人一着、洋裁部のスペースに展示している。前回柚希が仕立てた青いワンピースは、長袖がふんわりとふくらみ、袖口のボタン穴が水色の糸でかがられた、おしとやかなものだった。柚希はボタン穴の糸をあえて布地と異なる色にすることを好む。
「何でもいいって」
「ほんとですよ! でも先輩になる身としては、自分で色々作ることができないといけませんね。がんばります」
「……そうだね」
手を動かし続けていた柚希はボタン穴を完成させた。今度は桃色の四つ穴ボタンと、黄色の糸が取り出される。菜絵がじっと見つめる中、桃色のボタンは花のように袖口に留まった。
「かわいい」
「かわいいでしょう」
「……卒業しても会ってくれますか?」
「そんなまだ先の話」
柚希は手を止めると、手首のピンクッションに針を刺す。それから花に触れるかのようにそっと、菜絵の頭を撫でた。
菜絵は自分の作業に戻ろうともしないが、柚希も戻りなさいとは言わない。
ずっとここにいたい、と菜絵は思った。
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