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7.白梅におりる
一週間後、白梅町に雪がふった。
僕は期限日当日に卒業論文を提出し終わり、力が抜けていた。
それでも、昼前に窓の外に雪がふるのを見て、「白梅慧雪文庫」まで歩いていった。傘を差して。
門をくぐると建物の中には入らずに、庭の方へとまわった。
庭は和風とも洋風とも言えなかった。梅の木が点々と植えられている間を細い土の道が通る。時折思い出したように木製の簡素なベンチが一つ、二つ、現れる。
庭の手入れがされていないわけではない。多くの人に見せる型の庭にはしなかったのだろう。なるべく一人で、あるいは二人で、静かにゆっくりと梅の花を眺められるように配慮したのだと思う。
梅の木は白梅だった。白く、小さな花をつけていた。
黒色に近い折れ曲がる枝の重なりの向こうには、雪をふらす灰色の雲が透けて見える。
空気は冷たく、静かだった。地面には薄く雪が積もっていた。
雪はゆるやかに白梅の上におりた。それをひとつひとつ、眺めては歩き、立ち止まっては眺めた。
梅の花の白さは柔らかで、雪の白さはすきとおっていた。
あの水色の目をした子どもは、まちがったことを言わなかった。
僕の中にはあの子がいた。
雨がいた。
三ヶ月前、尊敬する先生が病気で亡くなった。僕は葉書一枚でそれを知った。
その日からずっと、僕の心には霧雨があった。音もなく、細かい雨だった。
僕は先生に、大切なことを何も伝えられなかった。
先生の書いた本、万葉集についての文章に、幾度となく心を揺さぶられたこと、穏やかに励ましてもらったこと、さびしさをなぐさめられたこと、僕の書いた卒業論文を読んでほしかったこと。
卒業論文は、先生にあてた感謝の手紙のようなものだった。
そして、もうひとつ。
「雪」という漢字は、「雨」と「彗」という字からできている。
空から来た、雨と彗星のかけら。
あの水色の目の子どもは、銀色の目の子どもと一緒に、雪になっておりてきた。白梅の花の上に。
僕は、白梅の木の前で足をとめた。
雪の白さは、梅の花の白さと混ざり合わない。冬のこの冷たさの中で、雪をのせて咲く白梅は美しかった。
僕はそっと語りかけた。
「いつか、きみと、きみたちと、話をしてみたい」
雪になって白梅の花におりたきみたちは、どんな思いをしただろうか。
雪に咲く白梅の花を見たとき、どんなに僕の心が和らいだか、伝えたかった。
先生が好きな歌に挙げた万葉集の一首、
「わが園に梅の花散るひさかたの
天より雪の流れ来るかも」
という歌が僕も好きだった。
――わたしの庭に梅の花が散っている。遠い彼方の空から雪が流れてくるのだろうか。
そう詠われた、大伴旅人の歌。
僕はたぶん、これからこの歌を目にするたびに、きみたちのことを思い出す。
きみたちはこの歌を好きかどうか、聴いてみたいと思った。笑いながら答えてくれそうな気がした。
いずれ僕の中にある霧雨は、雪に変わり、白梅の花びらになり、陽の光を受けながら空を流れていくだろう。
雨も雪も、白梅の花も光も、僕には大切に思えた。
雪は音もなく夜中まで白梅町の上だけにふり続けた。
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