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犬飼結仁
保健室に戻ってきた犬飼さんは、私に紙袋を渡しながら「着替え」と一言だけ言う。
私は、紙袋を受け取っていいのか分からなかったから、差し出された紙袋は私たちの間で宙ぶらりんになっていた。
そのタイミングで教室から私の鞄を持ってきてくれた先生が戻ってきた。
「犬飼さん、それって?」
「着替え、家から持ってきてもらいました」
「筒香さん、着替えたら?体操着よりはましじゃないの?」
私が着替えを受け取るように促した先生から紙袋を渡された。
間仕切りしてもらったベッドの脇で私はびしょぬれになった制服を脱いだ。制服が体にへばりついて気持ち悪かった。確かに着替えたい気分ではあったけど。
紙袋から犬飼さんが用意してくれたワンピースを取り出す。無難で目立たない紺色のワンピース。でもファッションに疎い私でも分かる。これはとても高そうな生地だということくらい。クリーニングに出してから返さなきゃいけないよなぁと思うとちょっと面倒だった。濡れた制服を紙袋に入っていたビニール袋に入れて、仕切っていたカーテンを開ける。
私は肩にまだバスタオルをかけたままにしていた。濡れた髪を拭くふりをしていれば、犬飼さんとは視線を合わせなくてすむ。
「学校の外の目立たないところに車を停めているので、そのまま筒香さんを送って帰ります」
「いろいろ聞きたいところはあるけれど。今日のところはそれでいいか。後日、顔を出しなさい」
私と犬飼さんは保健室の先生に頭を下げて目立たないように校門を出た。そう言えば、私はまだ保健室の先生の名前を知らないままだった。
「犬飼さん、私、送ってもらわなくて、本当に大丈夫だよ」
「そういうわけにはいきません」
校門を出たところで犬飼さんと再度交渉してみたのだけど、受け入れてもらうのは難しそうだった。
校門を出て角を曲がったところに、車のそばに若い男性が立っているのが見えた。彼は私たちの姿を認めると、すかさず後部座席のドアを開けた。犬飼さんは助手席に乗り込んだから、どうやら私のために開けてくれたということなんだろう。
「どうぞ」
サングラスをかけている男性が私に声をかける。
「ありがとうございます」
ここまできたら仕方ないと私は乗り込む。犬飼さんに私の住所を聞かれ、私は最寄り駅を告げた。駅から近いので自宅まで送らないで大丈夫だと言ったのに、「家まで送る」と犬飼さんが私にピシャリと言う。ここは私も譲らなかった。
私と犬飼さんのやりとりを聞いていた運転手のサングラスさんが「駅まで送ろう」と言ってくれて、私と犬飼さんの膠着状態だった交渉は終了。
「ありがとうございました」
最寄り駅について、さっさと車のドアを開けて降りようとしたら、「危ないからちょっと待ってね」と運転手のサングラスさんが車を降りて私のためにドアをわざわざ開けてくれる。
「美来ちゃんだっけ?今日は瑠衣利のことで、ありがとう」
耳元で囁くように言う。なんか、近いし、こそばゆい。
「いずれまたゆっくり」
この人、距離感バグってると思いながら、私は車を降りた。
私の下の名前で呼ぶ必要ある?っていうか私、自分の名前を名乗ったっけ?
家に歩き出せば、そんなこと、どうでもよくなっていたのだけれど。
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