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今思い返せば、あの頃から犬飼結仁はタラシだった気がする。
女性は口説いて当然というイタリア人的な感覚の持ち主。それは私の偏見かもしれないけれど。イタリア人の皆様、ごめんなさい。それにしても彼は今まで何人の人と付き合ったのやら。
彼との初対面の記憶は曖昧だ。犬飼瑠衣利が「お兄さん」と呼んでいたから、二人が兄妹の関係なんだろうなぁと思った程度。どっちにしろ彼の存在なんてどうでもよかったんだよね。その時の私の頭の中は、もしかして犬飼さんの鞄をプールから拾い上げたことは余計なことをしたことにならないな、明日からの学校どうしよう、これで悪目立ちしたりしないよね、誰かに見られてたりしないよねとか。そんな思いが交錯していて、私はそっちの方が重要で、犬飼結仁のことなんか、どうでもよかったのだ。
プールに飛び込んだ翌日、犬飼さんはいつにもまして通常モードだった。クラスの彼女を取り巻く微妙な緊張感も変わってない。花園さんが、いつも通り鞄を持ってきた犬飼さんをチラ見しているのは分かったけど気遣いないフリ。
帰り際、生徒が少なくなった教室ですれ違いざま、犬飼さんから小さく「ありがとう」と言われた。その時、なぜか私を車で送ってくれたのが犬飼さんのお兄さんだとわざわざ教えてくれた。いちいち教えてもらわなくても、「お兄さん」って呼んでいたから、さすがに分かるよとは言わなかったけど。ちゃんとドライバーをしてくれたお兄さんにもお礼を私に言えということなのかと穿った見方をしたぐらい。それにしても、どんな人だったっけ?もはやサングラスしか覚えていなかった。
確かに車の中でお兄さんの結仁さんから自己紹介をされたような気もしたけど、状況が状況だったので、ほとんど聞いてなかったし。加えて言うなら、私は居心地の悪さから車窓の外ばかり見ていて、結仁さんの方はろくに見ていなかったんだよね。
思えばあれが私と犬飼結仁のファーストコンタクトだったはずなのだけれど、ともかく記憶に残っているのはサングラスだけだった。
それでも、あえて彼の第一印象を私の記憶の重箱の隅っこから引っ張り出すなら、私が車を降りる時、彼がすかさず車のドアを開けてくれて、耳元で「美来ちゃん」と私の名前を囁いたこと。それは決して楽しい記憶ではなかった。大体、車のドアをわざわざ開けてもらったのだって人生初だったし。そんなだったから、私は、下を向いたままで、彼に会釈をするのが精いっぱいだったと思う。
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