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Δεν εξετάστηκαν με μικροσκόπιο.
今の僕から、君の居た日々は遠かった。どこに居たのかは、分からない。覚えていない自分にとっては、そんな人だった。ある年の決まった折には、いつも僕の隣にいて、僕はベースと彼女との関係について考えていた。彼女の事はあまり分からない。大して会話もしなかったから。ただ、選択科目や清掃の頃になると、同じ場所にいる。その日々が終わった。彼女は何処かへ行った。僕だって、何処かは知らない。二〇二四年の二月のことだ。僕の傍には、井戸が出来た。何処までも深い井戸、その世界では、限りのある惑星とは既に幻想であって、井戸だけが真実だった。君が駐輪場へ駆けていく後ろ姿が、僕が目にした最後の姿になった。何時もなら駆けてなど行かないのに、その日は真っ直ぐに駆けて行った。君が居ないことに気が付いたのは、その二日後で、僕の頭の中では、辛そうな麻婆豆腐が湯気を立てていた。夜は餃子なのだが。今日は、友達の絵を見に行く。その前に、こんなに粗雑な言葉で以て、このような文章をしたためる。これから先も屹度、粗雑なものしか出来上がらないのだろう、と思う。その時は、真っ黒に塗りつぶせば良いだけのことだ。何も言わない、それが掟だ。どうかしている掟だ。俺はバカだ。なんだかな、と思う。いやいや、これ以上は止そう。兎に角、そろそろ友達の絵を見に出掛けなくては。最近まで、ベケットの『名づけられないもの』を翻訳していたから、このような文体になってしまった。まあ、半分までやって、既に手付かずなのだが。僕はいつも中途半端だ。いやいや、もう止そうと決めたのに。hahahaだ。ハハハではなく。何が言いたいのか?まあ、別に良いのだけれど。本当に出掛けなくては...。
一
圭悟はブログを開いた。
僕は椎名さんという方のサークルに参加していた。今のところは、45人が参加している。今夜も彼は、サークル用の記事を投稿する。彼はいつも19時50分頃に現れる。圭悟は時々、プロフィール欄の、椎名 Shiinaという表示の左にあるアイコンを見る度に、夏の冷たさ冬の熱さというものを感じていた。何処にも疑わしいものなど無い、そのような感覚。そして、そういう言葉の、ある種の文学的な余韻を心地良く思ってもいた。蕭条とした部屋に淡くデスクライトが灯され、網戸の方からは虫の音が聞こえてくる。圭悟は暑く涼しいあるいは熱く冷たい日々が好きだった。最近はどうだか。
サークルでは椎名さんがSNSで投稿した内容の詳細が明かされる。今日は何についてだろうか。その時まであともう少し。椎名さんは著名な文学者だった。僕は、彼の著書「ノスタルジア」を何度も読み返した事がある。この本は多くの評論家に酷評されたものでもある。死者への冒涜だと。実際この本は、椎名さんの友人であった、宮倉薫という小説家の作品だった。彼は、それを引き継いだのだ。批判の多くは所謂、原作者至上主義である。批評家ともあろう方々がと高校生らしく生意気な態度をとったこともあった。宮倉さんは、1992年11月18日の朝、ニューヨークで殺害された。銃殺だった。ネットには事件当時の椎名さんのインタビュー映像がある。
『寒い朝だった。街の一角に破裂音のようなものが響いた。音と共に僕は立ち止まった。そうしたら、隣で無抵抗な鈍い音がした。それは、僕の友人である宮倉が倒れた音だった。ブレーキの甲高い音と共に、安物のセダンが際立って覗えた。ついさっきまで僕等が居たBarの店主が表に出て来て、警察に通報してくれた。宮倉の意識は、まだ辛うじてあった。僕は上着を脱ぎ、右腹部の傷口に当て止血を試み、店主と共に彼に声を掛け続けた。宮倉を撃ったであろう連中の乗るセダンは、焦ったせいか、直ぐ近くで事故を起こしていた。暫くしてパトカーと救急車が、駆けつけた。宮倉の意識は薄くなっていた。彼は病院に搬送されたが、2時間後に容態が悪化し、息を引き取った。』─ 頭の中で何度もその文章を思い浮かべた、欠落しか感じないレンジの効いた文章。その小賢しさに当時のぼくの精神状態は耐えられなかった。此畜生めと思ったね。その畜生めという言葉はぼくの裡で、音割れして騒々しくて、恥ずかしかった。そうやってホテルに戻って自嘲し続けていた。ベットから出ようと思い立っても無理だった。仕方がないから苦すぎるコーヒーを飲んだ。ベットに入る前に彼の妻の実彩子さんに電話をした。これから何がなんだか、よく分からぬまま、色々こなさなくちゃならなくなるだろうから、それぞれ言葉を交わした。彼女も無論、眠れずにいたのだ。その声が風のようになる女性は、泣いた跡を隠すのがどこか上手だ。それを想うと途轍もない無力感に捕らえられた。ふと、彼の子供のことが気にかかった。宮倉の子はその時たしか三歳だったと思う。むざんやな兜の下のきりぎりす。お前はあのBarで、その言葉に於いてどこか感慨していたな。ぼくの焦り癖がなければ、お前の酔いに時間をかけてあげられれば良かったのかな。明日は取材だ、もう寝よう。ぼくは久々に寝酒した、詰まらぬことだと思ったよ。ー
君たちは知らんだろうが、芭蕉の平家に対しての句を想ったよ。もう疲れている、休ませてくれないか。
椎名さんはそれだけ述べると取材者たちをよけ、カメラから離れていった…。日本語字幕をつけていたから分からなかったが、風邪をひいている様子だった。彼の横顔には喪失とは別個の惑いが表れていた。しかしそれは彼にとって惑いなのだろうか。インタビューを見たぼくは、暫く、考え事をした。そのあと小林秀雄の平家物語についてのエッセイを読むことにした。近頃、アニメもつくられたらしい。文庫本は制服のポケットに入れている事が多いので劣化している。そのため、時々、テープで補強している。
20時だ、ブログは更新されない。その日は幾ら待っても更新されなかった。翌朝も矢張り駄目だった。午前9時をまわる頃、椎名さんのSNSが更新された。「東京。ホテルで事務。」
「明後日、カフェ・アトスで行われる、SF作家、井坂利哉さんのサイン会に出ます。皆さん、是非来て下さいね!」
これは行かねば!
圭悟は積ん読していた井坂さんの新作、「カリフォルニア・カントリー・ソング」を読むことにした。読み進めていくと、何処かイギリス人コメディアンが監督したドラマのような感じがした。なんとかライフ、確かそんな名前のやつだ。小説の中ではタイトルと同名の音楽が時々登場する。ニュージーランドのジャズピアニスト、マイク・ノックの曲らしかった。良い音楽だ。 良い音楽だと思っていると、机に置いたマグカップの中身は消えていた。もう飲んでしまったのかと思ったが、その日は一日、水分を摂っていなかった。圭悟は小説の世界から帰還し、ほろ苦い聖杯を汲に階段を降りた。食器用洗剤の柑橘系のにおい。冷たい水、熱が逃げていく。作っておいた氷を入れ、コーヒーを淹れた。
溶けていく。ぎゅーっという感じ。この感じが好きだ。好きなのか?
冷やされたリビング、団扇を持つだけの父。僕はベランダに出て星を眺めた。そしてまた、絵を描きたくなった。それでも描けないのだ。星を見ると彼等の死を想像してしまう癖がある。星が死ぬ、Ⅰa型超新星爆発。僕はビートルズが好きだけど、暫く聴くのを止めている。僕は爆発しない、そう決めている。独りだからなのか、そんなことを考えていた。テレビの音が微かに聞こえる。ガハガハ笑っている。笑ってんじゃねえ馬鹿野郎、と思った。僕は、深呼吸の音で掻き消した。鼻に残る感覚が少し気に障る。千葉から見える星は少ない。まあでも、綺麗だよ、とても。それにしても疲れた。疲れが消えるまでは、こうしていよう。こうしていることが、今の僕にとって最適な呼吸法だ。ボネガットの読みすぎかなとふと思った。煙草が吸えない況してや嫌いなのにも関わらず、ベランダで煙草をふかす姿を目の当たりにした。ぼくに文学の才能はないな。改めてそう感じた。なんでだろうな。
部屋に戻りスマートフォンの通知を見ることにした。一つだけ来ている。親友の川端浩紀からだ。彼は、ショート・ショートという形式で拵えた作品をぼくにメールで送ってきた。彼は文学とロックンロールを愛している。彼奴には確か美大に行っている兄がいて、知り合いの電子音楽をやっているバンドのMVを作っているということを、この前はじめて聞かされた。
そうか美大か、と。
曇の日に晴れた日の事を思い出している。庭にはかりんの木があって、十一月も終わる頃だ。中盤フィルムで撮った様な青空に撓わに雲が流れる。色をいよいよ伴った実は、少し枯れた実から遠かった。陽の光りが実の茶色にあたる。しわしわになっている。土竜がこしらえた山を、僕の右足は崩した。先週、ビクトル・エリセ監督のマルメロの陽光を観た為か、彼の作品の音楽が止まない。少し萎れたかりんの実を見ていると、マルメロの陽光が聴こえる。パスカル・ゲニュの音楽。別段、思い入れもないそれ。思い入れがあるものというのは、どこか自分に馴染んでいる。そうでない、例えばあの曲の様なものは、腰を上げて試みる。人はわざわざ、そうするのだ。だからはっきりと聴こえて来るのかも知れない。まあ実際にそうだ、とは思わない。思わないでおく。 口に氷を入れた。勿論、想像だけれども。顔に陽が当たり熱かった。
僕のスノッブ的側面は秋の日和とともに、光沢を帯びている。まだ。いつか、色など分からなくなる。空を見ると雲は増えていた。君もまた優しさのために、性格を壊すのではないか。 それも悪くない。悪くない。秋といえば中原中也だ。部屋に這入るとき、すたれた網戸に葉が引っ掛かっているのが見えた。中原だ、そう思った。実は夏も好きだ。机に向かう。闇が煩くなり窓がガタリコと揺れる。風がおもてで呼んでいる。応答はしなかった。其れが僕等の掟だ。
読み辛さもあるが、悪くはない。まあ、ぼくが読み慣れていないだけなのだが。しかしそうゆう事は言えないので、良いんじゃないか、と返した。暫くして彼からは、良いわけないだろ、と返ってきた。
「まるで教師の板書する文章だ。それでもって型とかいうんだ、甘ったるい。」確かに彼は、甘ったるいことが嫌いだった。ぼくは、申し訳ない気持ちがした。しかしぼくにも対抗する意はあったので、何処が甘ったるいのか、どのようにとは言わなくても良い、言える筈がないからだ。お前なりに思ったことを言ってくれ、と返した。
「俺にも分からない、反射的にそう思わなければいかんと思っただけだよ。」
彼は理系寄りの人間だったが、文章を書くことが好きだった。だが何故か英語に対しては意識的になのか無関心だったため、試験の際にはいつも赤点スレスレを彷徨っていた。
「なあ、こんどベケットのマーフィーを注文したんだけど、お前読むか?」
ぼくは三部作を読んだ後にする、と応えた。
「俺、いま翻訳しようとしているんだよ。てか、もう始めてるけど」
「何を?」
「名付けられないもの、を…」
彼には、そういう捻くれたところがあった。多分、フジファブリックを聴き過ぎたのだと思う。捻くれているが、ポップなところもあるから、仕方ないなと受け入れられる。そういう処がある。彼はその自負心から、実験とポップの玉手箱を開ける、というフレーズを度々口にする。まあ、それが自虐だと思えなくもないのだが。ぼくは、成る程な、としか思えなかったが、いずれそれで良いと思った。
僕は電車に揺られていた。もう二十分以上経つ。千葉駅まで来ると、外は街になった。後は新木場駅までこのままだ。僕はポケットに入れていたウォーク・マンで、音楽を聴くことにした。最近のノーマルポジションのカセットテープは、中音域が強調されている。海外製ならまた違うのだろうけど、少し値がはる。Spotifyで聴いても良いのだけれど、僕は時間が欲しかったから、アナログにした。でも、カセットテープで音楽を聴くことが恥ずかしくもあった。エモーショナルだという捉え方をされると言うより、若者だ、カセットなんかで聴いちゃって、という視線が嫌だった。まあ、僕の自意識が過ぎているのだろうけど。ノイズの上をシンセサイザーの音が埋めて行く。曲が終わり、深緑の服を着て、という言葉が浮かんだ。深緑の服なんて持っていたかと思いうつむくと、今、着ている服がそれであった。
大崎駅に着いた。僕は、少し速く歩いた。地面を感じる、硬くい。四角いな。
曲は変わった。安いイヤホンが震える。風が震える、震えて欲しい。後は、カフェまでソニー通りを歩くだけだ、と僕は、電車から降りる前に一寸となえた。駅のホームには、たんけろくん、という五反田駅のマスコットが描かれた看板がある。「駅キャラ戦国時代」だそうだ。同級生の鉄道オタクは、駅キャラには興味がないらしいが、自分で地元のバスキャラだか駅キャラだかを創作して、SNSでの匿名性確保のためにお面として使っている。
都市の道路だ、そう思った。人工物の堅強さと脆さが並存している。この茫漠感を日常だと思う人生があるのか、とブツブツ独り言を言っていた。体温を欲する人間たち。なるほどな、と僕は、無責任で底の浅い悟りに至った。暫く歩くと飲食店が見える。窓ガラスには、カフェ・アトスと書いてあるから直ぐ分かる。このビルだ、思想の場。一階にはラーメン屋があった。少し食べたいなと思った。塩ラーメン!
誰もいないかな、とエレベーターの扉が開く毎にぼくはドップラー効果を起こした。時の流れがおかしくなるのだ。そして、気付いたら乗り込んでいた。鏡に自分を映す。十七歳とは思えない白髪の量だ。散髪すれば良かった。まあ、ファッションだと思うことにする。同じ事を自宅の洗面所でもしていた気がする。前髪を直す暇もなく、扉は開いた。
あまりしつこすぎないコーヒーの香り。オフィスというものを、すれすれの処で回避している。
フラッシュバック。時々起こる事だ。 僕は遅すぎた機転を働かせ、扉の前から離れた。振り返ったが、誰も居なかった。
サイン会のために何時も並べられていた椅子が片されていた。サイン会の様子はネットで配信される。例しに配信開始時間を確認してみた。十八時からだ。
十六時半。冷房の効いた会場の窓から夕日が見える。この時間になっても会場に居る高校生は、僕くらいらしかった。うん、という一言が二、三度、僕の頭の中で響いた。
心残りのあそびを止めて火を焚きなさい
そう、僕の中で繰り返される。山尾三省の火を焚きなさい、その断片。火を焚きなさいは、びろう葉帽子の下で、という詩集に収められている。まあ、ネットでも公開されているのだが。一昨年の九月、屋久島に残されている彼の仕事場、愚角庵を訪れたときだ。三畳ほどの書斎そして囲炉裏。窓からは雨に濡らされている青々とした葉が見える。そう、雨だった。僕は、淡い光りの下で詩集を読んでいた。
僕はペットボトルのコーヒーを飲んだ。ベースの音が聞こえる。振り返ると女性がノートをとりながらベースを弾いていた。彼女のノートのとりかたは面白い。手で覆い隠すように書くのだ。面白いと言っても僕もそうすことが多い。その感覚は制御しずらい。多分、時間がかかるものだ。人からは、隠すなと言われる。まあ僕は、だけど…。でも時々、ブルーになる、隠れたくなる。何かを隠されてしまうから。頭が真っ白になる。熱すぎる、寒すぎる。
サイン会が始まった。井坂さんは機械のように動いた。しかし、一人ひとりに一分ほど話をしてもいる。
「先生まだですか?始まってますよ。」
突然、後ろで声がした。ベースを弾いていた女性だ。彼女の他にも3人の男性が居て、顔をしかめていた。しかし、僕はいつサインを貰いに行こうか。まだ行かなくても良いなと思い、井坂さんのする話を聞いていた。十八時半になり、井坂さんの隣には米文学者の河上洋子さんが座った。川端が来ていたら、さぞ喜んだのだろうと思った。彼女は、会社の代表だ。暫くしてファンからワインの差し入れがあった。それは白ワインだが、ぼくは呑めない。ただ香っている。 椎名さんの姿はまだない。SNSの更新もなかった。僕はスマホを膝に置き天井を見上げた、自分は、今、息をしたな、と思った。
二
川端は、澄ました様子で、部屋に這入ってきた。手を後ろに組んで顎を上げながら、彼は役者を貫徹したのである。柔らかくも確りと張られた彼の躰はみるみる崩れて行き、声にも内声にもしたくないのだろうけれども、『疲れたよ』というふうに聞こえた。『疲れたか』と僕。『風に吹かれれば俺は生き返るはずだ』それなら何故外から戻ってきたのだろう。『暑いから、風もないし、うん』風が無かった、か。僕は窓から半身を出し、外の様子をうかがった。僕らはまだ何も話してはいなかった。「微風が吹いてる」と僕は沈黙を破る。「西瓜が恋しいよ」川端のその言葉から僕は、重さを感じた。人間は例えば西瓜が恋しいよ、などと言う折に限って、重みが増してくるように思う。自分でも訳が分からない事を述べていることは承知している。「何色の?」
「赤」
「種もいるのか?」
「YES!」
「めやも、だ」
「何の事?」
「さっきの事」
「ふーん。そうだ、冷凍庫みてくる!」「なあ、ミキシングって大変だな…」「まあ…うん」
高校一年の夏休み、僕と川端は成田にある彼の母方の実家を訪れていた。彼の祖父は大変な蔵書家で西洋文学なども原文本と翻訳本の両方が揃っているが、翻訳も旧いものが多く、読むのに労した。しかし慣れというものは驚いたもので、一年ほど掛けてやれば問題はなくなったのである。川端は時折書棚から詩の全集を取ってきては朗読した。僕が、はじめてそれを経験したのは中学一年の夏だった。彼はミヒャエル・エンデのはてしない物語を持ってきて、「この文章、好くね!」と言い朗読をはじめた。
「きみは、これから何人もの人にファンタジエンへの道を教えてくれるような気がするな。そうすればその人たちが、ぼくたちに生命の水を持ってきてくれるんだ。」
僕はその頁を見せてもらい、二、三度読み返した。実際、よく聞き取れなかったのだ。彼はよく吐息混じりの早口になる。
「いいね」
「せやろ」
スイカあたま、と呼んだ日のことは覚えている。小学生になったばかりの頃、これもまた夏の事で、川端の母方の実家でのことだ。新家と古家が玄関脇からのびる廊下を通じて繋がっている。西日の差し込む廊下の奥で、こちらに背を向けて座る川端の祖父、泰三<やすみ>さんの姿があった。川端は小声で、「あれがスイカあたま!」と言った。僕は少し笑って仕舞った。
川端の家にはYAMAHAのアップライトピアノがあった。僕は時折それを使わせてもらえる機会を与えられた。
「ピアノ弾けるの?」僕は、全然と応えた。鍵盤を幾つか押すと、じわーっとした響きが起ち上がる。鍵盤は重く、指に纏わり付いた。
そして何れピアノの事は忘れられ、川端はギターを手に取った。よくエレキギターで弾き語りをしてくれた。
「今度、圭悟のピアノも入れようぜ」「楽譜が読めない」
「音感でやれよ、それで良い!何曲か録ろう」
「音感…」
「ベースとドラムが居ないな」
「僕、叩けるけど」
「いや、セッションでやりたい」
「なるほど…」
「うん」
しかし録音は成されないまま時間は経ってしまった。
圭悟は冷凍庫の引き出しを開けた。ギーッという音が彼を不安にさせた。何処にも不安になる事など無いのに。そして暫く微動だもせずにいたのだ。裸足の足下は冷えていった。
はてしない物語のあの名台詞を読んでいると泰三さんがぼくらの居る「書庫」にやって来た。その時僕は初めて彼の前姿をみた。
「ヒロ、おお、居たか」
「そういえば初めてだよね顔をあわせるの。あ…こいつが圭悟」
「そうか!いつもありがとね」─「こちらこそお邪魔してます」
「何、読んでる?」
「ミヒャエル・エンデ」
「はてしない物語かあ。なにそこが良いの?」
「良い文章だよね」─「うん」
「何も小説の世界が壊れるんじゃない、壊れるのは何時も人間の側だね…」
「人間の側かあ…」
「そういえば、何しに来たっけ…そうだ!」
そういうと泰三さんは、書棚から本を取り出してきた。
「何の本?」
「ヴァージニア・ウルフの灯台へ、だよ。このコバルトブルー、綺麗だろ。この前買ったんだよ。それじゃ、邪魔したね!」
扉はゆっくりと閉められた。窓からは少し強い風が入ってきた。或る七月の終わりの16時半、いつも決まって涼しい風が吹いた。ぼくらは持っていた本を湿らせている。
不意に僕の頭には、スイカあたま、という言葉が浮かんでしまった。
「ドラム、デキる方います?」川端は軽音部員たちに対して、釈迦に説法とも云うべきことをした。
「ドラムなら僕ですけど」
「できますか!良かった、明日の放課後にまた来ます。その時に少し話しがあるので。それでは!因みにベースは?」「もう引退しましたよ」
「なるほど、え!居ない?」
「はい」
「分かりました。では…」
僕は昇降口前で川端に呼び止められた。
「あとはベース」
「うーん」
「何曲くらいだろ…」
「8曲は欲しい」
「少し多くないか?」
「どうせ録るなら其れくらいはやりたい…」
「まあ…そうだ!井坂利哉の新作、読んだか?」
「読んでない。どうだった?」
「ほうじ茶」
「ん?」
「ほうじ茶だよ、冒頭から文章が上手くてびっくりした!井坂作品では個人的に、一番好きかも知れん…」
「ほお…積ん読のままだ」
「買ってたのか」
「うん」
そうだ、ほうじ茶はあったかな…圭悟は冷蔵庫を見渡したが、それは無かった。
僕の返答のあと暫く、沈黙したままの状態が続いた。校門を出て直ぐ先にある信号を渡ろうとしたとき、緑色の自転車が見えた。僕はしばらく目が離せなかった。その日は暑過ぎず涼し過ぎず、風が少し許り強い日だったと思う。
「はい、スイカバー!」「ありがたい」
三
列が空いてきた。圭悟はリュックから静かに本を取り出し、ときの訪れに微笑んだ。立ち上がろうとしたが足がしびれて感覚がなかった。つらい、しかし、ここで足を動かさねば。またも微音にこだわりながら足を床にたたきつけた。歩き始めた圭悟の頭には、ナポレオンの肖像が浮かんでいた。理由は分からない。 数分後、井坂さんの前まできた。他人がちかいという感覚は通学の電車でいやほど味わってはいるが、見るというのは偶にしかなかった気がする。白髪交じりの髪。マジックペンのにおい、黒色なのにどこか朱色や黄色のそれ。白ワインの香り。
これらは皆、ほうじ茶の素材なのだ。「君、学生?」
「あっ、はい」
「YouTubeで配信してるけど、顔出しとか大丈夫?そこでいいか!」
「大丈夫です」
「名前とか入れます?」
「いいえ、サインだけで」
「だけで、オッケー」
「高校生?」
「はい」
「何年生?」
「一年です」
「おお、そうなんだ、じゃあ家の娘と同じだ。アトスに高校生…居る?君くらいか!」
「はぁ」
「はは、名前なんていうの」
「坂口圭悟です」
「なんか文章書いてる?」
「絵を描いてます」
「ん、絵なんだ。見るからに作家の名前だからねえ。ごめんね」
「まあ、はい…」
「じぁあこれ」
「ありがとうございます」
「はい…」
井坂利哉という文字は崩れにくずれ何がなんだか判然としないものだった。「もういません?サイン」と井坂さんは呼びかけた。以後しばらくは列が出来なかった。
「バンドをやっている人間とは思えない事をいうとね、偶に、エレキギターのあの重厚な音が音楽に成っている、ということが不思議でたまらなくなるの。シラフになることがある。あなたはそんなこと感じたことある?」
「無いことはない。しょっちゅうではないけど…」
「そうなんだ」
圭悟が戻ってくるとそんな会話が聞こえてきた。
本棚に置かれたテディベアがこちらを見ている。たまにはテディベアの目線になるのも悪くない気がした。ぼくはダサい。いつも猫背であることが気懸かりだった。ピアノは多少弾ける。しかし、グレン・グールドの様には弾けない。ぼくはダサい、君の巻くマフラーを羨むほどに。ビートルズのメンバーたちがマフラーを巻いている写真を見たことがある。テディベアがしているのは、そんな感じのマフラーだった。いかん、いかん、ビートルズとはしばらく距離をおく、というのを忘れるところだった。君は不意にハローという、ぼくはグッバイ、そうさ、そうだとも。
米文学的(アメリカン)な響き、きらいじゃない響き。
突然、ウィリアム・フォークナーの八月の光を読みたくなった。僕が持っているのは、一九六七年に邦訳された初版本。もしやと思い、持ってきている、という一縷の望みを掲げポケットを確かめたが、落胆した。ボロボロの背表紙。 ぼくはいつも脆い本を買う。
ベイジュ色をした本を手に取る。
図書館に行って書棚から取り出して幾十年を経たにしては新しさの残る処をみると、なんだかな、と思ってしまう。いつの間にか、僕は、なんだかなが口癖になった。
エレベーターから降りてきたのは、椎名さんとその面持ちがどこかポール・オースターに似た男性だった。紅茶という言葉が浮かぶ。
「カフェの方でなくてすいません」
「いえいえ、あの店のラーメンは美味しい。それでは私は少しコーヒーを飲んでから行きます」
「ありがとうございました」
しかし、なぜ紅茶でなくてはならなかったのか。
圭悟はコーヒーを飲んだ。そこでラーメンの味を探る、けれども感じたのは、苦さのみだった。ペットボトルのコーヒーの、後に残る何ともいえない感覚。それは、良かれ悪かれなもの。良かれ悪かれ。
鼻から抜けるコーヒーの匂いを思う度に、ぼくは何故か恥ずかしくなった。そして、また、草むしりでもするようにコーヒーを口に注ぐ。恥ずかしさの種を撒いても水遣りをしなければ良いだけのことなのに。ぼくは、与えてしまう。ボーボーに伸びて行く。
後には、刈り終えた許りの青臭いかおりがする。
河上さんが「椎名さん来た!」と言った。張りはあるが何処か籠もった声でだ。
「遅くなってすいません、一応ぼくの教え子たちを連れてきいるんですよ。あそこの四人です」
「あー、どうも」
「彼らバンドも組んでるんですよ」
「最近バンドやってる子多いですよね 。サークルですか」
「いや、サークルではないんです。確か、そうだっけ」──「ああ、はい」「サークルとか入ってないの」──「はい、何にも入ってないです。ロックバンドです」
「あれねえ、ロックバンドですって言ってみたいんですよ」
「若いですね…」──「はは…」
ぼくは1階に降りラーメンを食べることにした。18:30。今日の夕飯は醤油ラーメンだ。
「この塩気と柔らかめの麺、良いわね!」カウンターの中央に座っている、多分、40代くらい夫婦なのだろう、女性の方がそう言った。
『そうか…』
店の奥には古いCDプレイヤーが置かれている、何製から分からない。上から紙テープを貼ってしまっている。多分、日本のメーカだ。ぼくは一瞬、オーディオが揺れる夢を見た。ぼくの中で音は生き返る。東京に似合った音、ひんやりとした音。ずっと遠く。ぼくは歩く、歩いている。
オーディオのサラサラとした表面の質感が、ぼくを、そうさせた。
それにしても明日のライブ、私も歌う事になっている。椎名先生の息子さんが経営するライブバーで。あの場所は、どこか落ち着く。あの場所でベースを弾ている感覚と自分の部屋で弾いている感覚は、どこか似ていると思う。少し暗いからかな。少し明るいからかな。それぞれに落ち着く場所がある。彼女は目を閉じ薄明かりの灯る処を思い描いていた。
『何が分かったんだろ。目を閉じると言葉は浮かぶ。言葉は…』
圭悟は微笑んだ。いつの間にか微笑んでいた。彼は時折思い出してしまう。風の強い日、緑色の自転車で颯爽と髪を靡かせながら去って行く女性の事を。彼はあの時後ろに居た人達から連想をしていたのだった。
『ぼくは何故、耳を傾けてしまうのだろう。』
ラーメン屋の店内の明るさが、外の暗さを忘れさせる。いや、それは違和感がなくなる、といった方が良いのかも知れない。
圭悟の前に醤油ラーメンが運ばれてきた。先ずは、冷たい水を飲む。 温度が戻されて行く。熱すぎず寒すぎない。心地よかった。
『このラーメンは、よく出来ている。』
頭に何かが浮かんだ気がした。けれども掴めなかった。悠邈へと消えていく。ここではない何処かへ、と。ラーメンから立ち上る湯気が、ぼくの胸を締め付けたように思う。煙のようだ、という表現があるけれども、それとは違う。
掴めない。
会場に戻ると椎名さんと河上さんの雑談が既に始まっていた。
「そういえば、椎名さんのTwitterを見ていると、ペチュニアの写真をよく投稿しているのを見るんですけど。ペチュニア、好きなんですか?」
「別段、好きという事ではないですね。小さい頃から好く思っていた花である事はたしかですけど…」
「今度、なんかエッセイをだされるって聞いたのですが」
「ええ、確かね、一部はもう無料で公開されていると思うんですよ」
「え!そうなんですか…」
「はい、多分…。ああ、これですね」
「へえー。丁度ペチュニアについて書いてあるじゃないですか」
「偶然ですね」
「ぼくにとって、ペチュニアの咲く時期は、どこか特別なものだった。ぼくの友人であった、小説家の宮倉薫、そしてぼく自身が心を寄せていた人。その人達を思い出す時間だ。ペチュニアの花言葉には追憶や心の安らぎ、などがある。そんな事はどうでもいいのだ。
このエッセイは、ぼくにとってのノスタルジアだ。宮倉氏の作品を引き継いだ時、自分とは何か、についてよく悩んでいた。自分とは何だろう。なぜ、椎名という男は宮倉にはなれないのだろう。完全なその人にはなれないとしても、ぼくは彼を引き受ける事が出来る。宮倉になれない!お前は宮倉じゃない!批評家はそのようにして、ぼくを蔑んだ。それはおそらく、君たちが宮倉という虚像を望んでいるというだけのことだろう。今日、インターネット上には、ヘイトスピーチが遍満している。それらを、事実だろ!文句でもあるのか、と言わんばかりに書き連ねている。皆、自分が傷つきたくはないから、傷つけ合うのだ。傷つく事などどこにもないのに。ぼくは、人間が好きだ。でも人間の先のようなところは心の底から軽蔑している、大嫌いだ。しかし、そういう処も含めて、人間が好きなのである。こういう事を書くと、また叫かれそうだが、もうそこそこ歳だ。このくらいは記しても構わないだろう。少し長くなるかも知れない。まあ、ジジイの空言だと思って貰えれば幸いである。そういうお歳頃なのだ、と。
いずれ乗ることも無くなった自転車が横たわっている。頑丈なんだよ、あれは。四月も終わる、その日は温暖でぼくの着ていた紺色のシャツは熱を帯びていた。書くことは以上だ、といったら怒られるので、その場面にぴったりな音楽のことを言おうか、と思う。気に入らなければ、閉じてくださって構わない。ちょうどあの時はノスタルジアの発売日で、ぼくも近くの書店を覗き込んでみた。そうしたら、多分、高校生なのだろうけどぼくの本が置いてある棚を見てこう言ったんだ。
「作家って偶にこういうことするよな」
手に取ってくれるかな、と思ったが彼は本を眺めながら溜息をついて、レジに向かった。手には思考力云々や君の死がどうたら、といった宣伝文句の付いた類いを抱えていた。なるほどな、とぼくは色々と思った。ぼくは信じている。
ぼくは、その帰りに偶には外食をしようと思って、近くのラーメン屋に這入った。その時いつ振りかは忘れたが店主は確か、ブリティッシュロックが好きな人だったのを思い出した。ここの醤油ラーメンは美味い。というわけで、醤油ラーメンを頼んだ。麺が適度に柔らかい、それが塩気とよくあう。店にはぼくの他に二人の男性客がいた。一人は一番奥に、もう一人は、ぼくから右側へ二席離れた処に座っていた。
「そうそう、この間、新しいCDを買ったんですよ。」
店主がそう言った。
「新しいCDですか…」
右側の男が応えた。
「これです。マイク・ノックって人の…」
「聴けるかな…」
「ええ、さっそく。」
そういうと、店主はCDプレイヤーを起動させてた。
「カリフォルニア・カントリー・ソングってやつを流しましょう」
「うん、どうぞ!」
麺が柔らかいとつい多く運びたくなる。店主がプレイヤーの再生ボタンを押すのと同時に、ぼくは、水を口内へ流し入れた。咀嚼したラーメンを飲み込んだら歯を食いしばった。熱くなるのを感じ取ったのだ。涙が出そうだったが、結局は出なかった。スープを飲む、飲んでばかりだ。
食べ終えたら、すばやく店を出た。すると、奥の客の事が気になった。なぜだろうか。作家とは水のようなものだ、あんなこともこんなこともそんなこともする。人はそう、どうにでもなる。ならないこともある。No need to hurry. No need to sparkle. No need to be anybody but oneself.
それにしても、今日もビールは美味いのだ。
「じゃあ皆さん、椎名さんのエッセイもよろしくお願いしますね!」
「ありがとうございます」
「これ期間限定の公開ですよね」
「いや、ぼくも其所までは把握していませんので…」
「あ!井坂さん、サイン終わりました?」
「ええ、何とかあそこまで、いやお久し振りです、椎名さん」
「何年ぶりだっけ」
「多分、6年とかじゃないですかね。SNSでは何時もやりとりしているんですけど…」
「そうですね。はは…」
男達は段ボールで拵えた「猛者の会」と記してある看板を掲げた。
「恥ずかしいんだけど…」
「まあ、ええやん」
「何が?」
「ロックンロール!」
「絶対に違う!」
「猛者の会ってなんです?」
「猛者なんてのは後からいうもんです」「言いたいばかりですよ、若い者は!」
看板を掲げていた男は、聞こえないフリをしていた。圭悟はその様子を面白く思った。そのうち、彼らのひとりが、圭悟の方に目をやった。彼の口元も笑った。 圭悟がスマホを開いてみると、通知が入っていた。川端からだった。内容は、アトスにいるのなら本を買ってきてくれ、とのことだった。しかし先ほど、ラーメンを食べてしまった。一応、計算はしてみた。交通費を引いてみても、足りないことはなかった。というわけで、買った。三千円が消えた。
一晩をカフェで過ごす訳にいかなかったので、圭悟は其所を後にした。時刻は21時15分で、駅まで歩くことを考えれば丁度いい、と思った。
彼は、何かを忘れている気がした。しかし、中々思い出せない。思い出すことなど無いのではないか、と一旦、割り切った。割り切る事は好きではない。胸焼けのようなものは、圭悟の足取りを不安定なものにさせた。蜘蛛の巣みたいだ、張り付いている。
微熱のようなものが圭悟を包む。
何処か遠くにいるんだ。それがどうしたというのか。多分、どこかの森か砂漠にいる。そこでただ突っ立っているんだ。
ぼくは現に此所に居て、五反田駅まで歩いているのに、どこにも居ないような気がした。さみしかった。何がだろう。
「あの野郎がな、全部取っちまったんだよ。もう死にたい」
そうは言っても、生きたいのだ。
祖母は時折、財布を盗られた、と嘆くのだ。無論、盗られたのではない。ベッドの下にでも落ちているのだろう。
「どうしたの?立てる?ほら杖を使いなよ」
「杖じゃないよ、紐」
「紐ってなに?」話しを聞き付けてやって来た叔母が、ぼくにそう訊ねた。ぼくは首の周りで腕を幾度か回し、祖母の企みを伝えた。叔母は苦い顔をした。
「何も無くなりはしないよ、安心しなさい」祖母は認知症が進むにつれて、返答をしなくなった。暇さえあれば南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、と唱えている。これについてはどうにも出来ない。彼女がまだ明瞭であった頃に、ぼくは、信仰とは怖いものだと言ったことがある。彼女は、罰当たりだ、とぼくを叱った。罰当たり、か。確かにぼくは軽薄であったが、罰当たりとはなんだろうか。それが未だに気に掛かる。罰当たり、というものを生み出す生の在り方が、確かに僕等人間なのだな、と最近になって少し分かった気がする。気がするだけだが。無論、罰など当たりはしない。でも、そうい生き方をしなければならないのが、人間なのではないだろうか。
彼女は黙ったままだ。
「安心しなさい、自分で息を荒立てる必要はない。君だって落ち着きたいんでしょ。厭なことはしたくない筈だろう。人間は、誰だって落ち着きたいものだよ。あんまり急ぎなさんな。急がなくても良いんだよ。先ずは座りなよ。座んなよ。」
叔母とぼくとで祖母を落ち着かせた。多分、1時間ほど要したと思う。ぼくは、前よりも穏やかな気持ちになっていて、自分でも驚いてしまった。
ぼくは帰りの電車の中で、あの夜の事を思い出していた。なにも好きで思い返しているのではない。浮かんできて仕舞ったのだから仕方がない。ぼくはLINEの通知を確かめたが、何も動いてはいない。少し安心した。
電車に乗っても、ぼくは、敢えて立ったままでいた。そして君を探した。似ている人を何人かみた。君かも知れない、と思っても、矢張り人違いだった。ぼくは黙って、いつもの通り、ズボンの右ポケットから文庫本を取り出して、適当な頁を読み始めた。読み始めると意外にも没頭してしまうものである。君の笑顔を見たことがない気がする。それでも、君の小さな目は、とてもやさしく、綺麗だった。君は笑うのだろうか。勿論、笑うのだと思う。若しかしたら、笑えないのかも知れないけれども。きっと何処かで君は笑顔になっている。それ以上、何かを言ってしまったら、いけない気がした。
あの夜も君のことを思いだした。ぼくの心配性な性格では、祖母に掛ける言葉にも検閲が過ぎていたのかも知れない。自然に出て来た、勿論多少の吟味はあったが。
ぼくは事が済むと、絵を描きはじめた。それでも何も浮かばない。紙には線が幾つか引いてあるだけだ。しかし、引こうと思って引いたものではない。これでは、拉致があかないので、その日は早く寝ることにした。
ぼくは、殆どだれも乗っていない車内で、少し身体を縮こませた。多分、次の駅では大いに人が乗り込んでくるのだろう。いつの間にか、ぼくを包んでいた微熱は去っていた。多分、飽きをきたしたのだろう。
冷房が効いている所為で少し寒かった。それでも、風邪をひく程ではない。ぼくは爆発しない。そうさ、そうだとも。
圭悟はその芝居じみた感じを心地よく思っていた。
四
市原には正常の意味での夕凪というものが存在しない。その代りに現れる夏の夕べの涼風が、机に向かうぼくのかいた汗を冷やす。その晩は眠れそうになかったので、古典の授業で出された課題を終わらせようと思い立った。その課題には、芭蕉が「終夜嵐に波を運ばせて月をたれたる汐越の松」という蓮如の歌を読んで、「此一首にて、数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。」と言った処が含まれていた。芭蕉は、これを西行の歌と思って読んだのだろう。しかしそれならそれで良い。彼は間違っていた、と言っても何の意味は無い。ぼくのこういう口調も川端に影響されたのだと思う。学生批評家の類には嫌われるのだろうけれども。まあ、それならそれで構わなかった。
無用の指。
あまりに寿司詰めのようなものでは窒息してしまうから、気を付けなくてはいけない。だからといって息をしていない訳では無い。川端はそう言った。帰りのバスの中で、外の空気を受けていると、ぼくの右頬には、雨粒が落ちてきた。大して降らないだろうと思っていたが、次第に激しくなってきて、とうとう窓を閉めた。今日、雨が降るなんて言ってたかな、とぼくが言うと、此所は振るってよ、と川端が言った。
「お前、自分の地元の天気を見てたろ」「うん…」
「それにしても暑いな」
「33度か…」
「そうか、そんな季節になったのか」 「うん…」
「そうだ、今日は、金曜日だろ。ライブハウスでも行ってみるか」
「いきなりどうした?」
「いや別に、偶には、と思って」
「偶には…」
「ANGAってところなんだけど」
「何所にあるの」
「千葉駅の近くだよ。お前、今日大丈夫か?」
「うん」
「なら決まり」
ぼくらは何時もの通り、千葉駅の東口に降りて、薄暗い街を、ガタンゴトンという音を傍らに聴きながら、足早に移動した。川端の足取りは速さを増していった。そして、周囲に誰もいない事を確認すると、疲れたよ、と呟いた。その声は程々に低く、一見、川端の声とは思えなかった。どこか角が取れているような声。
「そういえば、村上春樹が新しく長編を出したろ。川端は読んだ?」
「読んでない。来年になったら読むよ」「来年?」
「来年だ」
少し明るいところへ出た。川端の表情は、笑っているようで、不安なようで、幾度となく入れ替わっていった。
「あそこだよ」
「あれなんだ」
「うん」
暫くしてぼくらは、店の前まで来た。扉にはコラージュのように色々と貼り付けてある。ぼくが偶々目にしたのは、ロベルト・シューマンがローレンスという画家に頼んで描かせたという、まだ二十歳であったブラームスの肖像画だった。川端はコラージュには目もくれず、扉を開けて中に這入って行く、ぼくもゆっくりと後に続いた。川端は店主に挨拶した。店主の面持ちには、銀河帝国の興亡を書いた人のようなところがあった。店内を見回すと、壁にはその人の写真が掛けられていた。ぼくは、成る程なと思った。思っただけだ。 ステージから遠いところに居よう、と川端は言った。ぼくが何故かと問うと、彼は、耳が壊れるからだ、と言った。しかし、彼は嘘を言っている。彼のヘッドホンからはいつも、大音量の音楽が鳴っているのだから。せめて疾うの昔に壊れているのに違いなかった。
左手にアコースティックギターを持った女性がステージに上がった。ぼくは、誰かに似ているな、と思った。人が多くて顔がよく見えない。ぼくは川端に、彼女、誰かに似てないか、と問いかけた。Aさんだよ、と彼は言った。ぼくは驚いた。驚くほかにする事が無かった。 彼女の声がスピーカー越しに大きく聞こえる。その声をこれほど判然と聞いたのは初めてだと思う。Aさんは、ダージリンティーを一口飲んで、今日は一曲だけですがよろしくお願いします、と言ってステージに置かれた椅子に座った。暫くして、ギターの音がツツツと鳴り始めた。彼女は、カネコアヤノの「予感」を歌い出した。依然として彼女の顔は見えない。それでも、歌っているな、と感じた。ぼくは下を向いていた。振り向くと、川端も下を向いていた。
「良い歌詞だよな」川端が言った。
「うん」ぼくの返答は少し上の空だった。
彼女が歌い終えると観客等は拍手を送った。彼女は程々に頭を下げ、ステージから足早に降りていった。次にステージを占めたのは、何処かの大学の軽音部だった。
「そういえばお前、ここに来たのって、何回目?」とぼくは川端に尋ねた。
「多分、9回目じゃないかな」
「そうなのか…」
「もう出よう」
「もう行くのか?」
「うん。もう良い」
「じゃあ、行くか」
ぼくらは一杯の水も頼まずにライブハウスを後にした。
「Aさん、今日もありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございます」「そうだ、さっき、同じ制服の子達が奥に居たけど、知り合いかな」
「私には見えてません…」
「そうか…。じゃあ、また来週ね」
「ええ。それでは…」
雨が止んでいる。今日はベースではないから、普段より移動が楽だった。
『あの軽音部の人達、本当にレッチリが好きなんだ。あんな音楽の何が良いんだろう。それにしても、同じ学校に通う人に見られたと思うと途轍もなく恥ずかしかった。あの人たちは、バンド音楽には興味無いと思っていたけど。興味、あったのかな。ボカロとアイドルソングしか聴かないような感じだけど。面倒くさい...。自分でも濁しているのは分かってる。これ以上、何も考えたくない。矢っ張り、恥ずかしかった。そうだ、結実に訊かないと…』
川端の足取りはまた早かった。しかし今度は、すぐに遅くなって、時折脇道を覗き込んだりしていた。そして深い溜息をついた。女の声が聞こえないか、と川端はぼくに訊いてきた。ぼくは聞こえない、と言った。暫く進んで、また彼は後ろを振り返った。
「ぼくの頭はおかしいんだ。分かっているのに振り返ってしまう」
「どうしたんだ」
「先週末に診断を受けたんだ。ぼくは統合失調症だ」
「本当なのか」
「うん。環境音が人の声に変換されてしまう。聴いている音楽の曖昧な音量のドラムスでさえ、そうなんだ…」
「だから、大音量で聴いているのか」「うん。あとは、幻聴が聞こえないように。監視カメラみたいだよ。いちいち、人の行動に口出しする」
「薬は?」
「飲んでない。なんかさ、誰も居ない場所に行きたい。でもそれはそれで怖いんだよ」
「どんな場所?」
「だだっ広い草原。そこでただ、風にあたっていたい」
「女の声なのか?」
「大抵はね。偶に違うこともあるけど」「今は、どう?聞こえるのか?」
「何か言ってる。でもさっきよりマシになった」
「そうか」
「診断されたのは良いけど、そうなると逆に本当かと思ってしまう。お前に確認したのもそのためなんだ」
「どんな声なの?」
「小、中学校の同級生だと思う。あいつら俺が笑ったり話したりすると、川端くんが笑った!と言うから、自分の中ではトラウマなんだ。最近、あらためてそう思ったよ」
「確かに、言ってたな」
「俺が笑ったから何だって言うんだ。馬鹿め。まあ、もう良いのだけれど」
「その内何とかなるのかな。そんなこと言って良いのか、あれだけど…」
「何とかなる筈だ。多分ね。お前に話して良かったよ」
「何で?」
「そうだな、小川に足を浸しているみたいだから」
「どういうこと」
「まあ、それは俺の感覚なだけなのだが。普遍的な処では、曖昧だからだ。拗らせもせず返って鈍感でもない。お前もそのくらいは自負しているだろ」
「偶にね」
「それで良いよ。偶にくらいが丁度良い」
「そうだな…。お前、近々、三島を読んだな」
「バレたか!」
「いや、連想だよ。ぼくも、今、金閣寺を読んでる」
「そういえば、文學界の新人賞、高校生らしい。三島みたいだとさ。俺は好かんね」
「なんで俺らこんなに堅苦しい話し方をしているんだろ」
「まあ、そういう年頃ってやつじゃね」「ぼくらは生意気だよ」二人は笑った。「普段は大人しいのだし、ええやろ」「一円玉ってよく落ちてるよな」
「まあ…」
そうこう話している内に二人は駅へ戻って来た。そうして何とか、四番ホームに停車中だった、上総湊行きの各駅停車に間に合った。普段よりも人数の少ない車内で、川端はゆっくりと微笑んでいた。不気味な落ち着き方をしている。圭悟は蟠りを抱える羽目になった。何かが分からないのだ。畢竟、気を逸らす他なかった。
暫くして川端は居眠りした。
ぼくは左側の扉近くに立っていて、ただ、右側の車窓を眺めていた。そうしてまた、Aさんのことを思い出した。暫くしてぼくも居眠りをはじめた。時々開いてしまう瞼が嫌になった。
ぼくはダサい。君のしっかりと閉じられた瞼を羨む程に。
結局、アルバムの制作は頓挫したままになった。そしてついに再開されることは無かった。
授業で出された課題も終わった。その夜は、割合によく眠れそうな気がした。 八月二十六日の夜、ぼくは椎名さんのSNSを見ていた。
「やっぱりビールは良いね。」
「自分の頭で考えない者は、ある人がどのように考えるかではなく、どのような考えの陣営に属するかで人を判断する。」
「振ると面食らう、で良いのですよ。」「世界、暑すぎないか?」
彼の断片的な投稿は、後で、ブログ記事のアウトラインとして機能する。彼の投稿の中には、一枚の写真があった。そこには、午前七時を指す掛け時計を抱えた河上さんと、椎名さんの教え子たち、そして随分眠たそうな井坂さんが映っていた。しかし学生全員が映っている訳では無かった。ベーシストの女性と、男性があとひとり映っていなかった。あの時に微笑んでいた男性だ。写真に映っていた学生のひとりが、外方を向いている。多分、あとの二人を見ているのだろう。ぼくはそう思った。外方を向いている彼だけが霞んで見えた。目線の先に居るであろう二人と同様。目線の先に居るであろう彼女も、また、彼の方を向いているのかも知れない。ぼくはAさんのことを思い浮かべた。風の中にいる彼女のこと。あの日から風というものがぼくの裡で、特別なものとして扱われた。人間のそのような処はおもしろい。おもしろいと言っているうちは、ぼくはただの馬鹿だ。鳥の囀る頃になっても尚センチメンタルを追いやれない心持は、生産的な日常への隘路となるばかりであった。ぼくが馬鹿者な所以が、そこにもあった。 静かな会場にエレベーターの音が送り出される。ぼくはそれを聴いた。
華やかな香りの漂う会場に、忘れられていた薄いコーヒーの匂いが、また浸食して行く。大して響きも籠りもしないもので構成されている場所。それが返って良かったのだと思う。
プラットホームに降りた時には既に、各駅停車は出発していた。私はSNSを確認しながら、次の総武線快速を待った。暫くして運転見合わせのアナウンスがはいった。途中、異音がしたらしい。私は少し倦んでしまって、屋根の隙間から覗く曇った空を見上げた。駅の向かいに建つマンションの、ベランダに置いてある濡れた植木鉢が、その折は少し暑く思っていてので、そのような私の心境を癒してくれた。
五
8月29日、火曜日、夜。
僕にとって、近所にある建売住宅の玄関灯を眺めることは、訳もわからず停滞している気持ちを切り替えるのには、効果的だった。暫くして、ふと、小説を書こう、と思い至った。ブログを更新しよう、と思った。
『502』椎名 尚紀 著
私はサラサラな地面を歩いている。
喉が渇いた。回送のバスが通り過ぎて行った。きたない窓ガラス。綺麗なテールランプ。散々な異臭。平然と歩く幾人かの他者。また、私に、カメラが向けられる。街中で頬を打つことは出来ないから、少し伸び過ぎていた右手の爪を、掌に食い込ませた。痛かった。けれども、直ぐに消えた。暑かった。暑かった? 確かにそうだった。私の身体は感じていた筈。
立ち止まって少し先にある、コンビニの方を見た。店の前には横断歩道があり、そこを渡ろうとしている女性がいる。彼女はバス停へ走った。そうして、バス停に着いたら、携帯電話を取り出した。時計でもみているのか。
コカ・コーラの匂いがする。
暫くして、彼女と目があった。私の前には背の高い男性が立っていた。コーラを飲んでいたのは、彼だった。私は後ろを一瞥して、別段何とも思わずに、また彼女の方を向いた。彼女とは目があった儘だ。暫くして、彼女が乗るかも知れないバスに視線を移した。私は、唾を飲んだ。また、コーラの匂いがする。今度は、さっきよりも煩い。私は、もう一度後ろを一瞥する。そこには、カフェがあった。だらだらとした時間が流れている。だらだらとした笑みで占められている。
今日は、白いTシャツを着ている。他の色のものを着ている時より、居心地が良かった。口元を少しだけ動かして、別に詳しくは言わないけど、私は、また歩き始めた。
ブログで小説を書くのは、初めてな気がする。今回、推敲はしなかった。それもはじめてな気がする。悪くないな、と思った。このまま、無料で公開する。 そろそろ、お腹が空いた。
ぼくは椎名さんのSNSに目を通していた。その日の第一声は、「辛い麻婆豆腐」だった。
「小さいものですけれど、小説を書きました。ブログで公開します。無料ですよ。」
これは読まねば!
その晩、ぼくは、ベッドから落ちた。寝落ちしていたあげく、スマートフォンのバッテリー残量も残り僅かになったいた。充電器は妹が持っている。仕方がないから、取りに行った。面倒くさい。 時計は見ていなかったから、時刻は分からない。それでも、ぼくは、直ぐにまた、眠りに着いたのだった。別段、疲れてはいなかったのだけれども。
午前三時、ぼくは、部屋から出て、ギーギーとなるドアを閉めた。窓が開いていたために、勢いよく閉まった。誰も起きる気配はない、聾ばかりで良かったと、その時分は思った。
深緑色のTシャツと黒色のズボン。穴の開いたAdidasの靴。シルバーのCasio製のデジタルカメラ。ぼくは、それらだけを身に着けて、散歩に出かけた。
玄関先に出て、東の空を見た。その流れに沿って、家の方をみた。自分の部屋の窓に設けてある簾が、幾度かの大型台風の所為もあり、ボロボロになっていた。触ると痛そうだ。汚れそうだ。ぼくは、半ばの、意識と無意識とで、黒いズボンを用い想像上の手汗を拭った。それでも脂は確かに拭われていた。
家の近くにある古墳の辺りを歩いていると、白いペチュニアが咲いていた。暁暗の折、草の緑ばかり浮遊しているなかで、花はしっかりとそこにあった。ぼくは、デジカメで写真を一枚だけ撮り、スケッチを始めた。
暫くして、腕時計をみた。午前四時を迎える際<きわ>にあった。向こうから自転車の錆びたチェーンが動く音がしてきて、ぼくは、振り向いた。自転車に乗っていたのは、ここから三㎞ほど先の隣町との境に住む、萩原さんという老夫だった。彼は、いつも、ふらふらと近づくいて来ると、「よう!」と声をかけてくる。
「よう!おはよう。坂口さんのとこのせがれさんだろ。早いねえ」
「おはようございます」
「何描いてるの?」
「このペチュニアです。一応、写真も」「へえ..。それにしても久し振りだね。」
「ええ」
「今、高校生?」
「ああ、はい、二年生です」
「そうか!家の孫も、今年、大学に上がったんだよ。どこだっけか、社会学部だとは聞いたけども。それにしても、スケッチ、中々見事じゃない」
「ありがとうございます」
「芸術の方面を目指してるの?」
「いえ、特には…」
「そうか!それじゃあね」
「あ、はい。ありがとうございます」
スケッチを描き終えると、ぼくは、何も考えずに、ふらふらと散歩を続けた。小学校の前の道を歩いていると、三毛猫とすれ違った。猫とは暫くして目があった。あとになって、写真を撮るのを忘れたことに気が付いた。
まあ、良いのだが、と。
川端は少し遅れて展覧会の会場へやって来た。
「すまん、遅れた。ひとつ先のバス停で降りてしまった…。」
「いや、大丈夫。まだ這入れないから」「まだなのか…」
「うん」
「お前、ビートルズ、まだ聴かないつもりか?」
「まあ、なんで?」
「いや、別に…」
「さっき、ザ・スミスを聴いたよ。バスの中で」
「どの曲?」
「Heaven Knows I’m Miserable Now」「いいね!」
「でも、何故にビートルズのことを」「ライブハウスで演奏することにしたんだ。お前もどうだ」
「唐突だな」
午前十時を過ぎ、ぼくらは、会場の中へ這入った。川端は、お前の絵だけ見るよ、と言い、ぼくも自分の絵を探した。会場の中は暗く、淡く灯っているだけだであった。蝋燭の明かりのようだった。ぼくの絵は、会場中腹の一番右端に展示されていた。あの夏の朝と同じように、白いペチュニアは、確かにそこにあった。
「これかあ!」
「うん」
「良いじゃん」
「そう?」
「その位は自負しているだろ」
「まあ」
ぼくらは、暫く、黙って絵を見ていた。暗い会場で、この淡い明かりが、空間の静謐さを引き立てていた。
川端は黙ったままだった。ぼくが彼の方を向くと、彼の左頬は、涙なのか洟なのか、よく分からなかったが、少し許り濡れていた。ぼくは、少し驚いてしまった。けれども、何も問い掛けはしなかった。川端の鼻息が微かに荒くなっているのが伝わってくる。彼は右手で誤魔化すように頬を擦り、もう随分見たから行くか、と言った。ぼくは、うん、とだけ応えて会場を後にした。ぼくは近くのバス停までの道中、川端に、あの絵はどうだったか、と訊いた。彼は、風で揺れている処が良かったと思う、と言った。
「そういえば、タイトルって何なんだ?」
「二月の私」
「ぴったりだと思うよ」
「ぼくもだ」
暫くして、千葉駅行きのバスが、勢いよく到着した。列の長さからして、一応は、座れそうな気がした。
ぼくは、向かい側のバス停に目をやった。すると、緑色の自転車が通り過ぎて行った。ぼくは、目を向けられなかった。あの時のような風が吹いていた。不思議な心地がしている。その道には、アスファルトとコンクリートブロックとの僅かな隙間から出て来て咲いている、白いペチュニアが揺れていた。今年も、既に、ペチュニアの花の咲く時期が来ていた。
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