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残業で遅くなった日、
”ご飯まだできてないのかよ。仕事早く終わったんじゃなかったっけ、今日”
そう言って彼女を責めたことがあった。作ってもらうのが当たり前になって、ありがとうなんて言ったのもいつが最後だったか分からない。あの頃の自分には、直すところが多すぎた。今なら、今ならやり直せるのに。そう思っても後の祭りだった。彼女は、もういない。
俺は首を振って仕事に取り掛かった。まだ他の案件もあるのに、自分で仕事を増やしてしまった。今日もまた残業になりそうだな、と思うと溜め息がまた一つ零れた。
カラン。
以前来てから一週間以上は経っただろうか。相変わらず、慎ましやかなドアベルの音と共に、中からマスターが出てきてくれた。
「いらっしゃいませ。今日もカウンターになさいますか?」
マスターはしっかりと俺のことを覚えていてくれたようだった。
「はい」
そう言うと、前回と同じ奥から二番目の椅子に腰かけて、荷物を奥の席に置いた。
「本日はどうされますか」
マスターのそれは、まるで一流レストランのそれのようにとても美しい動作だった。水とおしぼりをそつなく置きながら、流れるように俺の注文を聞いたのだった。
「珈琲の種類が分からないんですけど、キリマンジャロよりもっと苦いのが飲みたいんですが」
「かしこまりました。他になにかご注文はございますか?」
「前よりもお腹空いちゃってるんで、なにかお腹の膨れるものが食べたいんですよね」
「ドリアなどはいかがですか?健康的に緑黄色野菜も多めに入れておきますよ」
本当に、このマスターは俺のストーカーなんじゃないかと思うほど俺のことを分かっていた。不摂生が続いているせいで、暫く野菜などまともに食べてない俺の身体のことまで把握しているのだろうか。
「ちょっと怖いくらいですね。なんでも分かってるようで」
「そんなことないですよ。そういうお店なんです」
口癖なのか、またそういうお店なんです、で流されてしまった。だが、どういうわけか気持ち悪いとは感じない。不思議な空間だ。いや、人か。
こんな風に、相手を思い遣れる恋愛を続けられれば良かったのに。どこでボタンを掛け間違えたのだろう。お互い自分の時間を取ることにしたあのときの選択が間違いだったのだろうか。
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