cielo blu -another story-

1/8

4人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 桜との別れを決めたとき、正確には桜が家を出て行った日に、俺の心は一度死んだんだと思う。体の一部のような、空気の一部のような、それくらい当たり前に彼女はそこにいたから。話し合いで決めたことではあった。そういう決断しか選べなかった。それがすべてだったのだ。あのときは。  忘れ物の有無を聞き終えたあと、”言い忘れたことも、もうないよね”と聞いてしまったのは、だから未練というほかなかっただろう。少し間を置いた彼女の「ないわ」が妙に切なくて、そのあと差し出された手を握り返すのには勇気がいった。手が震えてはしまわないか、その体温で気持ちが伝わってしまわないか。考え出したらきりがない逡巡をして、握手を交わした。久しぶりに触れたその手から伝わってきたのは、意外なことに彼女の一瞬の躊躇いと戸惑いだった。  躊躇いと戸惑い――それがなにに対してだったのかを俺が考えている間に彼女の手は離れていった。これで本当に終わりなのだ。俺たちが過ごしてきた五年間が、終わった。  あれから、十年が経った。俺は一度転職をしたが、職種が変わっていないのでこれといった変化はない。転職を機に、思い出ばかりが残るあの部屋も出ることにした。いつまでも思い出に浸っているわけにはいかないのだ。今を生きることが、本当は大事なことくらい分かっているのだから。  転職、引越しまでには二年以上掛かった気がする。仕事はこなした。書類をひたすらに作成して、データの打ち込みをして、ときにはプレゼンをして。けれど、人とどう付き合えばいいかは分からなくなってしまった。どこにも行く気になれなかった。いつだって、彼女がいたあの部屋にただ籠ってどこにも行きたくなかった。それで飲みの誘いを断っているうちに、たまに一緒に飲んでいた同僚ともなんとなく疎遠になってしまった。人付き合いからいつの間にか乖離した場所にいたのだった。 「ただいま」  そう言って家に帰る習慣も、最早誰に言っているんだろうと感じるけれど、前は彼女がいた。もう居ない彼女に、ただいまと言う。その虚しさに毎日打ちのめされて、それでもつい口にしていたのだった。  2LDKの部屋は、一人では広すぎる。寝室とリビングへの行き来だけで、以前使われていた彼女の部屋はそのままにしていた。そんな生活に、そろそろさよならしようと思い立つまでに二年以上の年月が必要だったのだ。男の方が引きずるというのは本当かもしれない。今、彼女が普段通りの生活をしていると思っただけで、胸が締め付けられる思いだった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加