cielo blu -another story-

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「そういうお店なんです」  マスターは微笑みでそう返すと、カウンターの中に戻っていった。  サンドイッチを食べ終わりキリマンジャロを堪能していると、後ろからご馳走様ですという女性の声がした。どうやら先ほど奥に座っていたのはこの人らしい。とはいえ、他人に興味も特にないので俺はその女性には目もくれずキリマンジャロの香りをもう一度嗅いでから、また一口啜った。すこし酸味の効いた、深いコクのある珈琲だ。彼女に勧められて、俺はこれを頼んだのだった。そんな懐かしい味。もう会うこともないだろう彼女を思う。桜を、想う。 「ご馳走様です」  小一時間ほどいただろうか。思考の迷路はどこまでも続いていたが、俺は家に帰ることにした。いつまでもここにいても考え込んでしまうだけだろうから。 「お代は…」 「あ、初めてのお客様からはお代は頂かないことにしているので大丈夫ですよ。次もし来ていただけることがあるなら、そのときは頂きますので」 「いや、でも……ありがとうございます」  でもと言いかけたが、この様子では受け取ってはもらえないだろうことをすぐに察した。なんてお店だろう、欲しいものはなんでも出てくる。初めての人からはお金も取らない。いくらでも話を聞いてくれて、アドバイスまでくれる。達観したようなその佇まいは、もう老齢の方のそれとすら思えた。 「また来ます」 「ありがとうございます。是非お待ちしております」  爽やかな気分で俺は店を後にした。  不安や不満はいつも、そこここで積もる。他人からのものもあるけれど、自分自身のことの方が俺の場合は多かった。 「今更こんなミスをされても困るよ」  それは、作成した書類の大事なところに不備があったために上司に呼び出された第一声だった。最近ずっと考え込むことが多かったからか、仕事が疎かになっていたのだった。 「すみません」 「謝るくらいなら、初めから気を付けてもらわないとねぇ。先方に謝罪に行って、正しい書類を持って行ってくれ」  それだけ言うと、上司はしっしっと手で俺を追い払った。この歳になると、会社でもそれなりなポジションについているわけだが、こんな失態をするとは。長々と説教をするタイプじゃなくて良かったが、やはり一言多いんだよな、と思った。そう思ったとき、俺も彼女に対してそんな風に接してしまっていたんじゃないかと思い至ってしまった。一言多いというのはそれだけで関係を悪くすることなど、すこし考えれば分かることなのに。
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