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6 火曜日 焼き肉食べた
倉持は朝からちゃんとご飯を食べて、ラフな格好で仕事に出かけていく。
帰ってこないんじゃないかと心配していた昨日とは違う。
それでも何となく落ち着かなくて、今日はリモートで働いた。
夕方になって、学生たちが門から出ていくのを眺めていると、学生とそれほど変わらない風貌で歩いてくる倉持を見つけた。
女子大生が後ろから追いかけてきて、倉持に一生懸命に何かを話しかけている。
優しい笑顔を浮かべて、丁寧に対応している倉持は、私の知らない人だ。
(あ、あれじゃ確かに、仕事たいへんそう……)
学生さんから見たら、今の倉持は、かっこいい助教だ。恋愛対象として、十分すぎるスペックだといえる。七三スーツは、仕事の余計な負担を減らす為。私の出勤メイクと同じ意味だった。
女子大生から解放された倉持を、テイクアウトにしたラテを片手に尾行する。
小道に入って、忍び寄り、後ろからどんと倉持の背を叩いた。
「お疲れ!」
驚いた顔をしているけれど、それほど邪険にする雰囲気ではなさそうだ。
さっきの優しい笑顔を引っ込めて、通常モードになった倉持と並んで歩き出す。
「倉持と一緒に帰ろうかと思ってさ」
「会社、別の方向だろ?」
「倉持の初出勤が心配だったから、リモートにして、カフェで仕事してたんだ」
「……過保護だろうが」
前髪を払いながら、困ったような顔をする。今日の倉持は、急なイメージチェンジで、学生たちの注目を集めたはずだ。
「倉持が生まれたてのヤギみたいになってるのに、一人にしておけないよ」
「なってない。草食動物は、生まれてからすぐに立ち上がる部類だ」
「じゃあ、生まれたての……なんだろ? 馬もすぐ立ち上がるし、ひよこもすぐご飯食べるんだよね? そうそう、カンガルーの赤ちゃんはすっごく小さいんだ。みたことある?」
生まれたての倉持科倉持属のクラモチが、足をフルフルさせて立とうとしているところを思い浮かべて、大きく育てよと心の中で祈る。
「はぁ、厨川の話は、いつも唐突に脱線して、よくわからなくなるな」
「そう? ね、ごはん食べてから帰ろうよ、おなかすいちゃった」
勢いで腕を組みそうになるのを我慢して、ぎゅっと自分の背中で手を組む。今朝、出がけに、スキンシップが多すぎると叱られたんだっけ。
「何食べる?」
「……肉かな」
「彼女への当てつけなら、やだよ」
「じゃあ寿司」
「レトロなお店知ってたりする?」
「いや、プリンがあるとこ」
「いいね。あたしは、ポテト食べよっと」
徒歩圏内のお寿司屋さんを考えながら進むと、駅前のほうから、やけに大きな人影がやってくる。
あの大きさには見覚えがある。
こんなところで会うなんて、と思ったが、そういえばここは駅からスポーツバーへの通り道だ。気がつかないふりをして、さっさと通り過ぎよう。
「カナ」
呼び止められてしまったので、わざとゆっくり、機嫌良く振り向く。
「あれ、リョウ? 久しぶり! これから観戦? いってら~」
仕事で客を迎える時の一番いい笑顔で、ひらひらと手を振って、そのまま立ち去ろうとしたら、手首を掴まれた。
「待ってくれ」
大きな手に引き上げられて、吊るされそうになるのを見て、倉持がギョッとしている。
「ええと、何か用?」
リョウは私が逃げると思っているのか、なかなか手を離さない。
「それがさ、俺、アイと別れてさ」
「へー、そうなんだ。それよりさ、手、離してくれる? 加減忘れてない?」
掴む力が弛んで、手を取り戻して、背中に隠してしまう。もうリョウに触れられるのは嫌なのだ。
リョウは、そこでやっと倉持の存在に気がついて、体を屈めて倉持を覗き込む。
「あ、もしかして彼氏だった?」
「ううん、友達。高校の同級生だったんだ。ほら、倉持、こちら、元カレのリョウだよ」
倉持は一瞬、目を見開いて困惑した顔を私に見せたが、取り繕ってお辞儀をした。
「初めまして、倉持です」
「ははっ、初めましてだって!」
リョウはわざとらしい人懐っこい笑みを、すぐに引っ込めて、私の前に立つ。
「あのさ、こんなとこでする話じゃないんだけど、カナ、俺たちやり直さないか? 俺たちが別れるように、アイがあの時、なんかやったんだろ?」
カチンとくる。
「なんか」でまとめるには、とんでもないことをされたのだけど。
あの時、アイだけじゃなくて、リョウも本当に酷かった。
「うん、そうだね。でも、そういうの、今更じゃん」
リョウはバツが悪そうに、刈り上げた後頭部をかく。
「だって、お前が浮気してるって、アイが言ってきたんだよ」
「あはは、あたし、そんなこと言われてたんだ」
スポーツバーで知り合って、私の親友を自称していたアイは、その実、私の彼氏が欲しかった。
すごく嫌な思いはしたけれど、あまりにもあからさまな裏切りで、傷心する暇がなかったくらい。今はまだ、そのことについて深く考えたくない。
「やり直したいんだ。今度、会ってくれないか?」
「ごめん、リョウの連絡先、消しちゃったんだよね」
リョウは慌ててスマホを取り出す。大きな手のひらには不似合いな小さな機種だ。
「じゃあ、もう一度、連絡先教えるから。今、何処に住んでるんだ?」
「え、いいよ、いいよ。引っ越しまでした意味ないじゃん。そうだ、チームの追っかけしてるシズって子が連絡欲しいって言ってたから、誰かに連絡先を聞くといいよ」
「違う、俺は、お前じゃなきゃ駄目なんだ」
リョウとの思い出に、反芻したいエピソードは無い。古いレシートみたいにゴミ籠に捨てちゃうのがちょうどいい。リョウとの付き合いで増えた人間関係も、誰一人残らなかった。
「あー、ごめんね? リョウといて楽しかったような気はするけど、忘れちゃった!」
「悪かったって。本当に誤解だったんだ」
「今は彼氏とかより、友達とごはん食べたりする方が楽しいんだ。じゃあね! 見かけても、もう声かけないでね」
倉持の肘をつかんで歩き出せば、倉持が、本当にいいのかと顔だけで問う。
「おい、待てよ。こっちが下手に出てれば……」
リョウが追いかけてくる気配がする。もう話すことはないし、このまま逃げ切りたい。
リョウが追い付く前に、倉持は振り返って背を伸ばす。
「すみません、事情は分かりませんが、厨川が嫌がっているようなので、私達はこれで失礼します。厨川、ちゃんと挨拶したのか?」
倉持が人当たりよくリョウに向かってお辞儀するのと同時に、私の頭を押して下げさせる。
「もう好きにはなりませんので、悪しからず。さようなら」
そう告げれば、リョウのこめかみに血管が浮くのが見えた。リョウはこういう煽りにはめっぽう弱い。
「お友達さん、この馬鹿女に関わるとろくなことにならないですよ。進学校行ったのに、進学もしないで、コネで入社するような要領だけは良いお嬢さんなんで。頭が軽くて、話し合わないと思いますよ」
負け犬の遠吠えの台詞も、何かの使いまわしで、痛々しいったらない。
無視して歩き出すと、倉持がぴたりと止まったままだ。つまずきそうになって振り返ると、リョウを見上げる倉持がいた。
「頭、軽くないですよ」
「は?」
「彼氏だったくせに、ご存知ないのかも知れませんけど、高校で厨川の成績はずっと上位で、いくつも有名大学に受かっています。友人の目から見ても、頭の軽いと言われるような学力ではありません。侮辱にあたります」
倉持は静かだけれど、怒りのこもった声でリョウに告げる。
私は驚いて、手で口元を覆いながら、倉持の腕を引く。
不謹慎なほどに、笑いが抑えられない。
「ふ、ふふ……倉持、いいの、いいの! リョウ、本当にバイバイ、元気でね!」
スキップするように倉持を引きずって、坂道を登る。
言いたりなかったのか、倉持は後ろを威嚇しながら、渋々ついてくる。
「厨川、嫌なこと言われて、あんなにあっさりでいいのか! 少しは怒れよ」
夕方の光が、怒っている倉持の影をモンスターみたいに伸ばしている。
こんなモンスターなら、リョウなんて一足でぺちゃんこだ。
「リョウってさ、運動の世界の人でしょ? あんまり私の私生活に興味ないっていうか、そもそも、社会とか会社とかよくわかってなくて。高卒の理由も会社のことも、私の仕事も、興味なかったんじゃないかな。パーティーとか飲み会にはよく同伴させられたけど」
見た目が好きだったんだろな、と結論は出ている。
「なんでだよ! 厨川は合格を全部蹴って留学したんだぞ!」
「いいの、いいの」
そんなの、もうどうでもよくなってしまった。
リョウに出会ってしまったことよりも、倉持と居るだけで、もっと面白いことが起きてる。
口に手を当てて耐えていたけれど、こらえきれなくなって噴き出した。
「あはは、くらもちー、友人だって! 友達じゃないとか言ってたのに、ついに友人って言ったね!」
「それは……」
赤面する倉持を動画で残しておきたい気持ちでいっぱいだけど、面白くて、お腹がすいてきた。
「あんなの雑にしとけばいいの。あんなやつのために時間を使ってやらない! 倉持、予定変更、肉食いに行くぞ!」
夕日を背にして、ガシッと肩を組んで歩くシルエットは、ラスボスくらいの大きさで、モンスターらしく高く脚を上げてみる。
「馬鹿、お前、スカート短いんだから……」
「大丈夫、大丈夫、倉持にしか見えないって!」
お肉を食べながら倉持に説教されたけど、今日もご飯が美味しかった。
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