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9 金曜日 引っ越しの日
あっけなく引っ越しの日がやってきた。
大学からはすこし遠い閑静な街に、倉持の住んでいたマンションがある。
レンガ色の外装は少しレトロで、いかにも文化人が住んでいますといった佇まいだ。
部屋に入ると、右と左に部屋が分かれている。入ってすぐにリビングがあるのに、倉持は中央に置かれた緑色のソファを頑なに見ようとしなかった。リビングを素通りして、東側の自室で必要なものを手早くまとめていく。
何かの標本や、古めかしい欠片とか、デリケートなものを、移動用のケースに収める手つきは細やかだ。貴重なものは別の便で送るらしい。
「倉持、送り先の住所、書いておこうか?」
「いや、いい。それは俺がやるから」
私の手から送り状をまとめて取り上げて、キッチンで黙々と記入していく。
――新しい住所を何度か書いて、覚えたいのかもしれない。
嫌な出来事を思い出すのか、作業中の表情は硬い。
元気そうに見えても、傷を負ったばかりの倉持に、この部屋はきっと辛すぎる。
早くこの部屋から倉持を出してあげたほうがいい。私は一生懸命、荷物を作った。
「終わった、終わったー」
荷物を分け終わった頃、引っ越し業者がやってきて、梱包されている荷物をトラックに積み始める。既に自分で移動させたものもあるのか、荷物は思ったほど多くはなかった。
外に出ると、倉持が呼んだタクシーがエントランスの前に停車している。
トランクに手持ちの荷物を積んで、私達が乗り込んだタクシーは、ゆっくりと速度を上げて坂を下っていく。
倉持は、ずっと外を見ている。
長い睫毛の指し示す先は未来で、もう私の方を振り返ることはないのかもしれない。
寂しい結末を予感しながら、それを否定するために、元気な声を作って倉持に話しかける。
「新しい部屋、大学の近くなんでしょ? なら、うちにも近いね! そうだ、この後、カーテン買いに行こうよ」
「カーテンは、もう注文してある」
――倉持は真っ先にカーテンが欲しい人なのかもしれない。暗くないと眠れないと言っていたし、そうなのかも。
「そっか、じゃあ、ご飯屋さん、見つけに行く? 引っ越したら、近くのお店、知りたいよね」
「それも、別に」
――まぁ、大学から近いなら、土地勘があるのだろう。探索は不要かも。
次の質問に詰まっている間に、タクシーは知っている道を通って、私の住んでいるマンションの前で停まった。
「厨川の部屋の物を持っていくから」
「あれ、荷物って、まだ残ってた?」
タクシーを降りて、私の部屋に向かった。まとめてあったトランクと本の束を持って、倉持は再び玄関に向かう。倉持は力持ちだから、簡単に荷物が移動する。
(――背中、広いな)
手を伸ばしかけて、やめた。
これが友達のスキンシップかどうか、そろそろ自信がない。
引っ越しの準備が始まり、倉持の様子は明らかにおかしかった。
何度も聞き出そうとしたけれど、倉持は新居の住所を私に明かさない。
明日は教えてくれるかな、その次はどうかなと、待っても待っても、倉持から何の知らせがないまま、予感は確信に変わった。
「私は、ここまで、かな?」
倉持は靴を履こうとして、玄関に向けた足をそのままに、振り返った。
きっとこのお別れは、私から言った方がいい。元気な声が出るように、奥歯に力を入れて口角をあげる。
「引越し先、私は知らない方がいいんでしょ?」
倉持にだって都合がある。
わかっていたけど、胸がつかえる。
「……厨川?」
これ以上の深入りはダメだと暗に言われている。玄関の鍵置き場に、倉持に貸していた鍵が戻されていることにも気がついた。
倉持はついぞ、何がトラウマか言わなかったし、償いは充分だと言うけれど、きっと友達として仲がいいとか、そういうのを超えて修復できないことがあったのだ。
倉持は、恋人に精神的な繋がりを求めていた。それはひどい形で裏切られてしまって。
友情だ、親友だと安心させるようなことを言っていた私も、もう少しで倉持を好きになってしまう――そういう裏切りは許されない。
「何の賠償にもならなかったね。ごめんね」
「待て、なにか誤解が――」
倉持が何かを言いかけた時に、薄く開いたドアの向こうに人の気配がした。
*
「ケイ?」
声がして、開きかけのドアが動く。その向こうに、小さな人影があった。
「……あの、ごめんなさい、ケイの声が聞こえたから」
「ユカリ?」
一瞬遅れて、倉持の彼女の名前だと思い出す。
真っ直ぐに切り揃えられた前髪と、肩まで伸びる真っ黒な髪、同じ色の澄んだ目の少女が立っている。すごい美少女だ。
いや、少女のはずがない。倉持と同期だと言っていたんだから、同い年くらいのはずで。
「業者の人が、身内でも引っ越し先は教えられないって言うから、トラックを追いかけて……でも、オートロックで入れなくて。困っていたら、通りかかったご婦人が、一緒に入れてくれて……」
通りすがりのご婦人がそうしてしまったのも無理はない。ユカリさんは鍵を忘れて困っている少女に見えたのだろう。
「あの、気にしないでください。このマンション、まだ新しいから、ご近所に誰が住んでいるか、よくわかっていない人が多くて――とりあえず、通路じゃ困るんで、中へどうぞ。倉持、入れてもいいかな?」
倉持は黙って頷いた。
私は、スリッパを出して、ユカリさんをリビングに招く。
「倉持、私、どっか行ってようか?」
「いや、ここにいていい」
予期せぬ来客に、バタバタとコーヒーを出して、手持ち無沙汰でキッチンに立つ。聞きたくないのに会話が聞こえてしまう距離だ。
(私と違って、倉持と、ちゃんと心が通じ合っていた人ーー)
実際に会ってしまったら、なけなしの友達だという自信まで、くしゃくしゃにしぼんでしまう。
「何? もう特に話すことはないよ」
「そうなんだけど、連絡を絶たれる前に、ケイのこれからの事を話しておきたくて」
勧めてもユカリさんはコーヒーに手をつけない。飲まないのだと思い出して、自分の気の利かなさに更に落ち込む。
どう考えても、倉持とさよならする私が、立ち聞きしていい話ではない。いっそこの場から離れてしまいたいのに。
「引っ越すって、あなた、一人暮らしは、無理でしょ? 何かあったときに、話をして消化する人が、一人きりで暮らしていくのはたいへんよ。ケイが良ければ、話し相手くらいになるから……」
「だから、心配いらないって」
姉が聞き分けのない弟を説得するような口調で話は続く。倉持は、動揺することなく飄々と会話している。
ユカリさんと倉持の関係性は、よくわからない。でも、どんなに特別な関係でも、傷つけられた倉持を追いかけてきて、最初に伝えることは、これじゃない。
ユカリさんが言葉を重ねれば重ねるほど、やるせない怒りが湧いてくる。
私は萎んでしまっていた気持ちを奮い立たせて、ユカリさんの前に水のボトルを差し出した。
「あの! 私、倉持に間貸ししていただけの、ただの友達ですけど!」
ユカリさんは、大きな目を更に大きくして、私を見る。
「ええ、お友達さん、ケイが世話になったわね。長々とごめんなさい、ご迷惑じゃなかったかしら」
ユカリさんは丁寧な仕草で腰を折る。まるで毒のない返しに、私の声は上擦った。
「私に謝る前に、まず倉持に言わなきゃならないことがあるはずです!」
倉持はあの時、本当に傷ついてた。この人が倉持に謝る姿を見なければ、私だって気が済まない。それに、これが友達としてできる最後のことかもしれないから。
「まずは、倉持にごめんねって言ってください! 酷いことをしたって、自覚はないんですか?」
「厨川、いいから」
倉持がとめるけど、言わずにはいられなかった。
勇気を振り絞ったわりには、ユカリさんからは何の手ごたえもない沈黙しか返ってこない。ユカリさんは、私の声が届いていないみたいな表情で、目を丸くしている。
「友人宅に世話になってるって――あなた、厨川さんなの?」
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