序章Ⅰ 邂逅

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II  暗闇の中に、声だけが揺蕩っている。  か細く、透き通った硝子のようであり、それでいてどこか温もりを孕んだ声。  目を覚ませ。そう何度も語りかけてくる。  少年はゆっくりと瞼を持ち上げた。  視界は薄闇の空と、輝く無数の星々。そして地平線まで続く水面。  体はその水面の上に寝そべっている。沈みもしなければ、浮かんでいるという様子でもない。まるで地べたに横たわるかの如く安定していて、とはいえ綿に包まれているかのように曖昧な感触を受ける。実に不可思議で奇妙な感覚を覚えつつ、少年は身を起き上げた。  ここは何処だろうか。記憶にない。  景色も、この場に居る理由も、過去も、自分自身のことすらわからない。頭に霞がかかっている。不鮮明で、眩暈がする。 「漸く、目が覚めたようだね」  再び、空間にその声が反響した。  少年は顎を上げ、どこからともなく語りかけてくる奇妙な声の主を探した。しかし、辺りには人影などちっとも見当たらず、凪いだ水面が呼吸をするかのように、時折細かな泡を浮かべているのみ。 「違う、こっちだ、後ろ」  声が焦れるように言った。  少年は振り返る。そして瞠目した。  白光の大樹。水面に根を張り真っ直ぐ天へと伸びる幹から、豊かに生い茂る葉の一枚まで、白く光り輝く巨木が、そこに佇んでいた。  大樹が少年に語りかける。 「初めまして……と言うのかな。少し違和感があるけれど」 「君は、誰?」  少年が問いかける。  大樹は答える。 「ボクはノルン。君は憶えているかい」 「何を」 「君が一体誰なのか、どうしてここにいるのか。君の歩んだ世界のこと」  少年は首を振る。 「何も思い出せないんだ」 「そう……少し強引に引っ張りすぎたかな……」  大樹は些かきまりが悪そうに言った。人の姿があれば、首の後ろをさすっているというように。 「君が俺をここに?」 「ああ。ボクが君を喚んだ。ただ、あの場所は夜の神の領域だし、君の魂が囚われる寸前での介入だったから、上手くいかなかったみたいだ。記憶に混濁が生じてしまった。一つずつ、話していこう。そうすれば、じきに思い出す」  そうして、大樹は語り始める。淡々と真実だけを述べる。  少年の名はフレイ。大陸の北、ノースランデ王国の田舎町に住む何の変哲もない十六歳。彼は、王都エルゼンハイデンの大聖堂にて選定の剣に選ばれ、各国を巡り剣を鍛える巡礼者となる。付き従った五人の仲間と共に七征旅団を結成し、世界に厄災をもたらす夜の神を討伐することが、旅の目的だった。  大樹の話に耳を傾けるうち、枯れた地面から水が湧き出るように、少年の記憶は刻々と脳裏に浮かび上がった。旅の中での出会いと別れ、艱難辛苦、悲喜交々。そして、終着点。  世界の果てで、少年は夜の神と対峙した。打ちのめされ、何もかもを奪われた最後の光景が判然と蘇る。 「思い出したかい」  頭上から降る大樹の声に、少年は顔を上げた。 「思い出した。全部。俺は負けたんだな」  自覚と共に滲んだ涙が、目尻から零れた。  敗北が悔しいのではない。はなから勝機など望めない戦いに、哀歓も何もない。元々救世主になど、大した興味もなかった。たまたまその日、その場に居合わせただけで、世界を救うなどという大それた役目を押し付けられたちっぽけな一凡人だ。厄災によって犠牲になる運命の人々には、多少の申し訳なさを感じはすれど、それは自身の命運を他者に委ねた怠惰による自業自得。過酷な旅を乗り越え、世界の果てまで辿り着いた巡礼者を褒め称えこそすれ、袋叩きにする権利など、民衆には無いのだ。  ただ、少年の心にあるのは、共に旅をした仲間達の姿だった。  明朗快活で話し上手な従兄弟のオズワルド。  武芸に優れ、真面目で気立の良い騎士ギルベルト。  豪快で姉御肌の海軍長ラフカ。  照れ屋で口は悪いが、仲間思いの魔術師キトリー。  切れ者で面倒見の良い魔剣士ユリシーズ。  彼らの存在は、幾度も挫けそうになった少年の背を押す、確かな希望だった。彼らの生きる世界を守る為に、少年は神との対決を決断したのだ。だが、その灯火は呆気なく奪われた。  仲間達の死の現実が、少年の内をひたすらに蝕む。深い絶望と後悔の思いが、水滴となって水面に落ち続けている。 「人の心は複雑だね」  大樹が静かに言った。 「もし君が夜の神に対する恐怖以外で泣いているのだとしたら、ボクにはその感情を察する術がない。欠けているんだ、昔から。でも、君が望むなら、手を貸すことは出来る」 「手を貸す……?」  大樹が何を言っているのか、少年にはわからなかった。手を貸すというのは、手助けをするということであり、それは何か目標を持つ者に向けられるべき言葉だ。  ここが何処だかは未だ判然としないが、仮に天国だとするならば、死者に果たすべき役目などありはしない。少年はそう思っていた。しかし、その認識こそがはなから間違いだった。  少年の怪訝な顔つきに、大樹は言い放った。 「ところで、何か勘違いをしているようだから訂正しておくけれど、君はまだ死んではいないよ」 「……でも、俺は夜の神に負けたんじゃ」 「負けはした。けれど、言っただろう、魂が囚われる寸前で介入したって。あの時点での君の肉体は、確かに夜の神に殺された。でも、肉体はただの入れ物に過ぎない。魂は生きているから、まだボクの力が及ぶ。だから一度だ。一度だけ、君の時間を巻き戻すことが出来る」  少年の生きていた世界には、魔術と呼ばれるものがある。大概のことは成せるが、万能ではない――というのがもっぱらの謳い文句だ。その大概の領域がどの程度のものであるのか、疎い少年にはわからないが、少なくとも、時間をどうこうする魔術の話など、かつての仲間の口からは聞いた覚えがなかった。 「巻き戻すってどうやって」 「やり方を問われても、説明出来ない」  少年の問いに、大樹は困った素振りで言った。 「説明したところで、君では理解出来ないよ。そういうものなんだ。兎に角、今重要なのは巻き戻しの方法ではなくて、君の意志だ。仲間を救いたいか否か。君の仲間達の魂は、このままでは永久に世界の果てに囚われ、彷徨うことになる。君がそれでも構わないというのなら、ボクは君の魂を今すぐにでもこの空間から解放するけれど」 「そんなこと、あって良いわけがない。肉体が滅んでも、魂は帰るべきなんだ」  家族の元、恋人の元、好きだった場所、どこでも良い、在るべきところへ……。 「だから、方法があるなら、俺はみんなを救いたい」 「もしもそれが、巡礼の旅よりも過酷なものになるとしてもかい」  少年は手の平を強く握った。あの旅よりも過酷とは、どのような試練が待ち受けているというのか、考えると心が竦む。 「やり遂げられるのかはわからない。俺は自分が勇者でも救世主でもないことを知ってるから。でも、みんなだってそれを知っていた。なのに俺と共に戦ってくれたんだ。だったら、ここで俺だけ逃げるわけにはいかない」  大樹は、少年の眼に光が灯る、その瞬間を見た。燦然と輝く、力強い光。  嗚呼、いつかの君も――。 「……わかったよ。ただ、先に行っておくけれど、巻き戻しを行うと無論だが全ての事象が巻き戻る。現在から、あらかじめ定めた着地点までの時間、記憶、行動、現象、全てがなかったことなるんだ。つまり、今ここで君とボクが交わしている会話も、君が仲間達と過ごした時間も、消えてなくなる」 「じゃあ、どうやって未来のことを知れば良いんだ?」  巻き戻ったことすらわからないのならば、仲間を救うなどはなから不可能ではないか、と少年は思った。だが、否、と大樹は言った。 「心配しないで。言っただろう、ボクが手を貸すって。必ず過去の君を、運命の書き換えの旅に導いてみせるよ」  だから君は、信じて待っていて。  そう声が響いた途端、足元が揺蕩い、少年の体は水中に落ちた。  意識が遠のく。暗く重たい世界をゆっくりと沈んでゆく。ただ、不思議と体を包む水を冷たくは感じなかった。  少年は目を閉じる。  例え次にその瞼が開いた時、何も憶えていなくとも。出会ってみせる。必ず、もう一度――。
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