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Ⅲ
フレイ・クロンヘイム。十六歳。ノースランデ王国の田舎町、リーオット村に住むごく普通の少年。
彼の一日は、ベッドの上で窓から降り注ぐ朝日と、小鳥のさえずりに起床を促されることから始まる。
目覚ましの鳩時計など要らない。早寝早起き、適度な労働によって規則正しく整った体内時計が、毎日同じ時刻にベルを鳴らすのだ。
着替えを済ませ、自室のある二階から階段を降りると、母のミウレンがキッチンで朝食の支度をしている。テーブルに並んだパンとハムエッグ、サラダ、ミルク。これがクロンヘイム家の朝の定番。
「もうご飯できてるわよ。早く顔洗っていらっしゃい」
ミウレンの催促は常である。息子の起床を見計らったかのようなタイミングで朝食を仕上げてくるのだから、母親とは大層なものだ。
フレイは洗面所でざっと身支度を終わらせると、居間へ戻り、席に着く。ミウレンと共に朝食を摂りながら、近頃の王都は騒がしいだの、村の子供が喧嘩しただのと他愛のない会話をする。
母と息子。二人だけのささやかな食卓。父はフレイが十歳の時に王国騎士団の任務で殉職し、妹は五年前に病で他界した。それ以来、家族は二人だけになった。
朝食の片付けの後、ミウレンは村の学校へ教鞭をとりに出掛ける。
フレイは近所の叔父の家へ赴く。
庭先には普段から一頭の馬と馬車が置いてある。その荷台にせっせと若い男が木箱を運び入れていた。
「おはよう、オズ」
フレイが声を掛けると、男は「よう」と笑って足を止めた。
オズワルド・モールガン。フレイの従兄弟である。歳が三つ離れており、生まれた時から兄のような存在だ。
「今日の荷物、少し多い?」
小屋の前に積まれた木箱や麻袋を認め、フレイが尋ねると、オズワルドは「そうなんだ」と頷いた。
「今、王都には人が集まってるからな。かきいれ時だよ。明日の分も少し持っていくから、荷積み手伝ってくれ」
「わかった」
フレイは返事をして、すぐさま荷物を取りに移動した。
リーオットの特産品は、質の良い土壌で育まれる農産物が主だ。小麦や生乳等、食品の原料や加工品を卸している家もあれば、この付近の土でしか色付かない青い薔薇を栽培している家もある。そのほとんどが、王都エルゼンハイデンへ運ばれる。
モールガンの家は、果物を生業としていた。葡萄をメインに、その他細々と数種類を生産している。宮廷や高級レストランへ卸すものもあれば、街中にある店舗で直接市民に売り出す商品もある。業績は好調で、叔父の不在はそれに伴う販路開拓の営業の為だ。今は西の方の地方都市に出向いているという話を、以前フレイはオズワルドから聞いた。
「別に俺はこのままでも良いんじゃないかと思うんだけどな」
御者台からの声に、荷台の後部に座っていたフレイは「何が?」と問いかけた。地面から伝わる揺れに翻弄されながら、よたよたと御者台へ顔を出せば、馬の手綱を握ったオズワルドが苦笑を浮かべながら言った。
「親父の話。食うに困ってるわけでもないし、今の取引先だけで十分なんじゃないかと思って。店のことも畑のことも、俺らや母さん達に任せきりで、これ以上販路を広げたって、従業員の手が足りないだろ」
「新しく人を雇うんじゃないの?」
「すぐに集まればいいけどな」
「おじさんは商売繁盛の夢を持って働いてるんだ、良いことだよ」
「夢ねえ……」
オズワルドは納得がいかないといった様子で、溜息と共に呟く。他所にはわからない、家族の悩みというものがあるのだろうか、とフレイは思った。
「オズには無いの、夢」
「あったら家業の手伝いなんてしてないだろ」
「じゃあ、やっぱりおじさんの跡を継ぐんだ」
「どうだろうな。親父だってまだ四十だし、継ぐにしたって先の話だ。そういうお前はどうなんだよ、王国騎士団の入団試験、もう今年から受けられるだろ?」
オズワルドの言う入団試験というのは、王国騎士団が六月に設けている外部受験者用の試験のことだ。筆記、面接、実技が科目として据えられ、ノースランデの成人年齢十六歳以上の国民であれば、誰でもその門を叩ける。毎年百人以上が受験し、合格判定を受けるのは十人弱といったところ。
幼い頃のフレイは、騎士だった父の姿に憧れた。そして、自分もその背を追いたいと子供心に夢見ていたのだ。しかし、それも父を喪い、年を重ねるにつれ、萎びていった。
外部受験者が入団したところで、配属は国境警備やら僻地の要人警護に回されることが多い。王都またはその近郊所属となるのは、多くが直属の士官学校を卒業したエリートだ。そうなれば、フレイはリーオットを遠く離れ、ミウレンを一人、家に残していかなければならない。それを知った母は、何を思うだろうか。父や妹が死んだ時のように悲しむのではないか。
彼女は職もあり、自立した生活を送り、近所には懇意の親戚も居り、フレイの懸念など、ただの杞憂であるのやもしれない。だが、頭をよぎる葬儀の日の面影を、どうしたって忘れることなど出来やしないのだ。
オズワルドには本心を語っていない。だから、彼は今でもフレイが過去の夢の片翼を大事に抱いているなどと、盛大な勘違いをしている。
「一体いつの話をしてるのさ」
「そうは言っても、剣は振ってるんだろ?」
「護身の為だよ。世の中はいつだって物騒だし、使えないよりはマシじゃないか。この馬車が襲われたら、俺が守ってあげるよ」
「それは心強い。だが、このへんは盗賊なんかとは無縁だからな。腕を振るってもらえる日は永遠に来ないかもしれない」
「それならそれで結構だよ。大した剣技もありはしないし」
「またそうやって。親父さんの仕込みなんだから、少しは自信を持てって言ってるだろ」
「はいはい、わかったわかった。それよりちゃんと前見てオズ。でないと他の馬車にぶつかるよ」
会話に躍起になっているうちに、いつの間にか前方の馬車との車間が迫っていたようで、オズワルドは「おっと」と慌てて手網を引いた。
村を出発してから、かれこれ一時間。周囲には王都への荷を積んだ他の荷馬車が、雑然と出揃ってきた。
街の入口には検問が敷かれ、通行証を持っていない商人の荷を改めている。長い列はそう簡単には動きそうにない。
ここ一週間程、王都周辺はこのような状態が続いている。騎士団の警備隊は検問の人員を増やしているものの、あまりの人の出入りに手が追いついていない状況だ。
「昨日と比べてまた列が伸びたな」
オズワルドは御者台から身を乗り出し、数百メートル先の城門を見据え、ぼやいた。
「こりゃ、少し時間がかかりそうだ」
「よくここまではしゃげるよね。神様の生誕祭でもないのに」
荷台から外へ出てきたフレイが、つまらなそうに言った。
オズワルドは元の位置に腰掛けながら、「まあ、そう言うなって」と隣に居座ったフレイの肩に手を置いた。
「五百年に一度だぜ?そりゃお祭り騒ぎにもなるさ。救世主が現れる瞬間なんてのは、誰だって目にしたいもんだろ?」
「俺が言ってるのはそういうことじゃないよ。オズだってあの鐘の音を聞いただろ。裁定の日はお伽噺なんかじゃないんだ」
今からおよそ一か月前。大陸暦三五〇〇年三月十一日。世界に、天空の鐘の音が響き渡った。それは原初の神が定めた裁定の日の合図。人類の審判の時である。
世界の果てに生まれ出でた厄災を討伐する為、人類は巡礼者を選び、旅へ送り出さなければならない。巡礼者の使命は、各国を巡り、贖罪の儀式を経て選定の剣を鍛え、厄災と対峙することだ。討伐が果たされなかった場合、厄災は地上に放たれ、人類の半数が焼却の運命を辿る。
これは世界が始まったその時から五百年毎に訪れ、今回で七度目となる。そして七度目の巡礼の旅に出る救世主が明後日、エルゼンハイデン大聖堂にて決定されるのだ。
そういうわけで、世紀の瞬間に立ち会おうという見物客や、それに便乗し儲けを狙う商人、そして我こそは歴史に名を残す者なりと言わんばかりの物好きが、大陸各地から集っている。出身も身分も性別も関係ない。ただ選定の剣に選ばれさえすれば英雄になれるのだから、実にお手軽だ。
人々は厄災のことなど、あまり気にしていない。何せ五百年も前の出来事であるから、その当時を生き残った証人など既にこの世には居らず、最早御伽噺にも近いような曖昧な歴史と成り果てている。空から隕石が降るような実体があるわけでもない以上、それが自身の危機であるという認識が薄い。
だが、フレイは何故か心に妙な翳りを感じていた。あの鐘の音を聞いた日から、どうにも気分が晴れない。
「お前の言うこともわかるけどな」
オズワルドが諭すような口振りで言った。
「今すぐ俺達に出来ることなんて何もないんだ。だったら、これから世界の為に旅立つ勇者を、盛大に送り出してやろうぜってことさ」
「オズは楽観的」
「悲観的よりは良いと思うけど」
「もういいよ」
フレイは再び荷台の中へ引っ込もうとした。しかし、その襟をオズワルドが掴んだ。
「おい、待て待て」
「何だよ」
「俺はな、明後日、大聖堂に行こうと思ってるんだ」
オズワルドの勝ち気な笑みに、フレイは辟易と眉を顰める。彼は昔からそういう節がある。何かと話題のものに飛び付きたがる。
「行ったところで巡礼者になんて選ばれっこないよ」
「物は試しだって。やってみなきゃわかんないだろ。もし選ばれたらかっこいいじゃないか。フレイも一緒に行こうぜ」
「嫌だ。興味ない」
「何でだよお。一人より二人の方が楽しいだろ!」
両手で肩を掴み、がくがくと揺さぶってくる自分勝手な男に、フレイは渋々「わかったからやめてよ」と静止を呼びかけた。遠目から見ているだけならば、何の差し障りがあるわけでもない。聖剣に選ばれずにしょげて戻ってくるオズワルドの背を叩き、励ましてやるくらいなら吝かでもないと、フレイは思った。
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