序章Ⅰ 邂逅

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 翌日の朝、フレイはいつものようにモールガンの家を訪れて絶句した。 「やあ」  昨夜のことなど何も気にしていないとでも言うように、ノエルはさっぱりとした顔で目の前に現れた。  普段はオズワルドが荷台に積み込んでいる木箱を易々と両手の上に乗せ……否、木箱はノエルの手の平の上にふわふわと浮かんでいる。これは恐らく魔術だ。この法螺吹きは魔術師だったのか。  小柄な少女の両腕に木箱、不釣り合いな光景に気が逸れたが、フレイはそうじゃないと内心で首を振った。 「何でここに居るんだ」  ノエルは荷台に木箱を下ろしながら言った。 「昨日、君に追い出されてしまった後、たまたまこの家が目に入ってね。話をしたら一晩泊めてくれるというから、メリッサ殿が」 「メリッサ?」  フレイは馬小屋の方を向いた。丁度、そこから出てきたオズワルドが、荷馬車に付ける馬を引いて歩いているところだった。 「よう、フレイ。来てたのか。おはようさん」 「オズ、この人……」 「ああ。今朝、起きて馬小屋に行ったら、メリッサの隣で寝てたんだよ」 「だって、メリッサ殿が泊まっていけと言うんだもの」  そう言って、ノエルが馬の鼻先を撫でる。  オズワルドは肩を竦めた。 「変なやつだよな。まあ、荷積み手伝ってもらったから助かったけど」 「一宿の恩さ。気にしないで」  二人は並んで会話をしながら、荷馬車の方へと歩いて行く。オズワルドはこの突然の訪問者の挙動を、さして気にしてはいない様子だ。ミウレンの時と同様、容易に馴染みすぎている。もしや何か怪しげな魔術でも使っているのではないかと、フレイは勘繰った。  結局、ノエルはこのまま王都まで同行することになった。常ならば荷台に引っ込んでいるフレイだが、ノエルと同じ空間にじっとしているなど耐えられるはずもなく、御者台のオズワルドの隣に座って終始眉を顰めている。  その横顔をオズワルドはちらと流し見た。 「機嫌悪そうだな」 「別に」 「別にってこたないだろ。彼女、知り合いなのか?」 「知り合いって程のものじゃないけど、ちょっと曰くつき」 「ふうん。珍しいな、お前がここまで誰かを毛嫌いするなんて。何があったんだよ」 「聞いてもしょうがないよ。どうせあの人とは王都で別れて、もう二度と会うこともない」 「わかんないぜ。彼女だって王都で働くなら、そのうちまた会うかもしれないだろ」 「不吉なこと言わないでよ」  これ以上、この話題の展開は避けたいと言わんばかりに顔を背けるフレイ。察したオズワルドも追求を諦め、黙って前を向いた。  馬車はがたごとと不規則な音を立てながら、街道を進む。  検問は昨日よりも積荷改めの列が縮んでいた。オズワルド曰く、地元の商人から騎士団へ苦情が殺到し、通行証所持者の為の迂回路が設定されたらしい。騎士団が有事の際の出入り口として使用している旧城門だ。平時は封鎖されているが、今がその有事だろうが!という商人達の剣幕に押され、渋々解放を決めたという。  街道から迂回路への分かれ道には、〈通行証所持者はこちらへ〉との文言が並ぶ立て札と共に、案内の騎士数人が荷馬車を誘導している。今のこの状況で、昨日のような待ちぼうけをせずに済むことが、フレイの心を多少慰めた。  街はより活気に満ちている。いよいよ明日に迫った巡礼者の決定の時に、誰もが浮き足立っている。特別なイベントは、始まってしまえばただ終わりを迎えるだけだが、始まる前は際限のない期待が膨らむばかりなのである。  モールガンの荷馬車は、人々の明るい喧騒の中を横切り、メインストリートから一本裏の通りにある店舗の前で停車した。一旦、直売り用の荷を下ろし、フレイが開店準備をする。その間に、オズワルドが付近の取引先を回るというのが、おおまかな流れだ。 「では、ここでお別れだ。短い間だったが、共に旅が出来て幸いだったよ」  早々に荷台から降りたノエルが、未だ御者台の上に居るオズワルドと握手を交わした。 「また機会があったら寄ってくれ」 「是非そうさせてもらうよ」  二人の会話が耳に入る。ああ、オズよ、頼むからそんな約束を取り付けないでくれ、と内心やきもきしながら、フレイは店の扉の錠を外した。 「フレイ」  背後から声がした。やはり、このまま去ってはくれないらしい。  フレイは渋い顔をして振り返る。少女の面持ちはこれまでと変わらず、まるで表情というものの存在を忘れてしまったかのように平坦のまま。 「どうやらボクは何か失敗をして、君に随分と嫌われてしまったみたいだね。けれど、こういう時どうやって信頼を取り戻せばいいのか、ボクにはわからないんだ。だから、最後に一つだけ聞いてほしい。ボクが昨日話したことをどう受け取るのかは、君の自由だ。だけどもう、猶予は残り少ない。明日になれば、君は選定の剣に選ばれてしまうから。ボクは今日一日、この街に居る。心が決まったら会いに来てほしい。大聖堂前の広場で、君を待ってる」  そうして、ノエルは踵を返した。後ろ髪を引かれることなど何もないといった様子で、通りの雑踏の中へと消えていった。  これで漸く、あの法螺吹きから本当に解放される。広場に行く気など毛頭ない。仕事が終わればいつものように夕食を済ませて真っ直ぐ家へ帰り、明日もまた平穏な日常が続くだけだ。  昨夜からの不可思議な体験は、高級料理に僅かばかり含まれた隠し味のようなものであって、変わり映えのしない日々に現れたちょっとしたスパイス。一週間後には交わした会話の内容も薄れ、一ヶ月後には少女の存在もどうでもいいものになる。一年経てば、不思議なこともあったもんだと懐かしく感じることだろう。  忘れるのがいい。何もかも気にしないことにして、いつものように仕事をこなそう。フレイはそう決めた。  だというのに、ふとした瞬間に少女の姿が瞼の裏に現れては消え、現れては消えを繰り返す。接客に精を出そうとも、今日の夕飯に思考を巡らそうとも、思い出されてしまう。  一体何なんだ。フレイは憤った。  忘れようとすればする程、水場にこびりついて剥がれないカビ汚れのように、頑固な記憶が頭の奥を巡る。さっさと何処か遠くに追いやってしまった方がいいと理解しているのに。何故だか徐々に昨夜の話が他人事とは思えなくなってきて、フレイは頭を抱えた。  ノエルの口から語られる物語は、あまりに鮮明だった。まるでその目で映し取った数々の情景を、そのまま言葉として紡いでいるような鮮やかさ。作り話にしては精巧に過ぎる。だから、フレイは恐怖を感じた。その出来すぎた物語に自分やオズワルドの名が登場する。わけがわからない。これは物語のはずだ。そう思いたかった。少女を頭のイカれた法螺吹きだと否定することで、安堵を得たかった。辻褄の合う答えが見えているにもかかわらず、それを無かったことにして。  ならば、有り得るのだろうか。明日、自分が本当に巡礼者として選ばれるなど。このまま何もしなければ、フレイはかつての未来と同じように、巡礼の旅に出ることになるとノエルは言った。各国で仲間たちと出会い、世界の果てへ辿り着き、そして死の運命へ至ると。  到底信じ難い。しかし、何かがずっと、胸の中心辺りを渦巻いている。 「おい、フレイ!」  呼ぶ声に、フレイは顔を上げた。  オズワルドが目の前にいる。少し怖い顔をしている。 「何?」  状況が理解出来ずにフレイが目を丸くすると、オズワルドは呆れた様子で腰に手を当てた。 「何じゃない、何度も呼んでる」 「え、ごめん。気付かなかった」 「どうした、今日ずっと変だぞ。心ここに在らずじゃないか」 「そうかな」 「そうだ」  言われてみれば、仕事の最中にも何度か客の声を聞き逃していたようだった。  窓の外に目を向ければ、いつの間にやら通りは薄暗く、街灯の明かりが点灯し始めている。前夜祭へ向かう人の流れも、徐々に密度を増してきていた。 「何に悩んでるのかは知らないけど、迷っていることがあるなら行動あるのみだぜ。人間ってのは、行動しなかった時の後悔の方がより大きいんだ」  そこでオズワルドは何か思い当たったか、はっと口元に手を置いた。 「もしかして、今朝のあの子のことか?」 「オズには関係ない」  フレイは食い気味に反論した。放っておくとお節介な兄心でどこまでも話が飛躍しかねない。釘は早めに打つのがいい。 「閉店しよう。前夜祭が始まるから、もう人は来ないよ」  フレイが提案すると、オズワルドも窓の外を見やり「そうだなあ」と言った。 「この後どうする?いつものとこに飯食いに行くか?」  店から歩いて五分ほどの近場にある行きつけの食堂。そこで夕食を済ませて帰路につくのがお決まりのパターンだが、今日は露店も多く出ているだろう。そちらに向かうのもありだ、とオズワルドは考えているらしい。しかし、フレイは首を振った。 「ごめん。用事があるから、今日は分かれる」  ノエルを探し出し、話をつける。長く留まるつもりはない。ただ納得のいく答えが得られればそれでいい。  フレイは片付けを終えた後、オズワルドと落ち合う時間を決め、店を出た。  記憶を辿り、今朝ノエルが指定してきた場所を思い返す。確か、大聖堂前の広場と言っていた。街の中心に近い。  前夜祭へ向かう人の流れに沿って、フレイも通りへ出る。  酒場には既に酔いの回り始めた客が溢れ、開けた場所では軒を連ねる屋台から漂う香ばしい匂いに釣られた人々が、買うものを決めかねうろうろと目移りしている。あちこちから陽気な音楽が流れ、数日前から告知されていた有名らしい周遊劇団の公演には人だかりが見える。  フレイは雑踏の中を早足に進んだ。漂うご機嫌な雰囲気も、フレイの心の靄を振り払ってはくれないようだった。  歩いて十五分程度か、漸く辿り着いた大聖堂前の広場は、想定よりも大分閑散としていた。建物を出入りしている礼拝者や、ベンチに腰掛ける数組のカップルの姿はあるものの、これまでのお祭り騒ぎとはまるで無縁とでも言いたげな静けさだ。明日のメイン会場であるのはずの場所がこうも静謐であるというのは、流石に違和感を覚えざるを得ない。教会から何かお達しが出ていただろうかと思い返すが、それらしい話も文言もフレイの記憶にはなかった。  だが、人探しをするには丁度いい。辺りを少し見渡すだけで、容易にその姿を視界に捉えることが出来た。  広場の中央に位置する噴水。てっぺんまで上がった水が、薄いカーテンのように幕を広げ絶え間なく水面に落ち続けている。その布地の向こう、へりに腰をかけた華奢な背中。今朝別れた時に見たものと同じ外套を身につけている。間違いない。  フレイが歩み寄ると、声を掛けるより先に、ノエルが振り返った。 「やあ、来たね」 「まるで俺が来ることがわかってたみたいだ」 「それは違うよ。信じていただけさ」 「これも君がやってるのか?」  フレイは、広場の人気について尋ねた。  ノエルは「これとは?」と僅かに首を傾げる。 「ここだけ、明らかに人が少ない。他の場所はお祭り状態なのに」 「ああ、そう、人払いの魔術。あんまり騒がしいと、ゆっくり話が出来ないだろう?それで、心は決まったのかい」  ノエルの真っ直ぐな視線から逃れるように、フレイは俯いて地面を見た。 「いや……」  言いたいことがあったはずだ。それなのに、何故か言葉が出てこない。喉の途中に引っ掛かり、固まって石になってしまったかのように行き詰っている。 「明日、この場所で君は選ばれし者となる。その旅の果てをボクは見た」  声に、フレイは顔を上げた。  ノエルは正面の大聖堂を見据えている。 「ボクの計画は君ありきのものだ。君が居なければどう足掻いたって成り立たない。だから信じてくれと言いたいけれど、君の選択を蔑ろにする権利はボクには無い。好きな方を選んでいいんだよ」  ノエルを拒み、巡礼者となるか。はたまたその手を取り、別の未来へ踏み出すのか。どちらの選択にも、救いなどないようにフレイには思えた。前者を選べば、あの時おかしな少女の言葉を間に受けていればと後悔する瞬間が、必ず訪れるだろう。後者を選べば、神殺しに手を染めるくらいなら、巡礼者になった方がマシだったと悔やむに違いない。 「どっちを選んでも俺にとっては最悪に変わりないけど、ひとつ、訊いてもいいかな」  それは、漸く喉の堰を通り抜けて出た問いだった。 「君が本当に神様なんだとしたら、君は君自身の命も犠牲にするつもりなのか?」 「無論そうだ」  ノエルは顔色一つ変えずに、はっきりと明言した。 「例外は無いよ。夜の神と戦うには、七つの神の討伐が必須だ」 「どうしてそこまでして、その……未来の俺との約束を果たそうとするんだ?世界を救うことも出来なかった英雄の成り損ないだろ?」 「それは違う。君は巡礼の旅路が人間にとってどれ程の苦難となるのかを知らないんだ。かつてその旅路を乗り越え、世界の果てまで辿り着いたのは、初代の巡礼者ただ一人だった。けれど、君は七人目の救世主にして再び成し遂げたんだ。これがどれ程の偉業かわかるかい」 「でも負けたじゃないか」 「結果はね。それでも、君は確かに希望だったよ。世界の人々にとって、君の仲間たちにとって、そしてボクにとっても。君なら或いはこの世界の理を打ち砕けるかもしれないと、そう思った」 「世界の理?」 「神が統べる世界の形。創造神が世界に課した在るべき姿のことさ。でも、ボクは神は既に偶像であり、人に必要なものではないと思っている。だから、神という存在をこの世界から消し去りたいんだ」 「つまり、君自身にも果たすべき目的があるんだね」 「……そうだ。そうだね。もしかしたらボクは、君の願いを口実に使ったのかもしれない。君に約束を取り付ければ、ボクの目的も果たされるから」  ノエルは、たった今気付いたと言わんばかりに茫然と呟いた。まさか己の中にも旅立ちの理由があったとは、青天の霹靂だったらしい。しかし、フレイは安堵を覚えた。 「それでいいよ。無償で手を貸しますなんて、話が上手すぎるからね。神様だっていうなら尚更だ。後で何をされるかわからない」 「酷い言い草だ」 「俺は正直、まだ君の言葉を五割も信用出来ていない。仲間がどうとか言われても、聞いたこともない人達ばかりだし。でも、オズの名前を出されたら、少し不安な気持ちになる。いい奴なんだ。出来るだけ平穏に生きてほしい」 「なら、話は簡単さ」 「君と旅に出れば、オズは救われるのか?」 「少なくとも、夜の神の手にかかって死ぬことはない。他の要因については関知しないけれど、彼の魂が世界の果てに囚われる可能性はなくなるだろう」 「そう……」  フレイは暫く口を閉ざして考えた。その間、ノエルも何も言わず、ただ黙って事の展開を待っていた。  ほんの十数秒だ。フレイは大きく息を吸って、決心を述べた。 「決めた。行くよ、君と」 「本当かい?」  ノエルは、目を丸くしてフレイを見る。まるで了承を予想だにしていなかったとでも言うように。 「何、その顔。信じてたんじゃないの」 「信じていたさ。けれど、確信があったのかと言えばそうじゃない。どうやらボクは交渉が苦手なようだから」 「確かに下手だ。胡散臭すぎる」 「そんなにはっきり言うことないじゃないか」  ノエルは僅かにむ、と唇を突き出した。  無感情かと思えば、存外そうでもないらしい。フレイは何だか可笑しくなって、込み上げる失笑を咳払いで誤魔化した。  ノエルの提案を承諾した理由の一つには、やはり巡礼者への興味関心の薄さにある。かつての世界で何故自分が選出されたのか、その理由が全くもって見当が付かない。救世主への憧れも無ければ、世界を救おうという気概も皆無。どのようなシステムで選出が行われているのか、フレイには知る由もないが、やる気のない人間を選ぶより、もっと正義感と熱意に溢れた人物を据えた方が、余程人々の為になる。  フレイがその道を放棄すれば、他の誰かが選ばれる。巡礼者は、別段フレイでなければならないということはないらしい。  一方、ノエルの目的には、フレイの同行が不可欠だという。  どちらの天秤も同様の重さならば、取り敢えずは心の傾く方へ従ってしまうのが良かろう。そう思った。  しかし、一つ問題がある。ミウレンのことだ。
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