漂う蛸

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 緑といえば緑。  涼しいといえば涼しい。  これが、数年ぶりに山の中へ入って抱いた、率直な感想だった。  ネットで閲覧する写真や、役場職員が勤務する建物の窓から見える林、その向こうにそびえ立ち、僕達の住まう土地をぐるりと囲う山々などは一見して、緑一色であることが多い。  紅葉の季節や、雪の降る冬場などは、赤や白が基調色である緑に混ざり、コントラストで魅せる。目に映る変化はそのようなもので、山という空間へ不随する印象は、どの季節でも一貫して、涼しい、爽やか、過ごしやすい、快適、という意見や想像が大半を占めるだろう。  それは正解でもあり、やや外してもいたなと、僕は考える。  頭上を覆う、生い茂った木々の葉と、伸びて交差する大量の枝のおかげで、直射日光は遮られ、一定の気温と湿度が保たれている。ただし、この湿度がなかなかに高くて蒸し暑い。アスファルトの道路上や、遮るものの無い町内の土道と比較すれば、快適と評して差し支えないが、クーラの利いた近代建築物内と勝負すれば、どちらが優れているかは明白である。  また、この頭上を覆う木々の葉と枝が視界を限定させてくる影響で、実際に山中へ入った場合は印象が変わる。具体的には、緑ではなく茶色だ、と感じるのだ。周囲を木々に囲まれ、その木々の本体は太い茶色の幹であるのだから、この印象の転換は必然だろう。  先を歩く先輩職員が立ち止まった。  それに合わせて、僕も立ち止まる。  彼の肩越しに奥を覗くと、杭と木材でどうにか形だけ舗装されていた山道が終わり、その先に石を敷き詰めて造られた直線の道が現れていた。 「現場に入る前に、一回、休憩を挟もう」  息も絶え絶えに先輩が言った。  僕は頷いて同意し、スラックスの尻ポケットに突っ込んでいたペットボトルを手に取って、中身の水を飲んだ。  ちらと視線を向けると、先輩も同様に、ペットボトルを傾けている。ただ、僕とは異なり、補給というよりも、ラッパ飲みであった。 「長靴に履き替えたのは失敗だったな。滑らない代わりに歩きにくい。おまけに通気性も悪い。そのせいで、無駄に汗が出る。脱水症状になるぞ、これ」 「そうですね。確かに歩きにくい。初夏向きではありませんね」  僕は頷き同意しつつ、自分の足元を見る。  山の中に入るなら、と僕達は二人共、カッターシャツとスラックスはそのままに、靴だけを履き替え、軍手を持参してきた。備え自体は間違っていなかったと思う。問題は、雨が降った直後でもないのに長靴を履いた状態で山登りを始めてしまった点だろう。日頃、空調の利いた室内で働く若者達には、登山のセオリーなど、心得がなかったのである。 「革靴を一組駄目にしてでも、連絡を受けた際の格好で、そのまま入山するべきでした。多少滑っても、靴の方が歩きやすいですし」 「まあ、でもなぁ、急なことだったし、上司の爺様は、ほら、ゴム長靴で行け、って言ってきたもんな。俺達の判断ミスってわけでもない」  空になったペットボトルをスラックスの尻ポケットへ捻じ込みながら先輩は応える。 「それよりもきついのは、息切れだよ。この歳で山登りをする羽目になるとはな。もう中高生じゃないんだぜ? 体力的に無理があるって」 「そんな、僕と三つも変わらないじゃないですか」笑いながら僕は応える。 「息切れの原因は、体力じゃなくて、煙草では? 電子煙草でも肺活量って落ちるんでしょう?」 「それを言われると、何も返せないな。役場の定例健康診断でも毎回医者から、煙草を止めろ、って指導されるんだわ」  先輩は笑って応えてくれた後、大きく息を吐いてから、石が敷き詰められた道の先へと視線を向けた。  つられて、僕も目を向ける。  ここが、目的の現場である。  朝一番で、僕達が働く役場に電話がかかってきた。  そのすぐ後に、山から下りてきた地元の御爺さんが二名、役場の建物内へ大騒ぎしながら入ってきた。  電話の内容と、取り乱している御爺さん二名、計三名からの話は、ほぼ同じものであった。  山中で人間の死体を見つけた。  死んでいたのは、おそらく、隣町の猟師をしている爺様ではないか。  どうして、住んでいる者は皆顔見知りというほどのこの田舎で、死んでしまった者の特定ができなかったのかといえば、死体の様相が尋常でなく、身元の特定が困難であったらしい。御爺さん達曰く、熊や猪、野犬などの被害を受け、その後に喰われたなどの状態とは異なる、とのこと。  山の神様が怒っているのではないか、それか、殺人鬼がやって来て、残忍な殺し方をやってのけた、そして今も、近くの山中に潜んでいるのではないか、という話であった。  報告者の数が多く、証言も一致している。スマートフォンを扱える年代の方達ではないので、証拠写真などは持ち合わせていなかったけれど、どのみちこのような話が挙がった以上、現場を確認に行かなくてはいけないので、明確な証拠があろうと無かろうと、僕達役場職員が対応のために動かなくてはいけない事実に変わりはない。  内容が内容なだけに、迅速な対応が求められる。しかし、こんな時に限って、駐在所の警官は遠出していて不在。早くても午後にならないと戻ってこない。  とりあえず、役場内で二名しかいない二十代の僕と先輩が、山中の現場へ派遣されることに決まった。実際に死体を確認できたら、役場へ電話をかける。その後、役場の人間が、本格的に警察へ事情を伝え、鑑識やら聞き込みやら捜索やらのための人員を寄越してもらう、という手筈にまとまった。  役場の対応としては相応なのかもしれないけれど、朝っぱらから山登りと死体確認を命じられ、おまけに殺人鬼が潜んでいる可能性も示唆されている山の中へ出向など、僕と先輩からすれば、たまったものではない。  僕達は山狩りのエキスパートでもなければ、特殊な訓練も受けていない。特別な権限も持たない、ひ弱な役場職員が二名、現場へ行ったとして、何ができるわけでもない。しかし、田舎とはこういう仕組みであり、日本の公務員は、こうした遣われ方をされる職業なので、どうしようもない。上司からの命令に、いいえ、と言うことすらできない立場なのである。  そんな朝の記憶を、かぶりを振って取り払い、僕もペットボトルをスラックスの尻ポケットへ仕舞う。  次いで、同じくスラックスから軍手を取り出して、両手に付ける。  先輩も同様の装備をしてから、歩調を揃えて現場に入った。  白っぽい石を敷き詰めて作られた道。  その先にあるのは、同じ色をした、石の橋。  爺様達の話では、この橋で死体を見つけたらしい。  朝早くから、こんな山の中の橋まで来ていた理由の方が気になる。健康のためのジョギングにしては、ハード過ぎるだろうに。  残念なことに、死体はすぐに見つかった。  丁度、橋の中間辺りから血の跡が広がっていた。時間が経過した影響か、赤ではなく黒色である。その中間位置から下を覗き込むと、死体はそこにあった。  橋といっても、それほど高度があるわけではない。石組みの足場から石造りの橋が伸びていて、それが山中でも比較的傾斜のきつい場所を歩きやすくしているに過ぎない。橋の下は深い谷底でもなければ、川が流れているわけでもない。橋の端から屈み、思いきり手を伸ばせば、その下のごろごろとした大きな岩群と緑色の苔に触れられるほどには浅く、山の傾斜地面に近い。  死体の状態は一見して、確かに異様だ、と思った。  野生動物に襲撃されたにしては綺麗だ。食い荒らされていない。原型を留めている。熊にでも襲われたなら、こうはいかない。もっとバラバラにされる。御爺さん達が身元の断定を行えなかった理由も分かった。顔が無かったのである。頭部は残っている。顔の皮膚だけを剥ぎ取られたかのよう。これでは識別は無理だ。体格と着ている服しか情報がない。 「ひっでぇな、これ」  報告用の写真を撮りながら先輩が呟く。 「顔を削ぐのは熊っぽいけど、顔だけ削いで放置ってのが熊らしくないな。出血跡が残ってる割に、見た目の損傷がない。動物に襲われたら、こんなもんじゃあ済まないよな?」 「ええ、そう思います」  先輩の意見に頷いて肯定しつつ、僕は考える。  変だ。  何者が、どうやって、顔を剥ぎ取ったのか、何故顔だけを損壊したのか、という疑問。  これらも勿論だけど、先程から気になっている点は、別のこと。  目の前の死体は、どことなく【薄い】という印象を受ける。  人間の身体にしては厚みがない。例えば、肋骨を潰すなり、内臓を取り出すなりして、体面積を減らしたかのような、そんな状態に映る。押し潰したというには綺麗に薄い。中身を抜いた、という表現が適当だと感じる。問題は、誰が、どうやって、何を目的として、そんな真似をしたのか、であるけれど。  やはり、動物の仕業なのだろうか? でも、人体の中身だけを吸い取るような食事の仕方をする野生動物を、僕は知らない。  ふと。  気配を感じた。  振り向く。  視線を巡らせる。  辺りは一面、木々の茶色。  それらを飾るように葉の緑色。  青色はない。空が見えないから。  誰もいない。  何もいない。  人も、動物も。  目を走らせる。  いないはず。  それなのに。  違和感がある。  気配が消えない。  どうしてだろう? 「とりあえず、発見の連絡しとくか。写真も必要だから、合わせて送れるメールで良いよな。効率良いし。ああ、でも、グロテスクなものを一緒に送り付けてくるな、って怒られるかなぁ」  隣から、先輩の声。  僕は警戒を解かずに、目だけで先輩を見る。  感じるこの気配をどう伝えたら良いだろう、と考えつつ。  その時。  先輩の【背後】が動いた。  後ろは景色だと思っていたのに、違った。  滑らかに流動する、長い触手のようなものが複数、現れた。  それは塊になったかと思うと、勢いよく先輩の肩へとぶつかった。  その衝撃で、先輩がよろける。  彼の手から、持っていたスマートフォンが離れて、橋の下へと消える。  僕は、先輩が落ちないよう、咄嗟に彼の腕を掴む。  この時、先輩の肩へとぶつかった謎の塊から、長い触手のようなものが複数伸びて、彼のカッターシャツを千切るようにして裂き、表出した肌へとへばり付いた。  複数伸びてきた触手のうちの一本に、僕の手の甲が軽く触れる。それだけで、僕の手を覆っていた軍手は裂かれ、あっさりと皮膚までをもっていかれた。鋭い刃のような器官で裂かれ、吸盤のような仕組みで剥がされたのだ。  あまりの痛みに僕が声を上げるのと、先輩が橋の上で倒れるのが同時だった。  僕は屈み込み、先輩の後頭部を片手で支えながら状態を確認する。  先輩は、顔から首筋、露出している腕の辺りにまで毛細血管が浮き上がり、肌色は急速に蒼白へと変化していく。失血状態か、それとも毒でも注入されているのか、専門的な知識を持たない僕には分からない。  原因は明らかだ。  けれど、どうすればいい?  先程の吸着力を鑑みるに、強引に引き剝がせば、先輩の皮膚までもっていかれてしまう。橋の下の御爺さんの顔の皮膚だけが無かった有り様のように、今絡みつかれている箇所の皮膚をごっそり剥がされる可能性がある。  同じ理由から、僕がこの正体不明な生き物に触れることも危険だ。表面に毒があるかどうかも分からないし、毒が無かったとしても、僕の身体へと標的を変えられ、絡みつかれて血を吸われたら、行動不能な人間が増えてしまう。それでは駄目だ。餌をやっているようなもの。  こいつが何なのか、どういう仕組みなのか、どうしてこんな妙な生き物が、こんな所にいるのか等、合点のいかない疑問が頭の中で渦を巻く。  とにかく、このままではまずい。  先輩を助けるか、もしくは……。  考えていた矢先。  再び、気配を感じた。  先程と同じ気配。  見られている。  近くにいる。  そんな感覚。  まさか、この奇妙な生き物は、一匹ではない? 「こいつ以外にも、いるんだろ? まだ、その辺に……」  囁かれた声に反応して、僕は先輩へ視線を向ける。 「これが何か知らんが、やばいのは分かる。多分、血を吸いながら麻痺毒みたいなものを代わりに入れてきてる。あちこち、感覚がないんだ」  蒼白な顔で、けれど気丈にも片方だけ口角を上げながら、先輩は続ける。 「正体は判らなくても、犯人は分かった。だから、お前は一人で山を下りて、情報を伝えて、人を連れて来てくれ。救助ヘリとかで来てくれると助かる。俺も死にたくはないからさ」 「分かりました。待っていてください。すぐに呼んで、戻って来ます」 「こういう最悪な日もあるさ。そういう信条で生きてなきゃあ、人生やってられない。そうだろ?」  そう言って、先輩は笑った。  精一杯の虚勢だったろう。  静かに息を吐いて。  息を吸う。  先輩と目を合わせ、頷き。  弾けるように、僕は立ち上がる。  そのまま、駆け出した。  橋を渡り切り、石造りの道を抜け、山道を全速力で下る。  途中、何度もこけそうになった。  それでも、走る速度は緩めなかった。  一度でも立ち止まったら、追いつかれるような気がしていた。  あの気色の悪い謎の生物が、すぐ後ろをついて来ているような、そんな想像が拭えない。  目にした光景に対する恐怖か、危機に対する本能的な逃走意識か。 ともかく、普段であればあり得ないほどの運動能力を発揮して、僕は山を下った。  さすがに息が切れ、脚が動かなくなってきたところで、ようやく山への入り道が見えた。  安堵した。  起きてしまったことは変えられない。  それでも、対処することはできる。  急げば、まだ救えるはず。  今しがた目にした全てを伝えるのだ。  原因を、誰が、何が、やったのかを。  しかし。  ここで。  滑った。  長靴の底はゴム製なのに。  滑って、倒れそうになった。  反射的に近くの木を掴み、踏ん張る。  横方向から。  僕の顔めがけて。  何かがぶつかってきた。  その衝撃で、僕はバランスを崩す。  山道から傾斜へと倒れ込み、そのまま、滑るように転がり落ちる。  溝のように落ちくぼんでいる箇所でようやく止まった。  痛みに呻こうとして、声が出せないことに気づく。  自分の口元を、粘質で軟体な何かが覆っている。  胸に痛みを覚えた。  目を向けると、胸部にも、あの触手を伸ばす生物が張り付いている。  二匹、追ってきていたのか……。  急速に思考が鈍くなる。  自分の手を見やると、血管が浮き、青白くなっていくところだった。  感覚が鈍くなっていく。先輩の言った通りだ。  僕は最後の力を振り絞り、スラックスからスマートフォンを取り出す。  緊急事態用画面を呼び出し、通報ボタンを押してから、位置情報を送信。  端末が手から離れる。  もう、動けない。  首を支える力もなくして。  地面に横たわったまま。  山の茶色と緑色を見る。  少しだけ覗く青色。  空との境目に居る。  あと少しだったのに。  喰われて、それから?  肥しと成るのか。  未知と無慈悲が棲まう、山の糧へと。
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