八百比丘尼

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八百比丘尼

 からからと荷車を引く音が響いた。  この辺りは戦場からは程遠く、焦げるにおい、喧噪とも無縁だ。昨今はあちこちの国で小競り合いが続いているというのに、のどかなものであった。  その中、荷車を引いているのは若い女だった。頭に手拭いを巻き、薄い麻の着物を着て、てくてくと歩いている。 「いいお天気ですねえ」  彼女は穏やかに声を上げた。荷車の中からは返事がない。しかし彼女は気にする素振りもなく、淡々と話す。 「これだけいいお天気でしたら、なにやらいいことがあるといいのですが」  返事はない。  しかし、荷車の上にはたしかに人がいた。  袈裟を纏った尼僧である。硬く唇を結び、目も閉じてしまっている。しかしその顔つきは驚くほど端正であった。  頬は化粧っ気もないのに桜色に染まり、唇は分厚く牡丹の花びらを思わせた。閉じた目を縁取っている睫毛も長く、これだけ美しい人がどうして世捨て人になってしまったのか、傍目からではなにもわからない。  そんなよく眠る尼僧を荷車に乗せ、彼女が街道を歩いていると。 「停まれ」  槍を構えた男たちに通せんぼうされてしまった。彼女は穏やかな笑みを浮かべた。 「こちらは特に国境(くにざかい)でもなかったかと存じますが?」 「ああ、そうだ。ここのお殿様も先の戦でおっ死んだから、今はこの地も浮いちまってるのさ。盗賊や落ち武者狩りでせわしねえから、こうして俺たちがこの地を見張ってやってるのさ。ほら、通行料を支払いな」 「困りましたね、そんなものお支払いできませんが」 「……よく見たら別嬪じゃねえか。もし金で支払えねえとなったら、体を使ってもいいんだぜ?」  男たちから「ヒュー」と口笛が飛んだ。それに彼女は「まあ、下品」と返す。  やがて、男たちは荷車の上で寝ている尼僧に気が付いた。 「おい、この女、上玉まで乗せてやがるぜ!」 「なに!? どこぞの城の姫でも、夜逃げなさったか?」 「違います。そんな上等なものではございません。尼僧様にお触りなさるな」  だんだん彼女の口調は硬くなるが、それもどこ吹く風だ。 「まあ、どっちでもいいや。通行料が支払えねえとなったら、体で支払いな。それが無理なら……」 「……だから、お金も体も、嫌なんですってば……!!」  途端。彼女が男のひとりの槍を掴んだと思ったら、勢いを付けて槍を奪った。そのままトンッと高く荷車の上に跳ぶ。 「なんだ……!? お前……やっぱりどこぞの城の……!?」 「違いますってば……!!」  男たちは一斉に彼女に襲いかかってきたが、彼女は奪い取った槍で捌ききった。槍の柄先で男の鳩尾を突いて倒し、切っ先を使って男の手の甲を狙って得物を手放させる。  その戦い方は驚くほど巧みで、彼女には毘沙門天の加護でも付いているのかと思わせるものだった。 「くっそ……!」 「尼! あの尼を人質に取れ!」 「おお……!」  慌てて男たちは荷車をひっくり返し、尼僧を盾に取ろうと彼女から荷車に襲撃先を替えたが。途端に彼女の体は崩れた。  ただ崩れ方が疲労で疲れたとか、気絶したとかにしてはおかしかった。  脚の関節という関節がばらばらに曲がり、地面にべちゃりと崩れる。人間の関節の動きからしてありえない不気味さに、男たちは「ひい……っ!」と息を飲む中。 「……誰が誰を人質に取るって?」  低い声が響いた。  荷車がミチリと音を立てる。その音と共に、荷車で立ち上がったのは、尼僧であった。立ち上がった彼女は、目が爛々と輝き、触れるとそのまま火傷しそうな美しさを醸し出していた。  全員が彼女の姿に呆気にとられる。まるで糸が切れたかのように崩れた彼女も比較的に小綺麗な女性であったが、彼女とは比べるまでもない……月とすっぽんという言葉がここまで似合うこともないほどであった。  しかし、爛々と輝くまなじりは、その場にいる男たちを見ると、「ちっ」と毒づきながら指を噛み切り、血を流しはじめた。  ぽたりぽたり、なんて生易しい流れ方ではなく、ダラララララ……と川のせせらぎのように流しはじめるから、さすがに男たちもぎょっとする。 「おい! 勝手に死ぬな! 商売に使うのに勝手に死ぬんじゃねえ!」 「誰が商売道具だ?」  尼僧はギロリと睨むと、血溜まりから指を上げた。途端に、血が彼女の動きに合わせて蠢いたのだ。血は網の形となったかと思ったら、たちどころに男たちを一網打尽にしてしまった。 「お、おい……! なんだこれ、なんだこれ……!」  たしかに血、それも固まってもいない血のはずなのに、血の網はもがけばもがくほど離れなくなり、捕まった男たちはがんじがらめになってしまい、互いをもつれさせたまま地面にベシャリと転がってしまった。  尼僧は淡々と言う。 「残念だったな。私の血は特別製だ。一度確保した獲物は逃がさず、獲物では外すことができんよ。せいぜい早く仲間に見つけてもらえ。ああ……そうそう」  尼僧は男たちに屈み込んだ。  彼らからしてみれば、彼女は異様な妖術使いであり、もうかかわりたくもない。彼らは歯をカチカチと鳴らした。  強い相手には媚びへつらい、弱い相手からは命も財産も搾取する。戦国時代の生き方は獣よりも生き汚い。 「この辺りに、人魚の噂はなかったか?」 「……はあ?」  予想外の質問に、男たちは困惑した。尼僧は淡々と語る。 「海からだいぶ離れてしまったし、もうすぐ伏見だ。さすがにこんな場所からは聞けぬとは思うんだがなあ……」 「し、知らねえ……! そもそも、あんたも、そいつも。いったいなんなんだ!?」  なお、崩れ落ちた彼女は相変わらず起き上がらなかった。尼僧は彼女のほうに視線を戻すと、彼女をひょいと持ち上げた。  男たちはそこで、違和感を覚えた。  いくら尼僧が妖術使いとはいえど、女ひとりを簡単に持ち上げられるものだろうかと。 「……関節部がばらばらだから、またどこかの技師に見てもらわねばならぬな。この辺りに村はあるか? お前たちがここで国境を守っているということは、集落はあるはずだが」 「……ここから南南西に歩いて半刻」  とうとう男のひとりがそう教えたのに「おいっ!」と男たちが彼を責める。 「あんな得体の知れない女が村に手え出したらどうすんだ!?」 「教えずにいるほうがもっとおそろしいだろうが!?」 「なにもせんよ。もう貴様らに興味はない。百合(ゆり)」  尼僧がそうしゃべった途端。今度は彼女が倒れた。代わりに、先程まで尼僧が抱えていた女がいきなり起き上がると、尼僧を抱きかかえる。そして尼僧を荷車に寝かしつけると、寝転がっている男たちに頭を下げる。 「教えてくださりありがとうございます。それでは、その先の村に寄らせていただきますね」  そう言ってからからと荷車を引いて立ち去ってしまった。  男たちからしてみれば、得体の知れない女たちのふたり旅で、呆気に取られるしかない。 「……女のふたり旅なんて、襲われ放題だと思ってたが」 「あんなおっかない女たち、身ぐるみが引っぺがされなかっただけよしと思ったほうがいい。特にあの尼僧なんて最悪じゃねえか。俺たちちっとも動けねえし」 「だがさあ、あの女」 「どっちだ!?」 「……あの尼僧を荷車に寝かせてた女だが。あの女、息してたか?」  男のひとりの言葉に、全員が黙り込んだ。  やたらと屈託なく丁寧な口調でしゃべる女に、慇懃無礼な態度を取る尼僧。自分たちは油断して妖怪変化を村に招き入れてしまったのではと、恐怖する。 「だ、誰か助けてえええええ!!」 「村を、かかあだけはどうか…………!!」  強い相手には媚びへつらい、弱い相手からは命も財産も搾取する。さりとて家族に対する情けだけはどうすることもできなかった。
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