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7.間違っていたとしてもまた
ばあちゃんより小さいそれが僕たちを指さす。
「おやまあ、今年初めて聞くねえ」
ばあちゃんはおっとりと言いながらこちらを見上げてくる。その線みたいな目に見つめられた瞬間、僕の中でなにかがすとん、と腑に落ちた。
「先輩、鳴きましょう」
「でも」
あれほどばあちゃんにおかえりと言いたいと願っていた先輩がたじろいでいるのがわかった。
「俺がモンタだってばあちゃんにはわからない。そんな俺が今更……」
「わからなくてもいいじゃないですか」
そうだ。わからなくてもいい。大事なのはそんなことじゃない。
「先輩はうれしいんだから。生きててくれて、まだ歩いていてくれて、すごくほっとしているんだから! その気持ちを声に出せるのは今だけなんだよ!」
先輩の語ってくれた過去は僕のものではない。僕自身に過去があったかどうか、僕には記憶がない。でも、僕には今がある。
「先輩はたまたま前のことを覚えてここに来たかもしれない。でも、次はわからない。望んでも次は訪れないかもしれない。だとしたら今、思っていることをちゃんと声に出しておかなきゃ!」
体を震わせ、僕は叫ぶ。
「僕は先輩に後悔してほしくない!」
僕の言葉に打たれたように、先輩が動きを止めた。次の瞬間。
先輩の声が高らかに朝の空気に溶けた。
高く、高く。青く抜けた空の先に燃える太陽のような熱さと、燃え尽きるからこその輝きを込めた声で先輩は鳴く。
地中で柔らかく僕に語り掛けてくれていたときの声とは違う、自分の体のすべてをかけて放たれたその声に引きずられるようにして、僕も歌っていた。
その声はもしかしたら少し、たどたどしかったかもしれない。
「おばあちゃん、あの蝉さんたち、声ちょっと変」
ばあちゃんが連れている小さいほうのニンゲンにも馬鹿にされてしまうくらいだから。
「ああ、まだ夏始まったばかりだからねえ。他の蝉さんより早く出てきて夏を教えてくれようと頑張っているのよ」
違うよ。ばあちゃん。
先輩が頑張っているのは、あなたに会いたかったからだよ。
心の痛みを必死に声に変換して歌うと、さらさらと揺れる風の中、声が聞こえた。
「いい声ねえ」
呟いていたのは、ばあちゃんだった。
ばあちゃん。
ばあちゃん。
先輩が鳴く。
大好きだよ。ばあちゃん。
その声に僕も合わせて鳴く。
先輩の声がどうか、ばあちゃんの心の奥底へ届きますように、と願いを込めて。
それから僕らは毎日、同じ場所で鳴いた。ばあちゃんと小さいニンゲンはそこを歩くことを日課にしているのか、笑い合いながら僕らの下を通り過ぎていった。
「なあ、お前はいいんだよ? 俺に付き合ってここで鳴く必要なんてない。お前はお前の行きたいところに行けばいい。伴侶、見つけないと」
先輩はそう言ったけれど、僕はここを離れるつもりはなかった。
確かに、僕たちがこの世界に生まれたのは、子孫を残すためだ。それを先輩が教えてくれた。
でも、そう定められていたとしても、必ず従わなければならないなんてことはきっとない。
「僕、楽しかったんです。先輩と土の中にいるとき。だから、最後まで楽しくいたいんです。それじゃあだめですか?」
生態系に背中を向けた行動だと自分だって理解している。
それでも今、僕がしたいことはこれなのだ。
朗らかに告げた僕の言葉に先輩は言葉を返してくれなかった。ただ、ばあちゃんを待つ顔に戻っただけだった。
「俺さ、すごく楽しかった」
ある日、いつものようにばあちゃんに声を投げ終えた先輩がそう言った。
「ばあちゃんには届いていなかったかもしれないけれど。それでもばあちゃんにまた会えて、幸せだった」
先輩の声は晴れ晴れとしていて、そのことが僕の心にも晴れ間をくれた気がした。
「先輩はじゃあもう、これで終わりで納得ですか?」
湿った夏の風が僕たちの間を流れていく。
柔らかい感触を全身で感じながら先輩に問うと、先輩は首を振った。
「いや……あと一回、生まれたいかな」
夕闇が迫ってくる。夏の指先を感じ取ろうとするかのように、木々がさわさわと葉を揺らす。
もっとばあちゃんといたいのだろうか、とかすかに胸を痛めた僕に向かって、風の中、先輩がひっそりと微笑むのがわかった。
「その一回で、今度は俺がお前を笑わせたいって思う」
僕にはわからない。生まれる意味なんて。
でもこの瞬間、ここに生まれてきてよかった、と強く思えた。
「楽しみです」
泣きそうになるのを隠し、僕は鳴き始める。先輩は少し笑って僕の声に合わせて歌ってくれた。
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