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2.犬
そのころ俺は犬だった。
もっとも自分が犬という種類の生き物であることを俺は知らなかったし、そもそも種類なんてどうでもよかった。
生まれてすぐニンゲンってやつに段ボール箱に入れられて川に流されたくらいなのだ。俺が元気でいることを望んでいるやつなんてこの世に存在しない。そんな俺が自分がどんな生き物かなんて知る必要があるか?
だが、俺の生は川で終わりにはならなかった。轟音を立てる水流に足を取られながら、俺が入った段ボール箱に手を伸ばしたやつがいたために。
「ああ、よかったあ……。やっぱりわんちゃんだったのね。こんなに濡れて……」
押し寄せる化け物みたいな水に体をふらつかせながら、俺を抱き上げたそいつはそう言って俺の頭を撫でた。
そいつは、ニンゲン、だった。俺を流したニンゲンと同じ形の、けれど、俺の知るニンゲンよりも一回り以上小さなやつだった。
なんだこいつ、と俺は歯を剥きだす。汚いものを摘み上げるように乱暴に温かい場所から引き剥がされ、涙ながらに鳴く声も無視されて、真っ暗な箱の中へ押し込まれたときの押しつぶされそうな心細さが、俺の中から怒りとなって湧き出した。
俺は声高く吠えたて身をよじり、そいつの手から逃げ出そうとした。けれどいくら暴れようともそいつは俺を離してはくれず、そのまま俺はそいつに連行された。
今度はなにをされるのだろうか。また箱に押し込まれてどこかへ投げ捨てられるのだろうか。ごうごうと耳を埋めた川音、いつなだれ込んでくるかもわからない真っ黒い水のぬらぬらした面、体温もろとも根こそぎ奪い取ろうとするかのように俺の毛並みに落ちてくる雨粒。次々と頭に蘇ってきたそれらに震えあがる俺を襲ったのは、予想外の感触だった。
俺の全身をすっぽりとくるんだのは……温かくふかふかとしたなにか。
そして。
「怖かったねえ。大丈夫大丈夫」
柔らかい声。
────くせえなあ。こいつどうするよ? 結局貰い手なんて見つからねえし。
────うちじゃ飼えないし。あんたどうにかしてきてよ。
────どうにかってなんだよ。俺やだぜ〜、血見るの。
────見えないとこにおいてくればいいでしょ。
投げつけられた声、声、声。
「風邪引かないように、ちゃんと拭かないとねえ」
同じニンゲンが発する声のはずなのに、俺をふかふかしたものでくるんだそいつからはこれまで投げつけられてきた声とはまったく違う色が感じられた。
気が付いたら……俺は泣いていた。
威嚇のためじゃなく、身体からダダ洩れるなにかを押しとどめておくことができなくて声を上げていた。
泣いて泣いてふかふかにますます身を摺り寄せる俺に、そいつは俺を包むふかふかと似た声で、
「頑張ったね」
と、言ってくれた。
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