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4.おかえり
けれど、ある日、俺は気づいた。
毎日毎日、おはよう、おかえり、おやすみ、そうばあちゃんに投げかけ続けていた俺の声が、少しずつ出なくなってきたことに。
出そうとはするのだ。ばあちゃんの足音が聞こえてすぐ言わなければ、ばあちゃんに俺の「おかえり」が届かない。だから必死に喉から声を絞り出そうとする。
なのに、漏れ落ちるのは掠れた、ひん、という色のない声ばかり。
俺の異常にいち早く気づいたばあちゃんは、俺を病院へ連れていった。針を刺されて、あちこちこねくり回されて、先生ってやつに牙をお見舞いしてやりたくなったけれど、俺にはもうそんな元気もなかった。
「喉にできものができちゃってるんだって。だからモンタ、いい子にしようね。鳴かないでいい。いい子にゆっくり休んで。ねえ」
俺を病院から連れ帰ったばあちゃんは、そう言って俺の頭を撫でる。
納得ができなかった。
俺はばあちゃんにおかえりを言いたいのだ。
もういないモンタにはできないことを、俺はしてあげたいのだ。
それができなかったら、俺に意味なんてあるだろうか。
冷たくて、怖かった、黒い水を思い出す。
俺は知っている。ばあちゃんの足があんまりちゃんと動かないことを。いつも右足を痛そうにちょっとだけ引きずっていることを。
にも関わらずばあちゃんは来てくれたのだ。大魚の群れみたいに迫って来る獰猛な水をかき分けて俺のそばに。
ずぶ濡れで、世界ってやつの冷淡さを水滴と同じくらい身にまとって震えていた俺に、大丈夫大丈夫、と笑ってくれた。
だから俺は、ばあちゃんのために鳴かなければならない。
喉のできものがなんだ。足がふらふらするからってなんだ。
俺しか鳴けないんだから。ばあちゃんのために俺しか。
毎日、俺は鳴き続けた。
鳴こうとすればするほど、喉は激しく痛んで、飯だって上手に呑み込めなくなったけれど、そんなことどうでも良かった。
居間の片隅、冬の白い光が満ちた場所で俺は耳をそばだてる。
ばあちゃんの足音が聞こえた。
ばあちゃんが俺のために敷いてくれているブランケットの上、俺は頭をもたげる。
立ち上がることは、できない。
目も、霞む。まあ、満足に飯を食えてないのだから仕方ないか。
だけど、俺はまだ、鳴ける。
大丈夫大丈夫。
ばあちゃんのくれる大丈夫をお守りに俺はつん、と鼻先を宙に向ける。
坂道をばあちゃんはゆっくりと上がってくる。見なくてもわかる。俺はもう何年もばあちゃんの足音に耳を澄ませ続けていたのだから。
足を引きずりながらやってきたばあちゃんが門扉をつと、開ける。
きい、と軋むその音に負けないように俺は舌に力を込める。
ばあちゃん。
おかえり。
俺は声を張り上げる。けれど、漏れて来る声は……やっぱり空気を掻きまわす程度のささやかな、ひん、だった。
これじゃあ届かない。ばあちゃんに聞こえないよ。
動かない体をもぞつかせながら、俺はもどかしく前足でブランケットを搔く。
ばあちゃんが刺繍してくれた、「MONTA」という文字が身をよじるようにくしゃくしゃと俺の下で乱れた。
前のモンタのためじゃなく、俺のためにばあちゃんが入れてくれた名前。
その名前をお腹の下で抱きしめ、俺はもう一度、鳴く。
おかえり。
ひん。
もう一度。
おかえり。
ひ、ん。
駄目だ。どうして。
どうして鳴けないのだろう。どうして、俺はばあちゃんに「おかえり」を言ってあげられないのだろう。
ばあちゃんは俺に「大丈夫」をくれたのに。
必死にもたげていた首が徐々に床に引かれて落ちていく。玄関へと向けていた鼻先がブランケットにできたしわの谷間へと吸い込まれていく。
瞼が重くて……開けていられない。
その俺を励ますように刻まれた「MONTA」が閉じた瞼をかいくぐり目の中へ滑り込んでくる。
MONTAに背中を押されるように、俺は舌を、動かす。
あと、一回。
おかえり。
うまく鳴けたかどうか、俺は、知らない。
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