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 当たり前といえば当たり前なのだが、殺人鬼にでも追われているかのように激しく動揺しているのは壱子だけで、世の中はごく自然に平穏な時を刻んでいる。  誰も壱子のことなんて見ていないし、なんの感想も抱いていない。 「あいつ、アルコールに流されて、仲の悪かった同期の男に股開いた、ユルユル女なんだぜー」なんて、もちろん言ってもいないし思ってもいないのだ。  ――気にしない、気にしない……。きっと誰にもバレてないんだから……。  おそるおそる職場の自席に着くと、壱子はほっと息を吐いた。その肩を、ぽんと叩かれる。 「おはよ、イチ。なんか朝から、ぐったりしてない?」  柏原 ゆいなである。ゆいなもまた、いつもと変わった様子はなかった。  なにもない風を装い――だがそれが逆にわざとらしい仕草になっているが、ともかく壱子は取り繕った。 「い、いやあ! 会社に来るだけで疲れちゃって!」 「分かるー。ほんと通勤、めんどくさいよね。うちもリモートワーク取り入れればいいのに~」  壱子から二つ離れた自分の席をごそごそ整理しながら、ゆいなはなにげない軽い口調で続けた。 「そういえばさ、金曜日、あのあとどうなったの? 綾瀬くんと二人でぎゃあぎゃあ叫びながら、居酒屋を出てったじゃない」  ――キタ。  壱子の呼吸が止まる。 「あっ、えーと……。まあ普通に、ケンカ別れしたよ。はは……」  きちんと従来どおり、問題なく答えられているだろうか。  壱子の背を、冷たい汗が伝っていく。 「まー、そうでしょーね。マジでいい加減にしなよ、あんたら。あ、そーだ。金曜日の飲み代、幹事の山田くんが立て替えてくれてるから、早く払いに行ったげな」 「えっ! さっそく行ってくる!」  ゆいなに背を向けて、壱子は一つ下のフロアへ、逃げるように向かった。  壱子がお礼とお詫びかたがた、立て替えてもらっていた同期会の参加費を差し出すと、山田はニヤニヤ笑いながらそれを受け取った。 「金曜日、大丈夫だった? イチもガクも、結構酔っ払ってたでしょ」  同期の山田はゆいなと違い、寄れば犬のように毛を逆立て、吠え合う壱子たちのことを、単純に面白がっているようだ。 「まあ、へーきだったよ……」  誤魔化すのも二回目だから、だいぶ落ち着いている――つもりだった。  だがしかし近づいてくる人影を認めて、壱子の全身に緊張が走る。 「おいっす。山田、金曜日の金、払っといてくれたんだって? 悪かったな」 「おっ、噂をすれば、だな!」  ――綾瀬 岳登だ。  現れたと同時に岳登は、手にした自分の財布から札を数枚抜くと、山田に押しつけた。 「ちょうど話してたんだよ。二人で消えたあと、おまえ、イチのこと襲ったりしてねーよな?」 「するか、アホ」  岳登はぶっきらぼうに受け答えしつつも、近くにいる壱子のことをちらりとも見ず、切れ長の目を伏せている。  常ならば、必ず一睨みしてくるのに。余計、不自然だ。  ――やっぱり金曜日のアレは、本当に本当に、やっちまったことなんだ……!  未練がましく抱いていた「もしかしたらアレは夢だったんじゃないか、幻だったんじゃないか」という壱子の一縷の望みは、こうして打ち砕かれてしまった。 「じゃ、じゃあ、私、行くね。山田くん、ありがとう!」  火でも噴きそうなほど熱くなった頬を押さえながら、壱子は男二人を残し、足早にその場を去った。  自分たちの間に起きたふしだらな事案を、実はみんな知っているんじゃないか。  影で蔑み、笑っているんじゃないだろうか。  当初はそのような被害妄想を抱いていた壱子も、日が経つにつれ、冷静さを取り戻していった。  ――私と岳登が寝たことなんて、やっぱり誰も知らないんだ。  ならば自分もとっとと忘れてしまうべきだ。  そう思うのだが――。  業務の合間、ふとしたときに、壱子は岳登を探してしまう。  壱子の席から二つ隣の島に、岳登はいて、日々仕事に励んでいるのだが。  ――あんな声、出すんだなあ……。  黙々と業務に就く岳登を目の端で捉えながら、壱子は邪な思い出に浸った。  あの夜、ホテルでもつれ合って、ベッドに転がってからの――声、表情、匂い。  普段はただただ小憎らしいだけのくせに、あのときの岳登の様相は全く異なっていた。  ほのかに上気した頬。白い歯が覗く唇から、低く掠れた息を吐いて――。  ――よく見れば、あいつ、まあまあかっこいいんだよね……。  俳優並みとまではいかないが、顔立ちは整っているほうだ。身だしなみにもこだわるたちらしく、いつもきっちりアイロンのかかったシワひとつないシャツを着て、毎日違うネクタイを締めている。靴だってピカピカだ。  ――抱き締められたときは、整髪料かシェービングフォームか、メンソールのいい匂いがしたっけ――。 「うー……」  壱子はそっと唸った。  忘れ去るべき記憶だと分かっているのに。  その意志に抗うように、あの夜の岳登の仕草や表情のひとつひとつが鮮明に蘇ってきて、どうしていいか分からなかった。  誤魔化すかのように頬杖をつく。手のひらにふれた顔は熱かった。  あんなに嫌な奴だと思っていたのに、一回ヤっただけでコロッと「イケメンじゃん?」などと宗旨替えするなんて、どんだけ尻軽なのだろうか。自己嫌悪に襲われる。  ――だいたい、なんであいつ、私にだけ辛辣なんだよお!  岳登は別に女嫌いというわけでもなさそうで、柏原 ゆいなを始め、ほかの女性の同僚には、紳士的で親切なのだ。だから女子の間では人気が高い。なのに壱子にだけは、なぜか前世の仇とばかりに、敵意剥き出しに接してくるのだ。 『私、なんかしましたあ!?』  壱子は岳登本人にそう質したこともある。  返ってきた答えは、「おまえこそ、なんで俺にだけ噛みつくんだよ!」だった。  つまり、お互い様。――相性の問題、なのだろうか。  しかし今や二人の関係は急激に変わってしまった。  壱子もそうだが、岳登もまた頻繁に、壱子に視線を投げてくるのだ。  そう、今もまた目が合う。  ――なによー……。  なにか言いたげに、岳登が自分の顔を見詰めている。壱子はそれが嫌ではなく、むしろ嬉しい。  こうして二人は日に何度も、じっとりと熱く目と目で語り合うのだった。  そんなことをしているうちに、一週間があっという間に過ぎた。  ――再び、金曜日がやってくる。  先週開かれたばかりの同期会のことが、壱子には遠く感じた。 「あ、課長、すみません。今日、私、残業します」  まとめなければいけないデータが、だいぶ溜まってしまっている。  壱子の残業の申請は、特に問題なく通った。近くにいた柏原 ゆいなが、手伝いを申し出る。 「半分やろうか?」 「いいよいいよ。三十分もかからないだろうし。早く帰って、ダーリンにご飯作ってあげて」 「そっちはいいんだ。今日はダーリンがご飯当番ですので」 「あらまー、それはそれはいーですわねー。でもこっちは本当に大丈夫だよ。ありがとね」  軽口を交わし合ったのち、ゆいなは帰っていった。  定時退社を推奨されている壱子たちの会社では、終業時刻の十八時を過ぎると、オフィスからはほぼ人影が消える。 「さてと……。あれ? これ、フリー回答が多いな……」  壱子が取り掛かっているのは顧客アンケートの集計だが、内容を改めて見てみれば、自由記述のものがほとんどだった。「はい」「いいえ」で答えるのではなく、「ご意見をお寄せください」という形式のものだ。しかも書かれていた回答は、長文ばかりである。 「これ、入力に時間かかるなー。でもお客様の貴重なご意見ですから、ありがたく頂戴致しましょう……」  壱子が頭をかきながら作業を進めていると、隣の席に誰かがどっかりと腰を下ろした。  隣席の同僚は既に退社している。不思議に思った壱子がそちらに顔を向ければ、綾瀬 岳登が不機嫌そうに座っていた。 「ガク!?」 「一緒に帰ろうと思ったんだが。――貸せよ」  壱子からアンケートの束を奪うと、岳登は近くのペン立てから赤ペンを引っこ抜いた。 「俺が適当に赤入れてやるから、おまえは入力していけ」  自由書式による回答は誤字脱字や難解文も多く、それらの意を汲み取りつつ直していくのは、割合時間がかかるのだ。 「え、うん……。ありがと」 「……………………」  壱子の礼には反応せず、岳登は黙々とペンを動かしている。  こうして岳登のサポートのおかげで、壱子の残業は当初の見込みどおり三十分で終わったのだった。  会社を出て、外灯の点き始めた往来を連れ立って歩く。  壱子と岳登は、顔を突き合わせれば小競り合いばかりしていたから、もちろん二人きりで帰るなんてことは、これまで一度としてなかった。  それなのに、今日はどうして――。  落ち着かない気分で、しかし素直に岳登の隣にいる自分が、壱子は我ながら不思議だった。 「まっすぐ帰るの?」 「いや」 「じゃあ、どこ行くの?」 「――渋谷」  岳登の口数が少ないのは、機嫌が悪いというよりは、緊張しているからのようだ。それが伝わってきて、壱子の動きもギクシャクする。  岳登が目的地に上げた「渋谷」は、先週、同期会があった場所だ。  会社から二十分ほど歩けば、会場に使った飲み屋があり、そこから更に五分も歩けば、二人がなだれ込んだラブホテルがあって――。  ほとんど会話もせずに辿り着いたそこは、やはりこの間、壱子たちが突撃したホテルだった。 「……………」  なんとなく予感はあったが、このまま入っていいものかどうか。  ――いや、ダメだろう。  壱子と岳登は、そういう関係ではないのだから。  ホテルの、見覚えのある入り口の手前で、壱子はぴたりと足を止めた。先に進んでいた岳登に、腕を引っ張られる。 「ちょ、ちょっと……!」  壱子は足に力を入れ、踏み留まった。すると岳登は急に、プッと吹き出した。 「な、なに!?」 「いや、なんか、実家の犬を思い出して。散歩から帰って家に入ろうとすると、『嫌だ、もっと外にいたい』って、うちの犬、そうやって足を踏ん張ってたな、と」 「犬って……」  呑気な思い出話をされて、壱子は脱力する。  空気が緩んだところで、岳登はおずおずと切り出した。いつものような傲慢さはなく、随分と遠慮がちだ。 「ええと……。入らないか……?」 「……………………いいよ」  長い沈黙ののち、壱子は頷いた。  本当は壱子も、なんとなくそんな予感がしていたのだ。  同期会終了後、明けて週初めの月曜日から、金曜日の今日まで。岳登と、我ながら鬱陶しくなるほど見詰め合って――。  きっと、こうなるんじゃないか、と。
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