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世の中はヘイトや下世話な好奇心に満ちていて、油断すればすぐに、路上に吐き捨てられたガムみたいなそいつらを大事なものにへばりつかせてしまう。
どうしてもそれが嫌なんだ。手垢の一つもつけたくなくて、誰の目にも触れないところにしまっておきたいんだ。
世界にたったひとつのたからものみたいに。
「……秀のくせに、生意気だ」
こぼれ落ちそうな水滴をどうにか飲み下して、ようやく絞り出した俺のジャイアニズム溢れる一言は、なぜか秀をにやにやと喜ばせただけだった。
あいつは俺が怒る理由を、世間に恥じているからだと思っている。そうじゃない。そうじゃないんだと、俺は伝えなければならない、今すぐに。
あいつの出勤は、今日は午後からのはずだ。ひとつ息をついて、俺はソファから立ち上がった。
「俺、もう帰るわ。野暮用思い出した」
「おーどうぞどうぞ」
昨日はほんとありがとな、野暮用がんばれよ、と相変わらずお人好し全開の笑顔で秀が俺の背中を押した。
玄関に向かう俺を見送りながら、「どんな子なんだろうな、会ってみたいなあ」と聞こえよがしに秀が呟く。実際に会ったら腰が抜けるほど驚くだろう。想像して笑った。笑うことができた。
今はまだ、準備はできていない。それでもきっと遠からず、そんな日が来る予感があった。
「……お前が結婚相手を連れてきたら、そんときは会わせてやるよ」
「フラれたばっかの人間に、それ、言うー?あと十年くらいはかかりそうなんだけど」
盛大な顰めっ面でぼやいた後で、秀はニヤリと笑った。
「それまで続いてるんだろうな?」
「多分な」
どんなに遠くに投げても落としても、いつのまにか手戻りしている。帰巣本能が強すぎるこの感情は、手放すこと自体諦めた方がいい。
ドアを開ければ、外のあかるさに目が眩んだ。夏は盛りを過ぎても、日差しの強さはまだまだ健在だ。日光を浴びた吸血鬼のような二日酔いの男の呻き声を背中に受けながら、一歩を踏み出す。ふと見上げた青空に、舞い飛ぶ雪片の幻を見た。
真夏に雪は降らない。今までも、これからも。だから今、希うのは俺と奴の間に降り積もる時間だ。しんしんと、時には吹雪きながら層をなし、やがて青く透き通ったうつくしい万年雪に変わる。それを見たいのだと、そう伝えるために俺は歩き出した。
終
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