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シャツの前側をびしょぬれにした俺に、バーテンダーが気の毒そうな顔で布巾を差し出す。ありがたく受け取ると、カウンターの並びで『こっちにも貸してくれる?』という男の声がした。振り向けば、そこには何度かこの店で見かけたことのある客が女連れで座っていて、受け取った布巾を連れの女に渡していた。
おや、と思ったのはその男性客はお仲間だという認識を持っていたからだ。しかも俺と同じく、不特定の相手と交遊するタイプ。女を連れているのは初めて見た。
『すみません、そっちまでかかっちゃいましたか』と詫びると、『いえ、大丈夫です』と連れの女の方から返事があった。
さらりと長い黒髪が揺れ、濃いめのメイクが施された切れ長の目がこちらを見る。『少し飛沫が飛んだだけですから』と続けるその声のトーンは少し低く、ひっそりとしていた。
『ナオ、女の子連れてくるなんて珍しいじゃない。宗旨替えした?』
『違うよ、親戚の子。妹みたいなもん』
『ナオの親戚って言ったら、お嬢様じゃないの。こんなとこ連れてきていいの?』
『自分の店をこんなとこって言うなよ。今日は社会勉強』
マスターと“ナオ”のカウンター越しの会話を聞くともなしに聞きながら、俺がちらりと女に目をやると、にこりともせずに鮮やかな色をしたカクテルの最後の一口を飲み干すところだった。お嬢様ね。なるほど、まっすぐ背筋の伸びた姿勢も、空けたグラスをコースターに戻す所作も、きれいなものだった。俺と言葉を交わしたのは、その一度きり。
彼女をバーで見かけることはその後も何度かあった。一人で来ることもあれば、“ナオ”といるときも、別の男と一緒にいることもあった。知り合いとも呼べない、顔見知り程度の存在。店ですれ違ったとて挨拶をするわけでもなく、あ、いるな、と思うだけ。思い返せばしばらく見かけていないが、いつが最後だったかも覚えていない。ただ、不思議と俺の中に残っていたその残像が――目の前の女の子に重なった。
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