34話

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 椅子はまだあった。にも関わらず対等に座れず床に膝をついた利津に美玖はこらえきれず天を仰ぎ笑った。 「あはははっ!かーわいい。そう、そうよね。よくわかっているじゃない」  利津は拳を握り俯いた。だが美玖は許さず、利津の顎に靴の先を当ててクイッと上を向かせ視線を交えさせた。利津と同色の目が細くなり、真っ赤な唇が歪んで弧を描き微笑む。圧倒的支配者の視線に利津の息が止まった。 「あなたが5、6歳の頃のこと覚えている?私と初めて会った日。あなたは私との婚約が嫌で逃げ出した。わかっていたのよね?あの時にはもう。私があなたより上等だって。私が本当の始祖に最も近い存在だってことを!」  金切声に似た女の声だけが部屋の中で響く。利津の額から大粒の汗が溢れていき利津はただただ美玖を見上げ、かろうじて動く指先は自分の手のひらに爪を食い込ませることしかできず、逃げることも立ち向かうことも許されない。  美玖は変わらず微笑んだまま椅子から立ち上がると這いつくばる利津の前にしゃがみ、そっと利津の頬に手を這わせた。ぞぞっと何かが這うような感覚に利津は更に爪を肌に食い込ませた。残る理性を保とうと小さく抵抗したがすぐにそれは瓦解することになる。 「私に噛みつかれたい?それとも噛みつきたい?」 「っ……」  甘い誘惑。利津の咥内がじわっと濡れ、ひゅっと冷たい空気が肺いっぱいに入り込む。バクバクと心臓の音が頭の中に響き周りの音は聞こえない。ただキーンと言う耳鳴りだけが鳴り利津は思考することをやめてしまった。 ――噛まれたい、噛まれたい、噛みつきたい。   「あぁ……怖いわよね。大丈夫。あなたは私と結婚しても久木野の公爵として軍でも威張り散らしたらいい。……でも、わかってるわよね?私が始祖であなたはただの真祖。しっかり私のためだけに働きなさい」  美玖の指先が利津の薄い唇をなぞる。利津の牙が美玖の指先に当たれば思考を奪われた利津は抗うことなく欲のままに噛みつき、そして美玖も利津に噛みつくだろう。そうすればあっという間に主人と眷属の関係は成立する。  美玖に命ぜられることもなく利津は荒くなる呼吸のせいで自然と口を開こうとした。
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