プロローグ

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プロローグ

 目を開けた。  開けたはず。  何度か瞬きを繰り返したけれど、眼前は黒の闇に覆われたまま。  ここは、どこだろう?  自分が何者なのかは覚えている。記憶をなくしてしまったわけではない。  しかしこの場所に覚えがない。  得体の知れない所にいる理由も、どうやって来たのかも分からない。  右手を自分の顔に近づけ、軽く振ってみた。  押される空気の流れで、手のひらが動いていると分かった。  大丈夫。感覚は生きている。物理法則も健在。  最大の問題は、この暗闇だ。一寸先も見えない。どうしたものか、と考える。  ひとまず、上半身に力を入れて跳ね起きた。次いで、闇雲に腕を伸ばし、振り回してみる。  右へ、左へ、そして上へ。  どこへ振っても虚しく空を切る。手の届く範囲には何もないらしい。  唯一触れられたのは下、自分が横になっていた床だけが例外。  ひんやりと冷たく、凹凸のない、水平の床。  そこから這い上がってくる冷気に、思わず身震いが起きる。  それから逃れるように、私は立ち上がった。  周囲は異常なまでに静まり返っており、自分の息遣いが、やけに大きく聞こえる。  私は意を決し、両手を真っ直ぐ前方へ突き出して、ゆっくりと歩き始めた。  もしかしたら、床に大穴が開いているかもしれない。  もしかしたら、進んでいる方向の終着点は、はるか遠くかもしれない。  もしかしたら、闇の中で何者かが息を潜め、襲いかかる隙を伺っているかもしれない。  そんなとりとめのない想像達が頭をよぎる。不安に急き立てられながら、それでも進む。  意外にあっさりと、伸ばした手は何かに触れた。  撫でてみると、床と同じく、冷たくて凹凸のない、滑らかな手触りの壁だった。  両手で壁を撫でてみてから進行方向を決め、そちらへ歩き出す。  ドアノブや窓を期待し、可能な限り腕を動かして、壁を広く撫でてみるけれど、それらしき物には触れられない。  再び不安が膨らんでいく。  正直、目を覚ました瞬間、現状は夢だ、と考えた。  混乱は束の間の出来事であり、曖昧な演出がぶつ切りに展開され、気づけば目を覚ましていて、あっという間に日常へと回帰する。所詮は予定調和、そんな楽観をしていた。  それが、どうだろう?  壁に触れた手のひらから伝わる、この無機物特有の無慈悲な冷たさと、先程から募り続ける、心の背を押すような焦燥感は、妙にリアルではないか。  恐ろしい、と感じた。  この状況が、この場所が、こんな所で寝ていた自分が、展望の細さが、実に恐ろしい。  急いて加速する歩調を制するでもなく、勢い任せに壁を伝い、救いを求めて進み続ける。  ほどなくして、次の壁が現れる。危うくぶつかるところだった。  そこから左方向へ曲がり、歩き進めて、また壁が現れる。  感覚が正しければ、ぐるりと一周してしまった。どうやらここは、部屋の中らしい。  居室の基本である窓や扉は見当たらず、倉庫や体育館によく採用される、天井付近の採光窓や、足元付近の採光スリットなどもない。陽の光や月の明かりが確認できない。一切の音が聞こえてこない。そのため、外の様子を窺い知ることができない。  コンクリート製と思しき硬質の壁には、額縁やカレンダなどの掛け物もなさそう。この空間に対して、私は殺風景な印象を抱いた。  壁に背を付け、溜息。  さて、どうする?  どうせ見えないのだからと閉じていた目を開けて、次の手を考え始めようとして、気づいた。  あれは、なに?  先程、恐る恐る歩き出し、この部屋を一周した際には絶対になかったと断言できる物体が、自分が背にしている壁から丁度反対の壁付近に出現していた。  あんなもの、さっきはなかった。見落としていたなんて、考えづらいけど。  私は首を傾げつつ、慎重に近づき、目を凝らして、それの全体を把握しようと試みる。  それは、洋服箪笥のようだった。  デザインは西洋風で、扉が両開きに開閉する造りのよう。全体的に黒塗りで、縁や取っ手の部分だけが金あるいは銀のような金属製。限界まで目を近づけると、彫り込みによる装飾が施されていると分かった。こうした家具には詳しくないけれど、一見して高級そうに映ったため、この部屋にはミスマッチ、こうして鎮座しているだけで、異質に感じられた。  次の疑問がわく。  何故、割と細部に至るまで、この箪笥を観察できているのか?  後ろを振り返ってみると、先程と変わらず、濃い闇が広がっている。  ここが狭い部屋の中だと認識し、多少、目が慣れてきたのだとしても尚、反対側の壁を目視することすら叶わない。それほどの闇が変わりなく満ちている。  視線を箪笥に戻す。  やはり、おかしい。  箪笥の周りだけ、やや明るい。ぼんやりとした光を帯びている、そんなふうに感じられた。  箪笥の後ろから光が漏れているのかと思い、壁と本体の隙間を覗いてみたが、そういうわけでもない。  残る光源の可能性は、この箪笥の中、あるいはこの箪笥自体ということになる。  おかしな現象だ。どういうことだろう。どういった現象あるいは仕組みによるものか?  疑問に感じたならば、それこそ確かめてみればいい。方法は、とても簡単。  箪笥の扉を開けるだけでいい。両方の取っ手を持ち、左右に引くだけ。 でも、それだけのことが、だったそれだけのことが、躊躇われた。  理由を上手く説明できない。  こんなことがあるだろうか。  嫌な予感? 本能の警告か。  曖昧過ぎて、我ながら呆れてしまう。  どうするべきか、しばしの間、箪笥の前で逡巡した。  迷いに迷った末、やめておくことにした。  もう少し部屋を調べてみて、それでも手詰まりと観念したなら、その時に開けても遅くはない。  そう結論づけた私は、箪笥の取っ手に手をかけた。  瞬間、背筋に悪寒が走った。  どうして……?  取っ手を掴んでいる右腕に鳥肌が立ち、自分の両脚が震え始めたのを自覚。  私は、開けない、という選択をしたはず。  それなのに、自分の身体が、相反する行動を取った。  何が起きているの? 訳が分からない。  混乱していると、今度は頭の中で声がした。  これで正しかったのではないか?  そんな根拠のない言葉が、私の者ではない思考が、急速に脳内で広がり始める。  制御しようとしたけど、止められない。  頭の中で、別の誰かが好き勝手に喋っているみたい。  こんな経験は初めてのことで、抵抗の仕方が分からなかった。どうすれば止められるのかも、どうしてこんなことが起きているのかも、分からない。  言葉が、声が、思考が、私の感情を、私の抵抗を、私自身を、侵食していく。  長らく、この箪笥を探していた。  この場所を探していた。  見つけ出すことが目標だった。  あとは扉を開くだけ。  それだけで救われる。  錯覚だ、と否定する。  箪笥の中身に用がある? 違う。そんなはずがない。  こんな箪笥なんて探したこともない。この場所にも覚えはない。中に何が入っているのかなんて知らないし、興味もない。知りたくない。見たくない。  自分には関係ないことだから、早く、この場を去りたい。  去りたい? 解放されたい? ここから去るの?  それが貴女の望み? 本当に?  何からの開放を望んでいる?  どこからか問われ、問われたその中身に、躊躇う。  囚われている? 私が? 逃げ出したい? 何処へ? 解放されたい? 何から?  数度の瞬き。  幻想の対話。  新たな恐怖。  取っ手を掴んでいるはずの自分の右手、そこから肩に至るまで、腕の感覚がない。  自分の呼吸が荒くなっていく。  この状況は絶対に良くない。  もっと悪化する。  そうに違いない。  左手を見る。  左手が、あるべき場所にない。  視線を走らせると、私の身体から左腕が伸びて、もう片方の取っ手を掴んでいた。  いつの間に掴んだ?  理解できない。  理屈に合わない。  呼吸が苦しくなってくる。思うように息ができない。  何らかの見えない力に引き寄せられ、操られている?  そうとしか考えられない。  現実的ではない。  そもそも、現実かどうかも分からない。  駄目だ。正気を保っていられない。今の自分が正気かどうかも自信がない。  私は既に狂っている?  息が苦しい。  目の前が霞んできた。  だけど、目を瞑れない。瞼が動かせない。  早く気を失ってしまいたい、と思った。  箪笥を見つけた瞬間に、踵を返して逃げるべきだった。  暗くて狭いこの部屋に、逃げ場なんてなかったかもしれない。  それでも、どうにか、どこかへと、逃げるべきだったのだ。  ガチャリ。  音がした。  箪笥の戸が、ゆっくりと開く。  私の意思ではない、私自身の手によって。  開かれた。  最悪だ。  私は悔いた。  好奇心に従い、箪笥に近づいたことを。  触れたことを、突如として現れた謎の物体に対して警戒を怠ったことを。  異質な空間で、無闇に動き回ったことを。  起き上がったことを。  目を開けたことを。  遡り、遡り、遡り、記憶の全てを悔いた。  そしてついには、生まれたことを悔いた。  私の意思は、もう存在していない。  別の、何者かの、強い意志だけが。  思惑あるいは悪戯が、私を操って。  周囲の暗闇よりも暗い、箪笥の中。  その奥から、こちらを覗くものが。  私の目に映ったそれを、私は視た。  それを見た私は、私だったろうか?
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