第一章 同好の士

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

第一章 同好の士

 スマートフォンのアラ―ムで、僕は飛び起きた。  うなされていた気がする。不愉快で、腑に落ちない、そんな夢の中でもがいていた。  ぼんやりとした頭で、できるだけ思い出してみようと試みる。もう一度頭の中で、精査や吟味をしてみたかった。  でも、夢は既に霞と消えてしまったらしく、手繰り寄せられそうにない。よくあることだ。今回に限らず、先をまだ見たい、見せて欲しいと乞いたくなるような夢ほど、消化不良のまま何処かへと逃げてしまうもの。  アラ―ムが鳴りっぱなしなことに気づき、手を伸ばしてそれを止める。  時刻を確認。午前七時。画面には、今日はまだ平日の金曜日だ、と表示されているので、不本意ながら起き出して、学校へ行く準備を始めなければならない。  低血圧に起因する脱力で制御感度の鈍い身体をどうにか叱咤し、布団を押し退け立ち上がる。ふらふらとした足取りで自室を出てキッチンに立ち、コーヒーメーカにフィルタと粉をセット。起動ボタンを押す。制服に着替え、教科書とノ―トで膨れた鞄、二つ折り財布、スマ―トフォンを自室から持ち出したところで、コ―ヒ―ができあがった。  準備した荷物をリビングの机上へ並べ置き、マグカップにコ―ヒ―を注ぐ。  すぐには手をつけず、スマ―トフォンを操作して各項目をチェック。  連絡メッセージなし。アプリの更新なし。バッテリ―残量問題なし。簡易天気予報では、今日はずっと快晴らしい。  そこからネットを経由して時事ニュースを読む。更新されたばかりの三件ほどにざっと目を通してようやく、マグカップを手に取り、コ―ヒ―に口をつけた。  カフェインが吸収され、幾分か意識が鮮明となる。実際には、これほどの速度で飲料成分が吸収されることなどないので、プラシ―ボ効果といえる。それでも無いよりは断然良い。  スマ―トフォンに表示された時刻に目が留まる。  午前七時五十分。  七時、五十分、である。  どうにもおかしい。平日という限定された条件下においては、時間の並進対称性に破れが生じているのではないか、と疑ってしまう。  飲み切れていないコ―ヒ―をそのままに、貴重品を身に付けて椅子から立ち上がり、鞄を手に玄関へ向う。  靴を履いて外に出た。マンションの共用通路には爽やかな風が流れており、それに反応してか、くしゃみが出た。本格的に花粉の舞う季節である。  高校入学から丁度ひと月が経った。  新しいことばかりの季節。個人も、社会も、忙しく、騒がしい時期。国内は暖かで、漠然とした新鮮さと、わくわくする気分が、自分の外側から吹き込むようにやってくる、これを季語では春と呼ぶ。目と鼻を壊してしまう花粉症さえなかったら、僕は、春が好きだ、と素直に言えただろう。  階段を使って一階まで下り、ポストに何も入っていないことを確認してから、いつもの通学路に入った。  鉄筋コンクリート造のマンション、木造アパ―ト、クッキーカットな一軒家が混在する住宅街を抜け、石畳の歩道を進むと、コンビニや飲食店、ドラッグストアなどが顔を出し始める。さらに進むと、娯楽施設が左右に並ぶ、広いアーケード街に行き着く。この区画を真っ直ぐ突っ切った後、緩やかではあるけれど、それなりの長さで存在を主張する坂と、桜並木が特徴的な道へと入り、無事登り切れば、僕の通う高校に到着する。自室のあるマンションから徒歩でかかる時間は約二十分。お腹でも壊さない限り、遅刻するようなことはまずない。  道中、昼食を買うためにコンビニへ立ち寄った。  一応、高校の校内にも文房具やパンなどを販売している、ごく一般的な購買というものが存在する。しかし昼休みになると、そこは食物連鎖の頂点を競うかの如く修羅と化した生徒達で溢れ返り、まさしく戦場の様相を呈すため、昼休みの時間を穏やかに過ごしたい僕としては利用する気になれない。そのため、こうして事前に昼食を確保しておくのである。  唐揚げ弁当とペットボトルのお茶をレジへ持って行き、会計をしてもらう。 店内には、同校の生徒が何人も見受けられる。彼ら彼女らも、昼休みの戦争には参加したくない平和主義者なのだろう。僕は一方的に親近感を覚えた。  買い物を終え、コンビニの外へ出て外気に触れた途端、再びくしゃみが出る。スマ―トフォンで時間を確認してから、坂道を登り始める。傾斜は緩やかなため、進む辛さを感じることはない。夏場になっても、多少汗ばむぐらいで済むだろう。  歩道の道幅は広く、対してすぐ横の車道は二車線。これが高校の校門前へと続いている。坂の上にあるものといえば、校舎とそれに付随する建物、やや規模の大きいグラウンドで、その奥はもう山だ。山の麓に残る民家はごく少数なので、車の往来は非常に少ない。この時間帯であれば、坂を登る車の運転手そのほとんどが教員である。  同じ制服を着た、同じ高校の生徒と共に、ぞろぞろと坂を登って行く。  平和で見慣れた、いつもの光景。そう思っていた。  少なくとも、ここまでは、いつも通りの朝だった。  ふと、見慣れないものが視界の端に映った。  生徒達の集団の中、妙な位置から、手と頭が見え隠れしている。  あれは、どうなっているのだろう?  初めのうちは、生徒が友人とじゃれているのだと思った。  何故なら、人間の頭や胴体は通常、高い位置にあり、手足は規則性を持って揺れ動くのが道理。例外的な現象、たとえば人体の基本構造とは異なる位置で、人体の特定部位が不規則かつ破滅的な稼働を見せるなど、そんな状況に対して納得のいく説明など、生徒同士のおふざけか、転倒した、転倒しそう、くらいしか思いつかない。そうでなければ、日常生活に支障をきたす度合の怪我を負っていることになってしまう。  その不可解な対象との距離が縮まるにつれ、しかし、それは一人で歩いており、周囲にじゃれている相手などいないことが分かった。  いや、それ以前の問題だった。  一言で言い表すなら、それは捻じれていた。  胴体は背骨の稼働領域を超えて捻じ曲がり、胸部が天を向いている。絞った雑巾のようなさま。両脚はどう見ても両膝関節が骨折しているとしか思えない、安定性を欠いた挙動をしている。糸で吊った人形を人の手で歩いているかのように動かすと、丁度似たような再現を行うことができるだろう。両腕はだらりと垂れ下がり、妙に伸びて見える。おそらく肩が外れてしまっているのではないか。さらに、手首から先は反転しており、そのくせ両手の十指は絶え間なく動き続けている。身体の基礎部分の破滅的な状態との対比その差異が、不気味さを加速させる。最も致命的な損傷であると推察できるのは、やはり頭部とそれを繋ぐ頸椎部分で、首は骨が折れているかのようにぶらんと垂れ下がり、歩を進めるたび、左右に小さく揺れる。首の皮膚組織だけで繋ぎ止められているさまは、さながら樹から落ちそうな果実である。  一見して異常と分かる、意味不明で、相応しい説明など付け難い光景。  目の前の光景を素直に受け入れられない。自然ではない不自然さ、理屈にも合わない非現実性を唐突に突きつけられたことで、僕の頭は判然としない。超速の多重処理がにより熱暴走を起しそうになる。  眼前の物の怪、死に体としか思えない様相は、まさに異形の者。  そいつの外見を一通り観察し終えた僕は、とにかく考える。  何故、あのようなことになっているのか?  これは、現実の出来事なのか?  要約すれば、この瞬間における主な疑問は、この二点。  どう見ても、どう考えても、尋常ではない。あの外見も、この状況も、完全に常識の範疇を超えている。  目の前の光景を即座に現実だと認識できなかったためか、僕の脳は、かえって冷静だった。飛び込んできた光景と、リアリティの欠如、そのギャップ処理で悲鳴を上げているくせに、素直に慌てふためくことすらできないとは皮肉なことである。  このような化け物が突然現れた場合、どう反応するのが正解だったろう? 想像するに、大半の人間は、素直に取り乱せるはず。  大声を上げ、助けを乞いながら喚き、対象の存在そのものを否定し、自身の置かれた状況から脱しようとする。  僕が見ているこれを、僕だけでなく、例えば集団で認識した場合などは、より悲惨なことになるだろう。個人のパニックは連鎖を始め、その反応は集団を取り込めるほどに肥大化する。いち集団の規模を過ぎれば当然、範囲は拡大し、混乱の波紋はより大きなものへと変わる。もはや収束不可能な集団ヒステリ―と化し、訪れるのは、異形の姿をしたそれ一つが存在している方がマシだった、と断じてしまうほどの混沌であると想像できる。  だが、それが、知性を有する人間として、ごく当たり前の反応だとも評価できる。  未知との遭遇は、その先に起こりえる惨劇を予感させる。そういった想像力こそが人間の武器であり、また、本能にのみ従い、生きている動物と一線を画す部分でもある。  そんな人間らしい反応を、僕は取ることができなかった。  取り損ねたというべきか、元々そういった回路が上手く機能していなかったことに起因する、現実と脳機能との接触不良とでも言えば適当か。要因はどうあれ、回避という逃走因子は上手く伝わらず、鈍麻した感覚にのみ支配されている。申し訳程度の代替反応として、思考を巡らせ、理屈を構築し、想像上の他者達とは別の形で現実からの逃避を試行しているのが現段階。  混乱は、確かに自分の中にもある。間違いなく。けれど、露骨に取り乱すことはせず、いかにも中途半端な状態で、観察と可能性の精査を続けている。それが、自分に対して診断を行った結論であり、客観的に見た、今の自分の立ち位置である。  では、どのようにしてか、まったく不明である、前方を歩く異形の者の立場はどうか?  こちらの主観だけで断じてしまえば、どうして活動していられるのか不思議だ。  人間が人間らしく活動する都合上、生きていられる基準として、人体構造の整合性は大前提である。可動域を超えた関節の挙動は許されず、そこに収まっているべき内臓群、身体の軸として芯に居してもらわなくては困る背骨と首、その他あらゆる骨格と、垂れ下がって遊んでいてもらっては困る頭部など、それぞれに持ち場があり、あるべくして定められたあるべき箇所が、守るべき【人間】という生物としての規範が、存在する。  それらを、目の前の者は振り切ってしまっている。  ことごとく、すべからく、あらゆる観点において、とっくのとうに手遅れなのだ。  それにも関わらず動いている。歩いている。おそらくではあるけれど生きている。  もしかすれば息絶える間際なのかもしれないけれど、それにしたって異様ではないか。少なくとも僕の知る限り、齢十五の未成年で未成熟な学生のにわかな医学知識に基づいて言わせてもらえるならば、あのような状態のまま歩き、坂道を上がり、周囲の生徒達と共に登校しているかのような振る舞い、虚勢の行進など、あり得るはずがない。  そう、そこもおかしい。  遅れて気づいた。やはり、異常事態を前にして、僕の頭もいつものパフォーマンスを発揮できていないらしい。  どうして誰も、あれを指差さして喚かないのか?  誰も叫ばないし、騒がないし、逃げ出さない。おかしいではないか。  まるで見えていないかのように、そこには何もいないと言わんばかりに、平然としている。  坂を上る生徒の誰もがそうだ。少なくとも僕の目には、そう映る。僕の視界に収まる範囲では、僕だけが視認できているのではないか、と仮定せざるを得ない。  それとも、世の中は僕が思っていた以上に、冷静で、状況を割り切ることに長けた、精神制御の行き届いた者達で構成されていた、ということだろうか? あれを視認できる範囲にいる学生その全てが?  僕と同じようにあれを認め、しかしパニックを起こすことなく、冷静に努め、可能性を挙げて、自分なりの理屈を付けようとしている?  闇雲に周囲へふれまわり、ことを荒立ててしまわないように配慮している? それこそあり得るだろうか? まさかそんなこと、万に一つの可能性ではないか?  故に僕は、僕の頭を疑うことをしなくてはいけなくなるのだ。  この瞬間、僕の精神または脳が異常をきたしており、幻覚を見るようになってしまった、もしくは頭の一部だけが眠っている状態で、日常生活を送りながら夢を見ることができるようになった、という説明を、つけようと思えばつけることはできるだろう。  人間の脳は未解明な部分の方が多いと聞く。ともすれば、どれほどに特異な症状の可能性も否定できないだろう。容認が容易、にわかには信じ難い、などの対極屁理屈を排し、まずは非科学的ではないかと指摘することが順当な超常現象や、生物学的大発見な未知との遭遇などという、子供の空想じみた結論を導き出すより何倍も現実的であるし、原因も僕の特定部位がエラーを起こしていた、という結末で済む。対処も簡単だ。今すぐに回れ右をして、来た道を戻りながら救急車を呼び、大きな病院へ運んでもらい、CTスキャンを受けた方が良い。現代医学の恩恵を受け、プロの診察に頼る選択がベストだろう。  制服の中のスマートフォンへ手を伸ばしながら、僕の意識は、浮かんだ最後の可能性と選択肢へ傾いていた。その間、僕の目は、異形の者を注視することを続けていた。  これがいけなかった。  異形の者が身震いをして。  力無くぶら下がり、揺れていた頭部が。  急に、こちらを向いた。  その頭部、そこに穿たれている二つの目と。  こちらの目が合った。  しまった。  焦る。  失態。  動揺。  瞬間。  これまでの人生で体感したことがないほどの寒気を感じ、全身に鳥肌が立った。  自分の足が止まる。  止めたのではなく、止まってしまった。  意思よりも先に身体が動きを決めたのは、初めての経験だった。  それほどに恐れたのだ。  目の前の存在を。  気づかれてはいけなかった。  それだけが分かった。  関わってはいけない存在だったのだ。  それがどうしてなのか、何に起因するものか、納得のいく説明は未だ付けられない。  けれど、それでも。  気づかれずにやり過ごした方が良かった、という手遅れな事実だけを直感的に理解した。  全てが遅かった。  異形の者が、耳をつんざくほどの奇声を発した。  僕は両手を持ち上げて、自分の耳を塞ぐ。  塞いだのは、耳だったろうか?  馬鹿みたいに頭を抱えただけかもしれない。  事態が急速に悪化していると理解したから。  あぁ。  嗚呼。  短い人生の渦中だけれど、今が最悪の状況、生命を脅かすほどの危機に違いないと断言できる。  そして、最悪な状況というものは、得てして改善されない。  叫び声を上げていた異形の者が、こちらに向かって突進してきたのである。  これには焦った。  不審者を見かけた際や、自分本位な人間からの物理的な被害を受けそうになった場合にどうすべきか程度なら、学校などで安全指導を受けていたし、本やネットで得た自前の知識もあった。  けれど、このようなものと相対した際にどうすべきか、その対処法など、誰からも教わっていない。備えなどまったくなかった。  ここから先は脊髄反射的な行動、己の本能が主導権を握った、即席の防御反応だった。  僕は奥歯を噛み締め、下半身のスタンス(足幅)を開き、身体を安定させ、ファイティングポ―ズを取る。利き手である右腕を力いっぱい上体に引きつけて、反対に左腕はやや伸ばして、相手との距離を測る。異形が射程内に入った、と判断した瞬間、上体を捻り、右腕を正面へ思い切り打ち出した。  右拳が、どうにか異形の顔面を捉えた。  僕の目が捉える映像が、ゆっくりと流れる。  上方向へ打ち上がる顔面。伸びる首の皮膚。背骨が擦り合って軋むような、嫌な音が響く。どうしてだが軟体生物のようにぐねぐねと震える胴体。ついに力を無くし、くの字に折れて地面へと接触する両膝。  異形の者は、そうして倒れた。  静寂が微々たる支配。  ごく短い間の安堵。  取り巻く空気が変わった、と感じた。  近くにいた女子生徒達が悲鳴を上げる。  倒れたそれを注視する多くの視線。  こちらへ向けられる警戒と恐怖の視線。  言葉は、鮮明には聞こえてこなかった。  何が起きたのか分からない者が大半であるためだろう。それは僕も同じ。  騒ぎというよりは混乱。朝であるから、と言い訳をすれば、それらしいだろうか?  こんなつまらないことを考えてしまうくらいには、僕の頭は混乱していた。  おかしい、そんなはずはない。  ここまでの現実ですら、現実性を欠いていた。理屈を付けることに苦労していた。  けれど、見下ろすそれを認識する今の僕は、これまで以上に困惑し、ついに、それらしい理屈を付ける行為すら放棄していた。  足元にうずくまっているのは、同じ高校の生徒だった。  手足はおかしな方向へ曲がってなどいないし、首は真っすぐ据わっている。胴体に関しても同様。どう見ても普通の人間。  では、先程までいたはずの異形の者は?  消えた? 変わった? まさか、初めからそんな者なんていなかった?  でも、目の前の状況を客観的に整理すると、僕は、普通の人間を、同校の生徒を、いきなり殴りつけた、ということになる。  やってしまった、という後悔の念。ひとまずの自責の念。  やはり、自分の頭が壊れてしまっていたのか? という絶望。  いや、でも、おかしい、という疑問と混乱。  それらがまとめて僕の精神へと襲いかかってくる。  このおかしな現状に納得がいかない自分もいる。  だけど、これでは、どう考えても、僕が異常で、僕が悪者だ。  先程以上に悪化している。既に取り返しがつかないほどに。  多過ぎる情報に呆然としていると、車のブレーキ音が聞こえた。  僕が顔を上げるのと、誰かが僕の腕を掴むのが同時だった。  見覚えのある教員の顔。輪をかけて最悪なことに、教育指導の先生だった。 「お前、朝っぱらから一体、何をやってる? 喧嘩か? とりあえず乗れ。話は学校で聞く」  僕は教員の車の後部座席に詰め込まれ、連行された。  徒歩とは比べものにならない速度で校舎に到着し、靴を履き替えるとすぐに生徒指導室へ放り込まれた。  先生伝手で呼び出されたのであろう、僕のクラスの担任の女性教諭もすぐにやってきた。蒼白な顔をしている。僕がしでかしたことの内容が理由か、それとも僕と同じ低血圧のせいだろうか、と考えた。 「それで? 何があった? 殴った理由は? 喧嘩をしたのか? それともいじめか?」  浴びせられる質問、いや、詰問に近い。 「あの、何故、と聞かれても、説明が難しいです。僕自身も困惑していて……」  僕は心中を素直に吐露し、次いで、詳細な説明など、どうしたものか、と悩んだ。  この回答が、やはりというか、先生の機嫌を逆撫でする結果となった。 「お前、ふざけてる場合か! 学校の外で、いきなり生徒を殴っておいて、分かりませんは通らないだろ! きちんと説明しろ!」  生徒指導の先生は高血圧だろうと想像できた。隣に座る担任の先生も不満そうな表情を隠し切れないでいる。  つまらない分析はさておき、僕への辺りの強さは、しかし妥当といえる。  それはそうだ。担当クラスの生徒が朝っぱらから暴力沙汰を起こし、当の生徒はまともな説明をしないとくれば、生徒指導の立場からも怒りたくなるだろう。担任も困る。  僕が先生達の立場だったなら、やはり同様のリアクションをすると想像がつく。  しかし、説明しろ、と言われても実際問題、どうしようもない。  何が起きたのか、あれが何だったのかが分からない。僕自身が正常なのかさえ自信がない。状況が把握できていないのは僕も同じで、可能ならこれ以上事態を悪化させるより先に病院へ搬送してもらい、頭の検査をして欲しいと願っている。  先生達を納得させられるような内容の、筋の通った説明をすることは非常に難しい。どうしたものか、しかし考えるより他にない。嘘でもなんでもいいからでっち上げるか、素直に話して、あえて異常の判定をもらい、病院送りにしてもらおうか。  でも、そうすると保護者を呼ばれるだろう。それだけは避けたい。僕はあいつに会いたくないし、あいつの世話にもなりたくない。  どのみち、同じような結末を迎えるしかないのかもしれない。僕がしたことは立派な傷害行為であり、相手の生徒が、その生徒の親が、訴えを起こしたなら、僕一人の手には負えなくなる。未成年である僕には権限がない。自分のしたことの責任すら満足に取ることができない。加えて僕自身が加害者なのだから始末に負えない。言ってしまえば、僕の立場は絶望的なのだ。八方塞がりと評価して相応。  ああ、もう、と内心、頭を抱えていると、全くもって予想外の展開が起きた。  生徒指導室の扉が勢いよく開き、一人の男子生徒が飛び込んできた。  開口一番、彼は叫んだ。 「違うんです!」  部屋に入ってきた男子生徒を僕は知らなかった。  名前も、クラスも、学年も知らない。おそらくクラスメイトではない、程度の認識。  ただ、左頬に湿布を貼ったその顔を見るに、僕が先程殴りつけたのは、どうたら彼らしい。倒れている姿は確認したけれど、彼の顔を覗き込むよりも先にここへ連行されたので、彼が誰なのか、すぐに分からなかったのである。 「なんだお前! 誰に許可取って入って来た!」  生徒指導の先生が吠える。 「待ってください、違うんです。俺は、その、助けてもらったようなものなんです!」  生徒の彼が叫ぶように言った。 「助けてもらった? どういう意味? なら、どうして貴方は殴られたの?」  担任の先生がおろおろしながら聞く。目まぐるしい状況の変化についていけない様子である。(僕も同様だ)それでもどうにか、自身の責務を果たそうとしている。 「それは、あの、うまく説明できません。ただ、あの時はそうしてもらう以外になかったというか、そうしてもらわないといけなかったというか……だって、俺はあのままだったら、戻って来られなかった。殴ってもらわなかったら、助からなかったから、だから、ありがとうとは思ってて、殴られて怒ってるとか、困ってるとか、俺達の喧嘩とか、そういうんじゃないんです」  部屋に飛び込んできた時の勢いはどこへやら、彼はうなだれ、説明の言葉は空中分解していく。話しているうちに、自分でも説得力のない、おかしな主張をしていると自覚したためだろう。  だけど、無理もない。 誰であろうと、あの坂道で起きた荒唐無稽な状況を正確に、詳細に、丁寧に解説できる者がいるとは思えない。もしいるとしたら、あの異形とその要因に至る何かが何なのかを知っている者だけだ。必要条件があまりにも限定的なのである。  当然、こんな説明では、先生達は納得しなかった。  詰問を受ける対象が二人に増えただけ。彼の登場によって状況が一気に好転したわけではない。生徒指導の先生はその後、何度も怒鳴ったし、担任の先生も不満が爆発したらしく、ヒステリック気味に声を上げ始めた。その様子を前に、僕は幾度となく目を瞑り、懸命に頭を働かせ、それらしい説明を構築し、述べてみようと試みたのだけれど、眼前でこうも大騒ぎをされては困難である。上手くいかない。文章を組み立てることを妨害されているようなものだからだ。  そんな中で、何故か彼だけは引き下がらなかった。  彼は、ひたすらに繰り返すのだ。自分は助けてもらった。それを伝えるために来た。僕のことを怒らないでください。僕達の間には何の衝突も無かった。どうか見逃して欲しい、などと無茶を言いながら庇ってくれる。  こんなことを彼が言うので、二人の先生は当然、僕にも説明を求める。本当にそうなのか、では何故殴ったのか、そもそも、どうしてこれほどまでに庇うのか、やはり何かあるのではないか、いじめによる口裏合わせではないのか、口止めしたからではないのか、そう勘繰られる。  こうまで言われても、僕から答えられることは何一つない。口裏を合わせようにも、生徒の彼がどういうつもりで僕を庇っているのかが分からないし、根本的な状況理解ができていないのだから、釈明も弁明も篭絡もあったものではない。刻々と変化する現状に振り回されているのは僕も同じ。  ついには先生達が根負けし、朝の件は生徒同士のじゃれあいが行き過ぎたため起きた些細な喧嘩と認定され、僕と、この男子生徒、名前を早乙女(さおとめ)という彼は、一限目の授業開始のチャイムが鳴り、さらに幾分か経った頃に、ようやく解放された。  二人一緒に生徒指導室を後にし、互いに溜息をついて、教室へ向かうため階段を上っているところで、早乙女が口を開いた。 「ホントに助かったよ。ありがとな」  僕は立ち止まり、彼を呼び止める。 「そのことで質問があるんだけどさ。僕は間違いなく、早乙女を殴ったよね?」  こちらの問いかけに、早乙女は何故か笑顔で頷いた。僕が殴りつけたせいか、もしくは倒れた時の打ち所でも悪かったのだろうか、と心配になる。 「僕自身、何が起きたのか、今がどういう状況なのか分からなくて、さっきからずっと混乱してるんだけど、一つずつ、確認させてもらっていいかな?」 「ああ、いいよ」彼は軽い調子で頷いた。 「まずさ、普通、他人からいきなり殴られたら怒ると思うんだよ。どうしてそんなことをするのか、自分が何か気に障ることでもしたのか、って。僕が逆の立場なら、やっぱり怒るし、殴り返そうとするかもしれない。それなのにどうして早乙女は、あんなに僕を庇ってくれて、おまけに感謝してるだなんて言ったの?」 「生徒指導室でも話したけど、細かい理由は俺にも分んないんだよね」早乙女は答える。 「ただ、あの時は、俺が俺じゃなくなるような、そんな感じがあったんだよ。危機感っていうの? このままじゃヤバイ、ってところまで追い詰められてた。病気とか、怪我とか、そういうんじゃなくて、じゃあ、それが何なのか、何で焦ってんのかは、言葉で説明ができなくて、そうだなぁ、感覚的に、ってやつ? 身体が警告してくれてんのに、肝心の身体が言うこと聞かなくなっていって、声が出せないって気づいて、助けを呼べなくて、いよいよ頭まで乗っ取られそうな、そんなギリギリの状態だったわけ。で、ホントに困ってた時に、お前が、えっと、ごめん、今更だけど、なんて名前だっけ?」 「佐倉(さくら)」  僕は説明の邪魔にならないよう短く名乗った。 「俺は早乙女ね、よろしく。で、その困ってたタイミングで佐倉が殴ってくれて、元に戻れたんだよ。だから、とにかく、お礼言わなきゃって思って、保健室飛び出して探してたら、生徒指導の先生がお前を怒鳴る声が聞こえたからさ。うわ、嘘だろ、ヤベェって思って突撃したのが、ついさっき」  ひと通り聞こえることはできた。我慢してどうにか聞き終えた。  しかし、僕は早乙女の説明と内容に対して、軽い眩暈を覚えた。  彼は懸命に伝えようと努力してくれた。それは分る。けれど、どうにも言葉を理路整然と並べ、起承転結を意識して組み立てることに不慣れなようだ。  このままでは必要な情報を得るより先に頭痛が起きそうだと感じたので、こちらから短い質問を重ねて要点を定め、確実に情報を引き出す方針へシフトすることにした。 「自分が自分じゃなくなりそう、というからには、自覚症状があったわけだね?」 「じかくしょうじょう?」  早乙女は首を傾げる。 「自分の身体や精神が、どこかおかしい、いつもと違う、って感覚があったかどうか、ってこと」 「ああ、あったよ。身体のあちこちが引っ張られて伸びるような、そんな感じがしてた」 「引っ張られて伸びる……その時、痛みは?」 「痛くはなかったなぁ。身体に違和感あって、なんだこれ、気持ち悪いな、って擦ろうとしたら、手が動かないことに気づいてさ。そのことに焦ってたら、今度は歩いてる自分の足の感覚もないことに気づいたんだよ。動かしてる感覚がない。おかしいだろ? そんな状態で転ばずに歩き続けられてんだから気持ちが悪くて、どんどんパニックになった」 「手足から異変が始まって、感覚が無くなった。胴体はどうだった? 肋骨とか、背骨とか、その辺りに変な感じはあった?」 「身体の真ん中辺りは、どうだったかなぁ。そこはあんまり覚えてないけど、急に視界が一回転したのは覚えてる」 「一回転?」僕は聞く。 「そう。手足の違和感があって、感覚持って行かれて、その後、急にその場で回転したみたいになって、そしたら俺、後ろ見ながら前に向かって歩いてんの。ヤバいだろ?」 「ありがとう。早乙女があの見た目になったタイミングが判った」 「なに、俺、見た目も変わってたの? 感覚がおかしかっただけじゃないのかよ。なあ、どんな見た目だった?」 「首の感覚は? 首周りか、それと頭」  僕は彼からの問いを受け流し、こちらの質問を優先する。合間に答えていると話が脱線しそうだったからだ。 「首と頭は、う~ん、そんな、おかしなことはなかったと思うんだけど、どっちかっていうと、頭は感覚どうこうよりも、中の方がおかしくなった感じ」 「頭の中に違和感があったの?」 「そう。最後におかしくなったのが頭でさ。寝落ちする感じが近いかなぁ。ぼーっとしてきて、自分の意識が途切れ途切れになっていく。分かるだろ? まさにあれだよ。意識が落ちそうになるから、頑張って起きてようとする。気抜いたら一瞬で真っ暗になる、その直前ってやつ」 「じゃあ、あの時の早乙女は、意識が落ちないよう、抵抗してたわけだ」 「そうなんだよ。よかった、伝わったみたいで。な? 想像したら分かるだろ? マジでギリギリだったわけ」 「もし、意識が落ちていたら、どうなったと思う? 感覚的な意見でいいんだけど、教えてくれない?」 「もし落ちてたら? う~ん、そうだなぁ。とりあえずヤバそうだったのは間違いないかな。戻ってこれなさそうな、一生ぼーっとした感覚のままとか、寝たまま起きられないとか、そういうのになるんじゃないか、って思ってたな、うん」 「なるほどね。そんな追いつめられた状態なのに、声も出せない、周りへ助けも求められなかったんだね?」 「そうそう、叫ぼうとしたけど声出せなくて、そのうち、もの考えるの自体ができなくなってきて、いよいよヤベェってタイミングで、凄い衝撃が来てさ」 「あ、それが、僕が殴った時?」 「そう! 頭のぼ~っとした感じとか、全部の違和感が一気に吹っ飛んだんだよ。マジで一気に、全部まとめてさ」 「教えてくれてありがとう。あの時、早乙女に何が起きていたのか、大方、把握できたよ」 「でさ、あれって結局、何だったんだろうな? 先生達に説明しろ、って怒られたけど、俺らだって分かんねえよな」 「うん、分からない。だから僕も、それが知りたい」  僕は素直に頷き、彼の疑問に同調してみせた。  互いに腕を組み、肩をすくめていると、一限目終了を告げるチャイムが校内に響いた。僕達は思いのほか長く話し込んでしまっていたらしい。  階段の踊り場から移動して、一年の教室が割り当てられた階へと上がる。  僕達は廊下で別れ、早乙女は三組の教室に入って行った。これで、同学年かつ隣のクラス所属であることが判明した。  自分の所属する教室の扉を開こうとしたら、同じタイミングで出て行こうとしたクラスメイトの女子と鉢合わせになった。  僕は、ごめん、と口にして進路を譲る。  すると、その子とその子の友達は二人して僕から目を逸らし、逃げるように出て行ってしまった。  その様子を見て、僕はとても嫌な予感がした。  気休めの深呼吸を挟んでから、恐る恐る教室へと足を踏み入れる。  途端、身体中に突き刺さる、視線、視線、視線。  気のせいではない。明らかに見られている。それも、あまり良い意味ではなさそう。  二限目は移動教室だから、クラス内の皆は教科書やノ―トをわきに抱え、出て行く準備をしているところだった。  そこへやってきた者へ向けられる奇異の目。  僕が何をしでかしたのか、情報はとてつもない速度で伝達され、瞬く間に広まったと知れる。  入学して一か月、当たり障りのない人格を演じ、下手に目を付けられぬよう、問題を起さず、誰とも衝突をせず、穏やかに高校生活を送れるよう、僕は静かに過ごしてきた。  その積み重ねも、努力も、気遣いも、たった一ヶ月で終わりを迎えてしまった。たった一度の問題行動で台無しになった。これほど悲しいことが他にあるだろうか。虚しくすらある。  注目はされども、誰も声をかけてくれない。だから余計に居心地が悪い。  仕方なく、こちらから何人かに声をかけ、あれは誤解なのだ、聞いて欲しい、と説明もとい言い訳をしようと試みたけれど、それらしい相槌こそ打ってもらえるものの、皆の顔には貼りつけたような笑みばかりが表れ、それは例外なく引きつっている。僕の話を聞いている素振りを見せつつも、その身体は逃げる動作を隠そうとせず、身を躱し、教室の外へ、そそくさと出て行ってしまう。  僕は諦めて肩を落とし、溜息をつき、自分の机へ向かう。  ずっと抱えていた鞄から教科書とノ―ト、筆記用具を取り出して、また溜息をつく。  僕もそろそろ移動しなくてはいけない。でないと間に合わない。それは分っているけれど、この現実を前に、動く気力を失ってしまった。 朝から疲れた。どうしてか、理由は言わずもがな。  一時間くらい、このまま自席に座り、大袈裟に落ち込むくらい許されて然るべきではないだろうか。少しだけ一人の時間が欲しい。素直に凹んでいたいから。  そんな後ろ向きの欲求に苛まれていた僕のすぐ横に、一人の女子が立った。  彼女は僕の顔を覗き込んだ後、おもむろに自分の顔を、こちらの耳元に近づけて囁いた。 「私も見た」    教室で自分の席に座っている。  帰りのホームルームが、先程終わったばかり。  僕以外のクラスメイト達は喜々として帰り支度を進め、各々部活動や放課後の楽しみへ向けて行動し、一目散に教室を飛び出していく。  対して僕は、外見上は身動き一つせず、頭の中だけが忙しなく稼働していた。  結局、あれから僕は二限目の移動教室をサボって、その後の三限目からは普通に授業を受けた。昼休みを挟んで、昼食に唐揚げ弁当を食べて、五限目以降もきちんと、この椅子に座って学び、受けた授業の大半の中身を頭に叩き込んだ。実に学生らしい過ごし方、高校生として有意義に時間を消費した。  授業をサボった二限目から、それ以降の授業の合間でも、今でも、こうして僕は考えている。  朝の出来事について、早乙女のこと、早乙女が異形化していたことを。  思考パレットを二つ開いて、そのうちの一つで、授業の邪魔にならない範囲で、考え続けている。  僕の右手は間違いなく、あれに触れた。  拳という形を作り、果実のようだった頭部を殴りつけた。  その感触が、はっきりと残っている。  跳ね上がった異形の顔。  あれも映像として鮮明に焼き付いている。  白昼夢でも、幻でもない。確かに起きたことのはず。  ただ、その立証ができない。  証拠がなく、現状、ことの当事者しかいないためだ。  故に、断言ができない。  あれが現実の出来事で、早乙女は捻じれ、異形の者と化していたと。  早乙女が述べた、ちぐはぐだけど興味深い、当人ならではの証言。  殴られても怒るより先に感謝したくなるほどの危機感、焦燥感、そして、元に戻れなくなりそうだ、自分が自分でなくなってしまう、という絶望感。  身体を支配し、精神まで蝕もうとしてきた、謎の現象。  さらには、彼がそんな異常事態に陥っていたにも関わらず、周囲の生徒達は異変に気づかなかった。  異変の初期、身体的変調から感覚喪失、発声抑制の段階で既に、周囲からの認知が失われていた、ということになる。完全に異形化する前から、彼は世の理から隔離された?  であるならば、あれを引き起こした存在(仮定であるが)の目的は、異形化させた者を不特定多数の人間に見せつけることではなさそうだ。異形化の段階まで症状が進行するより先に認識できなくさせている。既にそこには居ないものとして、存在を見失わせている。  となると、次なる疑問が浮かんでくる。  では、誰に見せたかったのか? 何の為の異形化なのか? もしくは、誰にも認知できぬようにして、異形化したまま孤独に堕とすことが目的だったのか? それなのに、僕だけは認識できた。それか、認識できてしまったことが誤算なのかもしれない。その結果、あのような事態が起こった、とも考えられる。  事実として、僕は早乙女を他の人間、他の物理現象と遜色なく認識することができたし、彼の外見がおかしなことになっていると、人間らしからぬ様相と化していると、自前の常識と比較をして、おかしい、変だ、と断じることもできた。つまり、僕の側の認知機能や、経年重積のモラルには何ら干渉をされていない、という情報が得られる。  ただし、これらの事実が何を意味するのか、そもともどうして、僕だけが例外のような立ち位置にいるのか、そこが全く分からない。心当たりもない。  手元にある情報だけでは、そろそろ手詰まりに思えた。  僕一人で、これ以上、突き詰めていくことは難しい。  息を吐く。  ノートPCの排熱機構みたいだ、と連想。  あとは、続きを聞いてみるしかない。  ある意味では賭けのようなもの。  けれど、期待値は、かなり高い。  視線を上げて、彼女の方を見る。  僕は待っていた。  教室内からあらかた生徒が出払ってようやく、彼女がこちらへやってきて、僕の前の席に静かに座った。 「お話をしましょう」  抑揚のない声で、彼女は僕にそう告げた。  名前は確か、霧島千日紅(きりしまちひか)。  長い黒髪、眉間の辺りから横一線で揃えた前髪、白い肌、大きな目。美人だな、という印象。  僕達の関係性はクラスメイト。入学してからこのひと月ほど、平日に学校で顔を合わせる。お互いにこの教室で、ああ、今日もいるな、と認識し合う程度の間柄。それ以上など何一つなく、積極的に関知しなかった。今朝までは。 「朝の、あの続き?」僕は聞く。 「そう」  霧島さんは僕の目を見て肯定し、頷いた。 「丁度良かった。僕も、霧島さんから話を聞きたかったんだ」  朝の一言。 【私も見た】  あれは、彼女が発した言葉だった。  彼女は唯一、暴力事件ではなく、異常な存在について感想を述べた人物である。  件の異形と僕が起こしてしまった暴行、その渦中にいた人物は、早乙女という被害者生徒、ことの異常性を認識し、直接触れ、事態を処理したのが僕、そして、その状況を客観的に目撃していたのが彼女、霧島さんということになる。  つまり、僕が先程まで考えていた、これら異形にまつわる異常事態を最初から最後まで客観的に観察していた人物がいれば、また違った視点から、新たな発見があるのではないか、と希望を繋ぐことができる。もし霧島さんが、僕の知らない情報を持っているなら、ことの真相にすら近づけるかもしれない。 「私から、何を聞きたい?」霧島さんは首を傾げる。 「霧島さんは、何を見た? あの時見たもの、覚えていることを、できる限り詳細に教えて欲しい」  そう頼むと、彼女は頷いた後、大きく息を吸った。 「通学路の、あの坂を歩いていた、人間が捻じれたみたいな化け物。私は、あれに気づいたけど、他の人達には見えていないみたいだった。あれが急に叫んだかと思うと、あなたに向かって突進して行った。その時のあなたの表情を覚えてる。あなたはあれを認識していた。あれに目を向けて、あれに対して目を見開いていた。そして、あなたはあれを殴りつけて動きを止めさせた。殴られたその捻じれの化け物が、うちの生徒へ一瞬で変わった。そこでようやく、周りにいた生徒達皆が異変に気づいた。殴られて倒れている生徒へも視線を向けて、認識を始めたように見えた。何が起きたのか、誰がやったのか、口々に疑問を囁いてた。通学路の坂道に面した道路で車が停まって、先生が降りてきて、あなたを乗せて連れて行った。殴られて倒れていた方の生徒は、後続の先生の車に乗せられて、やっぱり連れて行かれた」  ここまでひと続きに話して、霧島さんは深呼吸をした。 「朝起きたこと、という括りでは、私が観察できたのはここまで。その後は、一限目の終わりに、あなたが教室へ帰ってきた時に声をかけた」  長めに話す際も、彼女の発声方法にはあまり変化が無かった。単純に音を並べているだけ、という具合の独特な言葉遣い。人によっては冷たい印象を受けるかもしれない。 「今の説明の中で、いくつか確認したい項目がある。僕が殴りつけた瞬間に、あの異形は、早乙女の姿に変わったんだね?」 「早乙女?」霧島さんが首を傾げる。 「僕が殴り倒した生徒の名前。それで、殴り倒す前は異常な姿をしていて、地面に倒れ込んでから生徒の姿に戻った、という認識でいい?」 「うん」霧島さんは頷く。 「元に戻った、という感じかな?」 「そう」 「僕が殴った生徒、三組の早乙女については、何か知ってる?」 「その生徒の名前が早乙女ってことも、所属が三組なことも、今知った」  霧島さんは淡々と答える。 「完全に初対面……そっか。いや、実は僕もそうなんだ。全く関わりのない相手だった」 「知り合いか、初対面かが、重要そう?」 「僕と霧島さんと早乙女の三人だけが、あの異常を認識できていたからね。だから僕達には、何かしらの共通点があるんじゃないかと思いついたんだ。あの坂道に入る直前か、それよりもっと前かは断定できないけどね」 「ああ、なるほど」霧島さんは小さく頷いた。 「そうだ。今更だけど、あれを見たと教えてくれて助かったよ。話しかけてくれて感謝してる。僕さ、朝からずっと混乱しっぱなしで本当に困ってたんだ。異形が生じた理由も分からないし、どうして自分だけが察知できたのか、どうして他の人達には見えなかったのか、って頭を抱えていたから、こうして僕以外にも目撃者がいて、あれが現実の出来事だったっていう前提で話ができるのは、精神的な救済になる。自分がおかしくなったわけじゃないんだ、って安心できる」 「その、うん。改まってお礼を言われると恥ずかしい。私、何もしてないから」  僕が手渡した感謝に対して、霧島さんは身をよじり、片手の甲で、自分の口元を隠した。本人が口にした通り、恥ずかしがっているのだろう。 「でも、うん。私も、あの異形について、あなたと意見交換がしたかった。そこは一緒。他の人は、あれが歩いていても、叫んでも、全く反応しなかった。気づいてすらいなかった。あれを認識できて、こうして興味を持っているのは、私とあなただけ。そうでしょう?」 「早乙女も忘れないであげて」 「ねえ。今更だけど……」  自分の口元から手を離した霧島さんが、真面目な顔をこちらへ向ける。 「あれは、現実の出来事だったよね?」 「僕は、そう認識してる」 「私も、あれを見た。夢や錯覚じゃなかったと思ってる」 「うん」僕は頷く。 「あなたは、あれに触れた。あれを殴った。私は、そんなあなたの姿を、この目で見た」 「うん」 「少なくとも、現実だと仮定していいくらいの条件は揃っていると思う」 「そうだね」 「じゃあ、ここから先は、あれが本当にあった事っていう前提で、議論を進めていきたい。それでいい?」 「うん。そうしよう。ありがとう。提案してくれて」  僕は彼女の言葉に賛同しつつ、先程以上に彼女へ感謝していた。  霧島さんは朝の出来事を、丸ごと現実だと肯定してくれる。こうして僕と顔を合わせて話をしてくれる。この時点で、僕としては涙が出そうになるほどありがたい。自分という人間を否定されず、証言を一笑にふされることもない。なんという人格者だろう。とても同い歳とは思えないほど、人間としての器が広い。  あとは、そうだ。  少なくとも、被害者、当事者、目撃者の証言は一致した。現実に起きた事柄だった、そう仮定する程度であれば、十分な要素が揃ったと評価できるだろう。 「現実に起きたことだったと仮定する。それでここから先、霧島さんはまず、どうしたい?」  僕の問いかけに、霧島さんは瞬きを挟んでから答える。 「私は、あの現象が起きた理由が知りたい。目視できた人と、できなかった人の理由は何か、あの男子生徒が異形化した理由は何か、根本的に、どうしてあんな非科学的なことが起こり得たのか、それが知りたい」 「僕と全く一緒だね」  笑いながら頷きつつ、僕は内心、驚いていた。  自分と彼女が似ていたから。  考え方が、説明の仕方が、好奇心の強さが、そっくりだった。  こんなこともあるのだな、という納得。  同級生でも、賢く、大人びていて、既に確固たる人格を確立している者がいるのだな、という意外性。  あれを共に認識した人が、こうして話ができた相手が、霧島さんで良かったな、という安堵。  まだそれなりの大きさで、不透明なものだけど、彼女に対する信頼が、僕の中で芽生え始めている。  悪くない気分だった。信じられる人がいる、ってこんな感覚になるのだな、と考えて、くすぐったい気持ちにもなった。 「ねえ、霧島さん」  僕は告げる。 「僕も、あの異形が何だったのかが知りたい」  素直に吐露する。 「幻覚や白昼夢なんていう、つまらない理屈で片づけたくないんだ。そんなものじゃなかったはずだと、僕は考えているから」  頭の中を、心の中まで。 「だから、あの時に起きたこと、その理由を、原因まで、一緒に調べてくれないかな?」  可能な限り晒して、彼女を信じた。 「勿論」  霧島さんは口角を上げて、即答してくれた。  翌日の放課後。  僕と霧島さんは教室に居残り、ひたすらスマ―トフォンをいじっていた。  今の時代、何かを調べるにあたっては、とりあえずネット検索が常套手段である。大袈裟に動き回ったり、生徒や先生達に聞き込みのような真似をするより何倍も効率的だし、悪目立ちすることを避けられる。僕の場合は特に、昨日の今日であるため、まともにコミュニケーションを取ってくれる相手が少なく、先生達からもマークされているとひしひし感じられたので、こうして教室で大人しくしている、かのように映ること自体にも価値があった。  昼休みにも多少、ネット検索をしてはみたけれど、時間的制約が大きかったこと、周囲が騒がしく、またクラスメイト達は他人のスマートフォンの画面をのぞき込むという行為を平然とやってのけるので、あまり腰を据えて調べることはできなかった。  ようやく静かで落ち着ける空間となった教室に、僕と霧島さんの二人きり。  僕の机を挟み、向かい合って座り、それらしい情報を見つけるたび、相手へ声をかけつつ、スマートフォンの画面撮影機能で記事や文章を保存するという作業を繰り返していた。 「やっぱり、恨みつらみ、ってやつの力なのかなぁ……あれは、オカルトでしか説明できないよね」  僕は呟く。 「怨念とか、当てつけの因縁が、超常的な現象を引き起こす、みたいな?」  スマートフォンの画面から目を離さずに、それでも霧島さんは応えてくれる。 「そうそう。そういうの」 「うん。私も、その方向で調べてる。科学的にも、生物学的にも、あの異形の者の存在はあり得ないと思う。周りが認識できなかった、っていう環境条件も、オカルト的な現象だったっていう仮説を後押ししてる」 「だよねぇ……」  僕は頷き、溜息をつく。 「この近辺で殺人事件があった、もしくは、学校内で飛び降り自殺があった、とかの記録は?」  画面を人差し指でスクロ―ルしながら、霧島さんが物騒なことを聞いてくる。 「見当たらないね。ここ数年でも、昭和期まで遡ってみても、この近くは平和そのもの。山を切り拓いて学校が建てられたこと、道路整備の記録、校舎増設の関係記事しか出てこない。工事作業の関係者にも、怪我人や死者は出てない」 「じゃあ、近隣での交通事故は?」 「検索して見つけられる範囲では、なかったね。一番近いものでも、半年前にアーケード街付近で接触事故があったくらい」 「そう」  霧島さんは軽い調子で頷いた。成果がない可能性を予想していたようだ。 「オカルト系の超常現象だったとしたら、痛ましい事件か、事故の類が関係しているって、そう考えてる?」 「うん。あなたも?」 「僕も同じ考えだよ」 「根拠は?」 「異形の者は、身体のあちこちが捻じれていた。あれは、強い衝撃が身体に加わった場合や、巻き込み力が作用した変形だと推察できる。逆に、そうでもしないと、人体はあんなふうには破壊できない。つまり、轢死体や、人間の手による非人道行為の結果、という可能性が高い」 「あなたって、結構ストレ―トで、残酷だね」  眼前に構えていたスマ―トフォンをずらし、僕の顔を見ながら、霧島さんは悪戯っぽく言った。 「それ、皮肉?」  僕も口角を上げて聞いてみた。 「ジョーク」  霧島さんは肩をすくめながら答えた。彼女も充分、残酷だ。そういうところが素敵でもある。 「さっき、あなたが言っていた、恨みつらみがおかしな現象を引き起こした原因だと仮定すると、つまり霊的なものの仕業、ということになる? 霊的なものって、具体的に何だろう? 地縛霊とか?」  彼女の発言に、僕は思わずふき出してしまう。 「言葉として口に出すと、笑っちゃうね」 「それは、私も思う。なんて非科学的なことを言ってるんだろう、って。真面目に議論してる今の私達って、相当滑稽に映るよ、きっと」 「でも、これが現状、最も可能性が高いときてる」 「そう。だから、厄介」  スマートフォンを机上に置きながら、霧島さんが目を擦る。目が疲れたのか、それか彼女も、花粉症なのかもしれない。 「そうだ。あの……彼、なんて名前だっけ」  目を擦りながら、霧島さんが呟いた。 「名前?」 「ほら、あなたが殴った彼」 「ああ、早乙女?」 「そう、それ」  本人不在かつ他愛ない会話の最中とはいえ、それ呼ばわりされる早乙女は不憫だ、と思った。 「霊的なものなら、例えばその早乙女君に、ええと、憑依? していたのかもしれない。それなら、彼だけが異形化した理由は付けられる」 「確かにね。ただ、問題は……」 「あなたと私にだけ認識できた、という条件が、不明瞭なままになる」  僕と自分を交互に指しながら、霧島さんはすぐに捕捉した。  そこだよなぁ、と頷き、僕も目を瞑って考える。  早乙女が異形化してしまった理由は、彼自身が不幸にも憑依対象として選定された、運悪く彼が超常的な力に晒されてしまった、と仮定することで説明できる。多少強引かもしれないけど、理屈として筋を通すことはできる。  では、生じる問題は何かといえば、何故、僕と霧島さんにも、その超常的な力の一端が作用したのか、あれほど近距離にありながら、どうして他の生徒達は影響を受けなかったのか、という謎が残る点である。  ひとえに、条件が不明なのだ。  僕達が選ばれたのか、僕達だけが例外だったのか、もしくは、僕達が触りの部分だっただけで、あのまま時間が経過していたら、次第に認識できる者が増えていったという可能性も考えられる。ただし、その理由、そうである根拠、どうしてそんなことになるのか、という仕組みの解明には至れない。目的は何か? という根底も分からない。情報不足に起因する境界条件の曖昧さが顕著であり、それによる確証の欠如、個人の予想範疇を脱していない、という不定性が当面の課題である。  椅子に座ったまま、僕は両腕を天井へ向けて伸びをする。画面を注視していたせいで、首周りが固まっていた。 「そういえば、あなた、格闘技やってたりする?」 「えっ? どうして?」  霧島さんからの唐突な問いに、僕は伸びをした態勢のまま硬直して問い返す。 「異形になった早乙女君を、すごくスム―ズに殴り飛ばしてたから、心得があるのかと思って」  右手で拳を作り、あさっての方向へ打つ素振りをしながら、霧島さんは答えた。 「いや、独学で齧った程度だね。きちんと誰かに習ったりしたことはないよ」 「それにしては、打つ時のフォームが綺麗だった」 「運動は得意だから」僕は笑って応える。 「ふうん、そう」 「霧島さん、趣味は?」 「読書」 「僕と同じだ」 「あなた、映画は好き?」 「好きだよ。よく観る」 「好みのジャンルは?」 「SFかな」 「私と同じだ」  一拍の間をおいて、僕達は同時にふき出した。  自分達のやり取りが可笑しかったし、微笑ましかった。  やっぱり似ているんだな、という納得もあった。  それが嬉しくて、何気ない言葉の交換が楽しくて、不思議な気分。  スマ―トフォンの画面上部に表示されている時間に目が留まる。午後六時。 「今日はこれくらいにして、そろそろ帰ろうか」  そう声をかけたのだけど、返事がない。 「霧島さん?」  僕は視線を上げて彼女を呼ぶ。  霧島さんはそれにも応えず、代わりスマ―トフォンの画面を少しだけ操作してから、こちらへ見えるように差し出してきた。  僕は画面へ顔を近づけて、そこに表示された記事を読む。  そこには、今からひと月程前の出来事、僕達が丁度春休みだった頃に起きた、児童虐待死亡事件の情報が表示されていた。  被害者は十二歳の長女で、加害者は、その子の母親。暴行を加えるなどして死亡させ、洋服箪笥に遺体を隠し、自宅付近の山中に遺棄したとして、児童虐待、傷害致死、死体遺棄の容疑で逮捕されていた。その上、次女の行方が分かっておらず、また、その母親は黙秘を続けているため、捜索と聴取が続けられている、と載っていた。  僕がその記事を読み終えたタイミングで、霧島さんは画面を別の情報ペ―ジに切り替えた。  捜査関係者の話によると、被害者である長女の遺体は両手足と首が意図して折られていた。直接の死因は頸椎骨折によるものだという。その状態で、西洋型、扉が両開きするタイプの洋服箪笥に押し込まれて、山中へ投棄されていた、とのこと。 「これって……」 「それらしくない?」 「確かに、それらしい。でも、ここに載ってる情報が本当だと仮定すると、犯行現場も、死体が遺棄された山も、この街から遠すぎる」 「当然、学校からもね」  霧島さんは頷き、スマートフォンの画面をオフにしながら言葉を続ける。 「この事件記事を見つけた時に、私が思いついたのは、異形化した早乙女君、彼とこの家族達が親戚関係だったりしないかな、っていうもの」 「あぁ……なるほど」  僕は霧島さんの発想の突飛さと、しかしその優れた論理性に驚きながら頷いた。 「その事件に何らかの形で早乙女が関わっていたから、もしくは、多少近しい繋がりがあったせいで、早乙女が逆恨みされて、異形化することになった?」 「私は、そう考えた」 「よく思いついたね」 「情報のパズルみたいなものだよ」  霧島さんは肩をすくめながら、さらりと言う。 「早乙女はパズルなのか……」 「ただ、この仮定でいくと……」  霧島さんは僕の呟きを流して続きを話す。 「被害者である長女が殺された現場も、その母親と住んでいた住所も、遺体が詰め込まれた箪笥が隠された山も、私達の住むこの街とは離れてる。つまり、物理的距離という隔たりがある。早乙女君が事件に関わっているのかどうか、親戚関係なのかどうかも確かめてみないと当然、不確かなまま。公表されている加害者の名前は早乙女じゃないから、結婚して性が変わったのか、単純に遠縁で名前が違うのか、そもそもとして、この事件と早乙女君はまったく関係がなくて、私の推論は酷い見当違いだった、的外れな妄想だった、っていう可能性もある。だから……」 「早乙女本人に聞く必要がある?」 「そう」  僕の問いかけに、霧島さんは小さく頷いてみせた。 「なるほどね。うん、確認してみる価値はあると思う。ただ、この内容をそのまま聞くわけにはいかないしなぁ。どうにか遠回しに、情報を引き出さないといけないね」  そう応えると、霧島さんは首を傾げる。 「これ、そのまま聞いたら、だめ?」 「え? うん、ダメだと思う」 「そっか」 「あと、直接質問して、もし本当に何かしらの形で関わっていたら、実はさ……って調子で正直に話し始めるとも思えない」 「あぁ、それは、そうかも」 「お前達、まだ残ってるのか」  突然かけられた声に驚きつつ振り返ると、教室の入口に教育指導の先生が立っていた。  よりにもよって、この人か。苦手な相手だ。 「部活動での居残りじゃなさそうだな。時間も時間だ。用がないなら早く帰れ」 「すぐ片づけて帰ります」  僕はそう答え、自分の荷物を開けた鞄へ放り込む。  霧島さんもこちらの動きに沿って、帰り支度を始めた。といっても、彼女の荷物は既に鞄一つにまとまっていたので、恰好だけである。  二人一緒に教室を出ると、声をかけてきた教育指導の先生が階段を降りていく姿が見えた。  僕達は並んで廊下を歩き、先生が降りていったのとは反対側の階段を降りる。 「お説教が始まらなくてよかったね」霧島さんが言う。 「本当にね」 「あの先生だったよね。あなたを怒って、車に押し込んで、連行した先生」 「そう、あの先生」僕は頷く。 「私、あの先生、怖い」 「うん、僕も怖い」  階段を降りながら、僕達はくすくすと笑い合う。  一階に着いて、建物の玄関まで廊下を移動。下駄箱で靴を履き替えている時に、霧島さんが言った。 「明日は土曜だから、続きは来週だね」 「あ、そうか」  完全に失念していた。  明日は土曜日、学校は休みである。  再開は来週、土日を跨ぎ、それまで大人しくしていられるだろうか、と悩み始めた僕の視界の端を、知り合ったばかりの生徒が横切った。 「早乙女!」  廊下を歩き通り過ぎようとした彼の背へ向けて声をかけた。ちなみに、僕が出したやや大きめの声に驚いたと思しき霧島さんが、すぐ隣で小さく肩を跳ねさせた。 「あ、佐倉じゃん」  早乙女は僕の呼びかけに応じ、廊下から下駄箱まで来てくれた。 「よう、昨日ぶり。なに? 一緒に帰ろう、っていう誘い?」 「うん」僕は頷く。 「えっ? マジで?」  早乙女が目を見開く。分かり易い驚きの反応。 「話したいことがあるんだ。時間くれない?」 「それは、まあ、いいけど、その話って、今ここでじゃあダメなやつ?」  足元を指しながら早乙女が聞いてくる。 「できれば、校舎から出てから話したいんだ。さっき上で、教育指導の先生に小言食らったばかりでさ」 「あぁ。あいつか。そりゃ、早く出たいわな。分かった。ちょっと待ってろ。これ、職員室に出すだけだから」  言いながら、早乙女は片手でプリントを持ち上げてみせる。  僕は頷き、ここで待ってる、と告げて片手を挙げた。  早乙女が足早に職員室へ向かった後、僕は振り返って霧島さんに目を向けようとした。  その振り返りの動作に合わせて、霧島さんが僕の背後に張り付いていることに気づく。 「霧島さん?」 「いるよ」 「いや、いるのは分かってる。どうして僕の背中で動作追従をしているのかが知りたい」 「私、人見知りするの」 「ああ、そうなんだ」  その答えに、僕はふき出しながら言葉を重ねる。 「でも、教室で、早乙女へ直接質問をしてみよう、って話してたよね?」 「あれは、その……ごめんなさい。恰好をつけた」 「早乙女に質問する時は、僕に頼もうと思ってた?」 「その、うん。ごめんね」 「いいよ。責めてなんてない」 「その割には、意地悪」 「ごめんね。僕、こういう性格なんだ」  そう返すと、霧島さんは僕の背中から離れ、隣に移動してから、もう一度、いじわる、と呟いた。  宣言通り、すぐに戻ってきた早乙女を加えた三人で校舎を出て、校門を抜け、坂を下り始める。 「それで? どんな話?」  早乙女が切り出す。 「実はね、早乙女が異形化したのを、僕だけじゃなく、霧島さんも認識してたんだ」 「いぎょうか? なにそれ、どういう意味?」 そこから伝わらず、会話が躓くのか、と僕は内心戸惑いつつ、口頭では捕捉を行う。 「昨日のあの坂で、早乙女の身体がおかしなことになってた、あの状態のことだよ」 「ああ、あれのことな。で、あれを佐倉だけじゃなくて、その子も見てた、って?」 「そう」  僕は頷き、肯定する。  ちなみに、早乙女がその子と表現したのは、霧島さんが早乙女から隠れるように、僕の腕にしがみついて距離を取っていたためである。 「昨日も話した通り、周りの生徒は、僕が殴ったことにだけ驚いてて、早乙女の変化には言及しなかった。それどころか、異形化していた早乙女の存在自体に気づいてすらいなかった。そうした異常性を、霧島さんも認識できていたわけ」 「げんきゅう、って、どういう意味? あと、いじょうせい、も」 「言及は、おかしいな、って思って確かめようとすること。異常性は、おかしなことが起きてるぞ、って意味」  僕は丁寧に捕捉をする。国語辞典になった気分。 「早乙女君。高校入学前の春休み、どこかへ行った?」  僕の隣から、霧島さんが唐突に質問を投げた。  僕も驚いたし、質問を投げられた早乙女も首を傾げた。 「入学前の春休み? どこかへ、って例えばどこへ?」 「親戚のおうちとか、親族の集まりとかで、遠くへ行くことが、それこそ他県まで出かけたり、した?」  霧島さんは相変わらず、僕の身体の陰に隠れ、顔も伏せたままだけど、声を出して、はっきりと発音もして、懸命に質問を続ける。 「う~ん? いや、そういう集まりは特になかったな。俺の家、家族仲も親戚付き合いも悪いのよ。だから遠出とかは全然、うん、なかったな、そういうのは。どっちかっていうと春休みだし、高校入学前だしで、今のうちに遊んどこうってなって、友達と学校下の、ほら、この坂道の下のさ、カラオケとか、ファミレスとかがあるアーケード街あるじゃん。あそこへ通って馬鹿騒ぎしてたよ」 「楽しそうな過ごし方だね」  僕は笑いながら感想を述べた。 「佐倉は? 入学前って何やってた?」 「家で読書してたよ」 「お前、暗い奴だな」 「なんだって?」  僕は片方だけ眉を上げて、早乙女を見る。 「俺が遠出したかどうかが、あれと何か関係ありそうなわけ?」  早乙女は僕の視線を流して、霧島さんへ向けて聞いた。  それを受けた霧島さんは、僕の袖を引き、上目遣いを向けてくる。すぐに意図を理解。 「関係あるかどうかは、まだ分からない。今は、思いついた可能性を一つずつ確かめてる段階だから」  霧島さんに代わり、僕が答えた。 「探偵みたいことやってんな。面白そう」  言いながら、早乙女は笑ったかと思うと、急に霧島さんへ近づいた。  唐突に距離を詰められた霧島さんは、みっ、という不可解な音を漏らし、僕の腕と背中に爪を立てた。驚くと爪が出るなんて猫みたいだな、と痛みを感じながら僕は連想する。 「挨拶遅れたけど、初めまして。霧島さん、でいいんだよな?」  早乙女の問いに、霧島さんは複数回、頷いて応える。 「霧島さんも、俺がおかしなことになってんのを見たの?」 「うん」 「佐倉から聞きそびれたんだけど、俺さ、あの時、どうなってた? どんな感じだった?」 「早乙女君は、捻じれてた」 「はっ? えっ?」 「捻じれて、垂れ下がってた」 「待って待って、どういう状態? もう少し詳しく」  請われた霧島さんが、すーっと息を吸うのが、隣にいる僕には分かった。本当に詳しい説明がなされるぞ、とも判った。 「早乙女君の両膝は折れてるみたいに変な曲がり方をしてて、それでも歩いて坂道を登ってた。胴体が途中から捻じれてて、胸から上が空を向いてた。両方の肩が外れてるみたいに下へ伸びてて、手首も回転してて、それなのに両手の指先だけは、元気に動いてた。首も折れてるみたいで、地面へ向けて垂れ下がって、皮膚が伸びてた。とっても酷い状態なのに動いてた。そんな早乙女君を見て足を止めた佐倉に向けて、早乙女君は突然、奇声を、えっと、大きな叫び声を上げて、突進して行った。それを佐倉が殴ったの。そしたら早乙女君は元に戻って、後は、知っての通り」  彼女の説明を聞き終えた早乙女は、何とも言い難い表情を浮かべて僕の方を向いた。  その顔を見た僕は思わずふき出してしまう。 「おい、笑うなよ」 「笑わせるような顔を向けてくるからだよ」僕は言い返す。 「今の話、マジ?」 「マジ」僕は頷く。 「俺、そんなことになってたのかよ……」  話しているうちに、僕達は坂道を下り切った。  道なりに真っ直ぐに進み、アーケード街が見えてくる。 「俺、ちょっと、一人カラオケしてから帰ろうかな」  早乙女が言った。 「話聞いて恐くなった?」  僕がそう聞くと、早乙女は、うるせ、と返してきて、それから、じゃあ、また明日な、と言って僕と霧島さんにそれぞれ手を振ってから、本当にカラオケ店へと入って行った。  手を振り返しながら見送った後、霧島さんへ目をやると、彼女は唇を噛んで、ばつが悪そうな表情をしている。 「どうしたの?」 「また明日、の挨拶し損ねた。タイミングが分からなくて……」 「大丈夫。ああいう奴だから、気にしてないよ」 「どういう奴?」 「良い奴」 「それは、うん。私もそう感じた」  僕達は並んで歩き出し、アーケード街を進む。 「早乙女君が話した内容、どう思った?」  霧島さんが聞いてくる。 「一緒にカラオケ入ろう、って誘ってくれてもよかったのに、って思った。僕、歌うのは好きだからさ」 「そっちじゃなくて」 「五分五分かな」  視線を街の上層へと向けながら僕は答える。 「家族親類と仲が悪い、直近で他県へは出ていない、長期の休みでも、この街で遊んでいた、得られた情報はこの辺りで、早乙女の証言を信じるなら……」 「私が想像した仮定は成立しない」  僕の言葉を引き継いで、霧島さんが言った。 「そうなるね」  僕は頷き、言葉を続ける。 「ただ、早乙女が嘘をついている、という可能性がまだある。これに関しては、上手く探りを入れてボロを出させるか、どうにかして本人が本当のことを話すきっかけを作ってあげるしか手はない」 「同意見」霧島さんが頷く。 「あと、さっき質問した時、私、早乙女君嘘ついてない? って聞けなかった」 「誰でもそうだったと思うよ。実際、僕も追求できなったし」  笑いながら僕は応える。 「仮に問い質しても、素直には答えそうもないし?」 「それもある」 「とりあえず、手詰まりは回避できそうで良かった」 「うん」  霧島さんの感想に対して僕は頷き、同意した。  アーケード街を行き交う人々に目をやる。  買い物、交遊、食事。  娯楽、商売、金銭の循環。  活気、笑顔、愛情、そして自由。  街は面白い。あらゆる要素が、均衡を保って織り交ざっているから。  通りの端でパフォーマンスをしている人がいて、それが僕と霧島さんの目を惹いた。  僕達はしばし立ち止まって様子を眺める。  黒いスーツを着て、猫の頭の被り物をした、着ぐるみの人がコミカルな動きをしている。  頭部の猫部分は銀と黒の毛色をしていて、左耳に銀色の大きなピアス。右耳があるべき場所には小さめの紳士帽が被せられている。タイトにデザインされた全身用の着ぐるみだと分かった。スーツのネクタイは朱色で、袖からのぞく両手は猫の手をしている。ピンク色の肉球が見え隠れするのが可愛らしい。  この地域のマスコットだろうか? いや、この街には長く住んでいるけれど、目にしたのは初めてだったので違うかも。流行りのアニメキャラクタかな。正体が判然としない。 「猫さん可愛い」  霧島さんが言った。 「手の肉球が可愛いよね」 「うん」  一拍の間を置いて、霧島さんがこちらを向く。 「……どうして、私達だったんだろうね」 「えっ?」 「私ね、正直、異形の者を見て嫌だったとか、そういう気持ちじゃないんだ。勿論、あなたは襲われそうになって、先生達にも怒られて、危うく傷害事件扱いになりそうな立場だったから、こんなこと言ったら、怒らせちゃうかもしれないけど……こうしてあなたとお話できるようになったこと、共通の話題が異形の者について、っていうのは、どうなのかなとも思うんだけど、それでも、こうして時間を共有できることは、私にとって、特別だと感じる」 「ありがとう」 「怒ってない?」 「怒ったりしないよ」  僕は首を横に振りながら応える。 「霧島さんの言う通り、異形の者との遭遇がなかったら、僕達がこうして話す機会はなかったかもしれない。学校の教室で、なんてことない普通の話をして、仲良くなれることが今後あったかもしれないけど、それはきっと、もっと先のことになってしまうはずだったと思う。僕と霧島さんの間にはまだ、接点がなかったからね」 「私、人見知りだし、口下手だしね」  霧島さんが口角を上げて付け加える。悪戯っぽい表情。 「だから僕も、こうして早めに仲良くなれたことは、素直に嬉しいと思ってるよ」 「私達、仲良し?」 「僕はそう認識してる」 「そっか」  霧島さんは頷いた後、嬉しい、と呟いた。  笑みを交わし合って。  猫の紳士へ視線を戻して。  僕はまた、考える。  この出会いは、はたして偶然だろうか?  早乙女も含む、この巡り合わせは、実に不可思議で、不鮮明な条件のもと、成された。  僕達二人だけが異形化した彼を見た。認識できたのもそう。  どうして、他の生徒達ではいけなかったのか。人間が変形して、異形と化していたのだから、同じ人間である彼女ら彼らでも見て然るべき、認めて然るべき、そのはずで、それなのに差異が生じていた。存在するのかどうかも分からない線引きによって、人間が寄り分けられている、そんなふうに、僕には感じられる。  これが所謂、運命というやつだろうか?  思いついて、独り笑ってしまう。  なんて大袈裟な響きだろうかと。  なんて胡散臭いんだろうかと。  運命とまでは言わずとも、例えば、大きな力や、巡り合せを司る力など、そういった人間が干渉することのできない、制御するには膨大過ぎる流れがあるのかもしれない。証明できない代わりに否定もできない。とても都合の良い位置に在るものが、今回の件では作用した、そのせいで、奇妙な現象が僕達を巻き込んだ、そんなところだろうか。  断じてしまえば、大自然の一部、誰か個人の意図ではなく、総合された連続性の末端に、たまたま接触した、それだけのことなのかもしれない。  壮大で厄介な因果関係が、この世には渦巻いている。  これには自然も、人も、科学も、オカルトも、全てが含有される。  逃げ場など無い。例外もない。世界の中で生きている以上、理の法則に縛られている以上、脱け出すことは叶わない。  そんな雁字搦めな中で得られる自由とは、何か?  何をもってして自由と定めるのか?  自分の人生を生きられるだろうか?  こんなことを考えるたび、僕は思うのだ。  こうして考えられることこそが自由の正体ではないかと。  自由を求めていられる今こそが自由であり、自由に生きたいと願い、行動を起こし続けることが人生なのだろう。  幼い頃から、僕はこんな子供だった。  知ったかぶりだと疎まれ、煙たがられてきた。  年齢を重ねても、それは敬遠に変わるだけだった。  変わり者と評されて、同年代からは距離を置かれがち。  それでも、どうにか、生きている。  上手くやろうと足掻いて、学んで、少しずつではあるけれど、適応できている。そんな気がしている。  これが人生なのだろう。  僕は、知っている。  学び、経験したからこそで。  故に、同類と出会えたことは、たまらなく嬉しい。  嬉しい、と素直に溢してくれた彼女へ。  きっかけはともかく、こんな僕を認めてくれる子を。  大切にしたい、と想う。 「もし、僕達が選ばれたのだとしたら……」  霧島さんの方へ顔を向けながら、思いついたことを口にする。 「それは僕達が、人間らしかったからかもしれないね」  聞いた霧島さんは、首を傾げて、小さく口角を上げた。 「あなたって、やっぱり、変わってる」 「よく言われる」 「私とそっくり」  霧島さんが歩き出す。  僕もそれに従う。 「私も、その発想をしたよ」  アーケード街を抜ける。道路に沿った歩道が現在地。 「人間が捻じれていたから?」 「そう」  霧島さんは笑みを浮かべて頷く。 「捻くれた性格、っていうでしょう?」 「言葉遊びみたいだ」  僕も笑いながら応じる。 「でも、そんな性格を形成するのは、人間だけのはず」 「うん、そうだね」  話しながら歩き続けて。  十字路に行き着いた。 「私、こっちだから……」  右方向を指しながら霧島さんが言う。僕の帰路は左の道だ。 「今日は、ここまでだね」 「えっと、じゃあ……」  別れの言葉を言いかけて、ふと思いつく。  そうだ。  どうして、今まで思いつかなかったのだろう。 「霧島さん。明日、暇?」 「えっ?」  僕の問いかけに、彼女は驚いた表情をして。  そして、そのまま動かない。答えもない。 「霧島さん?」 「あっ、ごめん、ええっと」  彼女は僕から視線を外し、一呼吸置いてから、こちらに向き直った。 「行こう、一緒に」 「えっ?」 「ああ、違う違う、いや、違わないんだけど、そうじゃなくて……」  霧島さんは大きくかぶりを振りつつ、訂正する。 「明日は暇です。空いています」 「じゃあ、もしよければ、一緒に出かけない? その出先で、今日の続きを話そう」 「大丈夫、行けます」 「何か用事とかあるなら、無理しなくていいから、遠慮せず言ってね」 「違うの、あのね……」  霧島さんは顔を両手で覆い、表情を隠してから、こもった声で言う。 「誰かから、どこかへ出かけよう、って誘われるの、多分、小学生以来……だったから、戸惑った」  それを聞いて、僕は思わずふき出してしまった。 「やだ、笑わないで」 「ごめんごめん」 「じゃあ、ええっと、待ち合わせ、どこにする?」  顔から手を離し、僕の身体の側面に軽く体当たりしてきながら霧島さんが聞いた。頬と耳がまだ赤かった。 「アーケード街の端の広場にしようか。座れる場所もあるし」 「分かった」 「時間は午前からでもいい?」 「大丈夫」 「じゃあ、十時で」 「うん」  とんとん拍子に予定が決まった。  僕達は互いにスマートフォンへメモを取り、明日のためのアラームをセットする。  事項を再度口頭確信した後、別れの挨拶を交わして、それぞれの帰路へと足を向けた。 「佐倉」  呼ばれた名前が自分のものだと気づくのに一秒かかった。  そういえば、名前で呼ばれたのは初めてかもしれない。  立ち止まって、振り向く。  霧島さんが僕を見て。  小さく手を振って。 「……また明日」  そんな彼女の言葉に。  僕は笑顔で頷いて。  手を振り返した。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加