第二章 善悪の光芒

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第二章 善悪の光芒

 スマートフォンのアラームで目が覚めた。  今日は土曜日のはずなのに、どうしてアラームが鳴っているのだろうと考えて、ああ、そうだ、約束があるからだ、と遅れて思い出した。  やかましいアラームを止めて、布団から這い出し、リビングへと向かう。コーヒーメーカにフィルタとコーヒーの粉をセットしてボタンを押す。  椅子に腰かけ、長く息を吐いた。  前髪をかき上げて、目を閉じる。  僕は、致命的に朝が弱い。意識がはっきりしないし、なんなら気分まで悪い。思考力も、この時間帯だけは極端に衰退してしまう。小学校低学年から高学年へ上がったくらいから始まり、中学に上がった頃からはより顕著に、この特徴が現れた。そして今に至るまで、僕を困らせている。ネットで調べてみたところ、体質や個人差など要因は様々にあり、僕の場合は、低血圧に起因するものらしいと判った。判ったところでどうしようもなく、対処法も民間療法のような眉唾なものしか存在しないため、実質、八方塞がり。故に毎朝この有り様というわけだ。  音がしたので、そちらへ目を向けると、コーヒーが出来上がり、自動でコーヒーメーカが停止した音だった。  あれ、もうそんなに時間が経ったのか、と瞬きを繰り返しつつ、ゆっくりと椅子から立ち上がって自室へと戻り、服を着替えた。それから洗面台へ向かい、顔を洗って、歯を磨いて、鏡を見ながら髪を直して、ようやくキッチンへと戻り、コーヒーをマグカップに注ぐ。  朝は基本的にコーヒーだけ。よほどの例外、学校行事などで食事を強制される、誰かの家で出された朝食、などの場合を除き、僕は朝食を食べない。胃が受けつけない。  ほどよく冷めたコーヒーを飲みながら、机上に置いたスマ―トフォンを指先で操作する。ニュース記事のページを開き、ぼんやりと眺める。  一応、異形の者に関連しそうなものはないかと、それらしいワードや地名を意識しながら読んでいくけれど、疑わしいものは見当たらない。世間は平和なようで、それは喜ばしい事実だ。今読んだ限りでは、芸能界のゴシップやスポーツ系の特集が多く見つけられる。僕はこの手のジャンルには全く興味がないけれど、少なくとも誰かが殺されたり、虐待死などが起きるよりは絶対に良い。人間社会では、こうした現実と建前、残酷さと娯楽が同じ場所で展開されている。倫理的に鑑みればおかしなことだけど、人間は意識して鈍感さを発揮することができる生き物であるため、適応するのは容易い。そうしなければ、現実世界を生きることは困難ですらある。  思考の制御がまだできていないな、と感じる。とっ散らかっているイメージだ。  それでも、今日に限ってはあまり問題ではない。学校がある平日と比べれば、午前中からの約束とはいえ、いつもの出際より何倍も時間的余裕がある。こうして無事、予定していた時刻に起きられた時点で、もう焦ることはない。  そう安心していた矢先、スマートフォンにメッセージが届いた。  通知アイコンを睨む。  嫌な予感がしたから。  開いてみると、差出人は母親。嬉しくない的中。  僕は舌打ちを挟んでから内容を読む。 【リビング 白いA4サイズ封筒 午後三時までに事務所へ】  とだけ書かれていた。  ひとまず、溜息。  身体を置いた場所はそのままに、視線だけを巡らせる。  机上にはコーヒーのマグカップと僕のスマートフォン以外に物はない。座っているこの高さ、水平の視点、映る範囲内に、そもそも白色がない。  思いつき、頭を下げて、机下を覗いてみた。  すると、対面の椅子の下に、白い封筒が落ちていた。  これか、と二度目の溜息をつきながら拾い、机上に置く。サイズはA4で間違いない。  一応、周辺と封筒本体をチェック。他に落ちている物はなく、追加で届ける必要などもなさそうだ。封筒は汚れたり濡れたりしておらず、中の書類が飛び出した形跡もない。開封部分はクリップで留められていた。このまま持って行くだけで良さそう。渡した後から、枚数が足りないだの、気を利かせろよ、などと怒鳴られ、物を投げつけられる等の理不尽な八つ当たりも回避できそうだ。まあ、そもそもとして、仕事で必要な重要物をこんなととろへ忘れた本人が悪いんだけど。  マグカップを手に取り、コーヒーに口をつけながら考える。  ここに急ぎの仕事関係のものがあるということは、昨晩は帰ってきていたらしい。着替えか、現金の補充か、その辺りだろう。僕が既に寝た後での帰宅、僕が起床するよりも前に出勤、ということになる。まったく気づかなかった。  帰ってこなかった日数は丸三日。顔を合わせていない期間は十日ほど。  どこで誰と何をしていたのか、仕事の都合なのか、個人的な付き合いか、プライベートで遊んだその帰りか、全くの不明。当然、逐一の連絡など皆無なので、事情は知りようがない。  いたって普通だな、と評価して。  いつものことか、と切り替える。  どうでもいいといえば、どうでもいいし、何がどうで、どうなるというわけでもない。  僕には関係のないことだし、余計な口を出せば手が飛んでくる。好きにさせておけば、こちらも好きにしていられる。自分の自由を犠牲にして無意味な干渉をする道理はない。  時間を確認。まだもう少し余裕があるけど、念のため、早めに出ることにした。  財布とスマ―トフォン、鍵をポケットに入れて、書類入りの封筒を掴み、玄関でブーツを履く。これを履けるのが、学校が無い日の良いところ。  扉を開けて外へ踏み出した瞬間、くしゃみが出た。  アーケード街入口に面した待合広場に到着したのは、午前九時三十分。約束の三十分前だった。  アナログ時計が埋め込まれた柱型の前衛的なオブジェで時間を確かめた後、周囲を見回す。広場には、やはりというか、若者が多い。大学生風の男女から、同校の生徒と思しき男女までが多く見受けられる。男同士、女同士、知人友人、おそらくカップル、と組み合わせは様々。遊ぶという目的だけが一様だろう。今は見当たらないけれど、そのうち、クラスメイトも現れるかもしれない。僕と顔を合わせたら、どんな反応をするだろうと想像して、独り笑った。我ながら趣味が悪い。  目の届く範囲を確かめ終えたところで、僕は重大なミスに気づいた。  そういえば、霧島さんと連絡先を交換していない。  しまったな、と目を瞑り、こめかみ辺りを押さえる。  昨日、別れ際に今日の待ち合わせを決めて、互いにスマートフォンを取り出すまでしたにも関わらず、どうして気づけなかったのか。我ながら抜けているというか、ああいった場面に慣れていないな、と再認識。勢いだけで誘ったのが丸分かりだ、と反省。  どうにか正面から、側面からでもギリギリ、彼女を識別することはできる。しかし、歩くシルエットや後ろ姿だけでは、どうだろう。いや、断定して声をかけるのは難しい。僕は彼女の私服姿を見たことがない、というのも不安要素。  とにかく、この場で悩んでいても仕方がないので、まずは広場内を歩いて見て周ることにした。  待合広場という名だけあって、ステージを模した壇上と石造りの段差、広場全体を囲うように置かれた煉瓦造りの大きな花壇と、その花壇に接合されるようにしてベンチが複数設置されている。昨日、僕が待ち合わせにここを候補として挙げたのも、待機に向いたこの造りからである。  大雑把にぐるりと見て周ったけれど、それらしい子は見当たらなかった。まだ来ていないのか、それとも他の、この広場の外側に面した箇所で立っていたりするのかもしれない。  外周も確認してから次を考えよう、と方向を変えた瞬間、広場に入って来た女の子と目が合った。  銀色の猫がプリントされた黒いパーカーを着て、黒いキャップを被った、学校外で初めて見る霧島の姿だった。 「おはよう」  僕は駆け寄って挨拶をする。 「おはよう、佐倉」  小さく手を振り応じてくれながら、霧島さんは微笑む。 「合流していきなりで申し訳ないんだけど、連絡先交換しておかない?」 「ここへ来てから、しまった、って思った?」  霧島さんは悪戯っぽい表情で聞いてくる。 「あ、同じこと考えたんだね?」 「うん。もうすぐ着くよ、って連絡しようとして、連絡先知らないのを思い出した」 「無事に会えて良かったよ」 「大袈裟」  そう言って、霧島さんは笑った。  短い相談の結果、行先はチェーンのハンバーガショップに決まった。出かけ先としての捻りはないけれど、代わりに安定性と座る場所、落ち着いて話ができる空間が得られる。  僕達はアーケード街を並んで歩く。行き交う人口の密度はそこそこ。 「そのパーカー可愛いね」  僕は自分の胸元を指しながら告げる。 「ありがとう」 「猫が好き?」 「うん。好き」 「犬とどっちが好き?」 「どっちも好き。でも、服にプリントされてるものだと、猫が優先」 「ああ、それは分かる」  僕は頷き、肯定する。 「佐倉は、どっちが好き?」 「僕も、どっちも好きだよ。ただ、犬とは直接触れ合いたいかな」 「猫とは、触れ合わなくていいの?」 「猫はね、こっちから触れず、自然体で過ごす様子を眺めてるのが一番可愛いんだ」 「あぁ、それ、分かる」  霧島さんは頷き、肯定してくれた。  僕達は雑談を続けながら、目的の店に入る。  霧島さんはハンバーガとカフェラテを、僕はポテトとコーヒーを注文した。 「ブラックコーヒー好きなの?」 「うん。もうね、コーヒー中毒」 「そうなんだ」  僕の返答に、霧島さんは笑う。 「ああ、でも、私も朝はブラックコーヒーがないとダメ」 「そうなの?」 「うん」  霧島さんは肯定した後、あれがないと目が覚めないから、と続けた。それを聞いた僕は大きく頷いて、分かる、と返した。  各々の注文した品を受け取り、それらが載ったトレーを抱えてテーブル席に着いてからも、交わす話題は枝分かれを繰り返し、僕達の間で会話が途切れることはなかった。  また、互いの好きなものを教え合ったことで、読書という共通の趣味が見出された。 「予想が当たった。そんな気はしてたんだ」  僕はコーヒーのカップに口をつけながら告げる。 「本当に?」  霧島さんが疑いの目を向けてくる。けれど、口元には笑み。 「霧島さん、話す時の言葉の繋ぎ方が綺麗だから」 「それは、初めて言われた。私、どちらかというと、口下手って指摘されるから」 「僕は、そうは思わなかったな。教室で初めて会話した時も、異形の者に関して要点を押さえて、効率良く情報を伝えてくれたし、語彙も豊富で、理解力があって、冷静に物事を観察できて、その上で自分の意見を出力して、こうして交互にハイテンポで伝達できているんだから、下手だなんてとんでもないよ」 「待った。そこまで」  開きかけのハンバーガの包みで自分の顔を隠すようにして、霧島さんがストップをかけた。 「どうしたの?」 「褒めてくれるのは嬉しい。ただそれ以上に、恥ずかしい」 「そのリアクションも可愛いよ」  僕がふざけて追撃すると、包みを降ろし、少し赤くなった顔のまま、もう、と言われた。 「普段、どんな本を読むの? 好きなジャンルはある?」  僕は意図して話題を戻す。  こんな急角度で修正しても平然と答えてくれるのが霧島さんなのだと、このお店に入るまでの時間で学んでいた。 「ミステリや科学解説が好き。遭難体験譚とか、面白生物の紹介本も読むよ」 「触れてるジャンルが手広いね」  僕は笑いながら感想を述べる。 「でも、こういうのって惹かれない?」  包みを開き、ハンバーガにかぶりつきながら霧島さんが聞く。 「確かに、惹かれるね。小さい頃は特に、不思議な生き物とか、超常現象とか、遭難やサバイバルとかの非日常って、馴染みがないぶん、知った時の衝撃が大きくて、どうしてそうなるんだろう、どういう仕組みなんだろう、どう対処するんだろう、なんて疑問から引き込まれて、気づいたら、そういうものを自分から求めて書籍を読み漁ったり、創作された物語で楽しんだりする習慣ができてるんだよね」 「そう。私も、取っ掛かりは、そういうところからで、なんなら今も、その真っ最中」 「もっと露骨なオカルトや都市伝説は、どう? 興味ある?」 「小学生の頃はよく読んでた。日本の妖怪大全とか、海外の都市伝説集とかを図書室で借りて、学校の休憩時間や、家に持って帰ったりして読んだ」 「同じだね。僕もそれやった」 「でもね、オカルト現象と、科学の知識が、並列で頭の中に入り続けて、この年齢までくると、素直に超常現象とかを信じられはしなくなったの。見聞きするのは今でも好きだし、面白いなとは思うけど、どうしても、科学的見地からみて、実現可能性を精査したりとか、そういう方向へ頭が向いちゃう」 「仕方がないね。それが正しく知識を得て、理解がなされている証拠でもあるから」 「大人に成った、ってこと?」  ハンバーガを食べながら、霧島さんが首を傾げる。 「成長したのは間違いないと思うよ」  僕は微笑んで答える。 「うん、僕も最近だと、豊富な語彙と科学用語で、怪奇現象や不可解な事象に理屈を付けて、面白可笑しく解説する本の方をよく読むかな。現象それ自体を楽しむよりも、その仕組みを理解して楽しむ方向へシフトしたんだと自己分析してる」 「私達、好みのジャンルや、これまで読んできたものが、本当にそっくりだね」 「だから、考え方や、ものの好みが似てるのかもしれないね」 「うん、あり得そう」  霧島さんはカフェラテを、僕はコーヒーを飲みながら、互いに納得した。 「これ以外の、被ってないものだと、何がある?」 「そうだなぁ。あとは、そうだ、僕、恋愛小説も読むよ」 「えっ? 佐倉が?」 「すっごく意外そうな反応」  僕は笑いながら応える。 「ごめん。その通りで、正直、かなり意外」 「一口に恋愛小説とはいってもね、作品は千差万別で、自分にとっての新しい発見があったりするんだよ。用いられてる比喩表現の豊富さや斬新さに舌を巻いたり、出会いの場面から、相手を意識するようになるまでの工程がよく練られていたり、多種多様な胸キュンシチュエーションとかが、結構面白いんだ」  そう答えた瞬間、霧島さんが露骨にふき出した。 「ごめん、ごめんなさい」  謝りつつも、霧島さんは身体をくの字にして笑い続ける。 「そんなに笑ってるところは初めてみた」  僕は感想を述べつつ、何かおかしなことを言っただろうか、と回想してみる。しかし、まったく思い至らなかった。 「僕、変なこと言った?」  素直に聞いてみる。 「あの、佐倉の口から、胸キュンっていう単語が出てきたのが、面白くて」  霧島さんは未だに笑っている。そろそろ息が苦しそうになってしまっていた。 「ああ、そこね。でも、表現的には合ってるよね?」 「合ってるとは思うけど、最近の言葉ではないと思う」 「えっ? そうなの? 死語?」 「多分」 「えぇ……そうなんだ。びっくり」  僕はポテトをつまみながら呟いた。 「ねえ、広場で合流した時から、ずっと気になってたんだけど、その封筒、何が入ってるの? 異形の者関連の資料?」  霧島さんが、僕の持参した封筒を指しながら聞いた。 「ああ、これね」  コーヒーのカップをテーブルに置きながら僕は答える。 「今朝、母親からメッセージ届いてさ。リビングに仕事用の書類忘れたから、事務所に届けてくれ、って頼まれたんだ」 「事務所?」 「僕の母親、税理士やってるんだ」 「そうなの? ああ、それで事務所」  霧島さんは納得した様子で数度、頷く。 「すごい、格好良い」 「ありがとう」僕は苦笑いで応える。 「でも、今朝頼まれたってことは、急ぐんじゃない?」 「午後三時までに、って書いてあったから、まだまだ余裕」 「猶予と移動時間を加味して逆算したら、余裕っていうほどでもないと思う」  スマートフォンの画面を見て、時間を確かめながら霧島さんが述べる。 「う~ん、正直、行きたくないんだよねぇ」  僕は残るポテト達をひと掴みにし、食べ切りながら渋る。 「面倒だから? それとも親と、親の職場で会うのが恥ずかしい?」 「母親とね、かなり仲悪くてさ」 「え、そうなんだ。意外」  カフェラテへ伸ばしていた手を止めて、霧島さんが言う。 「家族仲は良いのかと想像してた。佐倉、穏やかだから」 「そう見えるなら、良かったかな」  僕は肩をすくめながら応える。自分は穏やかだろうか、と自問しつつ。 「やっぱり、人って、分からないものなんだね」 「人間は自分を取り繕えるからね。年齢を重ねるごとに、より一層」 「……実はね、私も、お父さんと仲悪いんだ」  ハンバーガを食べ終え、その包みを指先だけで器用にたたみながら霧島さんが言った。 「あれ、そうなんだ。ちなみに、どれくらい?」 「とっても」 「そっか」 「驚かない?」 「驚いてはいる」 「意外ではない?」 「自分がこんなだからね」 「仲良くしなきゃダメとか、思わない?」 「全然。むしろ、どうして仲良くするのが普通だと押し付けられなきゃいけないのか、って思う」  僕の答えを聞いて、霧島さんは微笑んだ。 「私と佐倉って、やっぱり似てる」 「僕もそう思う」 「佐倉に話して良かった。他の人だと、自分から歩み寄って関係を改善する努力をしなさい、って怒られたり、同級生とかだと、共感はしてもらえても、仲の悪さの桁が違うっていうか、言葉の中身にすら温度差があって、逆に辛くなっちゃうから」 「それ、すごく分かるなぁ。世の中には、どうしようもない家庭っていうのもあるんだよね」 「うん、ある」 「僕のところがそうだし」 「うちも、そう」 「今後また、こういう話ができる相手欲しくなったら、遠慮なく相談してよ。メッセージでもいいし、電話してくれてもいいからさ」 「……いいの? 本当にするかも」 「いいよ、勿論」  僕は笑いながら応える。 「こういうのって、どこかへ吐き出さないと、やってられないからさ」 「ありがとう。ねえ、私も、聞くから。困ったら、正直に話して」 「うん。その時は、頼らせてもらう」  産みの親と仲が悪い、というのは、もうそれだけで親不孝なのかもしれない。  けれど、そうなった要因が子供にばかりあるわけでは決してない。各々の家庭に、それぞれの複雑な事情や、本当にどうしようもなかった理由が重なって、現在の不仲が形成されてしまうことだってある。だから、一概に不仲が悪いとか、両者が歩み寄って和解するばかりが解決ではないと僕は考える。  修復不可能な関係性だってあるのだ。それは親子でも、それ以外でも、あり得る話。  様々な関係において、修復不可能、歩み寄りなどできない、そういった結論の末に距離を置き、その方が荒事なく、滞りなく、その後の人生を送れるケースだって沢山ある。それが親子関係においてのみ、絶対に和解以外は認められない、それ以外などどんでもない、正しくないから良くない、だなんて断じてしまわなくたっていいじゃないか。  人の数だけ関係があり、関係には無数の形式がある。僕達の場合は、それが親とは距離を置く、というものだっただけのこと。こうした形を許容して、選択を尊重してあげることだって、必要な正義であるはずだ。  僕達は、意思を交わせた喜びを表す笑みを交わして、カップを手に取る。 互いに食事は終えて、残すはこの一口のみ。 「じゃあ、そろそろ出よう」  空になったカップをトレーに置きながら霧島さんが言った。 「あれ、お店出たい? 次にどこか行きたいところある?」 「その書類、届けに行こう」 「え?」 「嫌なこと、終わらせちゃおう。一緒に付いて行くから」 「でもまだ、異形の者についての話、何もできてないし、その上で、僕の家庭事情に付き合わせるのは……」 「移動しながらでも、お話はできる。だから、ほら、行こう」  霧島さんは席を立ち、僕へ向けて手招きをする。 「……分かった。その、ありがとね。気を遣わせちゃって」  礼を述べてから、僕はコーヒーを飲み切って立ち上がる。 「私、今、気遣ってないよ」  片手でトレーを持ち、もう片方の手で僕の手を引きながら、霧島さんはさらりと言ってのけた。  お店から出ると、その瞬間にくしゃみが出た。しかも二回連続。  自分の身体なのだから、せめてタイミングは調節させて欲しい。格好がつかない。 「花粉症?」 「そう、花粉症。この時期は毎年、こんな感じ」 「そうなんだ」 「霧島さんは平気?」 「平気みたい。花粉を意識したことなかった」 「体質交換しない?」 「しない」  しばらくアーケード街を歩いて、そこからいつもとは違う角で曲がった。 学校へ登校する時とは異なり、通りの途中で横道に入り、その方向へ直進する形である。背の高いビルに両側を挟まれた、細く人通りの少ない直線を先へ先へと行くと、ひらけた四車線の広い道路に出る。県内で一番大きな駅が、車通りの向こう側に見える。その駅周辺のビルに入っているテナントのうちの一つ、三階の窓に、佐倉税理士事務所がある。 「あそこなの? びっくり」  僕が指した事務所の場所を見て、霧島さんは感想を漏らした。 「駅周辺の建物のテナント料は高い、って読んだよ」 「小説の中に書いてあったの?」 「そう。ミステリ小説」 「ああ、なるほど」僕は頷く。 「実際は、どうなんだろう」 「僕も正確なところは知らないんだけど、でも、そんな話はよく聞くね」 「てことは、お母さん、凄腕なんだね。利益沢山出てる、ってことだもんね」 「う~ん、そうなるのかな」  僕は首を傾げて同意をしかねる。  僕が生まれる前から今の仕事に就いていたらしいので歴は長く、実績も確かなのだとは思う。となれば、ある程度は稼げて不思議ではない。けれど、どの程度稼げているのかまでは知らない。そういった金銭に関する話を親子でしたことがないし、そもそも僕と母親は会話をしない。故に、家計に関しては本当に分からないのだ。  逆に、借金で首が回らなくなっている、という様子や予兆も特にない。もしも、僕に対して上手く隠しているのだとしたら、大成功である。まあ、破産寸前という事情を隠し通すことを、世間的に見ても大成功とは言わないけれど。  信号が変わるのをやや長く待ち、横断歩道を渡って、目的ビルの真下まで移動。  建物の正面左から上へと続く狭い階段を登る。踊り場で二度のターンを経て、三階に辿り着く。そこには『佐倉税理士事務所』と書かれた小さなプレ―トが埋め込まれたドアが出迎える。  僕は霧島さんの方を向き、着いちゃった、と大袈裟に顔をしかめてみせる。  霧島さんはそんな僕の振る舞いを見て、口角を上げた後、被っていたキャップを脱いで手に持ち、手櫛で髪を直してから、準備できた、と言った。なんて礼儀正しいのだろう。僕も見習った方がいい。  すぐ横に取り付けられたインタ―フォンを押して、しばし待つ。その間、霧島さんが僕の後ろに隠れたのが分かった。  ドアがゆっくりと開き、栗色の髪をした女性が顔を出した。 「あら、久しぶり。元気してる?」 「篝(かがり)さん、お久しぶりです。元気でやってます」  顔を合わせた際の定番の文言を交わした後、僕は僕の背に隠れていた霧島さんへ、彼女を紹介した。  彼女の名は篝さん。色白で、僕よりも十センチは背が高い。短いストレートヘアで、いつも前髪を片方だけピンで留めている。ぱっと見、年齢は二十代後半くらいに映るけれど、彼女が母の事務所に雇われ、こうして仕事の用件などで顔を合わせるようになって、もうだいぶん長いので、計算してみるに、三十代後半に足がかかっているはずである。本人に尋ねるという無礼な真似はしたことがないので、正解は不明のまま。  次いで僕は、篝さんへ霧島さんを紹介する。  高校に入学してからできた友達で、趣味が合ったため、急速に仲良くなり、こうして休日に遊ぶことになったのだ、と。  嘘というほど嘘でもなく、当たり障りもない、矛盾もなく、異形の者の存在など毛ほども見えない、実に耳触りの良い説明ができたなと、我ながら満足。 「そっかぁ。もう高校生になったんだねぇ」  篝さんは僕の頭を軽く撫でながら言う。 「ついこの前までは、中学の制服着て、可愛い顔してたけど、ちょっと見ない間に進学して、大人っぽい顔に変わっていくんだもんなぁ。時間の流れって凄まじいよね。私も歳取るはずだわ」 「でも、篝さんは全然、顔変わってないですよ。初めてお会いした時のままです」 「あら、本当に? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」  篝さんは笑って、先程まで頭を撫でてくれていた方の腕で、僕の肩を抱いた。 「お世辞覚えたとかじゃなくて?」 「本心です。スキンケアとか、食事に気をつけたりしてます?」 「それが、特に何もしてないんだよなぁ。あ、あれかも。基本仕事でこの事務所に篭りっぱなしだから、紫外線浴びにくいから?」 「ああ、それかもしれませんね。紫外線の影響はかなり大きいって、本で読みました。頻繁に車の運転する人も、皺やシミができやすいらしいです」  僕は自分の目元を指しながら応える。 「そんな恐ろしいこと、どこに書いてあった?」 「人体変化のメカニズムとその外的要因、っていう本に書いてありました。学生向けの生物系解説本です」 「相変わらず賢い子だ」  篝さんは僕の肩を抱いた方の手で、僕の肩を軽く叩いて笑った。 「それで? 今日は、どうした?」 「母の仕事の資料を届けに来ました」  答えながら、僕は封筒を差し出す。  篝さんは受け取りながら、ああ、はいはい、これか、うん、朝に聞いたけど忘れてたわ、と呟いた。 「ごめんね。届けてくれてありがとう。本当に助かったよ。ここだけの話、これね、顧客の紙名簿なのよ。だから、万が一、紛失したとか、その辺で落としちゃった、とかになると、もう大騒ぎ。大事になっちゃう。この事務所潰れちゃうくらいにヤバいものなの」 「えぇ……? じゃあ、僕、とんでもないものを片手で運んできたことになりますよね?」 「あ、これ、抜き身このままで持ってきた感じ?」  篝さんは含み笑いを混ぜつつも、声を落して聞いてくる。 「はい、すいません。封筒を持ってきて欲しい、とだけメッセージで受け取ったので」  僕も合わせて、声をワントーン落としながら答える。 「お母さん、特に内容とか、重要かどうかの説明とかは……?」 「ありませんでした」 「あの人は、もうさぁ……優秀なんだけど、こういうところが、ねぇ?」 「ええ、まったくその通りです。どうしようもない」 「ごめんな。お母さんのことをこんなふうに言って」 「いいんですよ。事実ですから。頭から尻尾の先まで、僕はあの人と噛み合わないし、だから、味方にもなってあげたくありません」 「私の知らない間に尻尾生えたの?」 「ええ、今度見せてあげますね」  僕がそう返すと、篝さんはふき出してから、面白い子だよね、と霧島さんの方を向いて言った。  突然話しかけられたことで、霧島さんは身体をびくっと跳ねさせてから、えっ、あっ、はい、と普段よりも高い声で返事をした。 「ごめんね、霧島さん。話し込んじゃってて」 「あっ、大丈夫です。あの、私、霧島といいます。御挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」  霧島さんは背筋を伸ばし、勢いそのままといった様子で頭を下げた。 「ああ、そんな固くならないで大丈夫。ほら、近所の姉ちゃんと話す感覚でいいから」  僕に巻き付けていた腕を解いて、霧島さんのすぐ側へと歩み寄りながら、篝さんが言う。  個性的な例えだな、と思ったけど、僕は口を挟まずに大人しくしていた。 「この子と仲良くしてくれてるんでしょ? ありがとね」 「いえ、そんな……」 「分かった。貴女、人見知りだな?」  篝さんは、今度は霧島さんの肩を抱いてそう聞いた。  肩を抱かれた霧島さんは首を竦め、こわばった表情を僕へと向けてくる。 「その、はい。そうです……」 「篝さん、怖がられてますよ」  霧島さんが僕へ向けてアイコンタクトを続けるので、さすがに助け舟を出した。 「あれ? マジで? おっかしいな。私、馴染みやすいキャラだと思ってるんだけど、ごめんね、霧島さん」 「いえ、私の方の問題なんです。篝さんのおっしゃった通り、私、すごく人見知りなもので、初対面だと、どうしても緊張してしまうんです」 「高校生くらいまでは、そんなもんだよ。気にすんな。そのうち慣れるよ」  霧島さんの肩を軽く叩きながら、篝さんは告げる。 「そうだ。もうお昼だし、三人でご飯行く? お姉さんが奢ってあげるよ」 「あ、ごめんなさい。食べてきちゃいました」  僕は自分のお腹を押さえながら答える。事実、これ以上は入らない。 「あらぁ、そうなの? 残念。私、霧島さんともっと話したかったな」  篝さんは心底残念だ、という表情で言った。その隣で、肩を抱かれたままの霧島さんが、今度、また今度行きましょう、と視線を下げて懸命に応えている。 「霧島さんの言う通り、今度また、三人でご飯行きましょう」 「そう? なら、約束だかんな? 私、建前とか知らんぞ。行くって言ったらマジで連れて行くからな」  篝さんはそう宣言して、霧島さんを抱いていた腕を離す。そして、僕と霧島さんの頭をくしゃくしゃと撫でてきた。 「ご飯もそうだし、何かあったら、気軽に相談してきな。高校生って思春期真っ盛りだろ? 親や同級生や先生相手じゃ話しにくいことも出てくるだろうから、その時は、私のとこ来な。霧島さんも、遠慮なんてしなくていいからね」  僕は、はい、と、霧島さんは、ありがとうございます、とそれぞれ応えた。  その後、別れの挨拶をして、僕達は篝さんに見送られながら階段を降りて、建物から出た。  信号が変わるまでがやや長い、横断歩道の前で立ち止まったところで、霧島さんが息を吐いた。 「大丈夫?」僕は聞く。 「うん、大丈夫。緊張しただけ」  ずっと手に持ったままだったキャップを被り直しながら、霧島さんは応える。 「佐倉のお母さんと会うつもりで構えてたから、そこを油断してて」 「ああ、そうか。ごめんね、篝さんのこと、事前に伝えておけばよかった」 「ううん、いいの。それに私、あの人は好き。会えてよかった」 「あれ? そうなの?」 「うん」霧島さんが頷く。 「最初はね、やっぱり緊張したし、距離が近くて驚いたけど、篝さん、良い人だってすぐ分かったから」 「確かに、良い人だよね。裏表なさそうで、考えも感情もストレートに伝えてくれるし」 「そう。それに私、大人の人からあんなふうに言ってもらえたの、初めてだったから、嬉しかった」 「気軽に相談してきなよ、って?」 「うん」  霧島さんは頷いて肯定した後、視線を逸らしてから言葉を続ける。 「大人の人から、注意されたり、怒られたりすることはあっても、気さくに話しかけられたり、頼っていいからね、なんて言ってもらえたのも初めてで……感情がね、ちょっと揺れてるんだ」 「動揺?」僕は聞く。 「うん」 「苦しい?」 「そうでもない。嬉しかったのは本当だし、経験したやり取りは新鮮だった。篝さんの言う通り、こういうのを繰り返していけば、人見知りも改善できそうな気がする」 「慣れだね」 「うん、慣れ」  霧島さんが頷いたのを確かめてから、僕は視線を前へと向ける。  行き交う沢山の車。  それには人が乗っている。  社会には多くの人がいて。  人により社会が創られる。  個人か、パートナか、家族か。  形態は様々に、自らの選択のもと。  信号はまだ変わらない。  青信号でないと、歩行者は渡ってはいけない。  何故かといえば、それがルールだからだ。  人が創った社会には規範が存在する。  それはマナーであり、モラルである。  順守すれば庇護、破れば罰せられる。  法律であれば分かり易い。命と権利の話だからだ。  では、もっと身近な、もっと個人的なものでは、どうだろう? 「霧島さん、一つ、質問してもいい?」  僕は前を向いたまま聞く。 「いいよ」  霧島さんも視線を逸らしたまま応えてくれる。  唐突な問いでもすぐに答えてくれる。目を見張るほどの反応速度。鋭い頭の切り替え。  予感していたのだろう、と察した。話題も意識も、既に互いへの疑問に寄っていたから。 「霧島さんのところって、お母さん、いる?」 「ううん、いない」 「教えてくれて、ありがとう」 「私も、聞いていい?」 「どうぞ」 「佐倉のところ、お父さん、いる?」 「いないんだ」 「そう」  音は聞こえる。  車の走行音。通りを歩く人々の足音。横切る話し声。ひっくるめて、社会の生命音。  社会を成せるだけの人の数があるのなら、それだけ多くの事情というものが生じる。総数に比例するだけの正義が宿る。  個人の事情は一様ではなく、掲げられる正義は、物事全てに適用できるわけではない。  これを理解しているのなら良い。臨機応変に、向ける相手を選び、優しさを忘れさえしなければ、問題は起きない。誰も傷つかない。  でも、それが難しい。本当に難しい。  だから、争いが絶えないのだ。小さな喧嘩から、水面下の罵り合い、他人との衝突から、血の繋がった者同士でさえ、ぶつかることがある。  理屈の上では和解と理想論をいくらでも語ることができるけれど、現実において撲滅することは、事実上不可能だろう。  ただ、それでも……。 「佐倉」  視線を向ける。  霧島さんは微笑んでいた。 「教えてくれて、ありがとう。聞けて良かった」  求めさえすれば、理解者は見つかる。 「むしろ、聞いてくれて、ありがとう」  僕も微笑み返す。  自分自身を曝け出し、相手を理解しようと努めれば、変化は訪れる。  根本からの解決はすぐではないかもしれない。納得できるほどの幸福は、まだ得られないかもしれない。  それでも、変わる前の日々よりは、必ず前進してゆけるはず。  ようやく青になった信号を確かめて、僕達は並んで歩き出す。 「今日ね、アーケードの中を歩いてる時、想像したんだ」  霧島さんが口を開く。 「異形の者が、目の前の人の群れの中にいたら、どうしよう、って?」  僕が先回りすると、霧島さんは口角を上げて、さすが、と褒めてくれる。 「でも、いなかった」 「うん、僕も見なかった」 「どうして、街では見たことがないんだろう」  霧島さんが呟く。 「うん、どうしてだろう?」 「人が多いってことは、それだけ異形化する可能性のあるもの、その要因に接触している、もしくは関わってしまっている確率は上がるはず。そうだよね?」 「統計的にみれば、そうなるね」 「数字的な確率を無視して、どうしてあの朝の、登校中の坂にだけ、現れたのか」 「おかしな話だよね。道理に合わない」  そう返してから、僕はふっ、と笑ってしまう。 「そういえば今日、まだ全然、異形の者の話してなかったよね。これを目的に出かけてきたはずなのにさ」 「今してるから、セーフだよ」  霧島さんも笑いながら応えてくれる。 「本格的に捜索したら、街の中でも、異形化してしまった人を見つけられるかな?」  僕は聞く。 「可能性だけでいえば、ゼロではないと思う」  霧島さんが答える。 「結局、異形化する条件が不明だから、断言はできないけど」 「早乙女の場合と同じか……」僕は呟く。 「やっぱり、早乙女君を問い詰めてみるしかないね」 「いきなり問い詰めるのは、ちょっと……」  僕はふき出しながら応える。 「とりあえず、現状、彼から情報を引き出すのが優先事項?」  こちらへ首を傾げてみせながら霧島さんが聞く。 「そうだね。早乙女がまだ情報を持っていることに期待しよう」 「当てが外れた場合は?」 「その時に、また考える」 「分かった。その時は、一緒に考えよう」 「ありがとう。助かるよ」 「今日、これで解散?」  問われた僕は、周囲へ視線を巡らせる。  アーケード街まで戻って来ていた。  お店に目が留まる。  視線を戻し、霧島さんの表情を見る。  思考は一瞬。  決断は即時。 「霧島さん、カラオケ行かない?」 「行く」  返事も一瞬だった。  翌日の日曜日は、自室で大人しく過ごした。  宿題と自主勉強をして、読書を楽しんで。  明日話す内容を頭の中でリストアップ。  反芻して記憶する。メモは必要ない。  日付を跨いで、やってくる月曜日。  春の義務だと言わんばかりに、国内では相変わらず花粉が舞っているらしく、マンションの部屋を出た時と、アーケード街を歩いている時に、くしゃみが連なって出た。  立ち寄ったコンビニで唐揚げ弁当とお茶を買い、高校への通学路である、緩やかな坂を登る。  坂道を登り切る少し手前、校門が見えるか見えないかの場所で、僕はわざと立ち止まった。  そう、此処だ。  異形の者と遭遇した場所。  イメージを処理。映像を再生。  色褪せない。まだまだ記憶に新しい。  周囲を見回すと、視界に入るのは、眠そうな表情の生徒、友人とのお喋りに興じながら登校する生徒、つまり、常ばかり。  平和な光景だけがある。  理を隔て、歪な姿を晒した者など、いやしない。  初回の遭遇以降、目立った事件は起きていない。  また、あの遭遇以降、他の場所で異形の者の姿を見ることもない。  平穏が戻った、といえばその通りで、好ましい事実であるのだけれど、それは、進展へのきっかけがない、ということでもある。発生条件が不明で、法則性のヒントも得られない。考察しようにも、考える糸口がそもそも掴めないので、手繰りようがない、というのが現状。  このまま、霞のように消えてしまうのだろうか?  時間と共に流されてしまって、皆の記憶から、僕が起こした珍事は忘却されて。  いずれは僕自身の中からも消え去るつもりだろうか?  あれは幻覚だったのだと、見間違いだったと、中身のない適当な言い訳に、無理矢理の納得をして、投げ出してしまうだろうか。  異形の者との遭遇は現実だったはずで。  理解者であり、目撃者である、霧島さんがいる。  早乙女という、異形と化した当事者の証言もある。  これだけ揃っているというのに、何も証明できていない。  確かなものを見つけることができていない。現象の説明は付けられず、超常的な力の根源、どうして僕達だけが巻き込まれたのか、これらを突き止められていない。時間だけが悪戯に過ぎていく。  駄目だ。  気に入らない。  納得できない。  こうした停滞は、どうにも気持ちが悪い。  僕の横を、女子生徒二人組が邪魔そうに避けながら通り抜けた。  溜息をついてから、僕は再び坂道を登り始める。  校門を通り過ぎ、校舎へと入る。玄関で靴を履き替え、階段を上がり、教室に着いた。  幾人か生徒がいたので、僕は挨拶をして回った。  僕と霧島さん、早乙女以外の生徒以外は依然として、あの朝の騒ぎは、僕と早乙女の個人的な喧嘩だったと認識しているので、僕に対する反応は未だ、ぎこちないものが多い。  冷たくされるのは悲しいことだけど、いちクラスメイトとして僕の存在が認知され、当たり障りなく接してもらえるようになった時は、異形の者に関する件が忘れられてしまった、ということにもなる。  熱は冷め、何故という疑問も霧散する。  それは諦めの裏返しであり、関心の消失であり、意識から切り離してしまった証左。  受け入れ、赦し、先へ、先へと歩みを進める。これが人間の特性。  その過程で、あらゆるものを忘れていく。自分から切り離す。  こだわり、記憶、そこに居たはずの人間すらも。  嗚呼。  複雑だ。  僕と、異形の者と、それを取り巻くものが、どうにも絡み合っている。  予鈴が鳴った。もうすぐホームルームが始まることを知らせるものだ。  思考を切り上げ、目線を上げて気づいた。  霧島さんがいない。彼女の席は空だった。  こっそりと制服のポケットからスマートフォンを取り出して通知を確かめたけれど、特に連絡もない。  どうしたのだろう。風邪だろうか。体調不良で欠席ならまだいいけれど、もし何かあったのだとしたら? 現実的なトラブルか、まさか異形の者との遭遇? 可能性は、どれくらいあるだろう? 僕に今、何ができる? すぐに何かしらの行動を起こすべきだろうか? などと頭の中で、候補と案が駆け巡る。  けれど、全ては杞憂に終わった。  担任の先生とほぼ同時に、霧島さんは慌てた様子で教室に入ってきた。  席に着く直前、視線が合ったので、僕は小さく片手を挙げた。  霧島さんも同様に片手を挙げ返してくれたけれど、その顔はほとんど無表情だった。  違和感。  何かがあった。  そう察した。  本鈴が鳴る。  ホームルーム開始を報せるチャイム。  僕を含むクラスの生徒は全員着席している。担任の先生が朝の挨拶をし、伝達事項の口頭説明が始まったため、その先を考えるのは、ひとまず保留となった。  四限目まで授業が終わり、昼食時間と昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った。  一斉に動き始めるクラスメイト達と同様に、唐揚げ弁当とお茶のボトルを持って、僕も席を立つ。 「霧島さん。昼ごはん、一緒に食べない?」  彼女の席まで移動して声をかけた。 「あ、うん、食べる」 「教室じゃなくてもいい?」 「教室じゃない方がいいと思う。あの話、するでしょう?」 「そのつもり」  僕と霧島さんは教室から出て一階まで降り、戦場と化している購買を通り過ぎて、その先にある扉から外に出た。  出た先は学び舎に挟まれた空間、いわゆる中庭である。木製の長テ―ブルと長椅子が地面に半陥没するように複数置かれている。炎天下と真冬を除く、天気の良い日は、ここで昼食をとることができる。  僕はコンビニで買った唐揚げ弁当を、霧島さんもコンビニのものと思しきサンドイッチを開けながら話を始める。  まず話題として挙がったのは、霧島さんが以前、ネットで見つけた記事、母親が娘を殺害し、遺体を箪笥に隠して遺棄した事件についてだった。  犯人、つまり、被害者である娘の母親は、何故、箪笥を選んだのか?  ずっと保留にしていたけれど、この点も不可解ではあった。  死体を詰め込むにしろ、隠すにしろ、それに適した容器は他にもあるだろうに、どうしてわざわざ、西洋風の箪笥などという、重くて、大きくて、目立つ、気密性の低いものに入れてしまったのか? それでなくてはならない理由でもあったのだろうか?  僕と霧島さんの間では、これがどうにも気にかかる部分であり、折を見て議論したいと考えていた。 「明確な動機があったかどうかは、正直、半々だと思う」  霧島さんが意見を述べる。 「儀式的な意味合いか、狂気的なこだわりなのかもしれない。自分の中の、つまり、件の母親にとっての正義を遂行している過程その一部だったのかもしれない。もしくは、その時点で既に、母親は正気を失っていたか」 「あまりに短絡的な可能性だけど、手近にある大きな箱が、それしかなかったから、というのは、どうかな? 馬鹿馬鹿しい?」 「いや、勿論それも、考えられる」  僕の述べた持論に対して、霧島さんは頷き、肯定してくれる。 「クーラボックスやキャリーケースを所持していなくて、人を詰め込めるサイズの堅牢な箱型の物体が箪笥しかなかった。だから、多少不都合であっても、強引に詰め込んだ。うん、不合理ではあるけど、あり得なくはない」 「母親が一人で運ぶには、大き過ぎる気もするけれど、母親自身の体格にもよるだろうし、火事場の馬鹿力なんて言葉もあるしね」 「やろうと思えば、誰だって、何だってできる。人間は、覚悟さえ決まれば、意外と無理を通せる生物だから」 「うん、その通りだと思う」  僕は頷き、彼女の意見を肯定する。 「手足や首を折った理由も、箪笥に入れるためだよね。殺すだけなら、首を折った時点で、達成してる」  手にしていたサンドイッチを大袈裟に折り曲げながら、霧島さんが言った。サンドイッチは首に見立てられているらしい。 「そうだろうね。でなきゃ、よっぽど憎んでいたか」  僕は唐揚げを箸で掴みながら言う。 「自分の娘を? 手足や首を折りたくなるほど、憎んでいた?」 「実際、あり得ない話じゃない」 「まあ、そうだね」  互いに頷き、そこからしばらくの間、黙々と食事をした。  ここまで話したことは、しかし憶測の域を出ない。警察からの公式発表でこのような細部が明らかとなったたわけでもない。僕達が僕達の間で想像を垂れ流しているだけ。言ってしまえば、妄想と同義。  そもそもとして、寸分違わぬ明確な答えなど、命を奪うに至り、そこから更なる凶行に及んだ動機など、犯人の中にしか存在しない。関わる他者がそれを見聞きしたとして、理解できるとも思えないし、理解したからといって、奪われてしまった命は還ってこない。時間は巻き戻せない。  そこまで分かっているのに、こうして妄想を口に出すのは、そうしたいから、という自己満足に他ならない。  霧島さんと意見交換をすることが叶った。それについて、僕は満足することができた。  けれど、やはりというか、進展には繋がらない。答えに迫るための材料が不足しているのだから、当然と言えば当然。  割り箸を持った右手を眺める。  こちらの手で触れた。  感触という記憶が、僕を繋ぎ止めている。  拳を作って殴りつけたのだ。見間違うはずなどないではないか、と。  伝達された力によって跳ね上がった異形の頭部と、伸び切った首の皮膚が鮮明。  しかも、その異形の身体は早乙女のものだ。見知らぬ何処かの怪生物のそれではない。  どういうことかといえば、僕一人の問題ではない、ということ。  僕一人がおかしい、僕の頭が壊れていた、では説明がつかない。  おかしなことは確かに起きた、という部分だけは証明されている。この中途半端さが、しかし、この件を複雑にしている原因でもある。 「佐倉?」  かけられた声に反応して顔を向けると、霧島さんが僕を心配そうな表情で見つめていた。 「大丈夫。ちょっと考え事をしてた」 「そう」 「それで、何があったの?」  僕は唐揚げを口に運びながら切り出した。 「えっ? 何が、って?」 「今朝、霧島さんの家で何かがあった。違う?」 「……さすが、鋭い」  言いながら、霧島さんは食べかけのサンドイッチを包装ビニル内へと戻した。  次いで、制服のブレザーのポケットへ片手を入れる。 「聞いてくれる?」 「むしろ、話して欲しい」  そう告げると、霧島さんは制服のブレザーのポケットから片手を引き抜いた。  握っていたその手を開くと、そこには折れて二つになってしまった銀色の鍵。 「これ、何の鍵? どうして折れているの?」  僕は気になった点に絞って質問をする。 「これは、私が住んでるマンションの、私の部屋の鍵。折れている理由は、今朝、お父さんが怒って折ったから」  霧島さんは肩をすくめながら答えた。 「怒った理由は?」 「お父さん。今朝、超長期の出張から帰ってきたの。とても疲れてた。そんな時間に帰ってきたことからも分かる通り、交通の都合でほとんど徹夜だったらしくて、要するに、機嫌がすこぶる悪かった。玄関に入るなり怒鳴ってきて、理解できない言いがかり的な理由で、私、怒られた」 「八つ当たりじゃん」 「そう」霧島さんは軽く頷く。 「よくあるの?」 「しょっちゅう」 「手は出されなかった?」 「そこは、大丈夫。お父さん、絶対に手は上げないんだ。このご時世だから、娘を叩いたり、殴ったりしたら、自分が捕まるって分かってるからだと思う」 「つまり保身で、自制してるわけか」  僕は溜息混じりに言う。 「私が観察した限りでも、そう」 「褒められた人格じゃないね。娘に八つ当たりする時点で論外だけどさ」 「本当にね」  そう言って、霧島さんは笑った。  笑ったのだ。  普通なら、笑えなどしない。  でも、彼女は笑った。  嗚呼。  悲しくなる。  麻痺してしまっているのだろう。  親とのやり取り、その異常性に対して。  分かっているのだろう。  どうしようもない、どうにもできない、と。  慣れてしまっているのだろう。  降りかかる理不尽に、不条理な環境に、不要なはずの我慢に。  熱い感情と、冷たい感情が、僕の中で同時に起こる。  この子を助けてあげたい、という衝動。  この子の気持ちが、考えが、痛いほど分かってしまう自分。  二面性と表して適当だろうか。それとも、一方的な共感性か。  名称がどうであれ、どうでもいい。勝手な感情であったとしても、咎める者などいやしない。  どうして、こんな良い子が、こんな目に遭わなくてはいけないのか、という憤りがある。  そして、ああ、これだったのか、と納得もした。  今朝、ホームルーム前に霧島さんと目が合った際の違和感。  彼女を無表情にしてしまう要因。彼女が遅れそうになった原因。諸悪の根源。  それが判った。  さあ、どうすればいい?  何が、といえば、僕が、である。  異常を察し、事情を聞いて、その先は? 聞いて終わりか?  愚痴を受け留めてあげれば、それが救済と成り得る?  たったそれだけで限界なのか?  僕に何ができるだろう。  彼女に何をあげられる?  僕にどこまでできるだろう。  彼女のために、どこまで……。 「しかも、これね、お父さん、素手で折ったんだよ」  霧島さんの言葉で、僕は思考を一時中断する。 「素手で? 怪力じゃん」 「普通のサラリーマンなんだけど、こういう時だけ、リミッターが外れるのかも」  そう言って、霧島さんは、また笑った。  僕も微笑む。内心は全然、笑えないけれど。 「でも、鍵を折った理由は? 鍵に関することで八つ当たりしてきたから?」 「ああ、これはね、帰ってくるな、っていう意味」 「帰ってくるな? 締め出しってこと?」 「そう」 「そんな、じゃあ、霧島さん、今日、どうするのさ。学校終わったその後、あてはあるの?」 「ううん、ない」 「いやいや、マズイじゃん」  僕はずっと持っていた唐揚げ弁当のトレーと割り箸を木製テーブル上に置きながら焦る。こんなものを食べている場合ではない。 「大丈夫、慣れてるから」 「慣れてるって、放課後、学校出てからどうするの?」 「陽が落ちるまでは、適当にどこかで時間潰して、夜になったら、マンション下の駐車場の奥に、室外機が沢山置いてあるところがあってね」 「……うん」  とりあえず、僕は頷いてみせる。説明の内容的に、嫌な予感しかしない。 「その室外機の隙間に挟まって、朝まで寝るの」 「ダメだよ、そんな……」 「慣れてるから」 「慣れちゃ駄目だよ」 「初めてのことでもないの。前にも、その前にも、追い出されたから。よくあるの」 「余計に問題じゃん。そんなのさ……」  僕は自分の顔を両手で覆い、溜息と共に溢した。  最初に霧島さんから、親と仲が悪い、と聞いた時、僕はてっきり、僕と僕の母親と同じくらいの険悪さだと認識した。世間一般でいうところの険悪よりも一手先、修復不可能な不和であると。  けれど実態は、より悲惨で、より悪質だった。  聞いた限りでは、僕の家庭よりも、霧島さんの家の方が状況が悪い。少なくとも僕は、家から叩き出されるようなことはない。生存権を剥奪されていない。  霧島さんのケースはもう、児童相談所や警察に行って話をしても妥当な状況だろう。彼女が受けているのは立派なネグレクトだ。生命の安全に関わる。こんなことが続けば、リスクしかない。何かあってからでは遅いのだ。  まずは、先生達に相談するところから始めるべきか、と考えていると、僕の顔を覆っていた僕の手に、手が触れた。  違いなく、霧島さんの手。  僕は顔から手を離す。  離したその手を、霧島さんが握った。  指先が冷たい手。  視線を上げる。  目が合う。  真剣な目。  綺麗だ、と感じる。  強いな、とも思った。  それは、そうだろう。  ここまで生き抜いてきた眼なのだから。  この齢まで、弱音も吐かず、懸命に生き残ってきた彼女。  誇っていい。自慢していい。自信を持っていい。  それと同じくらい、泣いていい。頼って欲しい。感情のままに、吠えていい。  でないと、近く、壊れてしまう。 「先生達に相談するところから始めるべきか、とにかく、警察に行こう、そんなこと考えてるよね?」 「お見通しだね」  僕は苦笑いと共に認める。 「似た者同士だからね。私が思いつくことは、佐倉も思いつく。分かってきた」 「それで? 外部に助けを求める、っていう選択は?」 「まだ、したくない」  霧島さんは首を横に振りながら言った。 「親がこういう人間の場合、子供にはどういう選択肢があるのか、誰に助けを求めればいいのか、どの機関が間に入ってくれるのか、私も調べた。相談して、通報して、場合によっては、お父さんは逮捕されることも。その後、私がどうなるのかも」  繋いだ手に力がこもる。  そうか。  知っているのか。  なら、余計に決断しづらいだろう。  僕も同じだ。  外部に訴えることを避けている。  何故かといえば、霧島さんと同じ理由から。 「子供が自ら助けを求めて、不遇から、家庭内の危険から、逃げ出したいと訴えれば、大人は、社会は、助けてくれる。それは調べたから知ってる。でも、その後のことまで面倒を見てはくれない。保護施設行きになるか、親戚の家へ引き取られるか、対応は個人差が大きい。ケースバイケースで、仕組みや法律も調べて知っているから、その理由自体は理解できる。納得はできないけど。で、私の場合は、泥沼になる。親戚は父親の家系だから、私はむしろ敵の立場。味方なんていない。小さい頃からそうだった。今よりも環境が悪くなるだけ。母方には頼れない。音信不通で、どうしているのかも分からない。生きているのかどうかすら、分からない。繋がりが完全に切れてるから。保護施設に行くことも簡単じゃないし、行けたからといって、それが正解かどうかなんて、行ってみないと分からない。あと、一番嫌なのが、この高校を辞めなきゃいけなくなること」 「うん。分かる。分かるよ。簡単じゃない。状況を変えた先でも、問題はある。全部まとめて、都合良く解決したりなんてしない。だから苦しいんだよね。だから、決めあぐねる。変えようとして足掻くのに、それでも、ままならないから、だから……」  僕は彼女の手を握りながら応える。  応えながら、言葉に詰まる。  これ以上、何を言える?  彼女は、社会の仕組みを知っている。きちんと理解している。その上で、自分の立場がどう変化するのか、保護されたとして、その先はどうなるのかを語っている。  ちゃんと分かっているからこその言葉群。挟める口などあるはずがない。  彼女へ向けた僕の言葉は、軽薄の色しか帯びない。放る偽善や、安い共感で、人が真に救われることなどない。 「佐倉も、調べたんでしょう? 自分から、色々と」 「調べたよ」僕は頷く。 「そうだろうと思った。だから、分かってくれる気がしてた」  霧島さんはそう言って微笑む。  その言葉を聞いて、その笑みを見て、僕は、繋いだ手に、自分の額を付けた。  辛い。  耐え兼ねる。  だから、目を伏せた。  なんだ、この有り様は。  どうするつもりだ?  僕は、どうしたい?  哀しい笑い方なんて、もう、させたくない。  まだ、はっきりと口にはされていない。  助けて欲しいと、連れ出して欲しいと、そう頼まれてはいない。  でも、おそらくこれは、意図されたもの。  明確に言葉にして協力を仰げば、僕へ向けた明確の選択肢が提示される形となる。  助けるか、否か、その選択を、僕へ迫ることになる。  霧島さんは、それを避けているのだ。  意識的か、無意識的かまでは分からないけど、選んだ先で、僕が後悔しないように、僕が罪の意識を抱えないように、僕を傷つけないように、可能な限り、渦中の最奥までは引き込まないように留めている。これほどまでに追い詰められて尚、この子は、僕の心配をしている。まったく自己犠牲が過ぎる。  話を聞いてくれて嬉しい、共感してくれて嬉しい、彼女はこれらの言葉をよく口にするけれど、一度だって、助けて欲しい、とは頼まなかった。それが、最後の一線を引いている証拠。  そう、線は見えている。  超えるかどうかは、彼女ではなく、僕が決めること。  彼女の家庭事情に首を突っ込むなら当然、相応のリスクが伴う。  リスクとは、つまり責任のこと。  一介の高校生風情、未成年である僕にできることなんて、かなり限られている。  資金もなく、権限もない。自分一人の名前で物事を決めたり、契約を交わすことすらできない。親の庇護下にある子供はその名称通り、守られている代償として、強い制約と未熟さを強調されるのが人間社会の決まりだ。  そんな立場にある僕が、彼女の何を背負えるというのか?  もし、息が詰まるような生活環境に嫌気がさしているのであれば、助け出してあげたい。それが本心だ。どこまで力になれるかは分からないけれど、それでも、毎日が不透明で、希望が見えず、重圧と言葉の暴力に苦しんでいるのなら、できるだけ早く解放してあげたい。どこかで息継ぎをしなければ、どんな人間であっても、最後には必ず溺れてしまう。考え過ぎかもしれないけど、あってはならないことが、あるはずがないことではないのだ。 「ねえ、霧島さん。これだけ、聞かせて欲しい」  繋いだ手に額をつけ、目を伏せたまま、僕は問う。  片鱗だけでいい。  少しだけでいい。  救いを、手助けを、求める声が聞けたなら。  全力で応えてあげたい。  情けないほどに微力だけど、真摯に、この力の限り。 「放課後、本当に、自分のマンションへ帰りたい?」  一拍の間。  繋いだ手が、僅かに動く。  握り直して、より強く、繋がれる。  その後に、言葉が。 「……できるなら、帰りたくない」  意思の表明。  それは在った。  さあ。  それで?  背負えるのか?  彼女の人生を。  全くもって、彼女らしくない。  大丈夫では、決してないはず。  消え入りそうな声を聞いて、揺らぎを目の当たりにして。  どうする? それでも逃げ出すのか?  背負うことが、そんなに恐ろしいか?  彼女を失う危険性、最悪の想定よりも?  今日と同じことが今後も続く可能性は高い。  繰り返すのか? 同じ後悔を、同じ思いを。  彼女を傷つけたくはない。彼女が傷つけられるのも嫌だ。  失望させたくない。望みを取り上げられる辛さは、僕もよく知っている。  答えは既に決まっていた。  実行するまでの自問があったに過ぎない。  考えるという行為は、備えの意味も含むから。 「じゃあさ」  僕は繋いだ手から額を離し、視線を上げながら提案する。 「今晩、うちに泊まらない?」  目が合う。  久しぶりだ、という錯覚。  恥ずかしがっていた自分を恥じる。  覚悟の決まっていなかった自分をなじる。  もっと早く告げるべきだった。  彼女の表情を見て、改めてそう思った。 「……ありがとう。お邪魔したい」  霧島さんは笑顔で頷く。  その頬には、一筋、涙が伝っていた。 「ごめんね、迷惑かけて」 「迷惑だなんて思ってないよ」  昼食を食べ終え、教室へと戻る廊下で、僕達は言葉を交わす。  購買はようやく落ち着きを取り戻していた。まばらに生徒がいるけれど、昼休み開始時とは雲泥の差。 「でも、巻き込んだから」 「僕はむしろ、巻き込んでくれて嬉しい」  僕の答えに、霧島さんは口角を上げてから首を傾げた。どういう意味? と理解。 「それだけ僕のことを信頼してくれてるんでしょう?」 「うん。信じてる」 「なら、感謝しかない」 「……ありがとう」  教室までの階段を上がる。  並んで、一歩ずつ、ゆっくりと。  互いの手が触れる。  どちらからともなく、指を絡めて。  手繰り寄せて、握って、繋いだ。  教室までの短い間だったけれど。  僕達は、繋いだまま、離さなかった。
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