第三章 引き寄せた物、惹き寄せた者

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

第三章 引き寄せた物、惹き寄せた者

 迎えた放課後。  僕と霧島さんは、教室で自分の席に座ったまま、クラスメイト達がぞろぞろと教室を出ていく様子をたまに眺めながら、宿題を済ませた。時間の有効活用である。  クラスメイト達が完全にいなくなった頃に、僕達の宿題もようやく終わった。想定よりも時間がかかった、という印象。  出された量はそうでもなかったけれど、計算に時間がかかり、また途中式まで全て書いて残しておくこと、という指示が出ていた数学の課題が特に時間を喰った。  問題集とノートを閉じて溜息をついたタイミングで、霧島さんが鞄を抱えて、僕の前の席に座った。彼女の方が、宿題の完成と帰り支度も含めて早かった。 「数学に手こずった」  僕は笑いながら言い訳する。 「そうなの? 難しかった?」  霧島さんは首を傾げる。 「逆に、難しくなかった?」 「私、数学、得意だから」 「羨ましいなぁ」 「代わりに、社会科が苦手。さっきの宿題もそう。歴史とか、地理とかが、上手く覚えられない」 「そうなの? 意外」  鞄に教科書やノートを詰めながら僕は応える。 「問題、出してみて」  自分の顎に人差し指を向けながら、霧島さんが言った。 「プラハは、どこの国の首都名でしょうか?」 「ドイツ」 「確かに、苦手みたいだね」 「あれ? 違う?」  互いに地理の問題を出し合いながら、僕達は教室を出て一階まで降り、下駄箱で靴を履き替える。  校舎から出ようとして、空模様が異常に暗く、風が強いことに驚き、立ち止まる。 「天気悪いなぁ」僕は呟く。 「荒れそうだね。全然、気づかなかった」霧島さんが言う。 「雨降りそうだよなぁ。傘持ってきてねぇや」  僕達と並ぶように発せられた声の方へ顔を向ける。  声の主は早乙女だった。 「あれ、久しぶり」  僕は笑いながら応じる。彼の登場の仕方が可笑しかったからだ。 「そうでもなくないか? まだそんな経ってないだろ」 「そうだっけ? あんまり顔合わせないから、体感的に長く感じるのかな」 「まあ、クラス違うしな」早乙女が頷く。 「ねえ、早乙女君」  霧島さんが僕を挟んで、早乙女へ声をかけた。 「なに? 霧島さん」  早乙女が覗き込むように、霧島さんの方へ顔を向ける。 「早乙女君に、ずっと聞きたかったことがあるの」 「俺に? ずっと? 何なに、どんなこと?」 「この高校に入学する前に、変わった場所へ出かけたりしなかった? キャンプとか、一人旅みたいなことをした? 山の中へ入ったり、人気の無い場所へ立ち入ったりした?」 「聞きたかったことが多いなぁ。それに、事情聴取みたいじゃん」  早乙女はふき出しながら言う。 「ごめん。私、人と話すの苦手で、遠回しなのとかも苦手で、正直にしか聞けなくて」 「分かった、分かった。霧島さん、大丈夫だから。気にしてないよ」  早乙女は片手をひらひらと振って、霧島さんを諫める。 「あれでしょ? 俺がおかしくなってた、異形のなんとか、ってやつ」 「そう」霧島さんが頷く。 「すごいね。ずっと調べてるわけ?」 「そう」 「情報が足りなくて、手詰まりでさ」  僕も少しだけ補足する。 「情報ねぇ……う~ん……」  早乙女は腕組みをして首を傾ける。  悩んでいる、と察した。  思い出そうとしているのではなく、霧島さんからの質問と、僕からのダメ押しを受けて、どうしようか、と考えている。  これはつまり、早乙女は何かを知っている、ということだ。  何も知らないなら悩みなどしない。思い当たることが全く無いのなら、こうした質問を重ねられた時点でうんざりした表情が漏れてしまうもの。そうでなくても、すぐに否定する。自分は何も隠してなどいない。知らないのだから答えようがないと。即時かつ明確に断わってしまった方が、さらなる追求を避けられる。余計な労力を使わなくて済む。  にも関わらず、現段階で伝えるか否かの検討を始めたということは、すなわち情報を有していることは確定的で、要点は、それを上手く引き出せるかどうか、という方へ移る。 「もし、聞かれたくないこと、言いにくいこと、言いふらされたくないことなら、霧島さんも、僕も、口は堅いから、安心して欲しい。絶対に漏らさない。誰にも余計なことは喋らない。約束する」 「う~ん……」  僕がそう告げても、早乙女は尚、腕組みをしたまま唸る。  口約束だけでは駄目らしい。  では、交換条件なら、どうだろう? 「早乙女が、その何かを教えてくれたら、僕は秘密を一つ、今ここで暴露するよ」  この一言に、早乙女は反応した。  視線をこちらに向けて、瞬きをして、本当に? と聞いた。  僕は頷き、嘘をつかないっていう証明にもなるから、と告げる。 「……分かった。話す。ただし、聞いた後で、今言ったこと、やっぱ全部なし、とかはやめろよ?」 「約束する」僕は頷いてみせる。 「私も、約束」霧島さんが続く。  早乙女は僕達を交互に見てから短い溜息をつき。 そして、語り始めた。 「入学前の春休みにさ……俺、親と喧嘩したんだわ。まあ、喧嘩自体は、よくするんだけど、うちの父親は、本当の父親じゃなくて、再婚なわけ。俺、そのおっさんと性格が合わなくて、あいつと同じ家で暮らすようになってからは、もう、ほぼ毎日怒鳴り合い。で、その春休みの時の喧嘩は、お互いに手が出て、殴り合いになった。その時にな、母親が、俺じゃなくて、そのおっさんの味方したんだよ。ムカつくだろ? おっさんは他人だからそもそもとして、母親は俺と血が繋がってるわけじゃん。自分の息子より、そんな赤の他人の方が大事なのかよ、って思って、最高に腹が立ってさ。俺、荷物まとめて家出したんだ。電車乗って、すげえ遠くまで行って、適当な駅で降りたはいいけど、そこ、マジで田舎でさ。ネットカフェとかビジネスホテルなんて見当たらなくて、畑と田んぼと山しかねえの。どうすっかな、って困って、民家にでも泊めてもらえないかな、って考えながら歩いてたら、見つけたんだ」 「何を?」霧島さんが聞く。 「廃墟」 「廃墟?」 「そう、廃墟」  早乙女は頷き、説明を続ける。 「元々、病院とか、図書館だったんじゃねえかなってくらい、デカくてゴツい建物見つけてさ。そこに二日間泊まったんだよ。これが結構楽しくて、暗い部屋の中で、懐中電灯の明かりだけ照らして過ごしてみたり、菓子食って、ジュース飲んで、スマホいじって、虫とか風の音聞いてさ。こっそり秘密基地で過ごしてる感覚だったな。小学生の頃思い出した」 「なるほどね。それを黙ってたわけだ」僕は言う。 「まあ、ほら、一応、不法侵入だし、親と喧嘩して家出なんて、ガキっぽいだろ? あんま人に言わない方がいいかな、って思って、言わなかったんだよ」 「言いたくなかった気持ちは、分かる」  霧島さんが早乙女へ向けて告げた。 「その廃墟の場所、どこだったか覚えてる? 教えてくれない?」 「マップでメモしてるよ。ほら」  言いながら、早乙女はスマートフォンの画面に地図を表示させ、ほら、この、山の麓辺り、と指して見せてくれた。  僕と霧島さんは、地図が表示された画面を同時に覗き込む。  僕達が普段いる街からは、かなり距離があった。  丁度、県境に近い場所。  自分の心臓が大きく跳ねたと分かった。  ちらと目線を上げる。  霧島さんもこちらを見た。  目を見開き、視線を画面の地図と僕へ、交互に動かす。  やはり、そうだ。  僕と霧島さんは、この場所を知っている。  マップで見る、この近辺には覚えがある。  以前、霧島さんがネットのニュース記事で見つけた、娘を殺害し、その死体を遺棄した場所。そこにかなり近い。まったく同じではなく、山一つ分ほど離れている。連想するに、これは最悪の可能性を示唆している。  僕達が読んだ記事には、長女は死体として発見されたけれど、次女の行方がまだ分かっておらず、母親はその事に関して黙秘を続けている、とあった。その後の続報は目にしていない。では、次女はどこにいるのか? もしくは、どこへ隠されているのか?  本当に無関係ではないのかもしれない。  霧島さんの仮説が現実味を帯びてくる。  ここから、どうする? どう動く?  僕は頭の中で思考パレットを分けた。  片方でこの廃墟と死体遺棄事件の関連について考えつつ、もう片方で早乙女との会話を続ける。 「大変だったね」 「いや、そうでもなかったよ。トイレとシャワーがなかったから、そこだけ困ったけど、二日くらいなら余裕で住めるぜ、あそこ」 「そっちじゃなくて、親とのこと」  僕の指摘に、ああ、そっちは、まあな、と早乙女は露骨に顔をしかめて頷いた。 「それ以降、どうなの? 殴り合いの喧嘩には、まだなるの?」 「とりあえずは、あの一回だけだな。まださ」 「人間、性格的な噛み合う、合わないが、どうしてもあるよね」 「だろ? そういうもんだよな。まして親だぜ? 知らん奴がいきなり家に来て父親です、は普通に考えて無理なんだわ」 「気持ちは分かるよ。僕も、親と仲悪いから」  僕は共感を言葉にして告げる。 「そうなん? どっちと?」 「母親」 「へえ、意外。父親とは?」 「父親は、行方不明」  説明を省略した。あながち嘘ではないし、不正確でもない。丁寧ではないだけ。 「もう死んでるかも、ってこと?」  早乙女は目を細めて聞いてくる。 「そうかもしれない。それも含めて、分からない」  僕はゆっくりと首を左右に振りながら答える。 「そっか。聞いて悪かった」 「いいよ。気にしてない」 「お前も大変なんだな。まぁ、元気出せ」  そう言って、早乙女は僕の背中を叩いた。痛い。 「そうだ、忘れるとこだった。俺が話したら、佐倉も何か暴露してくれる、って約束だったよな。あれってさ、俺が聞きたいことを質問してもいいの?」  早乙女は、うって変わって嬉しそうな表情で聞いてくる。 「暴露は、もうしたよ」  僕は肩をすくめながら答える。 「は? え? いつ? 何を?」 「僕は母親と仲が悪くて、父親は行方不明、って暴露した」  答えながら、僕はさらにもう一つ別に思考パレットを開き、そこに思いついたことをメモしていた。  僕達三人の共通点が見つかった。  早乙女は両親と仲が悪く、実の父親とは死別している。今の父は義父。  僕は母親と仲が悪く、自分の父親を知らない。誰なのかも知らず、現在の生死も不明。  霧島さんは父親と仲が悪い。母親本人がどうしているのかは要確認。ただし、母方の親戚には頼れない、と溢していた。繋がりが切れていると。  こうした家庭環境の不和こそが類似点。新たに判明した関連性である。  異形の者を認識できたことと、どれくらい、もしくは、どれほど関係があるのかは分からないけど、互いの名前も知らなかった頃よりは格段に前進している、と感じられた。  もう少し、この事実について考えたかったけれど、僕のすぐ隣では、暴露の中身について不満と異議を申し立てる早乙女がいて、眼前では、ついに雨が降り出してしまったので、帰宅を最優先と定めた。 「早乙女、雨降り出したよ。早く帰ろう」  僕は頭上に鞄を掲げながら言う。 「お前なぁ……はぁ、もう、しゃあねぇ奴。じゃあ、約束通り、さっきの話は内緒な」 「誰にも言わないよ」 「あとさ」 「なに?」 「その、こういう言い方したら、気持ち悪いかもしれないけどさ。俺達、似た者同士だったな」 「気持ち悪いなんて思わないよ。その通りだと思う」  僕は頷き、肯定する。 「もしまた、親と何かあったら、気軽に話してよ。ちゃんと聞くし、力になれそうなことがあれば、協力もするから」 「私も」  霧島さんも頭の上に鞄を掲げながら言う。 「お前等、良い奴だな」  そう言って、早乙女は笑った。  そこから僕達は、異形の者とは無関係な雑談を交わしながら早足で坂を下り、アーケード街に入ってから、手を振り、別れた。  雨は、どんどん強くなった。  アーケード街を抜けて、僕が住むマンションへの道を二人、小走りで駆ける。  お金を惜しまず、素直にコンビニで傘を買うべきだったな、と考えているうちに、ようやく建物に辿り着いた。制服も鞄も、靴の中までびしょ濡れだ。  ポストを確認してから階段を上がり、玄関を開ける。僕は濡れた靴と靴下をその場で脱ぎ、バスタオルを二枚取ってきて、片方を霧島さんへ手渡した。  ありがとう、と言いながら、霧島さんはぐっしょりと濡れてしまった長い髪や制服にバスタオルを当てる。この子の制服が明日までに乾くだろうか。 「霧島さん、風邪ひいちゃうから、先にシャワー浴びておいで。あ、でも、服の替えのことがあるか……どうしよう」 「佐倉の服、着たら、だめ?」  バスタオルを頭から被った姿で、胸の辺りで小さく手を合わせで、霧島さんは言った。 「僕はいいけど、大丈夫? 嫌じゃない?」 「全然」 「分かった。ごめんね、行き当たりばったりで」 「雨は佐倉のせいじゃないし、泊めて欲しいって頼んだのは、私だから」  そう応えて、霧島さんは微笑んだ。  僕は自室から、なるべく綺麗で、彼女が着やすそうな服を選び、脱衣所へと運ぶ。その後、霧島さんにシャンプーやタオル、ドライヤーなどの位置を伝えてから、脱所を出て扉を閉めた。  僕も濡れてしまった制服を脱ぎ、室内の干し場へ掛けておく。朝までに乾くかどうかは賭けだ。駄目なら、替えの制服を出すしかない。  二人分の鞄をリビングのテーブル上に移動させてから、部屋着に着替えて、コーヒーを淹れる。  とにかく、コーヒーが必要だ。温まるためにも、考えるにも、打ち合わせをするにしても、コーヒーがなくては始まらない。  出来上った二人分のコーヒーを二つのマグカップへ注いで、先程思いついた可能性と、明日の予定を考える。  体温を上げるために、どうにかまだ熱いコーヒーを半分飲んだ頃、霧島さんが脱衣所から出てきた。  熱で上気した顔。まだ少しだけ水分を含む黒髪。そうした様子が目に入った途端、僕の心臓は跳ねた。我ながら分かりやすいな、と内心、苦笑い。  霧島さんにはリビングでコーヒーを飲んでいてもらい、その間に、今度は僕がシャワーを浴びる。その後は、冷蔵庫から野菜と生肉の残りを取り出して、簡単な炒め物を作った。晩御飯である。  霧島さんは小食らしく、お米もパンも無くていいらしい。僕も小食なので、二人で炒め物だけを食べた。質素な食卓だけど、霧島さんと一緒に食事ができることが嬉しかった。 「本当に連絡しなくていいの?」  自室のクローゼットから予備の布団を引っ張り出しながら、霧島さんへ声をかける。  部屋の入口に立つ彼女は、首を横に振って答える。 「私のお父さんは、私がどこに居ようと、何をしていようと、基本的に、興味がないの。自分の思い立ったタイミングで近くに居て、言うことを素直に聞きさえすれば満足で、それ以外の行動や連絡や提案は、機嫌を損なうだけ。今回みたいに、出て行け、と言われたら、本当に出て行って、ほとぼりが冷めるまでは、関わらないのが正解なの」 「聞けば聞くほどに、おかしい、って思うよ。娘に何かあったら、どうするつもりなんだろうね」  敷き終えた布団を片手で指しながら僕は言う。 「その時は、被害者の顔をするんだと思う。大切な娘が、どうしてこんなことに、って。そういう外面は良いから」  僕が指した布団の上に座りつつ、霧島さんが応える。ちなみに正座だった。 「悪質だね。僕の母親も、そういうところがある」 「ネグレクト傾向の親は、そういう形質が表面化しやすいのかもね。自棄というよりは、理性的に八つ当たりっていう発散行為をして、自分の機嫌を保とうとしているんだから、言い換えれば、考えてから行動してる。それなら当然、リスクにも備えていて、いざその時がきたら、演じることだって難しくないんだと思う」 「嫌な打算だ」  僕はそう呟いてから、自分の布団をクローゼットから取り出す。  それを敷いて、その上に座り、霧島さんに足を崩してもらってから、話を続ける。 「もう一つ、聞いてもいい?」 「私のお母さんのこと?」 「うん」僕は素直に認めた。  全てを言語化しなくても、思考の一部が伝わるこのやり取りに、少し慣れてきた。 「佐倉のお父さんのことを聞かせてくれるなら」 「分かった。交換条件ね」  僕は笑いながら頷く。 「お母さんはね、私が中学一年生の時に、私を置いて、出て行ったの」  霧島さんは視線を落とし、自分の手元辺りを見つめながら語り始める。 「学校から帰ったら、リビングの机上に書置きがあって、疲れました。限界です。出て行きます、とだけ書いてあった。お父さんの性格や癇癪が原因なのは明白で、お母さん、私が小さい時から、自分の友達とかには、相談もしてたみたい。でも、お母さんの親、私の祖父母ね、その人達の名前を聞いたことが一度もないんだ。会ったこともない。死別してるのか、絶縁したのか、それも分からない。だから、実家へ相談していたのか、出て行った先は実家なのか、それとも、そういう親類が私にはいないのか、知らないの。一度だけ、お母さんに直接聞いたんだけど、子供は知らなくていいことだ、って怒られた。そのくせ出て行く時はいきなりで、私を置いて行くんだから、勝手だよね」  霧島さんは平坦なトーンで語り、最後のくだりだけ、突き放すような物言いをした。  彼女が母親に対して、どのような感情を抱いているのかが、よく分かった。 「辛かったね」 「うん」  僕の短い言葉に、霧島さんは頷いて応えた。  こんな文言しか手渡せないことが歯がゆい。  しかし、それ以外に何があるだろう?  逃げ出してしまった人、置いていかれた子供、過ぎてしまった時間、積もるばかりでぶつけられない複雑な感情、自分を傷つけてくる血縁者と、思い通りにできない環境、そんなものばかりが、彼女の周囲にはある。なくていいものばかりが彼女に迫り、側に居て欲しい誰かや何かは、彼女を置いて遠ざかっていく。  どうして、こんな手酷い真似ばかりするのだろう?  彼女が一体、どんな罪を犯したというのか?  まだ齢十五の子供で、これから先、未来を視て、生きていく権利を有した、素晴らしい人格の持ち主である彼女を、どうして粗末に扱うのか?  腹立たしい。悔しくてたまらない。  幸せになって欲しい。この子にこそ、その権利があるはずだ。  霧島さんが身動きした。  それに反応して、僕は思考を中断する。  僕のすぐ隣へと移動してきて。  僕の手を握った。  学校でしていたみたいに。  僕達はまた、手を繋いだ。 「佐倉の部屋、小物少ないね。シンプルで、綺麗」  霧島さんが囁くように言う。 「片付いてる空間が好きなんだ。使わない物とか、家具が沢山あると、気が散っちゃう」 「その感覚、すごく分かる。飾りの類って要らないよね。基本的には、生活に必要な物だけでいい」 「本だけが例外かな。読んでるうちに、どうしても溜め込んじゃう」  僕は室内の本棚を指差しながら言う。  正確にいえば、室内には本ばかりがある。机上もそうだし、背の高い本棚を複数埋め尽くすほど、どこへ目を向けても本ばかり。入口ドアとクローゼットを塞がないよう、どうにか配置した影響で、僕の部屋の窓は本棚で塞がっている。当然、陽の光が入らなくなってしまうけれど、それで困ったという経験もないし、本が日焼けしなくなるので、このままでいいと思っている。 「そうそう。このお部屋を最初に覗いた時ね、私の部屋に似てる、って思った」 「霧島さんの部屋も、こんな感じなの?」 「うん」 「僕達、やっぱり似てるんだね」 「そう、本当に、驚くくらい」  霧島さんは頷いてから言葉を続ける。 「私の部屋との違いは、きちんと棚に収まっているか、部屋の端に積み上げているか」 「本を?」 「そう。本棚、買ってもらえなくて」  それを聞いた僕は、空いている方の手を伸ばし、霧島さんの頭を撫でた。  霧島さんは抵抗する様子を見せず、むしろ僕の肩に、自分の頭を乗せた。 「今度は、佐倉の番」  また、囁くように言う。 「お父さんのこと、教えて」  触れた身体が、その言葉が。  温かい、と感じる。  不快感は無く、優しさだけがある。  大丈夫、この子だけは信じられる。  人の体温には、単なる熱以上の効能があるから不思議だ。 「自分の父親が誰なのか、どんな人なのか、僕、全然知らないんだ」  目を閉じながら語る。 「どんな人なのか、何をしていた人なのか、まだ生きてるのか、もう死んでしまったのか、何も分からない」 「その理由を、お母さんに聞いてみたことは?」  霧島さんが優しく問う。 「何回か聞いてはみたんだ。でも、教えてもらえなかった。しつこく食い下がった時もあったけど、怒鳴られたり、無視されたりで、成果無し。小学六年生の時に、どうしても気になって、母親が不在の時に、部屋という部屋を全部ひっくり返す勢いで、昔のことが分かるものを探したことがあったんだけど……」 「どうだった?」  繋いだ手を握り直しながら、霧島さんが先を促す。 「何一つ出てこなかった」  僕は答える。 「その隠蔽の徹底さが狂気じみてて、気持ち悪く感じて、そこからかな。母親との心理的な距離が大きく開いて、この人に期待しても駄目なんだな、父親のことも、僕の存在も、母親にとっては人生の汚点なんだな、綺麗に消しておきたいんだな、って理解した。父親のことを調べるのも、そこでやめた。役所とかで手続きをすれば、ある程度の情報は引き出せるって、今の僕は知っているけど、小さい頃とは感情が真逆で、知りたい、気になる、っていう気持ちから、関わりたくない、忘れたままでいい、っていう方向にシフトしちゃった」 「分かるよ、その気持ちの変化。大丈夫、あなたは間違ってない」  霧島さんが穏やかな声で、そう言ってくれる。 「ありがとう」 「この時間になっても、お母さんが帰って来ないのは? 日常的に、こうなの?」 「うちは、そう」僕は頷く。 「お仕事が忙しいから?」 「それも勿論あるみたいなんだけど、母親が仕事でも、仕事以外でも、どこで何をしているのかを知らないんだ。どこからが母親のプライベートで、どう過ごしてるのかも分からない。まともに口を利かなくなって長いから、この辺りのことは明言されたわけじゃないけど、基本的には、養われてる人間が養っている人間へ向けて口を出すな、他人のオフの時間に首を突っ込むな、金はやるから大人しくしていろ、がうちの教育方針だと、僕は捉えてる」 「私も、父親との関係は最悪だけど、佐倉のお家も……普通じゃないね」  彼女の言葉に、僕はふき出しながら、本当にね、と応えた。事実、その通りだからだ。 「性格も、考え方も、家庭環境まで似てる、っていうのは、どうなんだろう。そういう育ち方をしてきたから似るのかな。統計的な必然? それとも、確率的には、ただの偶然?」 「どうなんだろうね。僕、計算は苦手だから」  そう応えると、霧島さんは小さく笑ってから、知ってる、だから聞いた、と言った。意地悪な子だ。 「ねえ、佐倉」 「なに?」 「提案があるの」  言いながら、霧島さんは僕の肩から頭を離し、見つめてくる。  目が合う。  真摯な眼。  真剣な表情。 「私は、あなたの、最大の理解者に成りたい。皆が、あなたの側を離れても、鋭利な言葉や、拒絶を示しても、私だけは、あなたから離れない。私は、あなたを傷つけないし、裏切らない。だから……」  霧島さんは手を伸ばし。  空いていた互いの手を繋ぐ。  結ばれた左右。正面を向いて、正直に。  一方通行ではなく、循環となる。  そんな想像をした。  おそらく彼女も、同じだろう。 「あなたも、私に、同じ約束をしてくれない?」 「共依存ってやつだね」僕は言う。 「少し違う」霧島さんが続ける。 「私の理想は共同体。依存だと、弱くて脆いと感じてしまうから。私達は、二人でひとつの生き物になるの。そうすれば、強く成れる。こんな世の中でも、あんな親達の下でも、これから先も、生きていける」 「……やっぱり、霧島さんは強いね」  僕は彼女を評価する。 「そうでもない。あなたのおかげ」  霧島さんは微笑む。 「それで、どう?」 「是非、その提案に、乗らせて欲しい」  僕は頷き、そう告げた。  笑みを交わす。  手渡した言葉の履歴が宝物。込めた意味は何重にも在る。  それを理解できるのは、世界で唯一彼女だけで、彼女だけに贈るもの。  同等の熱量で、違うことなく、温かいまま渡してくれるのも、彼女だけ。 魅せられている、と感じた。  彼女の眼に、そこに宿る意思の壮大さ、信念の強さに、惹かれたのだ。  霧島さんの顔が近づく。  鼻先が触れるほど近く。  唇が先へ。  触れて。  触れて。  触れる。  幾度も。  遂に。  ようやく。  やっと着地できた、とすら想う。  少しだけ顔を離して、お互いを認めて。  霧島さんの顔は真っ赤。  きっと、僕も似たようなもの。  額をくっつけて、一拍の間を挟んでから。  同時にふき出した。  僕達はくすくすと笑い合う。  可笑しかったからではない。  幸せだったからだ。  目を覚ますと、外はまだ、ほんのり薄暗かった。  スマ―トフォンを手に取り確認してみると、午前六時五十五分と表示された。  いつもより早く目が覚めた。アラームより先の起床など、実に珍しい。  軽く伸びをしてから、掛け布団をめくって立ち上がる。霧島さんを起こさないよう注意しながら、静かにキッチンへと移動して、コーヒーメーカにフィルタとコーヒーの粉をセットして、スイッチを入れる。  リビングの椅子に腰かけた瞬間、背後で大きな音がした。  驚き振り返ると、霧島さんが起き出していた。音の原因は、彼女が自室とリビングとを隔てる扉にぶつかったものらしい。 「おはよう。大丈夫?」 「……っこどこ?」 「えっ?」 「ここ、どこぉ……?」  霧島さんは目をこすりながら、ふらつく足取りで僕の側まできたかと思うと、前のめりで倒れるように抱きついてくる。  僕は慌てて彼女を抱き留めて、どうにか椅子に座らせる。 「僕以上に寝起きが悪い人だったんだね」 「ブロッコリーじゃん……」  僕の言葉に対して、霧島さんは呻くようにそう呟いた。意味は不明。  そのまま二人、ぼんやりと座って時間を流し、出来上がったコーヒーを僕がマグカップ二つに分けて注ぎ、片方を彼女の前の机上に置く。  まだ熱いそれをどうにか飲みつつ、カフェインが脳を始動させてくれるのを待つ。  お互いのマグカップの中身が半分ほど消えた頃、霧島さんが言葉を発した。  視線を向けると、小さく咳払いをしてから、おはよう、と言ってくれた。 「おはよう、霧島さん」  僕は挨拶を返す。 「泊めてくれて、ありがとう」 「むしろ、泊まってくれて、ありがとう」 「ちょっと、気恥ずかしい」  両手でマグカップを持ち、はにかみながら霧島さんは言った。  その様子を見て、僕は、ブロッコリーじゃん、って何だったの? という質問を頭の中で破棄した。 「でも、朝起きてすぐに、佐倉と話せるのは、嬉しい。家にいる時は、朝、うなされて起きたりするから」 「恐い夢を見たりして?」 「そう。最近は特に酷くて、同じのばかり」 「どんなの?」  コーヒーを飲みながら僕は聞く。 「ええと……」  霧島さんは目を瞑って静止する。記憶をまとめ、言語化しているのだろう。 「私は、暗い部屋にいるの。そこは本当に暗くて、手探りで周りを調べて、ようやく部屋だと分かるような、そんな空間で、しばらく歩き回って、何もないことが分かる。どこからも出られそうにないことも。そこまで調べると、急に、今までなかったはずのものが、室内に増える」 「何が増えるの?」 「箪笥」 「箪笥って、あの箪笥?」  僕は頭の中で、箪笥、と言う文字と、現物の映像を結び付けようと努力する。まだ脳が本調子ではない。電子回路間のレスポンスが悪い。 「正確には、西洋風の箪笥。扉が両開きで、金と銀の装飾があって、黒くて、大きいやつ」 「かなり具体的だね」  僕は、イメ―ジを修正しながら感想を述べる。 「それくらい、強く印象に残る。写真みたいに鮮明に、頭の中に焼き付く感じ」 「箪笥が現れて、その次は?」 「私は、その箪笥の扉を開けたい衝動に駆られる」 「開けると、マズイの?」 「そう、マズイの。良くないことが起きるって、何故だか分かる。けど、私の意思に反して、私の身体は、それを開けちゃう」  霧島さんは首を左右に振る。思い出したくない光景を振り払うような動作。 「その瞬間、私は後悔する。全てを悔やんで、絶望して、恐怖と、暗闇に飲み込まれる。そこでようやく、夢から覚める」 「結構、恐いね」 「でしょう?」 「箪笥の中身は何だったの?」 「分からない。扉を開けて、それを見てから、目が覚めるはずなんだけど、どうしても思い出せない」 「恐いうえに、すっきりしない終わり方なのが、輪をかけて嫌だね」 「うん」 「聞いてて思ったんだけど、霧島さんがネットのニュース記事で見つけた、例の虐待事件、被害者の長女が押し込められてたのも、西洋風の箪笥だったよね」 「それが記憶に残って、夢に出たのかな」 「こういう小さな繋がりが絶えないのは、もしかしたら、箪笥や【その中にあるもの】と因果ができてしまっていて、僕達は、それに呼ばれているのかもしれないね」 コーヒーを飲み切りながら、僕は思いついたことを述べた。 「それを、今から確かめに行くんでしょう? 学校をさぼって」  マグカップをテーブルに置きながら、悪戯っぽい表情で、霧島さんは言った。  コーヒーを飲み終えた僕達は、それぞれ担任の先生へ欠席の連絡をした。  その後、交代で顔を洗い、歯を磨き(霧島さんには新品の歯ブラシを開けて使ってもらった)、寝癖を直してから着替えをする。朝食は省いた。聞けば、霧島さんも朝は飲み物以外、胃が受け付けないそうだ。  僕は外行きの私服を、霧島さんはどうにか乾いた制服を着て、僕達はマンションを出た。  徒歩で移動し、アーケード街を抜けて、その向こうにある駅へと入る。  目的地までの切符を買い、対応したホームに上がったところで、タイミング良く電車が滑り込んできた。  それに乗り、適当な席へ二人並んで座った。平日の通勤、通学のピーク時間であるため、こうして座れたのは運が良い。  ここからが長い。電車でもかなり距離があるためだ。  文庫本を二人分、持参してくるべきだったかな、と考えていると、霧島さんが僕の手を握った。  反射的に、それを握り返す。  顔を見ると、霧島さんは微笑んでいた。 「これから向かう廃墟で、答え合わせができるといいね」 「そうだね」僕は頷く。 「佐倉、今、どんな気分?」 「期待半分、恐さ半分」 「一緒だ」  そう言って、霧島さんは僕の肩に頭を乗せた。僕と同じシャンプーの匂いがした。    そのやり取りから数えて一時間半ほど、僕達は電車に揺られていた。  途中で二人共眠ってしまって、目を開けたら目的駅の一つ前だったので、焦って霧島さんを起した。  目的の駅に降り立つ。  まず目に入ってきたのは、田んぼと畑、そして前方に広がる山。  早乙女が言っていた印象その通りだな、と僕は納得した。  手を繋いだまま、僕達は駅を出る。周囲に見える民家はまばらで、小規模な車の販売店と、今にも倒壊しそうな赤茶けたガソリンスタンドを発見した。  それ以外の、商店やカフェ、飲食店などは見当たらず、そもそも駅周辺に人の気配がない。足下の道路は白線が消えかかっており、その左右を田んぼに挟まれている。歩道という歩道がない。区分けする必要がないくらいには道が広い。 「ちょっと電車に揺られるだけで、こういう所へ、簡単に来れちゃうのは、びっくり」  霧島さんが呟いた。 「確かに」  僕は頷き、共感を示す。 「早乙女君が言ってた廃墟は、どっちの方向だろう?」 「駅から出てすぐの道を直線で辿って行った、って言ってたから、多分、ここをこのまま、真っ直ぐだと思う」  僕は霧島さんの手を引いて歩き出す。 「私、方向音痴だから、佐倉、お願いね」 「奇遇だね。僕も方向音痴なんだ」  田んぼと用水路に挟まれた道をひた進む。  時折、アマガエルやバッタが僕達めがけて跳んできて面白かった。僕は笑っていたけれど、霧島さんは飛びかかられるたびに悲鳴を上げていた。  歩いて二十分経ったか、という頃、それらしき建物が見えてきた。  全体が四角い灰色の建造物で、間違いなくコンクリート造。規模は中クラスといったところ。一見した高度は三階建て。ただし、奥行きと横幅が一般住宅の比ではない。早乙女が言っていた通り、図書館や病院として使われていたのかもしれない。建物最上部と、正面入口の上辺りに、看板を貼りつけていたような跡がある。周囲の敷地は草木が荒れ放題。そのせいで、緑の自然空間に灰色の人工物が載せられているような違和感を抱いた。  ある程度の距離まで近づいた時、急に自分の膝が震えた。  突然のことに、僕は驚いて立ち止まる。  どうしたのだろう?  こんな経験は初めてだった。  恐いのだろうか?  でも、一体何が?  廃墟が恐いなんて、生まれてこのかた思ったこともない。  それ以外の、本当に恐ろしいものが、ここにはある、ということだろうか? そうした危険へ近づいているぞ、という警告なのかもしれない。 自分の本能から、もしくは、まったく別の【誰か】から。  収束しつつある、と感じた。  運命的な曲線が、僕達の辿り着いた、この場所へと。  可笑しな想像だ。でも、あながち外れていないような気もする。 「大丈夫?」霧島さんが聞く。 「大丈夫。沢山歩いたから、膝にきたみたい」 「それは大丈夫って言わないし、佐倉は、そんなことを言う年齢じゃない」  霧島さんは笑いながらそう言って、廃墟へと視線を向ける。 「想像してたより、大きい」 「そうだね」 「探検だ」 「嬉しそう」  僕がそう指摘すると、廃墟探索って、一度やってみたかったの、と霧島さんは応えた。建物へと近づいた僕達は手分けをして、周辺を軽く見て回った。 立ち入り禁止のロープなどは特に張られておらず、正面扉も、どの窓も、板などで塞がれたりはしていない。建物自体はそのままに、中身と人間だけがそっくりそのまま抜き出されたような印象。  建物の周りをひとしきり確認し、めぼしい物も、気になる点も、特に無いことが分かったので、いよいよ、内部へと侵入する。  正面の入口扉に手をかけ、押してみると、それは簡単に開いた。 「施錠されてない」 「不用心」霧島さんが呟く。 「行ける?」 「うん」  僕達は、建物の中へと足を踏み入れた。  入口に面したフロアは広く、天井が高い。建物内の空気は、ひんやりと冷たかった。  ざっと見回した限り、何もない。外から眺めた印象その通りで、デスクや棚などはなく、それどころか、小物やゴミ一つ落ちていない。灰色の壁と柱と床ばかりで閑散としている。  まずは一階を探索してみようか、と霧島さんと言葉を交わして、手近な部屋へ進もうとした。  その時だった。  自分の身体に違和感を覚えた。  気道に何かが詰まったような感覚。  身体の中心線、ブレてはいけない軸に異常が起きているような危機感。  とにかく、息ができない。良くないものでも吸い込んだのか? それともガスか? だとしたら、しまったな。無色無臭であったなら、可能性は大いにある。  考えているうちに、今度は手足の感覚が消えていく。  指先から、足先から、腕、脚へと消失点が移動しているかのように、異常が迫ってくる。動かせなくなる。  突然のことばかりで対処が追い付かない。原因も分からない。冷静さだけは失うまいと努めるけれど、呼吸が止まりそうになっているせいで、迅速な対応ができない。考え、実行するための酸素がまるで足りない。  瞬間、僕はその場に崩れ落ちた。  床と接触した、と視覚映像で認識。  倒れた衝撃や痛みが感じられない。  それが実に奇妙で、恐ろしかった。  唐突に、映像が現れる。  僕の目の奥で再生されているかのような、避けようのない強制の仕業。  瞬きを繰り返してみたけれど、それは消えず、揺れず、鮮明なまま、見せつけてくる。  灰色の空間。暗く、静かで、寂しい部屋。  不釣り合いな目立つものが、奥に一つ。  金と銀で装飾された、大きな黒い箱。  それを認識した途端、僕は何の前触れもなく解放された。  水から上がった直後のように、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。  目は普通に見える。手足の感覚も戻っていた。崩れ落ちた時に打ったらしく、左の膝が痛い。それ以外は正常、だと思う。自信はない。今の今まで正常ではなかったのだから。  今の映像は何だ? あの部屋は、あれは……。  現象の説明はできないけれど、一つだけ確信した。  此処に在る。  この建物の中にある。  尋常ならざる事象を引き起こす根源が、確かにあるのだ。  そうだ、霧島さんは?  吸って、吐いて、息を整え、上体を起こす。  多少眩暈がしたけど、気にしていられない。  霧島さんは、僕のすぐ後ろに立っていた。  姿が見えて安堵しかけたけど、すぐに様子がおかしいと気づく。  彼女は仁王立ちしたまま微動だにしない。顔を覗き込むと、目の焦点が合っておらず、口の端から涎が一筋垂れている。 「霧島さん!」  僕は、彼女の名前を大声で呼びながら肩を揺すり、数回、軽く頬を叩いた。  霧島さんの目が動き、僕を捉えた。 「……あれ?」  幾度か瞬きを挟んでから、霧島さんは自分の顔を確かめるように触った。 「大丈夫?」 「私、何か、おかしかったよね? 立ったまま、寝てた? 起きてたよね? あれ……」 「見た限りでは、立ったまま意識飛んでるように映った。涎も垂れてたし」 「うそ!」  霧島さんは自分の口元を両手で何度も拭った。  先程までの様子に比べれば、涎などさしたる問題ではない。とりあえず、意識に支障は無さそうでひと安心。 「意識が飛んでいる間、何か見た?」  僕は聞く。 「いや、なにも。佐倉は、何か見たの?」 「つい、今、暗い部屋の中に置かれた箪笥の映像を見たんだ。それと、手足の感覚が無くなって、息ができなくなってた」 「大丈夫? ていうか、それ、早乙女君が異形化する直前の症状と同じじゃない?」 「警告のつもりなのか、もしくは、助けを求めているのか」 「ここにある、箪笥から?」  霧島さんが目を細めながら聞く。 「もしくは、その中身から」 「探索、続けるよね?」 「うん、続けたい。ここで逃げ出しても、繋がりがもう、できてしまってるから」  意向を確かめ合った後、僕達は手を繋ぎ、一階の部屋から見て回る。  窓が板で塞がれていないこともあり、室内は明るい。肉眼で細部まで観察が可能だった。ただし、どの室内も片付いており、一つとして物が無く、がらんとしている。  ひと通り見て回った結果、一階は、六つのエリアに分けられていると判明した。  僕達が最初に足を踏み入れた、受付のような空間を軸に、それをコの字型で囲うように、やや広めのフロアが三つ。それらの奥に、従業員控室または倉庫のような部屋が一つと、男女別のトイレがあった。  おかしなものは見つけられなかったので、僕達は最初のフロアへ戻り、その端の階段から二階へと上がった。  広めの区画が三つ。どこも一階同様に、空っぽの空間だけがある。そこから奥へ進むと、中途半端に開いている、黒っぽい扉を見つけた。 「一階にもあった控室か、倉庫みたいな部屋かな」 「そうなると、この建物は、上下でほぼ同じ間取りってことになるね」  話しながら扉に手を掛け、ゆっくりと開く。  室内は予想より狭い。やはり一階と同じく、控室か倉庫のようだ。通常の窓ではなく、天上付近に採光用のスリットがあって、そこから陽が入ってくる。 「扉が中途半端に開いてたから、もしかしてと思ったけど、ここにも、何もないね」 「うん」  霧島さんの感想に対して僕は頷き、同意を示す。 「ああ、そうだ。早乙女が家出した時に使ってた部屋が、ここなのかも。ほら、大きな窓がないから、夜に灯りを使ったり、スマートフォンのライトが光っても、外からは分かりにくい」 「ああ、そうか。それで、扉が開いてたんだ」  僕の想像に、霧島さんが頷いてくれる。 「でも、本当に何もないね。見落としてる箇所があるのかな……絶対この建物のどこかに、あるはずなんだけど……」  僕は独り呟きながら扉に手をかけ、二階をもう一度調べ直そうとした。 「佐倉」  呼ぶ声に反応して、僕は室内へと戻る。  霧島さんは、部屋の最奥、その壁を指していた。  そちらに視線を向けて、僕は固まった。  丁度、扉ひとつ分くらい、露骨に壁の色が違う。  ここまで見てきたコンクリートの灰色ではなく、継ぎ目のある茶色だった。近づき触れてみると、ベニヤ板だと知れた。こぶしで叩くと音が反響する。  一応、周囲の壁も叩いてみたけど、他はしっかりとコンクリートで固められた硬質さが感じられ、こんな軽い音がするのは、この箇所だけだった。 「これ、絶対、向こうに何かあるよね」  霧島さんがベニヤ板を触りながら言う。 「うん、ありそう」僕は頷く。  建物の外に都合の良い物が置いていなかっただろうか、と考えていると、僕の隣で霧島さんが制服のブレザーを脱いだ。  彼女が何をするつもりなのか、僕は瞬時に理解したけれど、引き留める動作が遅かった。 「待った、霧島さん!」  霧島さんは制止する僕の手を躱して駆け出し、宙へ跳び、ベニヤの中央部分へ綺麗な飛び蹴りをかました。  木材が割れる高い音が響く。  僕はすぐさま、破壊された壁の向こうを覗き込む。  隠されていた空間は、トイレだった。  広さは一階と同等。そうだ、一階にはトイレがあった。しかし、二階では見かけていない。フロア全体の間取りが同じなら、どこかに一階のトイレと同等の空間がなければおかしい。  僕は中途半端に残ったベニヤの破片を力任せに剥がして広げ、その空間へ足を踏み入れた。  覚悟していた臭気は無い。ひんやりとした空気だけが感じられた。 「霧島さん、怪我してない?」  着地した姿勢そのままで固まっている霧島さんに声をかける。  彼女は答えず、代わりに、空間の奥を指した。  目をやると、個室が並ぶその奥に、黒い箱が見えた。  西洋風の箪笥が、そこにあった。  僕はスマートフォンのライトを点けて箪笥を照らし、観察する。  サイズは想像していたよりも小さかった。僕の身長よりも低く、奥行きもそれほどはない。これなら成人女性一人でも、どうにか運べるだろう。荷台のある車両や、シートを倒せるタイプの車に積めば、大変ではあるだろうけど、ここまで運んでくること自体は可能なはず。  そして、これに人間一人を詰め込むのであれば、なるほど確かに、強引な作業が必要となる。手足を折り、首も折らなければ、上手く収まり切らない。自分の娘を、そこまで変形させてでも隠したかった、という心理が、やはり僕には理解できないけれど。 「もしかして、ここと、この箪笥、霧島さんが夢で見たのと似てたりする?」 「似てるどころか、これだったよ。全く同じ。真っ暗だったあの部屋は、こことは違うけど、密室状態にされてた、っていう点は似てる。だから……」  ようやく立ち上がりながら、霧島さんが答える。  僕は、彼女の言葉の続きを待った。  しかし、霧島さんは口を閉じて。  唐突に、歩み出した。  僕は反射的に、彼女の腕を掴む。  さっと振り払われた。 「霧島さん?」  少し大きめの声で呼びかける。  反応がない。  いや。  待て。  これは、きっと良くない。  つい先程、似たような場面に遭遇したばかりだ。  僕達の身に起きた、あの不可解な現象。  その原因と思しき箪笥を目の前にすれば、もう何が起きても不思議ではない。 「霧島さん!」  僕は大きな声で呼びかけつつ、彼女の腕を掴んだ。今度は振り払われないよう、力を込めて。 「大丈夫、分かってる」  霧島さんは、こちらを振り返り、僕の顔を見ながら頷いた。 「惹かれちゃ駄目。あれは、良くないもの」  言葉に詰まる。  惹かれる?  彼女は確かに、そう言った。  おかしな表現だ。 「これは、予想外。面白い子が来た」  うって変わって。  奇妙な呟き。  同時に。  霧島さんの目の色が変わった。  比喩ではない。  目が、血のような赤い色に変わったのだ。  僕をしっかりと捉えている。  動けなかった。  この子は本当に、僕の知る彼女だろうか?  どうしてか、そんな疑問を抱いた。  立て続けに起きた異変からか、放たれる威圧感からか。  何に起因する異常か? 辿れば解る事象だろうか?  正しさとは、常とは、法則とは、何だ? どうして、分からないのに、分かったつもりでいる? 分からないのに、よくもまあ、ここまで来たものだ。 臭気がないことも、本来であれば、あり得ないこと。  あの中に人間が詰め込まれているのなら、この空間に臭気がまったくないはずがない。人が腐っていくのに、ここまで近づいて気づけないなど、建物からも臭いが漏れ出さないなど、現実の法則でみれば不可解である。  早乙女を異形化させ、僕達の意識へ働きかけて、奇妙な映像を僕に見せた。あれは、どうやった? どうすれば実現できる? 科学的な説明? 笑わせる。科学ですら証明できていないものの方が多いというのに、どうして過信できるのか?  霧島さんがうなされていたという悪夢も、この箪笥が、僕の目の前にいるこの何者かが意図して見せていたのかもしれない。そんな真似を平気でやってのける相手なのだと、それができるだけの力があるのだと、僕は理解した。肌で感じて確信した、という方が適当かもしれない。いずれにしても些末な違い。  問題は、そんなことではない。  テリトリーに入ってしまったこと。  僕も、霧島さんも、既に魅せられてしまっていたことが問題なのだ。  気づくのが遅かった。  致命的な遅れだった。  どうする? どうすればいい?  巻き返すには、どうすれば……。 「手遅れだと、分かっているのでしょう?」  僕の混乱をよそに、霧島さんは可笑しそうな口調で続ける。 「箪笥は、あくまで記号でしかない、肝心なのは、その中身。探していた答えは、すぐ目の前。やるべきことは一つしかない。あなたの手で扉を開けて、確かめてみればいい。それで全てが解決する。理解することができる。納得することができる。とっても簡単よ」 「駄目だ」  僕は抵抗する。 「答え合わせをしたかったのでしょう?」  霧島さんが言う。霧島さんの声で、霧島さんではない口調で。 「それは、彼女との約束であって、貴女とじゃない」  僕は、彼女の中に入っている者へ向けて告げた。  笑う。  彼女の姿で。  にんまりと。  愉しそうに。  可笑しそうに。  これほど危険な存在に、僕達は自ら望んで、関わり続けてしまっていたのか。  今にして思えば、異形の者を認識できたのは、ある意味、あの時点からもう、警告だったといえる。  見える、感じられる、触れられる、それだけの素質があるということは、裏を返せば、その異常な存在と成り得る、成り替わることすら叶う、ということでもある。  どうして気づけなかったのか。  どうして、好奇心に任せて行動してしまったのか。  どうして、彼女を巻き込んでしまったのか。  僕はどうなってもいいけれど、どうか、彼女だけは。  僕は悔いた。  霧島さんをこの暗い部屋に入れたことを。  ここへ彼女を連れてきたことを。  異形の者の調査に彼女を巻き込んだことを。  疑問を解決したいという欲求を制御できなかったことを。  こんな人格を形成し、こんな生き方をしている自分を、産まれてきたことすらも。  遡り、遡り、遡り、辿れる過去と記憶の全てを悔いた。 「この子が好き? 助けたい? それなら、貴女が代わりになる?」  彼女の中の者が、含み笑いを通して聞いてくる。愉快でたまらない、という様子。  ここまで誘い込み、追い込んでおいてから、選択を委ねる辺りが非常に悪質。  それでも、答えは決まっていた。迷いはなかった。  彼女以上に大切なものなんて、僕にはないから。  赤い目を見据えて、頷いてみせた。  瞬間、胸に重さを感じた。あの感覚。  しかし、今度の変調速度は尋常ではなかった。  四肢の感覚が一瞬にして消失し、声を、呼吸を、奪われた。  さらには視野までも狭まっていく。酸欠に起因する症状なのか、これも力の一端なのかは判然としない。  短期的な気絶と、おそらく溢れているのであろう涙で、状況の認識が困難。  幾度かのブラックアウトを経て、僕は、部屋の最奥、あの箪笥の目の前まで移動していた。  ガチャリ、という音が聞こえた。  よく見ると、自分の手が、箪笥の取っ手に掛かっている。  その腕は、いつもより長く見えた。  視界の端に、霧島さんの姿。  箪笥と並び立ち、微笑んでいる。  感覚のない僕の両腕が、箪笥の扉を開けた。  飛び出してきた暗闇に飲まれる。  どこまでも黒く、暗く、静かで、孤独。  ああ、こんな感じだったのか、と理解。  こんなところにいたのだ。  押し込められて、たった一人で、全てを奪われて。  生か、死か、そのどちらかを選べず、留められていた。  さぞ辛かったろう。自分以外の者を引き込みたくもなる。  どこかで、声がした。  呼ばれている?  でも、誰に?  邂逅し、拒絶し、しかし惹かれ。  追いかけ、辿り着き、取り込まれ。  選択し、嗤われて、引き開けて、体感した。  必然に遊ばれた僕を、愚かな僕を、一体誰が求めるというのか?  考えてみよう、と決めた矢先、僕の意識は、徐々に、徐々に、遠のいていった。 「佐倉!」  その叫び声で、僕は目を開けた。  周囲は暗く、寒い、と感じた。  目を、次いで首を動かして、状況を確認。  どうやら、まだ廃墟の中、あの隠されていた部屋の中にいるらしい。  僕は床に転がっていた。比較的すぐ側に、あの箪笥があったので、思わずのけぞる。 「生きてる? 大丈夫?」  声の方へ顔を向けると、霧島さんが泣きそうな顔で僕を見つめていた。  彼女に手を貸してもらい、引き起こされる。  手足は正常に動作する。こうしてものを考えられるから、頭も多分、大丈夫。 「生きてるよ。状況が分からなくて、混乱はしてるけど」  そう答えると、彼女は僕をきつく抱きしめた。 「あれから、どうなったの?」  僕は霧島さんに問いかける。 「とりあえず、出よう。それから話す」 「あぁ、そうか、そうだね。賛成」  先に彼女を、次いで、僕も、破壊した穴を通り抜けて、隣の部屋へ移動する。そこから通路を通り、階段を降りて、一階フロアを足早に過ぎて建物の外に出た。  日光に照らされた瞬間、僕は眩しさのあまり目を覆った。  霧島さんに手を引いてもらい、僕達は雑草に覆われた敷地から出て、建物の灰色が見えなくなるまで歩いた。  蛙とバッタが飛び、霧島さんが悲鳴を上げたりしていた辺りまで戻ってようやく、僕達は田んぼの端へと崩れるように座り込んだ。  揺れた草が手に触れる。  お尻を地面に着けて感じた、ささやかな反力。  土の匂い。水の匂い。泥の匂い。陽の暖かさ。  生きているもの達の匂いと感触で、安心した。  還ってきた。  そう思った。  僕達は同時に長い溜息をついた後、互いに口を開く。 「それで、あの後、何があったの? どうなった?」僕は聞く。 「ええと、まず、助けてくれて、ありがとう」  霧島さんが、僕の手を握りながら答える。少し震えていた。もしくは、僕の手が震えているのかもしれない。 「どちらかというと、僕が助けられたような気がするけれど」  僕は前髪を掻き上げながら言葉を返す。額に汗をかいていた。 「私、部屋に入ってすぐ、あれに、意識を引き込まれたの。引き戻してくれたのは、佐倉でしょう? どうやったのかは分からないけど、誰が助けてくれたのかは分かるの」 「ああ、早乙女と同じ状態だね」 「そう。あの時の早乙女君も、これと同じ心理状態だったんだと思う」  霧島さんが頷きながら言った。 「やっぱり、僕達、惹き寄せられてたね」 「うん」 「してやられた、って感じ」 「そうだね」  霧島さんは苦笑いをした。 「ねえ、佐倉は、あの女の人を見た?」 「見た、という表現で正しいのかは分からないけど、うん、いたね。女の人」  僕は頷き、言葉を続ける。 「霧島さんは、どうして、女の人だと分かったの?」 「あの人が、私の中に入ってきたから。入ってきて、私とは別の人格で、私と同居してるような、そんな感じだった。私の身体の中で、二人でいるみたいな」 「その人が、例の事件の、被害者の妹?」 「そうだと思う。私よりも、ずっと若い。というより、幼い感じがした。はっきりと見たわけじゃないし、そう聞けたわけでもないけど」 「やっぱり、そうか」  僕は息を吐いて、頷く。 「……こんな繋がり方をするとは、思ってなかった」 田んぼの方へ視線を向けて、霧島さんが呟く。 「仮説は立てたけど、本当に事件と、おかしな現象が、絡むなんて」 「そうだね」  僕は頷き、そして、聞きそびれている事を思い出した。 「そうだ。あのさ、僕、箪笥の扉を開けさせられたはずなんだけど、そこから先の記憶がないんだよね。あの後って、どうなった? 霧島さん、何か見てない?」 「ええっとね……」  霧島さんは僕の顔を見て、すぐに視線を落として、もじもじとしてから口を開く。 「言いにくいんだけど、佐倉は、異形の者に成ってた」 「えっ? うそ、本当に?」  僕は驚いて聞き返す。 「うん、本当に」霧島さんが頷く。 「僕も、早乙女みたいに、あちこち捻じれて、頭が垂れ下がってた?」 「そう」  霧島さんは肯定してから、説明を続ける。 「私の意識が戻って、身体が自由に動かせるようになって、その時、私の目の前に、あちこちが捻じれて、ガクガクって揺れながら近づいてくる佐倉がいたの」  僕は反射的に、自分の胴体、腕、首を触り、正常さを確かめた。 「すごく怖かった。トラウマ級。今日の夜、絶対夢に見ると思う」 「それは……ごめん」 「私をうなさないでね」 「約束はできないかな」  衝撃の事実に愕然としながら、同時に僕は羞恥心を覚えた。 「それで、そこから、どうしたの?」  僕は先を促す。 「佐倉が、やったのと同じ方法で、元に戻した」 「僕がやった方法?」 「早乙女君を元に戻す時、殴りつけたでしょう?」  彼女は上目遣いで僕を見る。 「ああ、殴ってくれたの?」 「そう」  霧島さんは頷く。 「佐倉の真似をそのまましたから、佐倉の顔を殴ったの。ごめんなさい」 「そんなの、気にしなくていいよ。むしろ、ありがとう。助けてくれて」  感謝の気持ちを述べながら、僕は今頃になって、早乙女の気持ちが理解できた。なるほど確かに、これは、殴った相手を庇い、ありがとう、を言いたくもなる。そうしてもらわなければ、殴られるよりももっと悲惨な運命が待っていたと断じられる。それほどに、あの感覚消失と意識の簒奪は恐ろしい。 「そろそろ、行こうか。まだ、やらなきゃいけないことがあるし」  そう告げて、僕は立ち上がる。 「そうだね」  霧島さんも立ち上がり、スカートを軽く手で払った。  その時だった。  廃墟の方から、甲高い悲鳴が聞こえた。  聞き覚えがある。  朝の通学路で、異形と化した早乙女が発した、あの叫び声と同じものだ。  置いて行くな、と怒っているのだろうか。  あれほど密に絡み、数奇な繋がりを経ても、僕達には分からない。分からないまま。  それでも……。 「ごめん。もう少し、待ってて」  霧島さんが、廃墟に向かって呟いた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加