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第三章 約束はみっつ
翌日、学校へ登校すると、ふたりは、いたって普段通りだった。
普遍的、変わりなく、そのまま、記憶の通り、いつもと同じ。
明るく笑って、優しく触れてくれる。髪へ、肩へ、両手を繋いで。
ゆきちゃんと、さきちゃん。大好きな私の彼女達。
おかしなところなんて、何一つ見当たらない。
だから、不安だった。
何を考えているか、分からないから。
この変化の無さに、再び最悪を想定した。
頭では、早まるな、確証はない、まだ始まってすらいない、と私の頭は自制する。それでも、どうしても、無意識のうちに自己防衛機能が働いてしまう。少しでも心理的な負担を減らそうとする、早期のダメージコントロール。
大袈裟かもしれないけど、こればかりは仕方ない。備えを敷いていないと、万一の場合、私の心が保たないかもしれないから。
本質的に、私は独りだけど、ゆきちゃんとさきちゃんは、ふたりだから。
何かあっても、ふたりで話し合って決められるし、もし私と離れても、独りぼっちにはならなくて済む。支え合えるし、認め合える。言い方は悪いけど、傷の舐め合いだってできる。
そこが私と、決定的に違う。
もし別れたら、私には何も無くなる。
ゼロになる。虚無になる。心の支えが無くなるのだ。
ふたりが怖い。
付き合い始めてから、初めて抱く感情だった。
こんなに好きなのに。
こんなに愛しているのに。
ゆきちゃんとさきちゃんの為なら死んでもいい。
それくらい強い想いが、私の芯には在る。
だからこそ余計に。
嫌われるのが怖い。
ふたりと離れるなんて耐えられない。
その原因となるかもしれないことを、自分から仕掛けなければならないことが怖い。
でも、やらなくちゃ。
胸の内に、誓いの杭を打ち込む。
その杭に彫られた文字は、ふたつ。
決して曲げたくない【想い】と、全てを捧げる【覚悟】である。
遅れて、憂色が自己の目に浮かぶ。
マンションの廊下で、別れないよ、とは言ってくれたけど、初めての衝突が残した残響は、あまりにも大きい。私の歪な願いは、どこまで果たされるだろう?
気分は淀み、心が沈む。思考は水底にいるかの如く、重く、鈍い。
けれど、静かでもある。
感覚的には、深海に近いかな、と想像する。
私は、どこまでも自分勝手で、考え方も、内面も、歪そのものだ。自覚してる。
けれど、直線的なものだけが正解とは限らない。目的地に辿り着ければ、それでいい。そんな時だってあるだろう。
自信があるのかといえば、そうでもない。ここから先の展開の予想はつくし、思考的な準備も可能な限りしてきたけれど、成功への具体性は、やはり伴わない。相手が相手であり、実行したいかといえばしたくはない、そうした後ろ向きな姿勢から、腰が引けてしまっている。
それでも、やるしかない。
さきちゃんと、ゆきちゃんを。
愛するふたりを、私が解放する。
四時限目の授業が終わり、昼食の時間となった。
私は、いつ、どこで、どのように話を切り出そうかと構えていた。
すると、一緒に昼食をとるために机を挟んで座ったゆきちゃんの方から、放課後、私達の家に遊びに来ない? と誘ってくれた。
お邪魔して良いの? と問い返すと、ゆりちゃんのお部屋には招いてもらったから、と笑顔で返され、続けて、あの話の続きするなら、外じゃなくて部屋の方が都合が良いでしょう? と言われた。
事情を話してくれるという約束を反故にされなくて安心した反面、もう避けられない事項なのだな、とも思った。どれだけ恰好をつけたところで、内心では情けないくらいに私は怖がっている。
その後、頭に入らない授業を二時間ほど聞き流し、迎えた放課後、私とゆきちゃんは、さきちゃんと隣の教室前で合流してから校舎を出た。
昨日降った雨の影響で、外は快晴。適温。校門を抜け、並木に挟まれつつ、雑談を交わしながら坂を下る。そうしているうちに気づけば坂を下り終えて、アーケード街が見えてくる。
いつも通りの流れ。いつも通りの光景。いつも通りの楽しい時間。幸せなはずの時間。
でも、今日は、あまり楽しいと感じられなかった。
理由は明白。無理をしているからだ。
私も、さきちゃんも、ゆきちゃんも。
形だけを取り繕っている。
いつも通りを演じている。
楽しいフリをして、なんでもないふうを装って。
その実、気になって仕方ないんだ。
この後、どうなるのか。
打ち明けられた私が。
打ち明けたふたりが。
私達の関係が。
どうなるのか。
変化か、崩壊か。
それは分からない。
分からないから怯えている。
怖がっているのは、私だけではなかった。
マンションの廊下で私に問われた時から。
今日、学校で時間を過ごしている間も。
ふたりも気が気でなかったに違いない。
こうして歩き、話しているうちに確信した。
確信して、私は安心した。
追い詰められていたのが、私だけじゃなくて、ホッとした。
私はなんて嫌な女だろう。自己嫌悪が内側に広がっていく。
そうして会話と思考の並列進行をしているうちに、アーケード街を抜け、四車線が走る大きな道路を渡り、住宅街へと入る。ふたりの後を付いて歩く。私の自宅とは反対方向へ進んで行く。雑談と思考の片手間に、立ち並ぶ一軒家や、間隔を置いて存在を主張するマンションを眺める。普段通らない道と、あまりじっくり観察する機会のない建造物達には興味を惹かれた。
そうして歩くこと、学校から数えて約二十分。
白くて角ばったデザインのマンションその前で、ふたりは足を止めた。
「ここの一番上の、あそこ、角のお部屋が、私達のおうち」
ゆきちゃんが指差しながら教えてくれる。
私は示された方向へ目を向ける。見上げた視界の大半を占める白い外壁は、耐震構造的に当然、鉄筋コンクリートだろう。上層に上がるにつれて軽量化のため、鉄骨やモルタルが使われ、壁が薄くなると書籍で読んだ。築年数が浅いのか、外壁清掃が行き届いているためか、汚れが目立ちそうな色なのに、とても綺麗。ガラス製の自動ドアを抜けて一階ホールに入り、パネルを操作してオートロックを解除する。進んだ先のフロアでエレベーターに乗り、階を昇る。
「自宅へ帰るためにエレベーターに乗るのって、ちょっと違和感ある」
私がそう漏らすと、ふたりは、分かる、と共感してくれた。
「エレベーターに乗らないと帰宅するのが大変な部屋を選んだ理由が理解できないんだよね」
回数表示の液晶を見ながら、さきちゃんが言う。
「同じマンションでも、二階とかにすればいいのにね。忘れ物しても取りに戻るの楽だしさ」
ゆきちゃんが私に笑いかけてくれながら、そう付け加えた。
目的階でエレベーターを降りる。到着した先の空間が外気に触れない屋内であること、床にカーペットが敷かれていることに私は驚いた。防音も十分なされていて、地上から距離があるとはいえ、車の走行音がまったく聞こえてこないのはすごい。他の部屋の生活音も全く漏れ出ていない。高級マンションのクオリティと機能性に私は感動した。
招かれた玄関扉の先の空間は広く、床の材質は大理石だった。靴を脱ぎ進むと、広いリビングルーム。天井はやや高く、隅に白くて大きなエアコンが取り付けられている。壁や床は清潔感溢れる白一色。ソファや肘掛け椅子は木質の茶色、革材質の部分は黒色で統一されている。
あと、ガラステーブルというものを初めて見た。とっても御洒落。将来、自分で部屋を借りたら、これを買おうと密かに決めた。
ふたりに了解を得てから、部屋の端へ移動する。窓から見える景色は当然、高所からの一望となる。普段、私が目にすることのないものだったので、内心はしゃいだ。
キッチンはバーカウンタのような黒い長テーブルを挟み、ガスコンロ、流し台がリビングを向いて設置されており、換気扇や冷蔵庫は、その奥にある造りだった。所謂システムキッチンというやつだ。見える範囲に置かれた家電や調理器具は必要最低限で、包丁やフライパン、各種調味料や鍋などは、対応した箇所に収まっているよう。とても綺麗で整頓されたキッチンである。私は片付いていた空間がたまらなく好きなので、ここはずっと眺めていられる。
その綺麗なキッチンに、さきちゃんとゆきちゃんが並んで立ち、コーヒーを淹れてくれる。
その間、私はカウンタ前の椅子に座らされ、大人しくしているように、と言われた。私の部屋にふたりが来た時と真逆の状況。
手持無沙汰になったので、ふたりの動きを、それとなく観察する。お洒落な薬缶でお湯を沸かしたり、マグカップを用意する手並みからして、ふたりは普段からこのキッチンに立つことが多いようだ。今度、三人一緒に、このキッチンで料理とかしてみたいな、などと妄想を膨らませる。
私の前に、コーヒーが注がれたマグカップが置かれた。
私は礼を述べつつ、ふたりに視線を固定する。
淹れてもらったコーヒーは、まだ熱くて飲めそうにない。
だから、やっぱり、お話が先。
「さぁ、何から話そうか」
ゆきちゃんが、私の視線から逃れるように、明後日の方を見ながら口を開いた。
「一から話すと長くなり過ぎる気がするし、そもそも、どこからが一なのか、私達自身、分からない。だから、ゆりちゃんから質問してもらおうかな。気になることを、ひとつずつ」
さきちゃんがカウンタ越しに私の手を握りながら告げてきた。
「私から聞いていいの? それ、嫌じゃない? 答え辛くない?」
そう返すと、さきちゃんは、まあね、と曖昧に頷き、ゆきちゃんは、本当に答えたくなかったら、素直に言うから、と溜息混じりに述べた。
ふたりの様子を見て、本来であれば、本当に話したくない、聞かれたくないことなのだと理解する。
ここに来るまでの雑談(メイクのこと、ふたりはミステリ小説は読むけど恋愛小説は読まない、飼うなら柴犬がいい等)を交わしていた時の調子はどこへやら。
表情は沈み、あらゆる勢いが失せ、ハスキィで魅力的な声は、いつも以上に低くて暗い。
「ええと、じゃあ、まず、最初に聞きたいのは、ふたりは、ご両親と、どれくらい仲が悪いの? ってこと。どれくらい険悪なのか、具体的な度合いを知りたい」
私は、容赦なく切り込んだ。
褒められる行いではない。思いやりや気遣いを欠いた、知的好奇心を満たすための精神的暴行を働いている様相、叱責されるべき蛮行の開始である。
「ゆりちゃん、遠慮がないね」
さきちゃんが苦笑いを浮かべて言う。
「そういう猪突猛進さが、ゆりちゃんらしいんだけどね」
ゆきちゃんも苦しそうに笑い、それでもフォローしてくれる。
「そうだなぁ……仲が悪いのは、ゆりちゃんが察してる通りで、うん、かなり仲悪いんだ。具体的に言うと……」
途中まで説明してくれていたさきちゃんが、上を向いて静止する。考えがまとまらないのか、なかなか相応しい表現が思いつかないか、いずれかだろうと私は想像する。
「あの人達はね、私達を人形として見てるんだ。道具として扱ってくる。私達、所有物扱いされてるの」
唐突に、ゆきちゃんが引き継いで述べた。
その声は、固くて冷たい。床に投げて落とすような、情を含まない、無機質さで塗り固めたような物言いだった。
「全部、話すの?」
ゆきちゃんへ、さきちゃんが問う。
「うん、話す。決めたの。私、ゆりちゃんに嘘をつきたくない。ゆりちゃんを手放したくない。手遅れなくらいに依存し始めてるから」
ゆきちゃんは、さきちゃんへ目を向けて答える。
「さきも、そうでしょう?」
ゆきちゃんの問いかけに、さきちゃんは溜息をついてから頷く。
「さすが、よく分かってる」
「双子だからね」
ゆきちゃんは笑った。諦めたような、寂しい笑み。
「ゆりちゃん、お待たせ」
ゆきちゃんが私に顔を向ける。
「具体的に、だったね」
さきちゃんが話題を再接続する。
「さっき、ゆきが言ったように、私達は両親の都合の良いように扱われてる。共働きで稼ぎの良い両親。住んでるこの建物や部屋を見てもらって分かる通り、育ちも扱いも御嬢様。外から見たら、そういう評価に落ち着く。だけど、あの人達は、性格が最悪で、二人共、自己顕示欲が異常に、病的に、強いの。見栄を張るためだけにお金を使う浪費家で、そこへ生まれた子供は双子、となれば、自分達の幸せをひけらかそうと子供達を過剰に着飾らせるし、自分達好みの外見に固定したがる。それ以外のことはさせたがらない。余計だ、不要だ、邪魔だ、無駄だ、と決めつけて、切り捨ててくる。異常なほどに束縛してくる。積み上げてきた自分達の功績に泥を塗られること、不名誉な不祥事なんかを死ぬほど嫌う。いかにも大人らしいこだわりだけど、やってること自体は子供っぽいよね。思い通りにいかないとヒステリーを起して喚いて、したいことだけをして、認められないことは全否定。理解や歩み寄りがないんだ」
そこまで語った、さきちゃんの表情は、今まで見たことがないほど憎しみで歪んでいる。
「だから、髪型、変えられなかったんだね」
私は、どうにか、それだけ言葉を発した。
「そういうこと」ゆきちゃんが軽く頷く。
「そっか……」
私は思考する。
双子に産まれたら、避けては通れない宿命。
共通のヘアスタイル、同じ色、同じデザイン、同じブランドの服、同じ趣味を愛好させられ、押しつけられる。そんなライフスタイルは害悪でしかないだろう。お互いの境界線を侵食し、個々のアイデンティティを確立させることの障害となったのは明白だ。大人ばかりのコミュニティに溶け込み、また順応することを求められる。見栄のために、自慢のために。その過程で、お互いの自己は同一化し、両親への隷属を強いられたことで精神に混乱も生じてしまったことだろう。防御として互いだけに依存し、それ以外を排するようにもなった。当然の適応だ。
双子として産まれた、ただそれだけで強要される、数々の不快因子。
我が子を誇りに思いつつ、大切に育てながらも、仕事や立場、それに付随する向上心、周囲への誇示や環境の保持その方向性がいつしか狂ってしまい、結果的に、ふたりをここまで抑圧する結果となった? 意図せずして、いつしか、飼い殺してしまった?
いや、どうにも、違うように思う。
ふたりの口から聞いた限りでは、好意的に解釈できる要素が無い。現環境や娘達の管理体制は、偶然の産物にしてはあまりに綿密な雁字搦め。意図せずに、いつの間にか、などと言い訳するには出来過ぎている。無意識の結果ではあり得ないだろう。もっと明確な思想、強烈な動機に基づくエゴが感じ取れる。
自己顕示欲が自制心を上回る人間は一定数、存在する。モラルよりも、人権よりも、自己の為に、理想のために、他者の自由を奪い、統制を良しとする。自らの子供達であれば、管理や強制はより簡単に、容易に行うことが叶う。善し悪しではなく、できるかどうか、従うかどうか、そうした点が判断基準となる。残念ながら、ふたりのご両親は、そうした価値観を定め、実行しても心が痛まない、そういう人種だったわけだ。
都合よく利用され、従わされ、抑圧され続けてきたふたりの運命を、これまでを、私は痛ましく思った。
人に降りかかる不幸は、何に由来しようとも、等しく不愉快で悲しいもの。足掻いても、泣き叫んでも、変えられないことがままある。
私も、恵まれた人生を歩んでいるとは言い難い人間だ。だから、ふたりの気持ちが分かる。
経済的には、やや裕福であり、父は健在で、不仲でもない。一般的な物差しに当てはめて評価するなら充分に恵まれている。客観的には、側面からの観察だけであれば、そう分析できる。しかし、総合的な見方をするならば、細部に粗があり、時に歪で、人によっては目を背けたくなる経歴も有している。
幼い時に母が亡くなっていること。
同性しか愛せず、それに起因して、暗い中学時代を送ったこと。
これらが影を降ろすのだ。私の人生から彩を欠き、心に残る黒い汚点を散らし、消してくれない。
さきちゃんと、ゆきちゃんの家庭環境と、中身こそは異なるけれど、不幸の性質は似ているといえるだろう。
ふたりを包む不幸の霧は、もう何年、何十年と、ふたりを閉じ込め、迷わせ、自由を奪い、自我を持たせぬよう、煙にまいてきた。
ふたりは人形のように扱われ、着せ替え人形のように弄ばれ、クルミ割り人形のように役割を限定されて、生かされている。
そこに自らの意思が介在する余地は無く。
となれば、誰の為の生なのか?
これ以上の不幸があるだろうか?
これ以上の不自由があるだろうか?
行く先も見えず、導も無く、ただ闇雲に歩き回るしかない。
答えなど見つかるはずがない。
救いなど期待できるはずもなかった。
私の、私以外の誰かの者とも、不幸の毛色が違う。
故に、深刻なのだ。
早く、早く、引き上げてあげないと。
でないと、こんなの、最後にはどうなるか。
簡単に想像がつく。そうでしょう?
「親の期待や、押しつけがましい要望に、全て応える必要はないと思う」
私はマグカップの中の液体に視線を溶かしながら、慎重に言葉を選びつつ話す。
「私が考えるより、その反抗は、ずっと難しいだろうけど、それでも、理不尽にまで応える義務は無いはずだよ。養ってもらっているとはいえ、ふたりは自分の力で、自分の意思で生きてるんだから。所有物と同じ扱いは許されるべきじゃない。ゆきちゃんも、さきちゃんも、双子である前に、ご両親の子供であると同時に、ひとりの人間なんだから」
そこまで語り、上げた私の顔を見たふたりは、驚きの表情を浮かべていた。
あれ? やば、おかしなこと言った? もう怒らせちゃった? と動揺していると、自分の頬が濡れていることに気づいた。
「なんで、ゆりちゃんが泣くのよ」
そう言いながら、さきちゃんがカウンターを回り込んで来て、抱きしめてくれた。
何か言わなきゃ、と私は口を開く。
けど、そんな形の音は出てこなかった。
言葉はつまり、涙に溺れ、小さな嗚咽が漏れる。
私の中の冷静な人格はなりを潜め、胸の内に哀情だけが溢れてくる。
「だって、こんなのって、ないでしょ? なんで、私の彼女達を、人形扱いするんだよ……ふざけんなよ……」
誰に対しての呪詛なのか。ふたりのご両親は今ここにいないのに、こうして吐き出してしまったら、ふたりに八つ当たりしているみたいではないか。
また、感情を漏らしてしまった。
あの教室で、我慢ができなかった時のように。
「ゆりちゃんが話聞いてくれて、理解してくれて、共感してくれたから、もう十分だよ。もう、いいの」
カウンターから、ゆきちゃんも出て来て、さきちゃんの腕の隙間から腕を差し込み、私を抱きしめながら言う。
ゆきちゃんの言葉を聞きながら、しかし私は、その内容を一ミリたりとも聞き入れていなかった。
もういいと、もう十分だと、ふたりは言う。
ゆきちゃんも、さきちゃんも、同じように考えている。そう思い込んでいる。
自己を無理矢理、納得させている。
人は皆、自由であることを望むもの。
そして、それを許容する、という概念。
人の価値観は様々で、それらに介入する理由を、私は持ち合わせていないし、まして淘汰する必要など全くない。あるがままを受け入れ、興味深ければ参考にし、そうでなければ、そのままにしておく。それだけのこと。
ただし、こちらの価値観を大袈裟に否定してきたり、大切な人を、このふたりを引き合いに出されたなら、その限りではない。例外的に、徹底的に、好戦することとなるだろう。
立場やしがらみがあるとはいえ、いくらなんでも、双子として生まれたというだけで、自由を制限するのは、おかしなことだ。たとえそれが自分の子供であったとしても、利用価値の高い双子だったとしても、その思考自体を、発想自体を、私は許容できない。見過ごすことはできない。
環境、出自、個人の感性、後天的な外的因子、理由は様々に廻る。けれど一貫してそこにあるのは、やはり、許容できるかどうか、という一点。
許されなければ存在し得ない。
できないのだから改変させてもらう。
誰が、それを決める?
無論、私である。
ふたりの自室へ移動した。
理由はおそらく、私を慰めるためだろう。家庭の事情を打ち明けたら、まさか泣かれるとは思っていなかったに違いない。私自身、ここで取り乱してしまった事実に驚いている。
ゆきちゃんと、さきちゃんの部屋は、モノトーン調だった。
入ってまず目を引いたのは、家具の配置。十二畳ほどの広い部屋の左右に黒いデスクと椅子がセットで置かれ、入口ドアから見て正面奥に、白く清潔な印象の大きなベッドが一つ。そのベッドの左右に角張った白い箪笥が一つずつ置かれている。床には高級そうな黒い刺繍入りの絨毯が敷かれ、壁はリビングと同じで白一色。
一見すると、大人びた高校生か、大学生の部屋、という印象を受ける。
しかし、私はすぐに違和感を覚えた。
机と椅子は二つずつ、箪笥も二つ、ベッドは一つ。左右対称に配置された家具。決めつけられたシンメトリ。これではまるで……。
「作り物みたいでしょう?」
私の考えを見透かしたかのように、さきちゃんが言った。
「うん、そう思った」私は頷き、言葉を続ける。
「だってこれ、配置も、色も、何もかも、さきちゃんとゆきちゃんの趣味じゃないよね? ベッドだって、双子はふたりで仲良く寝るのが当たり前っていう押しつけじゃん」
「すごい! さすが、ゆりちゃん。よく分かってくれてる!」
ゆきちゃんが私に抱きつきながら褒めてくれる。
ごめん。これは嬉しくない。喜べない。
「ちなみにね、ここにあるもので、私達が大事なのは、この前話した、ヴィジュアル系の服だけ。他の物は全部いらない。お金のかかったゴミにしか見えない」
ゆきちゃんが耳元で囁いた事実に、私は鳥肌が立った。
同時に、また胸が苦しくなり、視界が滲んでくる。
ダメだ、泣いてる場合じゃない。頭では分かっているのに、感情が感傷を引き立たせ、涙を身体の外へ、外へと押し出そうとする。
「あっ、また泣かせた!」
隣に立っていた、さきちゃんが先に気づき、私に顔を寄せて言った。
「えっ、うそ! ごめん、ごめんね、ゆりちゃん。そんなつもりじゃなかったんだよ」
抱きついていたゆきちゃんが、私の頭を忙しなく撫でてくれる。
頬にキスしてくれて、背中をさすってくれて、そして。
「えい」
掛け声と共に、私はベッドに押して倒された。
「えっ? ちょっと」
混乱する私の左右に、ふたりが飛び込んでくる。
「聞かれたことには答えたよ。ゆりちゃんが味方してくれて、すごく嬉しかった。けど、空気、悪くなっちゃったじゃん?」
私の右側で、さきちゃんが言う。
「だから次は、私達のお願い聞いてよ」
私の左側で、ゆきちゃんが言う。
「ゆりちゃんの部屋での続き、しよ?」
さきちゃんが、私に覆い被さりながら誘ってきた。
魅力的な提案。
シチュエーション的にも最高。
他に話したいことがなければね。
残念だけど、まだ終わってない。
非常に惜しいけど、大切なことだから。
やましくて、やらしくて、たまらなく艶めかしいこの雰囲気を壊さないといけない。
私は断腸の思いで、地雷を踏みに行く。
「ごめん、あと一つだけ答えて」
私は目の前のさきちゃんを抱きしめ、互いの上半身を引き起しながら告げる。
「えぇ~まだあるのぉ? お喋りは後でいいじゃん。先にさきとしようよぉ」
駄洒落をかましながら頬を膨らませる、さきちゃんの頭を撫でながら、私は、ゆきちゃんの方へ顔を向ける。
「あとは、何が知りたいの?」
ゆきちゃんが布団の上で首を傾げる。その可愛らしい仕草と周囲の白さが相まって、お姫様に見えた。
「ふたりが自傷的な振る舞いをする理由を教えて」
私がそう口にした瞬間、私の上に乗ったままのさきちゃんが、その質問パス、と言った。
続いて、ゆきちゃんも、ベッドに寝転がったまま、ゆっくりと首を横に振った。
「入れ替わりとかの事なら、双子に産まれたからには、やってみたかった、それだけ。昨日の度が過ぎたいじわるのことなら謝る。あれは本当に、私達が全面的に悪かった。ごめんね、ゆりちゃん。ごめんなさい」
ゆきちゃんが静かな声で答えた。
でもね。
違うの。
それじゃない。
「そうじゃない。それじゃないんだ。私が聞いてるのは、ふたりのそういう振る舞いは、どれも自分達の首を絞めるようなことばかりで、けど、ご両親の方針には嫌々従っていて、でも、やっぱり不満はしっかり抱えていて、大人しくしているわけでもない、かといって、諦められない。自分達でも自覚しているでしょ? 矛盾した行動と心理がある。ねえ、本当はどうしたいの? 私は、それを聞いてるの」
「だから、パスだってば」
私の上で、さきちゃんが再び言った。語気は強く、苛立ちが滲んでいる。
「そこまで理解してくれてるなら、分かるでしょう? 私達が無茶な振る舞いや、おかしなことをするのは、我慢させられ続けて溜まりに溜まったストレスを発散する為だよ」
ゆきちゃんが冷めた口調で答える。
私と目が合っている。
けど、その目の奥にあるはずの、本当の感情は覗けない。
黒いもやが立ちこめている。
莫大なストレスを抱えているのは本当だろう。こんな家庭環境でストレスが溜まらないはずがない。解消のために多少危険なことをしたくなる、そういった方向へ衝動が向くこともあるだろう。反抗的な振る舞い自体は、何ら不思議ではない。私達は三人共、精神年齢的には同年代より大人びているけれど、実年齢は思春期真っ盛りな十代半ば、無茶や無謀なことをしたくなる年頃なのだ。
理屈は通る。気持ちも分かる。
けれど、それは理由の一部でしかない。騙されはしない。
私の嘘が、ふたりに見透かされてしまうのと同様に、私に嘘は通用しない。
まだ、何かある。
私の知りたい答えは、あの黒いもやの向こう側にある。
「それは、何に対してのストレス? 人形として扱われることへの不満? でも、それなら、私が味方に付いたから、もういい、って言ってくれたよね? それなのに、まだ、こうして話すことに抵抗があるのは、話を打ち切って逃げようとするのは、解決してない問題があるからじゃないの? 例えば、ご両親に不満を直接ぶつけたいとか、自分達には本当にやりたいことがあるとか、そういう諦めに起因する不満が残って……」
そこまで話した時、頬に衝撃が走った。
視界が揺れる。
遅れて、鈍い痛みを自覚。口内に血の味が広がった。
「ちょっと、さき!」
ゆきちゃんが身を起こしながら声を上げ、さきちゃんの手首を掴んだ。
「ゆりちゃんさ、思い出したくない過去があるって言ってたよね。あれ、どんなの? 教えてよ。話して。今すぐに聞かせて」
さきちゃんは、ゆきちゃんの言葉も、掴まれた手首も無視して、私を見下ろしながら聞いてくる。
「……中学の時、いじめられてたの」
私の発した言葉に反応して、ゆきちゃんが、こちらに視線を向ける。
「私は、小学生の頃から同性が好きだった。それが、他の子とは違うって、普通じゃないんだって自覚してたから、表には出さないようにしてたんだけど、隠すの下手でさ。中学に上がってすぐ感づかれて、いじめの標的にされた。無視されたり、物隠されたり、蹴られたり、気持ち悪い、って言われたりした。けど、仕方ないって思ってた。おかしいのも、皆と違うのも、私の方だから」
話しながら、心臓の辺りに冷たさが広がる。
この不快な感覚は、久しぶり。
トラウマが蘇ってくる。
映像として、文章として、歪んだ人の表情で、どす黒い悪意、その幻影という形で。
これだから、形は嫌いなんだ。ふたりと意識だけの存在になりたいのも、それが理由。
吐き気を自覚して、それは精神力で封じ込める。ふたりの部屋を汚したくない。
「ずっと独りだった。殻に閉じ籠って、耐えて、耐えて、寂しくて……死ぬほど辛かった」
「分かった、分かったから。もういいよ、ゆりちゃん……」
ゆきちゃんが私の手を握る。
その優しさに、私は一瞬だけ揺らいだ。けど、ここで折れたら、今後一生、私達は互いに、触れてはいけない側面を抱えて接することになる。そんな関係は長続きしないし、そもそも隠し事のある関係が私は嫌い。
自己満足のために、私は妥協の手を振り払った。
「中学時代の経験が、トラウマなわけだ」
さきちゃんが、私の目を見ながら聞く。
「そう」私は頷く。
「その話を引き合いに出されて、どんな気分?」
「吐きそう」
「私達にとって、親との事情に突っ込まれるのは、それと同じ気分になるんだよ。分かった?」
さきちゃんは吐き捨てるように言った。
私に向ける目は鋭く、いつもと違い、好意とは反対の感情が宿っているように見える。
引きずり出された中学の記憶よりも、愛する自分の彼女から向けられる、その目の方が、私には効いた。
強い吐き気を感じ、軽くえづく。さきちゃんが私の身体の上に乗ったままなのも一因だろう。
「どういう気持ちになるのかは分かった。だから、この一回で終わらせる」
私がそう告げると、さきちゃんは露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「分かってないじゃん……」
「ねえ、ゆりちゃん」
ゆきちゃんが握った手に力を込めながら私を呼ぶ。
「正しくないことを正したい気持ちは、よく分かるよ。私達だって、両親との今の関係が、世間一般で言う、普通の状態だとは思っていないし、勿論、納得なんてしてない。これでいいとも思ってない。だけどね、私達と両親の関係は、ギリギリのバランスで保ってるの。どこか一点に力を加えたら、それだけで崩壊するような、そんな強度しかないの」
「だから、我慢するの? 不満を押し殺して、人形のフリをして、大人しく従って生きるの?」
私は、ゆきちゃんの手を握り返しながら問いかける。
「そうだよ。それが一番、楽だから」ゆきちゃんは頷く。
「それで納得できるの?」
「納得はしてないよ。そう言ったでしょう?」
「なら……」
「あの人達に何言っても、無意味だってば」
さきちゃんが冷めた口調で言う。
「私達は、成人するか、都合の良いタイミングがくるまでは、大人しくしてるつもり。距離を取るのは、その後でいい。待っていれば、良い子のフリをしていれば、いずれは自分達の好きなように生きられるんだから。何より今は、ゆりちゃんと、こうして毎日楽しく過ごせてるから、もう不幸っていうほどじゃなくなった。ね? 十分、幸せでしょう?」
ゆきちゃんは、私に微笑みかけながら、そう語った。
「でも、高校生でいられるのは、今しかないんだよ? 何も悪いことしてないふたりが、時間と人生を捧げる必要はないじゃん。それに、ご両親の方針が根本的に変わらない限り、成人してからも、離れても、これから先もずっと、ふたりを苦しめ続ける。そうでしょ?」
「ゆりちゃん、しつこいよ」
ゆきちゃんが強い口調で言った。その目には、ついに怒りの色が。
「これ以上は、やめて」
「やめない」私は宣言した。
もう後には引けない。とうに開戦している。
可哀想とか、相手に悪いとか、そういう湿った感情は意図的に遮断する。
どうすれば、ふたりの考えを変えられるか、そのメソッドだけを頭に思い浮かべる。
「さきちゃんと、ゆきちゃんが、自傷的な振る舞いをするのも、結局は、ご両親へのあてつけでしょ? ストレス発散っていうガス抜きも、確かに含むんだろうけど、本音は、自分達が、ご両親にとって大切な商品だから、傷がついてしまえば価値が下がる、そういう意図でしょ? 仕返しとしてやってる。違う? でも、それは、ふたりにとって破滅をもたらす行為でもあるんだよ?」
「だったら、何?」
さきちゃんが聞く。その口調は冷ややかを通り越して攻撃的だった。
「ご両親に、ふたりの意向を伝えよう。自由を勝ち取ろうよ」
「……ゆりちゃん、言って良い事と、悪い事があるよ」
ゆきちゃんが私を睨みつけながら言う。
「理想論だよ、そんなの。外からなら何でも言えていいね」さきちゃんが呟く。
「ねえ、もしかして、自分が女の子と付き合えたから、一見、不可能そうなことが叶ったからって、私達も行動さえ起こせば希望が通る、上手くいくとか思ってるんじゃないよね?」
ゆきちゃんが眉根を寄せて私に問う。
「ゆりちゃんが辛い思いをしてきたこと、話したくなかっただろうけど、私は、聞けて良かったと思う。内容がどうあれ、ゆりちゃんの過去を知れたから、それだけ深く理解してあげられたよ。けどさ、誰に対しても本音をぶつけて、それが好転に作用するわけじゃないことくらい分かるでしょう? ゆりちゃん、馬鹿じゃないんだから。関係が崩壊してから慌てたんじゃ遅いんだよ? 中学の時、同性が好きなことを感づかれて、いじめられたのも、そういうことでしょう?」
「私の自業自得だった、って言いたいの?」
私は感情を抑制しながら問い返す。
「違う、そうじゃない」ゆきちゃんが首を横に振る。
「ゆりちゃんの欲望は、私達が受け止める。ゆりちゃんの本心も、私達だけが知っていればいい。それと同じで、私達のことは、ゆりちゃんが理解してくれていれば、それでいいじゃん。わざわざ、あの両親を引き合いに出して、本音の直談判だとか、関係を変化させたりだとか、そんなことを今更する必要はない、って言ってるんだよ」
さきちゃんが、ゆきちゃんの言葉を引き継いだ。意識や思考が、これほど明確に、ふたりの間で伝心していることに、私は内心、驚いた。
「それでも、私を救ってくれたふたりなら、もっと別の道があるんじゃないか、もっと上手くやれるんじゃないか、って思う」
そう告げた瞬間、繋いでいた方の手に痛みが走った。見ると、ゆきちゃんが指を強く握り込み、爪を立てていた。
「ふざけるのも大概にしてよ。そんな適当な理由で、親に反発しろとか勧めてこないで」
ゆきちゃんが感情を抑えた声で告げてくる。
次はない。
爆発する。
察した。
「ねえ、聞いて」
さきちゃんの呼びかけに反応して視線を向け、私はゾッとした。
さきちゃんの顔が目の前にあった。
諦念だけが映る、冷たい目が、すぐそこに。
「ゆりも大概だけど、私達もかなり、嫉妬深いんだよ? 大事な彼女の顔や首を掴むほど、こうして言葉で責めて、泣かせて、顔を叩いて、爪を立てて、散々に傷つけて、それでも本心は変わらない。大好きなの。すごく、すごく、すごく好きなの。愛してるの。嫉妬の対象は周りのもの全てなんだよ。ゆきにだけ何かを話して、私がそれを聞いていないと妬くし、仲良さそうに話してた、ゆりのお父さんにも妬いた。構ってもらえないと妬くし、学校で他の男子や女子と話してたら妬くし、ゆりの家庭が、自分達の家庭環境よりマシだな、と思っても妬くんだよ。分かる? 私達は、ほとんど病気なの。嫉妬深くて、依存したがりで、寂しがりで、面倒臭い双子なの。ゆりが居てくれるなら、他の誰もいらない。ゆりが愛してくれるなら、他には何もいらない。私達三人だけで生きていきたい。これが本音」
そこまで語ると、さきちゃんは、少しだけ顔を離して、私をじっと見る。
本音に対する私の回答を待っている。そう理解する。
「本音を聞かせてくれて嬉しい。依存体質なのも、嫉妬深いのも、私と同じだから、全然、嫌じゃない」
「本当に? 普通、こんなカミングアウトされたら、ドン引きすると思うんだけど」
さきちゃんが自虐的な笑みを浮かべながら呟く。
「私は普通じゃないから」
私は笑顔でそう告げ、言葉を続ける。
「それと、さりげなく私の名前を呼び捨てにしてくれたことも嬉しい。ずっとそのままにして欲しい」
言葉は事実。笑顔も本物。
「そう、じゃあ、これで、おしまいにしてくれる?」
ゆきちゃんが溜息をつきながら聞いてくる。
「選べないことはあるよね」私は語る。
「家庭も、親も、惚れる相手も、感情も、自分の力じゃ、どうしようもできないことがある。けどさ、ご両親に不満をぶつけるくらいならできるでしょ? 必要なら、私も手伝うから……」
「いい加減にしてよ!」
ゆきちゃんが吠えた。
室内の空気が震え、身体の芯まで響くほどの大声だった。
「私達は大人しく従ってきた! 我慢して、自分を殺して、たったふたりで、何年も耐えてきた! 理不尽にも、無茶振りにも、面倒臭くて無意味な付き合いにも! それをぶち壊しにしろっていうの? 間違いだったとでも? じゃあ聞くけど、他にどうすれば良かったのよ!」
繋がれた手が、痛みで悲鳴を上げている。ゆきちゃんの、ほっそりした手のどこに、これほどの力があるのか。気を抜くと、手の骨が砕けそう。
「誰も教えてくれなかったよ」
さきちゃんが冷めた口調で続く。
「対処法も、妥協案も、正解も、逃げ方も、教えてくれなかった。教えてもらえなかったから、私達なりに一生懸命考えて、生きてきた。ゆりも、生きるのが大変だった時期があるなら、分かるでしょう? 前を向くだけで精一杯で、進むのに膨大な労力と忍耐が必要だった。それでもどうにか前進してきたから、今の私達がある。それを否定しないでよ」
「あともう一歩、前進できない?」
そう告げた瞬間、繋いでいた手が振り払われ、次いで、頬に衝撃が走った。
先程とは反対方向、反対の頬、つまり、ゆきちゃんに叩かれた。
けど、先程よりはマシだった。
痛みが、ではない。痛いものは痛い。頬も、心も。
マシなのは、ふたりの感情と思考を、ようやくトレースできるようになったこと。
言い負かされる気がしない。気持ちも、考えも、今なら先回りできる。
「あああああああもう! もう! もう無理なんだってば! なんで分かってくれないの? ねえ、なんで? そんなに言うなら、ゆりがあの人達を説得してきてよ! 今まで何もしなかったと思う? やって駄目だったから大人しくてるのに、それも駄目だっていうわけ?」
「私が直談判しても意味がないよ。私の言葉には力がない。ご両親にとって、私は他人だから。ふたりの口から、ご両親に向けて不満を伝えるから効果があるんだよ」
「ゆきの話、聞いてた? 不満を伝えても聞き入れてもらえなかった、って言ってるじゃん。あの人達には、私達の言葉も届かないよ。人形としてしか見てないんだから」
さきちゃんが首を横に振りながら、冷たい声で言った。
「それでも……」
「私達以外に、自分は女の子が好きです、って暴露できる?」
ゆきちゃんが鋭利な切り返しを見せた。
相手を説得するための言葉ではない。怒りに任せた、相手を傷つけるためだけの暴言だ。
「無理でしょう? 試すのも嫌でしょう? 失敗したり、その先の未来を、自分が拒絶される姿を想像するだけで吐きそうになるでしょう? ゆりが私達に勧めてるのは、それと同じことなんだよ。さきが言ったこと、もう忘れた? 何回、同じこと言わせるの? やめてよ!」
「ねえ、さっき、不満を伝えた、って言ったよね」
私は意図的に流れを変える。
「それが何?」さきちゃんが聞く。
「それは、最近のこと?」
「……」
私の問いに、ふたりは唇を噛んで沈黙した。
やはり、そうだ。
不満を訴えたのは事実。けど、それはかなり前のこと。数年か、長くて十年ほど遡るだろう。そして、その後は試していない。試す気も起きなかったのだろう。
幼少期に直談判をして、手酷い返しをされたのではと推察できる。それがトラウマとなり、年齢を重ね、反抗期真っ盛りな現在でも、不満を溜め込み、爆発寸前で、危うい精神バランスに陥っても尚、それを両親へ向けて放つことができないでいる。だからこそ、代替行為として、自傷的な振る舞いをしてしまう。つまり、ストレスの発散方向が内側へ向いてしまっている。
原因を特定し、説得材料を得た私は、説得完了までの工程を脳内でシミュレートし、用いる言葉を選別し直す。
「幼い時の言葉と、今のふたりの言葉じゃあ、重みも、意味も、全然違うはずだよ。それに今なら、言い負けるなんてないでしょ? 語彙力も、勢いも、信念も、昔以上。違う?」
「勝手なこと言わないでよ」
ゆきちゃんが、私の制服の襟首を掴んで引き寄せる。胸倉を掴まれるのは、初めての経験。
「それで今以上に仲が抉れたら、どうしてくれるの? 過干渉からネグレクトや虐待に転化したら、ゆりが助けてくれるわけ?」
「うん。もしそうなったら、私が責任を取る」私は頷く。
「そんな軽く言わないでよ。責任の意味分ってる? 具体的に、どうするつもり? ゆりが両親との仲を取り持ってくれるの? それとも、私達が家出したら養ってくれるとか? 気休めで言ってるだけなら、喧嘩売ってるのと同じだよ?」
「もし、家を追い出されたり、虐待が始まって危険だと判断したら、うちで、ふたりを匿う。パパにも協力してもらう」
「馬鹿じゃないの……」
さきちゃんが、私の上で、吐き捨てるように言った。
「パパ、パパ、って、ゆりのパパがどれだけ凄いの? 聖人か何かなの? 言ってること結局、親頼みじゃん。現実的じゃない。そんな説明を聞いて、私達が言うこと聞くと本気で思ってるの? ゆりのお父さんだって、負担とリスクしかないのに受け入れてくれるわけない」
「パパなら分かってくれるよ」
私がそう言うと、さきちゃんにも襟首を掴まれた。
ふたり分の力が加わり、さすがに息苦しくなる。
「ねえ、もしかして自慢してる? 自分のパパはとっても素敵で、私達の両親と違って、物分かりが良くて、お金も持ってて、他とは違う人格者です、って?」
さきちゃんは眉間に皺を寄せ、目で私を殺せそうなほど睨みつけながら言う。
「そうじゃない」
私は首を横に振って見せ、冷静に話す。
「私の大切な人達が困ってるって、きちんと伝える。そうすれば理解してくれるし、助けにもなってくれる。自慢なんかじゃないし、見下したりなんてしない。そんな真似を自分の大切な彼女達にしたりしない。私が伝えたいのはね、ふたりが、ご両親と対話する際の環境を整えておいてあげられるよ、ってこと。万が一、交渉が上手くいかなかったり、事態が悪化した時のための保険が、避難場所があるだけでも、幾分か気が楽でしょ? それを用意しておくのが、彼女である私の役目だと思ってる。その候補に選んだのが私の家っていうだけ」
「……はぁ、言ってることめちゃくちゃだよ。自覚ある?」ゆきちゃんが聞く。
「ある」私は頷く。
「それで、私達が納得するとでも?」さきちゃんが聞く。
「うん」再び頷く。そして言葉を続ける。
「提案に同意して、ご両親と話し合いをしてくれるまで、私、折れないからね。ふたりが自由になれるよう、支えるから」
「勘弁してよ……」
さきちゃんが溜息をつきながら、私の襟首から手を離した。
「ゆり、こういう時、本当に頑固だよね。マンションの廊下でも、ストーカー宣言するしさ」
ゆきちゃんも私の襟首から手を離しながら呟く。
「独占欲が強いのは、お互い様でしょ? 相手のことを最優先に考えてて、不幸でいること、悲惨な目に遭って、ただ耐えているさまを黙って見ていられないのも一緒」
首回りにかかる圧力から解放された私は酸素を取り込み、畳みかけるように言葉を紡ぐ。
「カラオケの個室で、私が、お母さんがいないって伝えた時、私は気にしてない、って言っても、さきちゃんと、ゆきちゃんは……さきとゆきは、私を慰めるために抱きしめてくれた。ごめんって謝って、心配してくれた。ふたり一緒に抱きしめて、愛情をくれた。嬉しかったよ。ねえ、あれは、私のことを本気で考えてくれてるからこその行動でしょう?」
私は意図的に、ふたりを呼び捨てにした。
今一歩、踏み込む。
ふたりの領域へ。
ふたりの内面へ。
私の存在は、もう他人ではないという確信と共に。
「私も同じ気持ちなの。ふたりを蔑ろにしたくない。他人に蔑ろにされるのも見ていられない。だから、こうして我が儘を言う。抵抗して欲しいって頼んでる」
私は馬乗りになっている、さきを押して、ベッドに倒す。
次いで、ゆきの肩を掴み、さきの隣へ引き倒す。
ベッドに並んで横たわるふたりに向かって、愛情と、エゴと、少しの狂気を込めた笑みを向けて、ねだる。
「私のために、親と喧嘩して。お願い」
そう告げた。
分かってる。
最低だ。
とうに自覚している。
私は、最低な女。
だからこそ、こんなことを頼める。
私だけの特権。
私だから、できること。
もし、この願いが過ちだったとしても、私のエゴによって、ふたりの精神バランスが崩れ、日常生活が崩壊し、期待していた展開と真逆をいったとしても、私はふたりの味方であり続ける。理解者であり続ける。逃げないし、決して見捨てない。発した言葉の責任からではない。義務感から言っているわけでもない。偽善では決してない。
好きだから。
ふたりは私の彼女で、私はふたりの彼女だから。
どんな時も一緒。
破滅する時は、道連れにしてくれて構わない。
ふたりと一緒にいられるなら、私は喜んで地獄に堕ちる。
「……ずるい」
さきが両手で顔を覆いながら呟いた。
「ゆり、ずるいよ」
ゆきも続く。その目から、涙が一筋、零れた。
さきは顔を手で覆ったまま、小さくすすり泣いている。
ゆきは私の手を引っ張って、自分の身体の上に覆い被させてくる。
顔が近づく。ゆきの目の奥を再び覗く。
そこに、あのもやは、もう無かった。
「あーあ……私達の中身を、こんなに引っ掻き回したのは、ゆりが初めてだよ」
「本当に? 嬉しいなぁ」
「喜ぶな、ばか」
ゆきは、そう言って、私の顔を両手で挟み、キスしてきた。
「この家追い出されたら、私達のこと、ちゃんと拾ってよ?」
「うん」
私は頷きつつ、ゆきの目元を拭う。綺麗な顔に涙の痕などあってはいけない。この子には、笑っていて欲しい。
「ねえ、ちょっと」
声を掛けられると同時に、私はベッドの中央、ふたりの丁度中間に引っぱり込まれ、横倒しにされた。
見ると、さきが私の肩を掴んでいる。
「私は今日のこと、一生忘れないから」
涙に濡れた顔で、さきは私を睨んでいる。
「私を恨む?」
私はさきの顔に手を伸ばしながら問う。
「恨む」
「一生、許してくれない?」
彼女の涙の痕を指で拭いながら問い続ける。
「許さない」
「じゃあ、一生かけて償うね」
さきの顔を引き寄せてキスをする。
長く、長く、唇を離さない。
私の肩を掴んでいた手を絡め取り、握りしめて、想いの強さを伝達する。これでもかと。
「ちょっと、分かった、分かったから」
さきがふき出しながら唇を離し、顔を背ける。
私も笑って、口角の端から伸びる涎を指で拭ってあげる。
「はぁ、でも、まさか、言い負けるなんてなぁ」
ゆきが私の背中に抱きつきながら言う。
「ゆりって、私達が思ってた以上に頭の回転早いね。びっくりしたよ」
さきは布団の上で横になった態勢のまま、ゆきごと私を抱きしめて言う。
「それ、褒めてる?」
私はわざと眉根を寄せながら問いかける。前後から抱きしめられて固定されているので、後ろは振り向けなかった。
「そう、褒めてる。だって、ガンガン詰めてくるんだもん。最後には、自分を人質に取るしさ」
私の顔を撫でながら、さきが言う。
「あと、ゆりが私達に、親と喧嘩して、って言った時の顔、あれ、写真に撮って、見せてあげたかった」
ゆきが私の後頭部に顔を寄せながら可笑しそうに言う。
「どういうこと?」
「すごい顔してたから」
「なにそれ、どんな顔?」
「言葉で説明するのが難しい顔」
「やばかったよ。エロいけど、怖い。自信満々に壊れてる。そんな顔」
「全然、想像できない。それ、本当に私?」
私はふき出しながら感想を述べる。
「ねえ、ゆり」
ゆきが私の手を取りながら呼びかけてくる。
「爪立てたりして、ごめんね。痛かったでしょう?」
「うん、痛かった」私は正直に頷く。
「頬も叩いたし、制服掴んだりして、ごめん」
ゆきは私の首筋に顔を埋めながら謝罪を続ける。
「私も、ほっぺ叩いたし、制服も掴んだ。ごめん」
さきも私の胸元に顔を埋めながら謝ってくる。
「ううん、いいの。ふたりの嫌がる話をやめなかったのは私の方だし、無理を承知で、お願いをかましてたんだから、怒られて当然だったんだよ。気にしてないから、気にしないで」
「でも、私達の悪いところ、全部出てたし、本当に酷いことを沢山言った。ごめんなさい」
ゆきは尚も謝罪を続ける。
「私も、ゆりの中学の事とか無理矢理、引き合いに出して、傷つける材料にした。ごめんなさい」
さきも謝罪をやめない。
「う~ん……」
私は、どうしたものかと少し考えて、思いつく。
このタイミングで言ったら引かれるかな、と一瞬だけ迷ったけど、今更なので口にする。
「あのね、実は私、痛いのって結構、好きなの」
私の身体に埋めたふたりの頭が、ピクリと動いた。
「で、前に私の部屋で、さきが私の口の中、引っ掻いたでしょ? あれは痛過ぎて駄目だったし、マンションの廊下で首を掴まれたり、顔を掴まれたりした時は、まだ恐怖の方が勝ってたんだけど、さっき、頬を叩かれたり、爪を立てられたり、胸倉掴まれたりしたのはね、正直、興奮しちゃった。慣れてクセになっちゃったのかもしれない。だから、加減をしながら、またして欲しい。これ、内緒ね?」
私が言い終えると同時に、ふたりは跳ね起きて、私をベッドに押しつけてきた。
「誰に内緒にするのよ」
「どうしようもない変態ね」
ふたりは笑顔で私を見ている。
それを見て、私も笑った。
嗚呼。
あぁ。
幸せ。
また、こうして三人で笑っていられることが、たまらなく幸せ。
喧嘩の後半からは、失敗する気は全然しなかったけど、不安がなかったわけじゃない。
ふたりが折れて、私の要望が通ったとしても、代償として、もう私に触れてくれなくなるとか、キスしてくれなくなるとか、そして当然、笑いかけてくれなくなる可能性はあった。
それを回避できたことが素直に嬉しかったし、安心した。
「ねぇ、今すごく、キスしたい。してくれる?」
私は思いつきを、そのまま口に出す。
「今日のゆりは、とことん積極的だね」
ゆきがそう言いつつ、さきと顔を見合わせる。
あ、これ、トランス状態入る、と察する。
「キスかぁ。でも、ゆりは変態だから、普通のじゃあ、満足しないよね」
「だよね」
「どうする?」
「やっとく?」
「そうする? できる?」
「できるよ」
「じゃあ、やっちゃおう」
ふたりが同時に、こちらへ向き直る。
身の危険を感じたので、ベッドから起き上がろうとしたら、私は両手首を掴まれ、ベッドに固定された。続けて顎とおでこを固定される。なんで四カ所同時に押さえつけられるの? と考えて、ふたりいるんだから手も四本か、と当たり前の結論に帰着する。
そして、所望したキスがくる。
何度も、何度も、ふたりから交互に、絶え間なく、正確なタイミングで、私の唇は貪られる。
最初よりに比べれば多少、免疫がついてきたと自負していたのだけど、これは刺激が強過ぎる。初めての時みたいに鼻血が出そうになって、それだけは避けようと力を入れようとして、どこに力を入れればいいか分からずに、結局されるがままだった。
ようやく離れた唇から細く伸びる涎を茫然と眺める。
「興奮したね」
ゆきが自分の唇を細い指で拭いながら言う。
「緩んだ顔しちゃって」
さきは、にんまりと笑いながら私の唇を撫でる。
「ほっぺた真っ赤だよ」
「唇えっろい」
「ねぇ、その目なぁに? 誘ってるの?」
「そんなふうにとろんとした顔されると、襲いたくなるんだけど」
矢継ぎ早に欲望を垂れ流しながら迫ってくるふたりを眺めながら、私は。
「ゆき」彼女の名前を呼ぶ。
「なぁに?」ゆきが小さく首を傾げながら答えてくれる。
「さき」彼女の名前を呼ぶ。
「はぁい」さきが私の手を取りながら応じてくれる。
「愛してる」
私がそう告げると、ふたりは同時に、妖艶な笑みを浮かべた。
翌日の朝、私は緩やかな坂を上りつつ、両隣を歩くふたりに問いかける。
「それで、ご両親と話してみて、どうだった?」
「勿論、喧嘩になったよ」
ゆきが笑顔で答える。
「それはもう大喧嘩、大戦争だった」
さきが目をぐるりと回しながら言った。
「あぁ、やっぱり……焚きつけたのは私だし、頼んだのも私だけど、ごめんね」
私は自分の額に手を当てて、謝罪の言葉を述べる。
「いいの。先に結論を言っちゃうと、私達、自由を勝ち取れたんだよ」ゆきが嬉しそうに言う。
「えっ? 本当に?」
言いながら、さきの方を向くと、顔の横にピースをくっつけてみせた。
「私達の勝ち~」
「まあ、当然の結果だけどね」
ふたりは得意げに言い、同時にふき出した。
「うまくいったなら良かった。でも、大変だったでしょ? 大戦争だった、って」
「そうそう。一応ね、大変だった」
「お父さんとお母さん、笑えるくらい、ぶち切れてたなぁ。キッチンからカップは飛んでくるし、ガラステーブルは割れたし」
「ちょっと待って、それ、大丈夫だったの? リビングにあった、あのガラステーブルのことでしょ? ふたり共、怪我してないよね? 制服の下だから見えないだけ? 正直に教えて」
「無傷で~す」
「さすがに娘達に手を上げる度胸は無かったみたいだよ」
「後のこと考えたら、どれだけ腹が立っても、傷が残るような真似はできないんだろうね。親から暴力振るわれました、とか私達が言いふらしたら、自分達の評価に影響が出るって分かってただろうからね」
「保身が先立つようじゃあ、私達には勝てませんよ」
「救いようがないね。とりあえず、ゆきとさきが無事で安心したよ」
「ただ、酷いことは結構言われたよね」
「与太話は食い扶持稼いでからにしなさい! とか」
「なら、バイトして家にお金入れたら過干渉やめてくれるの? って返したら、そういうことじゃないでしょ! とか、そんなはした金で足りるか! とか返されて、意味分かんなかった」
「こっちは、物扱いしないで、普通の高校生と同じくらい自由にさせて、って言ってるだけなのにさ」
「お金を引き合いに出してくるなんて、おかしな話だよね。どこまでいっても見栄と利益しか頭にないなんて、親として、どうなの? っていう」
「人としても、どうかと思う」
「空っぽで、くだらない、可哀想な人達」
「もっと言っちゃえ」
「向こうも好き勝手怒鳴ってきたんだから、おあいこだよね」
「とにかく立場や勢いだけで抑えつけようとしてくる、あの感じ。ウザいし、ムカついた」
「屁理屈通そうとしてくるなんて頭悪過ぎ」
「こっちも十年分、ぶち切れてやったよ」
「あの人達は人の心が無いから、自分達の娘に、ここまで反抗されるんだよ」
「だね、仕方ないね」
「うっざい」
「ウザかった」
「なんか、ゆきとさきが、ウザいって言葉使うと笑っちゃう」
「え~なんで?」
「似合わなくて可愛いから」
「なにそれ、ゆりちゃん、からかってるの?」
「あ、ダメだよ。呼び捨てにして」
「どうしよっかな~」
笑い合いながら、私はふたりのトランス状態に介入できるようになったことに、内心、満足していた。彼女なんだから、これくらいできないとね。
「それで、何を、どこまで自由にできるようになったの?」私はふたりに聞く。
「えっとね、大まかに言うと、髪型、メイク、服装、部屋の模様替え、かな。お小遣いは少し減らされるみたい。完全に当てつけだよね」
さきが指折り数えながら答えてくれる。
「今まで貯め込んでた分があるから、別にいいけどさ」
ゆきが肩をすくめながら言う。
「結構色々変えられるようになったんだね。あ、じゃあ、髪型って、すぐに変えるの? 短く切ったりとか」
私はふたりの髪を触りながら聞く。
「それなんだけど、いざ切ってもいい、って状況になると、どうしようか、どんな髪型にするか、すっごく迷うんだよね」
さきが腕組みをしながら答える。
「バッサリ切っちゃうと、また伸びるまで時間かかるしさ」
ゆきが自分の横髪を弄びながら付け加える。
「それ、分かる。悩むよね」私は大きく頷き、同意する。
「でも、この悩んでも良い、ってことが嬉しいし、楽しいよ」
さきが私に笑顔を向けて言う。
「昨日までは、どんなに考えても、妄想止まりでしかなかった。それを変えてくれたゆりには、本当に感謝してる。ありがとね」
ゆきが私の目を見て、そう言った。
「ありがとう」さきも続く。
「どういたしまして」
私は謙遜せず、否定せず、素直に言葉を返した。
ふたりを取り巻く環境を快適なものへ変えた、というには大袈裟で、私がした事と言えば、せいぜいきっかけを作った程度の働きなのだけれど、それでも、ふたりからの感謝の気持ちは受け止めて、そのうえで大切にしたい。
「あとね、これは、ゆりに確認してからにしよう、って話してたんだけど」
ゆきが私の顔を覗き込みながら言う。
「優等生のフリするのも、少しずつ止めたいんだよね。で、優等生じゃなくていいなら……」
さきが私の左手を取り、指を絡ませて繋ぐ。
「学校でも、登下校中も、街でも、今まで以上にイチャイチャできるなぁ、って思って」
ゆきが私の右手を取り、指を絡ませながら言う。
「今まで以上に、イチャイチャしたいなぁ、って」
さきが上目遣いで、私の顔を窺ってくる。
「いいよ、賛成。ただし、ほどほどね」私は笑顔で、そう告げる。
「ほどほど、って、これくらい?」
ゆきが繋いだ手を揺らしながら聞いてくる。
「これくらい?」
さきが自分の頭を、私の肩に乗せながら聞いてくる。
「そうだね、それくらい」
私は頷いて肯定しながらも、もう少し過激なこともしてみたいな、と良からぬ妄想を簡易展開した思考パレット内で描く。周りから見えない頭の中でなら、何をしてもいいのである。
「……ねぇ、絶対怒らせるようなこと、言っていい?」
ゆきも私の肩に頭を乗せながら、呟くように問いかけてくる。
「聞かせて」私は先を促す。
「ゆりのマンションの廊下で、ゆりを傷つけて良かった」
ゆきは静かな声で言った。
「あれが、多少強引にでも、私達から事情を聞き出そうとするきっかけになったんでしょう? 私達を説得しようと考えて、明確に決心したのも、あれがあったから。もし、あの時、大人しくしていたら、私達は一生、本心をさらけ出す機会がなかっただろうし、ゆりの覚悟も、私達への想いの深さも、ちゃんと理解してあげられなかったと思う。だから、私達は、ゆりを傷つけたことを後悔してない」
私の肩に頭を乗せたままのさきが、そう補足した。
「最低だね」
私はそう告げて、繋いでいた手を離す。
不安そうな表情に変わったふたりに笑顔を向けて、両腕の中に抱き込む。
近くを歩いていた同校の生徒達が顔を向けてきたけど無視。
「そういう不器用で、強引で、素直なところが、大好きだよ」
三人だけの世界で、罪と過ちを共有し、喜ぶ自分をさらけ出す。
ようやく吐き出されたふたりの本心が、私の心を満たす。
さきとゆき、このふたりと人生を共にしたいと、心から願う。
「また、こういう話してよ。ふたりの本音は、いつだって知りたいから」
私の言葉に、ふたりは頷く。
「勿論、いいよ」
「そうだね、共有しよう」
今後も、ぶつかり合うことがあるかもしれない。
けど、それは悪いことじゃない。
仲良くすることだけが恋愛じゃない。
意志を、趣向を、考えを、想いを、お互いに伝え合う。
もしくは、頭上に掲げて殴り合う。
そうすることで初めて相互理解が深まり、本物の信頼関係が築けることだってある。
私達には、それができる。怖れる必要は微塵もない。
彼女と彼女と彼女、という、一見すれば、とんでもない、この関係でも、普通の恋愛以上に上手くやっていけると、今なら自信を持って断言できる。
坂を登り切り、校舎が見えてくる。
開かれた視界に映る世界は、今まで以上に鮮やかな色彩を放っていた。
「カラオケ行くのは決定として、他にやりたいことある?」
「甘いもの食べたーい」
「ゲームセンター行きたーい」
いつも通り授業を受け、昼食を食べ、お昼休みに三人でお喋りをして、ホームルームの内容を聞き流し、そして迎えた放課後、私達は下校しながら、街へ遊びに行く算段を立てていた。
ふたりが同時に提示した異なる要望を叶えるため、私は、お店の位置と門限から時間とルートを逆算して、プランを組み上げる。
「う~ん、じゃあ、先にゲームセンター寄って、カラオケ入って、そこで甘いもの注文する?」
「そうする!」
「ゆり、さすが!」
ふたりは笑顔で私の左右に移動して腕を絡めてくる。頭脳労働のご褒美としては破格。
その恰好のまま緩やかな坂を下り、道路を渡って、アーケード街へ入る。和菓子店、メガネとコンタクトの販売店、眼科とハンバーガーショップ、家電量販店を通り過ぎると、ゲームセンターに到着だ。
ゆきは建物に入ってすぐの所に置かれていたUFOキャッチャーを始めたので、私とさきは、二人で店内をぐるりと見て回った。
「さき、何かやりたいのある?」
「う~ん、特にないんだよね。ゆきがUFOキャッチャーやりたいから付いて来た感じ」
話しながら一階フロアを一通り見て回ったけど、特に何にも手を付けることなく、入口付近まで戻ってきてしまった。
「どうしよ、太鼓のリズムゲームやる?」
私は入口の自動ドア付近に設置されているそれを指差しながら聞く。
「あ、いいね、やりたい」
「これ、久しぶり」
「私も」
機械に二人分の小銭を入れて、譜面を追いかけて叩いて遊ぶ。リズムゲームは得意ではないけど、大好きな彼女と一緒にやったので楽しかった。
「じゃあ、そろそろ、カラオケ行こうか」
適度に遊び終えた後、さきに告げて、同じく入り口付近にあるUFOキャッチャーをしているはずのゆきを呼ぼうと振り返る。
ゆきは先程と全く同じ位置にいた。手元のボタンとレバーの側に置かれた、おそらく両替してきたのであろう大量の百円玉と供に。
「アレ、止めないといけないやつだ」
さきが私の制服の袖を引きながら言う。
「ゆき、ああなると取れるまでやるし、お金も際限なく使うよ」
「それは、マズイね。私が止めた方が良い?」
「うん、お願い。私が言っても聞かないから」
さきは両手を小さく挙げながら言った。お手上げ、という意味だろう。
私はさきに頷いて見せてから、ゆきに近寄り、名前を呼びながら抱きついた。
「ゆりちゃん、ちょっと今、真剣だから」
ゆきが私の方を見ずに、冷静な声でそう言った。
私よりUFOキャッチャーにご執心なのはいただけない。無意識なんだろうけど、呼び捨てじゃないのも不満。意地悪したくなる。
「だーめ。もうおしまい」
私は詰まれた百円玉のタワーを取り上げて、自分の制服のポケットに仕舞う。
「あ、ちょっと!」
取り返そうと私の方を向いたゆきの両手首を掴み、身体を引き寄せる。
「カラオケ行くんだから、ここでお金使い切っちゃダメでしょう?」
「だってぇ」
露骨に不満そうな顔をする、ゆきの耳元に顔を寄せて私は囁く。
「素直に言うこと聞いてくれたら、私からキスしてあげる」
一歩下がってゆきの表情を確認すると、頬を膨らませつつも、確かめるように私の目を見つめてくる。
「……どこでしてくれるの?」ゆきが上目遣いで聞いてくる。
「カラオケのボックスに入ってから」
「だめ、それじゃ遅い。ここでして」
「ここでは、ちょっと……」
言い終わらないうちに、ゆきが顔を寄せてくる。次いで、死角から頭を固定された私は、無事、ゆきとキスをした。ゲームセンターの入口でキスをした。
「よし、カラオケ行こう!」
ご機嫌な様子で私の手を取り、歩き出すゆきに、私は頬を膨らませてみせる。
そして、歩きながら、さきにも同じ顔を向ける。さきは悪びれるでもなく、にっこりと笑うのだった。
私達はアーケード街の中を移動して、すっかり行きつけとなったカラオケ店に入った。
受付を済ませて個室に移動し、飲食物注文用の端末から、生クリーム付きパンケーキ、抹茶フロート、アイスコーヒーを頼む。その後は、いつもと同じように、音量の調整やマイクの準備をしていると、ふたりが何やらスクールバッグをひっくり返し始めた。
「ねえ、ゆり、これ持ってきたんだけど、一緒に着てくれる?」
その言葉と共に差し出されたのは、ピンクのクマちゃんが頭を吹き飛ばされた絵がプリントされた黒いパーカー、黒のレザースカートに、銀色の髑髏が鎮座するダメージ加工の入った黒い長袖シャツ、同じくダメージ加工された黒いスキニーパンツ、そして一番目を惹く、白い刺繍の入ったレースの黒いワンピース。
「ちょっと待った。これ全部、鞄に入れて学校に持って来てたの? 教科書とかは?」
「今日、実力テストがあったでしょう?」
それを聞いただけで、私はピンときた。
今日の一限目から三限目まで、新入生を対象とした、国語、数学、英語、三科目の実力テストが授業の代わりに行われた。つまり、その時間分の教科書、ノートなどが必要ないことを見越して、代わりに、この服を詰め込んできたわけだ。
「準備がいいことですわね」
「なんで、御嬢様言葉なの」
「ちょっと、おかしいし」
私のリアクションに、ふたりはそう返しつつ、ふき出した。
注文した品が来るまでの間に、私達は急いで着替えた。どのみち歌っている途中で店員さんが入ってきたら気まずいので、この時間の使い方は正解だと思う。
「わぁ、良いね!」
衣装に身を包んだふたりを見た私の感想はまず、この一言だった。
ふたり共、似合う。かなり似合う。
服の色と髪の色が同じであること、大人しめの髪型であることが(メンヘラ的)統一感に一役買っており、また、ふたり共、身長が高く手足も長いので、全体で見た際のバランスが抜群に良い。
「すごく似合ってるよ。ゆきもさきも、すごく可愛い」
私は感想を述べながら、ふたりをくるくると回転させながら角度を変えて眺める。
ちなみに、ゆきがピンクのくまちゃんパーカーにスキニーパンツを、さきが銀色髑髏のシャツとレザーのスカートを選択した。各々のイメージに合っているので、それもポイントが高い。
とにかく最高。私の彼女達、めっちゃ可愛い。後で写真撮らせてもらおう。
「褒めてもらえて、嬉しい」
ゆきが笑顔で応える。
「ゆりも可愛いよ。似合ってる」
さきが私のスカートを軽く捲りながら言う。
「ほんと?」
私は自分の首から下を確認する。
持ち込まれた衣装の中から自然な流れで手渡されたのは、一番存在感を放っていた、あの刺繍が施されたレースの黒いワンピースだ。体格はともかく、髪型的に、自分に似合うか自信が無かったのだけど、彼女が太鼓判を押してくれるなら大丈夫だったのだろう。
「これ、ゆりに着せたかったんだよね~」
私が先程やったのと同じように、ゆきが、その場で身体を回転させてくる。前後全身確認にはやはり、これが手っ取り早い。
「かなり良いね、雰囲気出てる」
さきが私の襟元を整えてくれながら言う。
「どんな雰囲気?」
「危なっかしげで、怪しくて、エロい」
「そう、それ、わかる。ゆりは、そのイメージ」
「えぇ……喜んでいいのかな、それ」
話しながら、互いの恰好を眺め回していたところで部屋の扉が開き、店員さんが、失礼します、の挨拶と共に入って来て固まった。
まぁ、そうなるよね。
真っ黒な衣装の女三人が、お互いの身体を触り合いながらキャッキャやってる異様な空間。とても素面では立ち入れないだろう。
引きつった笑顔で配膳を行う店員さんに、私達は笑顔でお礼を述べて、三人仲良くソファに並んで座る。
「ゆり、コーヒーだけでよかったの?」
「うん、あんまりお腹空いてなかったから」
「これ、美味しいよ?」
「あ、じゃあ、後で一口づつ、ちょうだい」
「いいよ~」
どうにか一口ずつで切り抜けた。素直に甘いものが苦手だと告げてもよかったのだけど、ふたり共楽しみにしていたみたいだったから、水を差したくなかった。
バレるまで黙っていよう。バレたら謝ろう。そう、そういう遊びなのだ、と誰も咎めていないのに自己弁論してみる。
「ねぇ、ゆり。高校卒業したら結婚しようね」
ゆきがパンケーキに生クリームを塗りながら唐突に言った。
「勿論、三人でね」
さきが抹茶フロートにストローを挿しながら軽い調子で補足する。
「えっ? あの、私達、女同士だよ?」
突然のことに、私はつい、常識的で、つまらない返答をしてしまった。
「もう、そういうこと言わないの」
「ゆりが、それ言っちゃダメでしょ」
「大好きだから結婚する。普通のことでしょう?」
「まあ、うん、そうだね」
私は曖昧に頷く。理屈は通じないと察した。
「でも、結婚って、そんなにこだわるもの? 私は、気持ちが通じてれば、それで十分だと思うけど」
「まぁ、そうなんだけどさぁ」
さきが恥ずかしそうに身をよじりながら濁す。
「ちゃんと約束を取り付けておかないと、ゆりがどこかへ行っちゃったりしたら、嫌だから」
ゆきがこちらを見ずに、パンケーキを頬張りながら言った。
さらりと述べられた、その言葉。
しかし、それこそが、ふたりの中で、今一番懸念されている事項なのだと理解した。
「私は、どこにも行かないよ。他の誰にもなびかない。よく知ってるでしょ?」
私がそう告げると、さきが笑いながら、そうだね、と頷く。
「痛いほど理解してる」
「でも、それでもさ、こうして自分達が自由になってみると、その身軽さが、不安を運んでくるんだよ」
手にしていたフォークをお皿に置きながら、ゆきが言う。
「今まで積み上げたもの、交わした言葉の重みや価値が、それまでと同じなのか、分からなくなる」
「だから、約束が欲しくなった。書面でも制度でも、何でもいいから、形にしたくなったの」
さきが私の方を向いて、ゆっくりと瞬きしながら言った。
「なるほどね、そういうこと」私は納得して頷く。
それは思いつかなかったな。
抑圧から開放されたことによって、新たに抱える問題もある。芽生える不安もある。
人生、悩みは尽きないものだな、などと達観したふうを装う。
そんなことは、どうでもよくて。
大切な彼女達が不安がっているんだから、やることは一つ。
私は、ゆきとさきを抱き寄せて、ふたりの耳元で囁くように語りかける。
「教室で私が告白した時、ゆきとさきとした約束がみっつ、あったでしょ? あれ、更新しようよ」
「更新?」
さきが小さく首を傾げながら聞いてくる。
その可愛らしい仕草と、着ている服のギャップに胸を打たれた私は、さきの唇にキスをしてから言葉を続ける。
「ふたりと同時に付き合うこと、ふたりを平等に愛すること、別れを切り出していいのは、ふたりからだけ、ってやつ」
「ちゃんと覚えててくれたんだね。嬉しい」
ゆきがそう言って、私の肩に頭を預けてくる。
たまらなく可愛いので、とりあえず、ゆきにもキスをしてから、私は話を再開する。
「で、最初の二つって、もう果たしてるし、三つ目に関しては、あり得ないわけじゃん? だから、新しい約束で上書きしたいな、って」
「そっか、そうだね。よし、そうしよう」
さきが抹茶フロートを一口飲んでから頷く。
「じゃあ、新しいのを今、決めてあげる」
ゆきが両手を胸の前で合わせて宣言する。
「えっ? 三人で決めるんじゃないの?」
「ううん、私達が決めるの」
ふたりから同時に、そう返された。
それされたら勝てないじゃん。ずるいぞ。
「えぇ……じゃあ、さきとゆきが決めていいけど、ちゃんと守れそうなのにしてよ?」
私が唇を尖らせてそう告げると、ふたりは交互に私の唇をついばんでから口を開く。
「ひとつ、高校卒業したら、私達ふたりと結婚すること」
さきが指をひとつ立てる。
「初っ端から、もうさぁ。うん、いいけどね」私は笑いながら反応を返す。
「ふたつ、これまで通り、私達を平等に愛すること。ただし、必要な愛の量は、これまで以上とします」
ゆきがさきの指を、もう一つ立てる。
「重たい彼女だなぁ」
私はふたりの頭を撫でながら応じる。
「みっつ、別れよう、は禁句」
さきが三本目の指を立てて言う。その目は、真っすぐに私を見据えている。
「もし言ったら、刺すからね。浮気しても刺すよ」
ゆきがさきの立てた指を全てたたみ、その拳を刃物の柄に見立てて、私の胸に突き立てる仕草をした。
顔が近い。
目の奥が覗き込める距離。
そこには、熱く滾る愛情と、簡単に殺意へ裏返る依存が同席している。
この子なら、本当にやるだろう。勿論、さきも同じだ。
「約束を守ると、誓います」
私は胸に突き立てられた、その見えない刃物を掴んで宣言する。
これが、私の覚悟。
ふたりになら伝わるだろう。
余すことなく、違うことなく、全て。
「ゆり、ありがとう」
さきが握っていた手を解き、私の頬に添えてから言った。
「愛してるよ」
ゆきが私に抱きつきながら言う。
「今度、婚姻届け貰いに行こうね」
そう言って、さきが私の手を握る。
「お役所デートだ!」
ゆきが拳を突き上げながら宣言する。
「何それ……ていうか、女子高生三人が婚姻届ください、って言って、素直に貰えるのかな? あと、日本で重婚は無理じゃない?」
私はさきと繋いだ手を軽く上下させながら問題提起する。
「もう、細かいこと気にしちゃダメ~」
ゆきが私の両肩を掴んで揺すってくる。
この反動を利用してキスしたら危ないかな。ダメ? 歯がぶつかる?
「やっぱり、ゆりはリアリストだね。いつでも冷静で、常に現実を見てる」
「そういうところが頼りになるわけで、私達が、ゆりに惚れた理由のひとつだよ」
「そうなの? 改まって言われると照れるなぁ」
私は笑いながら、そう返して、ふと思い立ち、手を繋いだまま、人差し指だけを伸ばして、さきの前髪を梳く。
可愛い私の彼女は、口元をほころばせる。
次いで、ソファの上で膝立ちになっていたゆきを、やや強引に抱き寄せる。
すると、ゆきは先程までの強気な表情を崩し、急に、しおらしい顔になった。
それ、わざとやってるの? ここで押し倒してやろうかな。
どうにか欲望を抑え、ゆきの前髪を指で梳くだけに留める。
こっちの彼女は、にっこりと笑い、私に頬ずりをしてきた。
幸せだ。
私は幸せ者。
今なら断言できる。
交わした約束は守られる。
そして近く、また更新される。それが繰り返される。
大切な約束を、幾度も、幾重にも。今からそれが、とても楽しみ。
胸の内に溢れた、抱えきれない温かな想いを、吐息として少しだけ洩らしつつ。
ふたりを強く抱き寄せて、私は微笑んだ。
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