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プロローグ
放課後、校舎を雨が襲っていた。
薄暗い教室には、もう私達しかいない。
ふたり手を繋ぎ、窓の向こうに広がる曇天を眺める。
ふと思い立って、深呼吸。
窓も、廊下に面した扉も閉め切っているのに、何処からか雨の匂いが忍び込む。
湿度が高い、という当たり前の感想を抱く。
「世界の終わりみたい」
隣から漏れた言葉に、私は顔を向けて微笑む。
自分の味気ない感想より、何倍も素敵だった。
「本当に、そうなっちゃえばいいのにね」
「それ、本心?」
「うん」
「そっか」
「そう思わない?」
「思う」
笑顔で同意してくれた。
やっぱり双子だ、と思う。
「周防(すおう)ちゃん、お待たせ!」
教室の扉が勢いよく開き、それと同時に名前を呼ばれた。
うるさいなぁ。
私達は感情を表に出さないよう気をつけながら、ゆっくりと振り返る。
彼女だ。
飼い主に撫でてもらうのを期待する子犬のように、私達へ満面の笑みを向け、教室の扉に手をかけたまま立っている。
私達は、それぞれクラスが違う。だから、こうして毎日毎回放課後に、頼んでもいないのに迎えに来るのだけど、彼女は何故か、私達が許可しないと教室内に入ってこない。扉は開けられるのに、そこから先は、見えない壁でもあるかのように、超えてはいけない境界線でも存在しているかのように立ち止まり、私達の名前を呼んで待つ。他のクラスへは勝手に出入りしないように、という形式だけのルールを律儀に守っているのか、他クラスの生徒への配慮という無価値な気遣いからか、理由は定かではない。
この際だから聞いてみようか、と一瞬考えて、すぐに面倒臭くなり、やめた。
代わりに私達は、彼女へ笑顔を向ける。
これが一番、楽な対応で、彼女が喜ぶ仕草だから。
ほら、嬉しそうな顔した。
作り笑いなのにね。
鞄を持って教室を出る。
三人で廊下を歩き、階段を降りる。
彼女は、ずっと喋っている。
昨夜、家族と交わした会話、今日の授業の内容、昼休みにネットで見たゴシップなどを、とめどなく、喜々として。
私達は、それに適当な相槌を打ってあげる。
へえ、すごいわね、それは好き、それは嫌い、今度教えて、良いよ、もしくは、ダメ。
大体これだけ言っておけば、会話は成立する。悪い印象も与えない。
たまに私達の家のこと、両親のことが話題に出る。家へ遊びに行ってもいい? と聞かれる。
その度に、親のことは話したくないの、と濁す。家に人を招くのは簡単ではないの、と遠回しに拒絶する。
分かった、ごめんね、と返されることもあれば、露骨に不満そうな顔をされることもある。
不貞腐れた顔をしたいのは、こっちよ。
聞かれたくないことだと、踏み込まれたくない領域だと、何度言えば覚えるの?
いい加減、学習して欲しい。
私達は優しいから、そんなこと、口にはしないけれど。
靴を履き替え、各々傘を差しながら校舎を出る。
むっとする湿気に包まれた。
建物や木々を叩く雨音が、私達を包囲する。
透明な傘は、しかし襲い掛かってくる雨を防ぎ切れない。
私達のローファやスカートの裾は、たちまち、びしょ濡れになった。
他人の視線や、無遠慮な好奇心、刺すような悪意を防ぐことの難しさに似ている、と連想する。突飛かもしれないけど、そんなのは今更。
「雨、止まないね。制服濡れるから嫌いなんだよなぁ」
隣を歩く彼女が顔をしかめながら言う。
「そう? 私達は好きよ」
「そうなの? どうして?」
「世界の終わりみたいだから」
私は先程聞いた言葉を流用する。案の定、隣から小さく笑う声が聞こえた。
「何それ、こわ~い」
彼女は笑って、数歩前に進み、私達から距離を取った。
追いかけて欲しいのだ、と察する。
けど、私達は追いかけなかった。
そうする必要を感じなかったのと、単純に面倒臭かった。
それが不満だったようで、彼女は校門の前で振り返り、頬を膨らませる。
可愛い顔だ、と思う。
愛らしい振る舞いだ、とも思う。
ただ、自分達に向けられると、鬱陶しい、という感情が勝る。
そろそろ、潮時かな。
残酷な計算が走る。
それを知る由もない彼女が、こちらを見ながら、全身で感情を表している。
「ほら、こっちへ、いらっしゃい」
仕方なく、私達は校門の端、背の高い花壇の方へ歩きながら彼女を呼ぶ。
首を傾げながら、すぐに彼女が走り寄って来る。
膨らませていた頬はすぐに戻り、目はまんまる。
疑うことを知らず、学ぶこともない。幸せな子。
笑みが零れる。
同情と哀れみから。
私達の顔を見て、彼女も笑う。
何、勘違いしてるの? 本当に愚かしくて、可愛い子。
「なぁに?」
問いかけてくる彼女の傘と、私達ふたりの傘をくっつけて、雨に濡れない安全地帯を作る。
そうして確保した唯一無二の空間で、私は彼女にキスをした。
温かい、と感じる。
柔らかい、と浸る。
無垢な人肌が、荒んでいる私の心を少しだけ癒す。
この瞬間だけは嫌いじゃない。
ぎゅっと抱きしめてあげようかな、と考える。
それとも、頭を撫でてあげようか。
この子は、間違いなく喜ぶだろう。
けど、唇を離す頃には、そんな感情は消えている。
いつもの私に戻ってしまう。
甘やかすことのデメリットがちらついて。
期待することの無意味さを思い出して。
灰色の価値観に染まり直す。
交代。
彼女がキスしているのを眺める。
絵になるなぁ。
好き、という感情と、好み、という感性は別物で。
こういう非日常を切り取ったようなシーンを眺めるのは好きだった。それだけで完結してくれるから。
「……ドキドキしちゃった。少女漫画みたい」
彼女は自分の唇を、そっと撫でながら、はにかんで言う。
「あら、そう?」
「読んだことないから、分からないわ」
私達は、そっけない返事をする。
共感を得られなかったからだろう、彼女は私達に、また頬を膨らませて見せる。
今度は相手にしなかった。ほどほどにしておかないと、つけあがるから。
シチュエーション自体は確かに、ロマンチック。
でも、それに浸るには相手が不足。
「ねえ、周防ちゃん。私のこと好き?」
歩き出しながら、彼女が問いかけてくる。
また始まった。
めんどくさいなぁ。
「それ、どっちに聞いてるの?」
悪戯っぽい表情を作って問い返す。
「決まってるじゃん、二人共にだよ」
「好きよ」
「だーいすき」
私達は、嘘臭い嘘を吐く。
「なぁんか、軽いんだよなぁ」
彼女はそう溢しつつ、自分の肩を空いている方の手で抱き、身体を左右に揺らす。その等速運動の度に、身体のあちこちが濡れていくけど、本人が気にしている様子はない。
「好き? って聞いて、素直に、好き、って応えてもらえるのは嬉しいよ? でも、ほら、たまにはさぁ、もっと響くような、気持ちのこもった言葉が欲しいよ」
それを聞いた私達は顔を見合わせる。
どうする? と。
どこまでなら、いいの? と。
「貴女は、私達を愛してる?」
「うん、大好きだよ」
彼女が、すぐに答える。
愛ではなく、好意だと。
この時点で齟齬がある。
「なら、貴女の指を切り落として、私達に頂戴?」
「愛の証として、私達に捧げてみせて?」
「ええええええええ怖いよぉ! 周防ちゃん! 違うよ! そういうのじゃないよ!」
傘を握っている自分の手を反対の手で隠しながら、彼女は叫んだ。
「あら、不正解よ」
「正解は、どの指が良い? って返すのよ」
「いや、違うんだってば! 私は、心に響く言葉が欲しかったの!」
「響かなかったかしら?」
「響くどころか引いたよ! ドン引き! それ他の人に言っちゃダメだよ? 怖がられるよ? 嫌われちゃうよ?」
彼女は頭を左右に振りながら言う。
予想以上に大袈裟な反応が可笑しくて、私達は、くすくすと笑った。
「もう! なんで笑うの? 周防ちゃん!」
彼女は私達を交互に睨み、私達の間に入ろうとする。
この子は私達のことを、周防ちゃん、と呼ぶ。
付き合い始めた頃は、見分けられるようになるから、ちゃんと覚えるから、と意気込んでいたけど、何度も何度も間違えた挙句、これ以上、間違えるのは失礼だから、どちらを呼ぶ時も、周防ちゃん、で統一するね、と告げられた。
その時は流石に、その方が失礼よ、と返した。
結局、そのまま。
がっかりした。
ああ、この子もダメなんだ、って。
そっちから、好きなの、って告白してきたのに。
二人共平等に愛してくれる、って約束したのに。
どこまでも、どこまでも、私達を失望させる。
だから私達も、同じことをする。
期待させて、気持ちを弄んで、貴女で戯ぶ。
自分達が愉しむためだけに、この子を執拗に傷つける。
それが私達のストレス発散になる。
何故かこの子自身も、弄ばれることを期待してる。構われていると勘違いして喜んでる。
なんて愚かで、愛らしい生き物だろう。
先のことは考えてない。というか正直、どうでもいい。
この子が傷つこうが、泣こうが、離れていこうが、どうでもいい。
私達の評価が下がろうが、他人からの信用が地に落ちようが、あの両親に事が伝わろうが、どうでもいい。
全部、どーでもいい。
ギリギリの綱渡りなのだから、いつかは落ちる。
それが今日か、明日か、もう少し先か、それだけの違いでしかない。
この世界は玩具箱。他人は換えの利く、お人形さん。
それが、私達が十四年生きて学んだ理。見つけた真実。揺るがない事実。
だから依存しない。期待しない。靡かないし、頼らない。
それで構わないし、困らない。
私達は双子で、ふたりいるから寂しくないし、不足もない。
ふたりで考えられるし、ふたりで対処できる。
独りより何倍も自由で、優れていられる。
だから、平気。
本当に?
諦めてない?
逃げてるだけ?
そうかもしれない。それも考えた。
私達が本気で答えを探していないから、何に対しても本気で取り組んでいないから、最初から諦める癖がついているから、好転しないのかもしれない。
それとも、単に運が悪いだけ?
分からない。答えがあるなら欲しいとは思う。探してみようか、とも思う。
けど、それには恐怖がつきまとう。
挑むなら、ふたりとも、その恐怖に晒される。
恐ろしいんだ。
恐くて、そもそも挑めない。
ふたりだけじゃ無理。
多分、求めてもいるのね。
期待なんてしてないとのたまいながらも、こうして他人の好意を受け入れる。
気の迷いが続いているのは、それが理由だろう。私達ですら断言できない。曖昧だ。
でも、この子では明らかに不足。
変化は起きない、と断言できる。
あらゆる物事は一方的では成り立たない。
思考も、想いも、そして献身も。
この子に、それを理解させるのは無理。土台が脆弱過ぎる。絶対に噛み合わない。
もしも、永遠の想いを誓い、この身を委ね、心を開け放し、約束を結べる、そんな相手が現れたなら。
その約束を、互いの首に結びたい。
常に息苦しく絞め上げられて、お互いの存在を意識し続けるしかなくて。
ずっと、ずっと、さんにんで、首輪のような束縛に笑みを零して、幸せだね、って笑い合える。
それくらい、重くて、歪で、狂気的で、絶対的な信頼関係が理想。
そこまで考えて、失笑する。
やっぱり、この子じゃ不適格。
受け入れてくれるはずない。受け入れられるはずがない。
この子が好いているのは、偽物の私達。
今、目にしているのは、人形としての私達。
作られた人格、作られた外見、偽りの喋り方、偽りのキャラクタ、それらを好いている。
本当の私達を好きになったわけじゃない。そもそも、本当の私達を知らない。
だから私達の、私の理想は叶わない。
ほらね。
いつもと同じ。
あの両親や、私達を取り巻く大人達、自分達の欲望を満たすために褒めそやしてきた有象無象共と同じ。
なぁんにも変わらない。
イライラする。
もう、いい加減、うんざり。
ああ、そう、そうよ。
そんなに私達が好きなら、溺れて、狂ってしまえばいいわ。
「貴女が好きよ」
私達は彼女の手を取り、また嘘を吐く。
伸ばした手が、制服の袖が、雨に濡れる。
それに構わず彼女を抱き寄せ、耳元で囁く。
「貴女は、私達のこと好き?」
問いかける。
気づけば手遅れ、取り返しがつかないくらいの侵食、そんな腐食性の毒を注ぎ込む。
「うん……好きだよ」
彼女は頬を赤く染めて頷く。
「どっちが好き?」
無理を聞き。
「二人共、好き」
入れ込ませる。
「どれくらい?」
引き寄せる。
「同じくらい、大好き」
誘い込む。
「なら、私達以外、何もいらないわよね?」
底無しの沼に。
抜け出せないのは貴女だけ。
私達は、その限りじゃない。
それでも構わないのでしょう?
私以外の【何か】なんて、いらないのでしょう?
「……うん、いらない。周防ちゃん達が居てくれるなら……他には何もいらないよ」
躊躇いがあった。
だから、この子ではダメなんだ、と納得。
私達は残酷で、故に自分達と同じくらい歪んだ相手を求めている。
無邪気に笑う、この子に罪はない。
この子は被害者だ。
悪いのは私達。
この子は悪くない。
ただ、自分の意志が無いだけ。
ただ、知恵が無いだけ。
ただ、覚悟が無いだけ。
ただ、愚かなだけ。
私達が度を越して冷徹なのだ。少なくとも、無邪気ではない。そんな可愛気は、とうの昔に捨ててきた。
こんな真似を繰り返したことで、失った何かがある。そんな気がした。
一体、何を?
分からない。
本当に?
分からない。
分からない?
考えたくないだけかもしれない。
だって、私達にあるのは、無意味な人生だけだから。
そもそも生に意味なんてあるの?
それが本当なら、導を、希望を、分け与えて欲しい。
私達ふたりの手を引いて、傷だらけになってでも、拒絶されても構わずに、強靭な意志で私達を引きずって欲しい。笑いかけて欲しい。どうか、愛して欲しい。
……無理ね。
分かってる。
そんな都合の良い誰かなんて現れない。
そこまでする動機がないだろう。
相応の見返りを差し出せる自信が私達にもない。
それをやってのけられるほどの激情って、何?
積年の憎悪? 涙するほどの共感? 自己犠牲からくる優越感?
安い偽善や一時の哀れみでは成立しない。それくらいは想像できる。
「本当に? 私達だけいたら、満足なのね?」
「うん」
「なら、私達も、貴女だけいればいいわ」
「本当に?」
「ええ、勿論」
「嬉しい!」
彼女は私達を強く抱きしめ、身体を離し、数歩進んで、傘を持ったまま笑顔で跳ねて、感情を表した。
この子は、いつ壊れるだろう?
他人事のように眺める。
最低よね。
自覚してる。
やめられないけど。
やめる気もないけど。
私達は、いつか、してきたことの報いを受けるだろう。
それは、どのようなものだろう?
精神か、肉体か、そのどちらもが壊されるのか。
大切な物や、大切な存在が現れて、それらを取り上げられるのか。
それとも、明快な死か。
それも、いいな。
終われるなら、終わりたい。
そんなことを考えながら、ふたりだけで手を繋ぎ、彼女の後ろを歩く。
「ねえ、私達、ずっと一緒だよね? 周防ちゃん」
振り返って問いかけてくる彼女に、私達は笑みだけを返した。
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