第二章 絡み合う手と手と手と手

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第二章 絡み合う手と手と手と手

 翌朝、登校のためマンションを出た私は、三つの誤算に見舞われた。  うち二つは、事前に想定しておくべきだった身体的不調で、貧血と腹痛である。  いくら十代半ば、高い回復力を有する年齢であるとはいえ、一晩寝さえすれば、あらゆる不調が治るわけではない。それを留意しておくべきだった。  残る一つは、一限目の授業が体育であることを忘れていた、というもの。  板書科目や技術・家庭科などの移動教室程度であれば、普段通りとまではいかずとも、大人しく授業を受ける恰好を保てる。しかし、このコンディションで身体を動かせというのは、あまりに酷な要求だ。例えるなら、肋骨が折れた状態で行うバスケが適当か。いかに強靭な精神力を用いたとしても、こなせる者は少数だろう。  ホームルームが終わった段階で、ゆきから、体育担当の先生には言伝しておくから、保健室で痛み止めの薬を貰って、そのまま欠席した方が良い、と勧められた。  心情的には、あの信用ならない竜胆先生のテリトリーである保健室に再び足を運ぶことは避けたかったのだけど、また倒れでもして、ふたりに迷惑をかけるのは忍びないし、ふたりが竜胆先生と接触する機会が増えるのも嫌だった。自分の大切な彼女達を獣の檻に進んで放り込む道理はない。  渋々、分かった、そうする、と目線を下げながら答えると、ゆきは私の手を取り、ねぇ、ゆり、と優しく名前を呼ぶ。  顔を上げると、心配そうに眉を八の字にした、ゆきの顔。  綺麗だな、と思う。  こんな時でも。  いつだって。 「お願いがあるの」ゆきが言う。  繋いだ手に力が込められる。緊張しているのだろうか。  それとも、逃げないで、という、無言の叫びか。 「聞かせて?」私は促す。 「今日ね、ゆりと、ちゃんと話がしたい。勿論、さきと、さんにんで」  ゆきは、心配そうな、苦しそうな、そんな張り詰めた表情で言葉を続ける。 「ゆりが望むなら何でも話すし、何でも答える。だから、私達の気持ちを聞いて欲しい。ゆりの気持ちも聞きたい。とにかく、このままは嫌なの」  ああ、そうか。  私はまた、気を遣わせている。  こんなに綺麗な顔を歪めさせて、不安な思いをさせている原因は、私なのだ。  煮え切らない態度が、対話を拒否し続けた小心さが、大切な彼女達を揺さぶった。  家に来て良いよ、さんにんで話そう、と誘っておいて、栞奈と会い、投げつけられた言葉に傷ついたからと自分だけ被害者面をして、約束を反故にした。  さきもゆきも、どれだけ不安な思いをしただろう。釈明の機会を取り上げられ、愛してるという言葉も返されず、自分達の元から逃げるように立ち去る恋人を見送るなんて、私なら耐えられない。  これほどまで不安にさせて、やっと。  ここまで追い込まれて、ようやく。  気持ちは固まり、言語化できる。  私は、ゆきのことが好き。  言葉でして嘘偽りなく、身を持ってして同様に、潔白の愛を証明できる。  私は、さきのことが好き。  手離すつもりなんてない。私の粘質な愛に浸って欲しい。重いとか言われても知らない。  ふたりを平等に愛してる。どちらが欠けても駄目で、どちらも愛おしい私の彼女。  そこに過去とか、栞奈とか、関係ない。  そう、関係ないんだ。  こんなにも愛しているのだから。  ゆきとさき以外のことなんて、どうでもいいじゃん。 「別れないから」  あらゆる過程を飛ばし、私は結論だけを先に告げた。 「えっ?」  ゆきの目が見開かれる。不安や苦悶の様相は消え、驚きだけが在る。 「聞きたいこと、教えて欲しいことは、沢山ある。ふたりも私に聞きたいこと、言いたいことが沢山あると思う。それは昼休みか、今日こそ家に来てもらって晒し合おう。ただ、それまで、やきもきして過ごすのは辛いじゃん? だから大事なところだけ、先に伝えとく。私は、ふたりと別れるつもりはないよ」 「……本当に?」  ゆきは口元に手を当て、震えた声で聞いてくる。  私は教室内の目を意識しつつ、それでも、できるだけ、ゆきの耳元に顔を寄せてから告げる。 「私も、ふたりを愛してる。言うの遅れて、ごめん」  顔を離すと、ゆきは涙を一筋、流していた。 「よかった……嫌われたかと……嘘ついてたし、騙したし、その後、またすぐに傷つけて、嫌な思いさせて、守ってあげられなかったから……私も、さきも、もしかしたら……そうなったら、どうしよう、って話してて……」 「不安にさせて本当に、ごめん。もっと早く伝えるべきだった」  私は、ゆきの涙を空いている方の手で拭いつつ、再び室内を見回す。  私達のやり取りは体育の授業に向けた移動による喧騒に紛れて、今のところ、気に留められていない。しかし、教室内の生徒が体育館横の更衣室を目指して出て行くほどに悪目立ちしてくる。 「じゃあ、ひとまず、昼休みに、さんにんで話そう。その後、私の部屋で続き。どう?」 「うん、そうしたい」  私の提案に、ゆきは笑顔で頷いてくれた。  まだ少し目元が濡れていたけど、表情は晴れやかで、安堵の色が強い。 「じゃあ、後でね」 「うん。あ、階段、気をつけて」  繋いでいた手を限界まで、そのままに、名残惜しさを含有した言葉を交わして、私は教室を後にした。  こうも気が重いのは、不調のせいばかりではない。  獣の檻に踏み入ることのリスクは明白であり、そこに自ら赴くなど、常であれば、自殺に他ならない。  おまけに、獣を繋ぐ鎖は細くて脆い。その気になれば、いつでも千切ることが可能である。  鎖の名は理性。繋がれている者の意思によって強度が変化する欠陥品。  本当に他意は無い?  私の中の、私の人格が問いかける。  当たり前じゃない。  先生への依存? 鼻で笑ってしまう。  あり得ないと確かめる。あり得ないと心が御返事。  齟齬がないように、嘘もないように、断言する。  さきとゆき以外の者に心を許すことなど決してない。  抱くのは、むしろ嫌悪。  ふたりに向けるのとは、真逆の感情。  それなら良いよ、行ってきな。  前回とは違う。これは、ふたりを心配させない為だから。  自らの人格達に答えを示し、了解を得た私は、ノックを挟み、スライド式の扉を開いた。  保健室に足を踏み入れる。  できれば、二度と訪れたくなかった。  消毒薬の匂いが鼻につき、次いで、甘ったるい香水の匂いがした。付けているのがこの人でなかったら、素直に好きな香りだと言えたのに、と考えつつ、私は竜胆先生へと目を向ける。 「いらっしゃい、立花さん。意外と早かったね」  先生は私を笑顔で迎えた。 「どういう意味ですか?」  分かっていたけど、問い返す。すぐに理解したと思われるのが癪だった。 「戻ってくるのが、ってことだよ。分かってて聞いてるでしょ? 意地っ張りだなぁ」  先生は笑う。私は笑えない。 「一応、確認だけど、体調悪い? 腹痛?」 「……授業が体育だったので欠席しました。休ませて欲しいです。お腹も痛いです」 「いいよ、ベッドに座ってな。薬は?」 「……欲しいです」  この人相手に何かをねだるのは不服だった。何も頼みたくないし、関わりたくない。  指示された通り、ベッドに座って待つ。 「身体が不調なのは本当みたいだけど、それでも、私に会いに来てくれたのは嬉しいなぁ。先生、これでも寂しがりだからさ」  竜胆先生は声を弾ませて言う。受け入れられたと勘違いしているのだ。  こうも自分に都合良く物事を曲解して、はしゃげるのも、一種の才能だろう。本気で勘違いしているのであれば憐れであり、意図してであるなら狂気。 「はい、どうぞ」  顔を上げると、水が注がれたコップと、差し出された薬の錠剤があった。 「ありがとうございます」  形だけの礼を述べつつ、私はそれを飲み込む。これで少しでも痛みが和らいでくれたらいいけど。 「確かに顔色悪いね。真っ白だ。貧血もあるね、これは」  私が空にしたコップを受け取りつつ、先生が言う。 「ちょっと待ってな」  先生はコップを保健室中央の教員用デスクに置き、その引き出しから何かを取り出して、ベッドサイドに戻って来る。 「それ、なんですか?」 「カイロ。冬に買ったやつの残りだけど、まだ使えるからさ」 「あ、お腹に、ですか?」 「そうそう、よく知ってるね。お腹に貼ると、腹痛が少しマシになるんだよね」  そう言いつつ、先生は私のブレザーのボタンに手をかけた。  私は、その手首を掴んで止める。 「どうしたの?」先生が首を傾げる。 「何してるんですか?」私は先生を睨みつけながら問い返す。 「カイロ、貼ってあげようと思って」 「自分でできます」 「いいから、ほら」 「嫌です、触らないでください」  私は先生の手を払いのけ、カイロだけを受け取る。  その手首を、今度は先生が掴んだ。  私は再び、先生を睨みつけようと視線を上げて。  怯んだ。  手にしていたカイロを取り落とす。  竜胆先生の目には、おぞましいほどの執着が映っていた。 「まだ、あの双子と付き合ってんの?」  私が言葉を発するより先に、掴まれた手首が引っ張られる。  身体ごとぶつかるようにして、先生がベッドに上がって来た。  自由な方の手で押し返そうとしたけど、それも掴まれる。  そのまま抱き込まれるような恰好で、私はベッドに押し倒された。  上体を起こそうと抵抗したら、先生は私に馬乗りになって、体重をかけてきた。お腹が押さえつけられて吐きそうになる。 「……どういうつもりですか?」  私は、どうにか言葉を発した。喋っているというより、吐き出しているに近い。お腹が痛い。息が苦しい。 「ゆりちゃんが悪いよ」  先生は、そう言ってのけた。歪んだ笑みと共に。 「私、優しくしてあげたじゃん。良い先生だったでしょ? それなのに、冷たくしてくるから……ずっと、そっけないじゃん。ちょっとくらい優しくしてよ。身体だって、少しくらい触らせてくれてもいいじゃん。カイロ貼るのなんて一瞬じゃん。それくらいも許してくれないから、こういうことになるんだよ? それとも、ゆりちゃんは、強引なのが好きなわけ? 襲って欲しかったの? 初めから誘ってた? それなら、ごめんね、気づけなくて」 「名前で呼ばないで。不愉快だから」  言葉を返し、遅れて気づく。  腹部に体重をかけられているせいで声が張れない。  つまり、意図的に叫べないようにしているのだ。  手慣れている。こうして生徒を襲うのも、きっと初めてのことではない。  ようやく、身の危険を感じた。  手足に力を入れて、強引に起き上がろうともがく。しかし意味を成さない。力も体格も完全に劣っている。私は初めて自分の華奢な身体を、頼りない、と思った。 「ねぇ、そんなに、あの双子が良いわけ?」  私を見下ろしながら先生が言う。 「いいから、離せよ」 「言葉が汚いぞ」 「自分が何やってるか、分かってんの?」  そう吐き捨てたと同時に、私はおでこに衝撃を受けた。  目の前に火花が散り、時間さで痛みがやってくる。 「言葉が汚いってば。私ね、生意気な生徒は嫌いなの。イライラするから大っ嫌い。礼儀正しくて、お淑やかで、従順な女の子が好き。分かった?」 「お前の嗜好なんか知らねーよ……クズ」  片目を瞑り、おでこの痛みに耐えつつ、そう返すと、今度は頬を張られた。  衝撃と痛み。  そうだ、叩かれた、ということは、片手が空いている。それに気づいて反撃しようとしたけど、すぐにまた腕を掴まれた。 「礼儀正しくて、お淑やかで、従順な子が好き。生意気で、口が悪い子は嫌い。分かった?」  竜胆先生は、私に言い聞かせるように、区切りながら復唱する。 「だから……そんなの知らないって、言ってるだろ」 「ゆりちゃんさぁ、そういう話し方、似合わないよ? 脅してるつもりかもしれないけど、全然怖くないし。あの双子がやるならまだ、迫力ありそうだけど」 「ふたりは関係ないだろ、引き合いに出すな」  出せる限界まで声を張り、反抗すると、竜胆先生は、にっこりと笑った。  なんで笑う?  浮かぶ疑問。  一瞬の静止。  これがいけなかった。  顔が迫ってくる。  反応が遅れた。  鼻が少し触れ。  唇に息がかかり。  そして。  私はキスをされた。  竜胆先生から。  ゆきとさき以外の相手と。  唇が重なった。  感触が在る。  背筋に悪寒が走る。  私は目を見開き、思いっきり首を横に振って唇を離す。 「お前、殺すぞ!」  私は怒声を上げた。  これほどの怒りを感じたことは、これまでの人生で一度もない。  いや、おそらく、これは殺意。怒りよりも強い感情。  どうなろうと構わない。目の前のクズを八つ裂きにしてしまえ。  私の中の全人格がそう言っている。諸手を上げて賛同している。 「はい、ゆりちゃん、これで浮気だよ。どう? 諦めついた?」  私が激情に駆られていることなど、どこ吹く風といった様子で竜胆先生は笑った。  正気を疑う。教育者にあるまじき行いと思惑に私は引いていた。  名前で呼ばれるたび、ゾッとする。比べること自体嫌だけど、ゆきやさきに名前を呼ばれた時とは真反対の気分になる。気持ち悪い。死ぬほど不快。音を拾う自分の耳を千切りたくなる。 「最低、死ねよ、クズ」 「あーぁ、どんどん口汚くなるじゃん。魅力半減だよ。ゆりちゃん、顔は可愛いし、頭も良いんだからさぁ……そろそろ割り切ってよ。もっと素直になってよ。あの双子を庇う時みたいにさ」  言いながら、先生は私を抱きしめてくる。 「触んな!」  身をよじって抵抗するけど、私の両腕を背中側に巻き込むように羽交い絞めしてくるせいで思うように動けない。こちらが力を入れにくい態勢を熟知している辺り、やはり確信犯、常習なのだと理解する。 「あの双子だってさ、綺麗じゃないじゃん」  私の耳元で竜胆先生が囁く。 「アンタと付き合う前に、他の女とも付き合ってたでしょ?」  先生の言葉に、私は一瞬、動きを止めてしまった。 「ほら、図星だ」  竜胆先生は、私の反応を見逃さない。 「それが、喧嘩の原因?」 「黙れ」 「あ、喧嘩にはなってない感じ? ゆりちゃんが、それを知って、落ち込んでるだけ?」 「黙れ」 「大丈夫、よくあることだよ。ああいうタイプの子達はね、一人に入れ込むより、いろんな子に手を出して、玩具にして遊ぶのが楽しいんだよ」 「黙れよ」 「そうでなくたって、女同士の恋愛なんて、どっちかが、男の方がいい、って言い出して破局することが多いんだから。ああ、そっか、他の女連れてきて、別れたい、って言われたとか? いや、もっと事情は複雑かな? 双子と同時に付き合ってるんだもんね。複数人での交際なら、もっと大変だろうし、うん、複雑になるよねぇ」 「黙れよ!」 「教えてよ」  埋めていた私の耳元から顔を上げ、目を合わせて、竜胆先生は問いかけてくる。 「あの双子のことが好きで好きで、たまらなく好きだから、付き合ってんの? ねえ、その気持ちってお互いに本物で本気なの? 例えば、浮気されても? 今みたいに、ゆりちゃんが他の女とキスしちゃっても? 元カノがいても? それでも関係は拗れない? 何があっても平気なわけ? そんなことないよね。平気じゃないよね? 落ち込んでるもんね? だから私に会いに来てくれたんでしょ? 優しくされたいでしょ? 慰めて欲しいでしょ? 私が必要でしょ? それなら、ほら、私でもいいよね?」  執拗に問いかけてくる。隙間なく問い詰めてくる。  愛情表現のつもりだろうか? まったく、イカれてる。こんな奴を誰が受け入れる? 「いいわけないでしょ、馬鹿じゃないの」 「でも、ゆりちゃんも浮気しちゃったじゃん」 「お前のせいだろ、狂ってんの?」  怒りに支配された感情を吐き出しつつ、憎しみに身体を突き動かされる。  反撃の為に自由を求めて、私は身をよじる。  このクズだけは、ただではおかない。 「あの子達のことは忘れて、私にしときなよ。私、こう見えて一途だよ? 浮気なんてしないし、尽くしてあげる。甘やかしてあげる。優しい年上のお姉さんって最高じゃない?」 「興味ない。お前のことは大っ嫌い。死ねばいい。むしろ、私が殺してやる」 「ゆりちゃんさ、隷属することに魅力感じるでしょ?」  竜胆先生は、私の言葉を無視して、身体を浮かせながら言葉を続ける。 「相手の女に従わされるのが、実は好き。引っ張ってくれる子に魅力を感じる。我が強くて、自由に振る舞う、それでいて少し影がある、そういう子が魅力的に見える、惹きつけられるんでしょ?」  私は無言で先生を睨みつける。  かけられた体重で押し潰されていた右手が、少し動かせることに気づき、じりじりと引き抜く。手は私の背に隠れているのと、語ることへ意識が向いているので、先生は気づかない。 「可哀想にね。変わった子が好みだと苦労するよね。でも、気持ちは分かるよ。私も、そうだから」  先生は垂れていた前髪をかき上げる。  身体にかかる体重が、さらに減る。 「私も、ゆりちゃんみたいな癖の強い子が好き。お揃いだよ、嬉しいね。やっぱり私達、似た者同士なんだ」  瞬間、私は上半身を跳ね起こし、右手を背中とベッドの間から引き抜く。  その勢いのまま、先生の鼻っ柱を殴りつけた。  鮮血が飛び散り、先生は呻きながらベッドに倒れ込む。 「痛ったい! ちょっと、めっちゃ鼻血出たじゃん。これ、どうしてくれんのよ」  飛び散った血でベッドのシーツは汚れ、鼻を押さえている先生の手と白衣の袖は、流れ出る先生の鼻血ですぐに真っ赤になった。 「自業自得だろ」私は吐き捨てる。 「ひっどい言い草、最低だよ」 「お前のやり口に比べれば全然マシでしょ。押し倒してきて、無理矢理キスして、抱きついてきてさ、自分の性欲のことばっかりで、私の気持ちなんて考えてない。何が尽くすだよ。どこが優しい? 私がどれだけ傷つくか、どれだけ嫌な気持ちになるか、分かってない。お前の言葉は嘘ばっかり」 「でも、こういう強引なの、嫌いじゃないでしょ? あの双子とも、こんな感じで、よろしくやってんでしょ?」 「ふたりのことは引き合いに出すな!」  私は怒鳴った。  その汚い口で、さきとゆきを、私の命よりも大切な彼女達を汚されてたまるか。  私の気持ちを知ってか知らずか、先生は、なおも血が流れ出る鼻を指で押さえつつ、冷笑を浮かべる。  煽っているのだろう。分かり易い。  故に、今の私には効果的だった。 「今更、女同士だから清い交際です、とか嘘つかないでよ? 言っても信じないからね。私自身そうだし、アンタも、あの二人も、顔に経験済みです、って書いてある。隠しても無駄。そういうのって分かるからさ」  感情を逆撫でするのが、本当に御上手。  もう一発殴ってやろうと拳を振り上げたが、すぐに手首を掴まれ、いとも簡単に振り払われた。 「最低、気持ち悪い、本当に気持ち悪い。生徒に向かってそんなこと言うなんて、頭おかしいんじゃないの?」  せめて言葉だけでも、と悪意をぶつける。  しかし、先生は渇いた笑いひとつで受け流した。 「だから、おかしいんだってば。言われなくても、自分が一番分かってる。教師の立場で生徒を襲ったり、優しい言葉かけて近づいたり、無理矢理キスしたり、ベッドに押し倒したりなんて、まともじゃできない」  先生は溜息を挟んでから言葉を続ける。 「もうさ、手遅れなんだよ。私は同性が好きで、制服着た若い子が好きで、アンタみたいに弱ってる子が大好きで、教育者と生徒っていう、倫理観ぶっ壊れた恋愛が、たまらなく好きなのよ。この病気は一生治らない。賭けてもいい」  私は無言で先生を睨みつける。  考える。  どうすればいい?  どうすれば、こいつを傷つけられる?  言い負かすには、黙らせるには、どうしたらいい? 「ゆりちゃんはさ、犬みたいで可愛いよ」 「……は? 今、犬みたいって言った?」  思考が中断させられる。  どうにも頭に血が上っているせいで、気が散る。 「言ったよ。アンタは犬に似てる」 「どこが?」  クズの分際で人を犬扱いしてくる、その精神構造に多少、興味がわいた。 「自立しているように見えて意外と脆い。おまけに変態嗜好の気もある。さっきも言ったけど、他人に虐げられたり、無理矢理従わされるの、結構好きでしょ? 躾と称して叩かれたり、怒られたり、多少理不尽な扱いを受けても、惚れた相手になら、その可愛い尻尾を振っちゃうでしょ?」 「それが、私が犬に見える理由?」 「あと、勝てないと分かった相手には、反抗できなさそうなところもね」  先生は血の滴る鼻から手を離し、にっこりと笑って付け加えた。 「……くだらない、聞くだけ時間の無駄だった」  私はベッドから飛び降りて、そのまま保健室の扉へと歩き出す。  先生もベッドから下りた。けど、追っては来ない。デスクの上に置かれたティッシュを数枚取り、鼻に当てがっている。  これでは、私が逃げ出したみたいだ。  しかし現状、勝ち目がないと判断したのも事実。  つまり、私の負け。事実上、敗北である。  体格的に、まず勝てない。殴り合いでは圧倒的に不利。論理的に言いくるめるにしても、こいつは意外と頭が回る。観察眼も鋭い。例えばここから飛び出して行って、セクハラをされたと職員室で騒いでも、女同士のセクハラを立証するには明確な証拠が無ければ厳しい。おまけに学校側は不祥事を隠蔽したがるものだし、騒ぎ立て続ければ、私自身には厄介者のレッテルが張られ、場合によっては経歴に傷が付く。絶対に私の味方となってくれるゆきとさきも巻き込むことになる。それらは当然、私達の進学や将来に悪影響を及ぼす。  となれば、一時撤退以外選択肢がない。確殺できるだけの報復を望むなら、態勢を立て直してからだ。  横開きの扉に手をかけた瞬間、背中に声をかけられた。 「好きだよ、ゆりちゃん。先生、待ってるから」  見えない大きな舌で身体の後ろ半分を舐めるような、粘質な声だった。  強い吐き気を覚えた私は保健室から出て、足早に廊下を歩く。 気分が悪い。今にも吐きそう。体調が悪かったところへ、あの馬鹿なクズが、お腹の上に馬乗りになり、体重をかけてきたことも相まって、不調は重篤化していた。  一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。  それが号令となり、先程の不快な経験が、あのクズの並べた言葉が、頭の中で反芻される。  持ち出された言葉の大半は屁理屈だった。私の話を全く聞いていない、一方的な好意の押しつけ。性欲が先行した、気色悪い台詞の数々。しかし的を射ているものも、いくつかあった。 【隷属するの、好きでしょ?】 【従わされるの、好きなんでしょ?】 【怒鳴られても、殴られても、好きなら許してしまう】 【犬に似てる。従順で、勝てない相手には反抗できなさそうなところが】  私は、か弱い犬なのだろうか?  負かされ、躾けられ、尻尾を振り、ご機嫌を取り、従うためにこうべを垂れる、そんな生き物なのだろうか? それが私の本質か?  こんな私でも、人並みにはプライドというものがある。こだわりや、意思や、考えもある。人格に至っては、時々制御が大変なほど枝分かれしている。 自分なりに選択を重ねて生きてきたつもりだった。間違えることもあったけど、それでもどうにか、ここまでやりくりしてきた。  おかげで、大切なものもできた。  失いたくない、命を懸けてでも守りたいものが。  けれど、今の私はもう、さきとゆきに告白した時の綺麗な私ではない。  初めて出会ったあの時から、私の内面は歪んでいた。 どす黒い感情や過去を抱えていて、見た目には現れない不安定性を抱えていた。  それでもまだ、綺麗だった。ある意味では純粋なままだった。  悲しいかな、これまでの人生において、誰かと触れ合うこと、誰かに触れてもらうことがなかったから。奪うこともなかったし、奪われることもしなかった。機会がなかったのだ。  だから、ゆきとさきに全て捧げた。  愛して、愛されて、幸せだった。  満足していたし、ふたり以外の何かなんていらなかった。  それなのに、竜胆先生が、あの女が、ぶち壊した。  でも、その原因を作ったのは、私自身。  意地を張って、ふたりを拒絶して、弱みを見せて、つけ入る隙を与え、あのクズの巣へ逃げ込んだ形になっていた。  その結果が、これだ。  被害者面できる立場にない。全ては選択を捧げた結果であり、私が愚か者たる所以は、そこかしこにあった。 「ゆり!」  聞こえた声に振り向くと、さきとゆきが廊下の端から駆け寄って来るところだった。  ふたりの姿を認識した瞬間、私の視界は揺れた。 「……だめ」  直近の出来事がフラッシュバックとなって私を襲う。  大好きなふたりを目の前にして、私は死にたくなった。  竜胆先生にされたことを後ろめたく思った。  本音を言えば、助けて欲しい、慰めて欲しい、こんな惨めな私を救って欲しい。  けど、そんなこと求められない。甘えていいはずがない。  足はふらつき、声が出せない。  今、口を開いたら、もう……。 「ゆり、大丈夫? ゆきから連絡貰って、それからずっと心配だったの」 「私も、送り出したはいいけど、やっぱり心配で……授業終わって着替えたし、どうせなら、保健室に様子を見に行こうって、さきと……」  保健室。  その単語が引き金となった。  私は最後の力を振り絞り、一階廊下の端、理科室横の扉を開けて外へ出る。  校舎裏の芝生を数歩進み、そこで限界を迎えて、吐いた。 「ゆり! ゆり、大丈夫?」  ふたりが私の左右に付き添い、背中をさすってくれる。  苦しい。お腹がひっくり返りそう。息ができない。涙が溢れて視界が霞む。喉が焼ける。  心の不調は身体にも現れるというけれど、ここまで分かりやすく出てこなくてもいいのに、と頭の隅で考える。  私は朝、コーヒーしか飲まない。だから、吐き出せるものは胃液しかなかった。  それが余計に辛かった。汚されてしまったものを外側へ押し出すこともできないなんて。  他に、どうしろっていうの?  どうしたら私は、綺麗になれる?  元に戻るには、どうしたら……。  手足が痙攣してきて、その場に崩れ落ちる。  ただ苦しいだけ、苦しむだけで。  起きたことは変えられない。  どうすれば私は、赦される?  気づくと、私はふたりに抱きかかえられ、背中と頭を撫でてもらいながら名前を呼ばれていた。どうやら瞬間的に、酸欠で意識が飛んだらしい。 「さき、先生呼んできて!」 「……必要ない」  どうにか声を絞り出して、走り出そうとしているさきを止める。  私は口元を拭い、目を瞑った。  最悪だ。吐いてるところを、ふたりに見られた。大好きな彼女達に汚い場面を見られたのだ。そのうえ介抱までしてもらって、本当に最悪、ああもう、死にたい。  恥の上塗りとは、こういうことをいうのだろう。体験したくはなかった。考えても仕方のないことを考える。何か考えていないと、恥ずかしさと情けなさで潰れそうだった。 「私達なら、大丈夫だから」  私の気持ちを察してか、さきが手を握り、励ましてくれる。 「気にしてないから、気にしないで」  ゆきが私の頭を撫でながら、優しい言葉をかけてくれる。 「……うん」  いつか私が用いたのと同じ言葉がかけられる。  小さな声で、それに応える。  理性は衰弱し、腐っていた根性がなりを潜める。  残ったのは初心な感情と、憐れなほど剥き出しの依存だけ。  何から伝えよう? 私はまず、どうして欲しいのだろうか? 「ねえ、ゆり。最近ずっと、キスしてなかったよね」 「……え?」  まさか、と思い顔を上げると、ゆきが私の両肩を掴み、顔を近づけてくるところだった。 「だめ、やめて!」  押し返そうとした手を、さきに掴まれる。  振りほどこうとしても、ゆきとさきの方が力は強い。  抵抗しているうちに、私はバランスを崩して芝生に倒れ込む。  ふたりは止まらない。  私の頭と肩と両腕を抑え込み、ゆきが無理矢理キスをしてきた。 「やだ! やだよ、こんな、吐いた後の口で……」  私は泣いていた。  私は、汚いから。  キスなんて、しちゃだめなのに。  吐いたからじゃない。それよりもっと酷い汚れ方をしているから。 「私達は気にしない。関係ないよ」  そう言って今度は、さきが迫ってくる。 「やめて! ほんとにダメ、汚いから!」  私は顔を逸らして叫ぶ。 「汚くない。私達の彼女に、汚いところなんてない」 「やめてってば!」  私は抵抗したけど、再び顔を抑え込まれて、強引にキスされた。  三十秒、そのままで。  ようやく、さきが顔を離す。  伸びる涎もそのままに、私を見つめてくる。  とても優しい目で。 「自分の彼女にキスして何が悪いの?」  隣で、ゆきが言った。  こんな汚れた私を変わらず好きでいてくれる。 「だって……」  涙が溢れて言葉に詰まる。  私の心は完全に折れていた。  もう、いいだろう。  意地を張って何になる? 「私達は、ゆりの彼女でしょう?」さきが問う。 「違う?」ゆきが問う。 「……違わない」私は首を左右に振る。 「ゆりは私達が求めたら、どんなことでも応えてくれた」 「嬉しかった」 「綺麗だ、って言ってもらえて嬉しくて」 「好きだ、って気持ちを伝えてくる姿が愛おしくて」 「私達を、一人ひとりの人間として認識してもらえたことが、すごく、すごく嬉しくて」 「趣味が合ったことも嬉しくて」 「私達を、こんなにも大切に想ってくれる人なんて、これまでいなかった」 「そんな人が現れるなんて思ってなかった」 「だから、どんどん好きになった」 「ゆりが私達にとって一番大切な人に成った」 「だから、早く過去を打ち明けなかったことを後悔した」 「こんなに好きになるなんて、こんなに依存するなんて、思ってなかったから」 「こんなの、言い訳でしかないけど」 「過去を正直に話したら、私達がしてきたことを話したら、怒って、呆れて、嫌われて、気持ち悪がられて、離れちゃうんじゃないかって想像して、打ち明けられなかった」 「怖かった」 「すごく怖かった」 「絶対に嫌われたくなかったから」 「ゆりがいない世界で生きていくなんて無理」 「けど、ゆりを残して死ぬのも嫌」 「私達が消えて、その後、ゆりが他の女と関係を持つことを想像したら、耐えられない」 「勿論、男でも嫌。論外よ」 「どうしようって、すごく悩んだ」 「自分達がしてきたことの報いだと思った」 「私達は過去に、赦されないことをした」 「本当に最低なことを」 「だから私達も、同じ目に遭うのだと覚悟してた」 「けど、その覚悟が、いかに安っぽいものだったか、すぐに思い知った」 「私達は、ゆりがいないとダメなの」 「ゆり無しじゃあもう、生きられない」 「隠し事をしてた。嘘もついてた。ごめんなさい」 「本当に、ごめんなさい」 「でも、信じて欲しい。私達の気持ちは本物。ゆりのことが好きなの」 「他の誰よりも愛してる。ゆりだけを愛してる」 「大好き」 「大好きだよ」 「愛してる」 「お願い、私達を捨てないで」 「お願いします……」  ふたりが私の手を握る。  真っ直ぐに私の目を見て訴えかけてくる。  記憶が螺旋と成り、頭の中を廻る。  始まりは街だった。  そこでの出会いと呼びかけがあり、追い縋ってきた、ふたりの過去。  困惑の感情は疑念となり、栞奈という鮮明な像を残した。  それが茫洋と化すより先に克明な傷と変わり、私に穿たれた。  さきとゆきは、そんな私を救おうと尽力してくれた。慈愛と加護をもたらしてくれた。  降って堕ちた地獄。  引き上げてくれた天使達。  対比として意識する。  どちらもが否応無しに、現実として突き付けられた。  追い詰められた私。  傷つく資格の有る無しに関わらず、感情を揺さぶられ、心に亀裂が走り、関係が崩壊するに至るだけの、その分岐に立たされた。  しかし、そこには救済への道も示されている。  自室での思考が、まさにそれだった。  愛するふたりの言葉を聞くべきだった。  正義も、常識も、概念も、突き詰めればただの言葉であり、どこの誰が創作したのかも知らない模範的な回答、平面的な規範でしかなく、それらが私の為に、私達の為に、確固として作用するわけではない。絶対的など知ったことではなく、絶対の可否を決めるのは自分。  まだ間に合う。  差し出された再度の選択、その機会。  どちらを、何を、この手で掴むのか?  倫理を優先した関係の消滅、破滅への抜錨か?  世界の全て、己の存在以上に大切な、嘘つきで残酷なふたりか?  微笑。比べるまでもない。天秤など、最初から不要だった。  私は、こんなにも愛されている。こんなにも想われている。  嘘は溶けて消え、偽りは消化された。拒絶する動機など、もはや存在せず。  応えるだけだ、今度こそ。 「……キスが強引過ぎ。私、やだって言ったのに」  私は呟き、告げる。  謝りながら、話を聞いて欲しい、別れたくない、と口にしながらも、彼女だからとキスをしてくるなんて、やり方が本当にひどい。非常識だ。普通なら嫌われる。  けど、このふたりは、やってのけた。  全くもって普通ではない。  だからこそ、私達は惹かれ合った。  こうして一緒にいるのは、それが理由。  本質的に、似た者同士なのだ。  竜胆先生以上に、私は、ゆきとさきに似ている。  依存する相手を選ぶのは、自分自身。  どちらの側に付くのかも、相対し、敵意を向ける先の選定も、自由なのだ。  私の呟きを受けて、ふたりは各々、片手を私の頬に添える。  挟まれた。  ふたりの手に。  温かい、と感じる。  温度ではなく、この優しさが。 「彼女に似たんだよ」  ふたりは同時に言った。  そうだね。  私は付き合う前に、告白より先に、ゆきにキスをした。  鮮明に覚えている。忘れるわけがない。  放課後、ふたりだけの教室で、私は、吸い込まれそうなほど綺麗なゆきの目を見て。  その魔力に魅了されて、自分を押さえることができなかった。  キスをして、さきを紹介されて、私は自分の意志で、さきにも告白したのだ。  ゆきとさき、ふたり共が好きだと。ふたりと付き合いたいと。  なんて欲張りで、非常識で、最低な女だろう。  思い返してみると、そう、確かに。 「すっごく似てるよね、私達」  私は、ふき出しながら認めた。  ようやく笑えた。  さきとゆきに笑いかけることができた。 「やっぱり、ゆりは笑ってる方が可愛いよ」 「何それ、口説いてるの?」 「うん、口説いてる」 「靡いてよ、私達だけに」 「……ばか」 「ゆり、愛してるよ」 「ばかばか」 「愛してる」 「……大好き」  観念して、私はふたりに抱きついた。  久々に感じたふたりの温もりは、また少しの間、私に涙を流させた。  二限目の始業を告げるチャイムが鳴った。 「ごめん、授業サボらせちゃった」  私が謝罪の言葉を述べると、ゆきとさきは首を横に振る。 「授業なんかより、ゆりの方が大切だから」  優しいんだ、本当に。  その優しさに私は甘える。 「あのね、お願いがあるの」 「なぁに?」さきが首を傾げる。 「聞かせて」ゆきが繋いだ手を揺らす。 「栞奈の話を聞かせて」 「えっ? 今? ここで?」 「そう、今ここで」 「何が知りたいの?」  私は息を吸い、要望の詳細を述べる。 「そもそも栞奈が、どういう子なのか、いつ頃から付き合い始めたのか、性格や趣味、好き嫌いが知りたい。栞奈が、さきとゆきのことを、どれくらい好きだったのかも。どんなデートをしたのか、どこへ行って、どんな会話をしたのか、キスやハグの頻度、どれくらいイチャついたのかを教えて? 最後に、どうして別れることになったのかも聞きたい」 「ようするに、何もかも、ってことね」 「本当に嫉妬深い彼女。これはもう手遅れだね」 「引いた?」私は問いかける。  どんな答えが返ってくるのかは分かってる。それでも確かめたい。ふたりの言葉で答えが欲しい。 「そんなわけない」 「ゆりの嫉妬は気持ちが本気の証拠だから、受け止めたい。嫉妬して良いんだよ」 「私達に執着してくれてる」 「私達に依存してくれてる」 「素敵なことだよ」 「私達以外、眼中にないって再確認できて、安心するの」 「ありがとう」 「こちらこそ」ふたりは同時に応じてくれた。  こんなに束縛しても怒らず、不快感も示さず、むしろ喜んでくれるなんて、ゆきとさきは聖人だ。目の前で自傷行為をするから見てて、という頼みを受けて、優しく微笑むことができる者が、この世にどれだけいるだろう? 私がねだっているのは、それくらいにはおかしなことだから。  ありふれた価値観に無理矢理当てはめるなら、私は異常で、私達の関係は危険。  その倫理的に見咎められるべき異常性が、共倒れになる危険性が、私達にとっての幸福。  ふたりに甘えることで、再び関係が荒れる可能性も頭にはある。負い目も、罪の意識も。  それでも、どうしても、うやむやにすることは耐え難い。ふたりについて、ふたりのあらゆる過去を、私だけが知らない、という状況が嫌。どうしても嫌。  それが元カノに関することであっても、私は知っておきたい。問わずにはいられない。どれだけ自分の心が傷ついても構わない。全て聞き、記憶しておきたい。  私にとって、さきとゆきの一番になる、不可欠な存在になる、という理想、そこへの過程は、楽しいこと、嬉しいこと、愛しいことばかりではない。  学んだのだ。そして更新された。これまで以上の覚悟で、これまで以上の自己犠牲をもってして構わない。自分が知りたくなかったことも、ふたりが話したくなかったことも含め、その上で全てを受け入れてみせる。嫉妬に狂い、怒りに飲まれ、悲しみでこの心が壊れてもいい。それが私の新しい理想。それが新しい私の姿として成り代わるから。  本当の意味での理解者と、嘘偽りなく、ふたりと対等であると納得できるのは、そんな私だけだから。 「ゆりが知りたいなら、全部話すよ。隠し事は、もうしたくないから」 「話していいのね?」  上目遣いで確認してくるゆきとさきを交互に見つめ返して、私は頷く。 「うん、聞きたい。今の私なら大丈夫だし、今の私には必要だから」 やわな心はなりを潜め、確固たる決意と、ふたりに対する信頼が、私を強く支えている。  理解したい、という欲求が尽きることはない。  一度その事象や人物に深く関わり、入れ込んだならば、それを繰り返そうとする欲求が生まれる。もっと深くまで見てみたくなる。確かめたくなる。  深く、奥へ、次へ、また次へ、と。  欲求が生まれた時から既に、丁度良い区切りなんて、そもそも付けようがないわけで。  知りたい、という単純な欲求の他に、知らないことで生じる不利益、起こりかねない立場の逆転を防ぐ、という意味合いもある。前回の栞奈との遭遇が、その最たる例。  知る、という行為は、防御の側面も有するから。  言葉で聞くだけ、簡単なのだ。  残酷な真実も、複雑な事情も、忘れたい過去も、おどろおどろしい感情も、言葉という型にはめ込んでしまえば、意外とすんなり受け入れられる。人間向けに最適化された、言語というツールの相手なら、私は得意。  栞奈に関する情報は、今後必ず役に立つ、という確信もあった。私が栞奈に固執している理由は、個人的感情にのみ由来しているわけではない。私達さんにんに関わる損得を含めた計算をし、逆算をして、既に先を見越した計画を組み立て始めているからこそ求めている。 「じゃあ、初めから話すね」  さきとゆきが語り始める。  栞奈と、ふたりの関係。  私以外と過ごした、過去の姿を。 「栞奈との交際期間は、中学二年の四月から、六月末までの二か月間」 「栞奈から告白してきて、私達は、それを受け入れた」 「遠巻きの羨望や、曖昧な好意を向けられることは、先輩、同級生、後輩を問わず、幾度もあった。けれど、告白までしてきたのは、恋愛的な【好き】をぶつけてきたのは、あの子が初めてだった」 「女の子を恋愛対象として意識し始めたのも、この告白がきっかけだったように思う」 「あぁ、そっか。恋愛って、女の子同士でしてもいいのか、って」 「これまでを振り返って、自分達に向けられていた好意は、純粋な憧れだったのか、恋愛に発展させたいっていう想いだったのかを、意識して考えてみたりしてね」 「それで余計に、明確な好意を伝えてきた栞奈には……期待した」 「交際に踏み切ったのは、その勇気を称賛する意味も含んでいた」 「これだけ行動力のある子なら、私達の人生に転換をもたらしてくれるんじゃないかって」 「あの時も、私達は条件を出したよ」 「ゆりに出したのと同じ条件」 「私達を平等に愛すること。いつでも、どこでも、三人一緒。関係が進展して、デートに行くようになっても、キスをする時も、三人一緒。これを受け入れられないなら、気持ちに応えることはできない。そう告げた」 「ゆきだけをひとり残すなんて考えられなかった」 「さきだけが選ばれないなんて耐えられなかった」 「私達は、ずっと一緒に生きてきた」 「どちらかが欠けるなんて、身体を引き裂かれるのと同じくらいに痛いし、辛い」 「これは、ゆりも理解してくれてるよね?」 「私達を私物として扱ってくる、あの両親相手じゃあ、頼れるのも、依存できるのも、お互いだけだったから」 「だから、どちらかだけが選ばれるのは嫌だった」 「私達は、引き離されたら生きていけない」 「これだけは、どうしても譲れなかった」 「あの子は悩む様子もなく、条件を受け入れた」 「顔を真っ赤にして、真っ直ぐな目を向けてきて、約束してくれた」 「私達を平等に愛するって」 「ずっと三人一緒で過ごそう、って言ってくれた」 「正直、嬉しかった」 「やっと私達を人間として認めてくれる人が現れた、そう思った」 「けど、その努力が見られたのは、最初だけだった」 「あの子は、私達を見分けることが出来なかった。頑張ってくれてはいたけど、結局、ダメだった」 「早々に諦めて、周防ちゃん、って呼んでくるようになった」 「どちらを呼ぶ時でも通用する呼び方。けど、それってつまり、保身でしょう?」 「栞奈からすれば、便利で安心だよね。間違える心配がない、っていうのは、傷つけないで済む、傷つかないで済む、ってことの裏返しだもん」 「私達は、その逃げの姿勢に傷ついた」 「別に、間違えてくれて良かったのに」 「何度間違えてでも、一生懸命見分けようとしてくれる方が嬉しいし、一人ひとり別の人格だから、別の人間だから、っていう姿勢がそのままなら、私達は大歓迎だった」 「理想を言えば、ゆりみたいに正確に見分けてもらうことだったけど、それが難しいことは私達が一番よく知ってるから」 「だから、なんていうのかな。もっとこう、必死さが欲しかったんだ」 「自分は彼女だから、私達のことが好きだから、当たり障りのない解決策には飛び付きたくない、ちゃんとしたい、個々として認識したい、っていう言葉が欲しかった。諦めずに頑張って欲しかった」 「私達も、素直にそう言えばよかったんだけど、その頃は、ふたりとも中二病真っ盛りで、性格は元々こんなだし、誰かと付き合うことも初めてで、女の子相手に付き合うのも初めてで、理解してくれる気が無いなら、距離を詰めてくれる気が無いなら、私達も栞奈のことを信用できない。そんなふうに考えちゃった」 「感情を素直に出すことが怖かった」 「依存するリスクばかり考えてた」 「裏切られることが怖かった」 「臆病だったんだ、私達」 「ただでさえ期待できない人生で、信用できない親達の下で、人形扱いされて生きてきたから、もうこれ以上、傷つきたくなかった」 「栞奈の思考能力が、私達より劣っていたのも、冷めた要因の一つ」 「傲慢な物言いに聞こえたら、ごめん」 「でもね、これも私達にとっては、重要なことだったんだ」 「さきに話したことを、私には話してくれなかった。その逆も然り」 「たった数秒の雑談でも齟齬が生じる。私達には、それがすごくストレスでさ」 「双子だからって、どちらかが聞いた話が自動で伝播してくるわけじゃない。栞奈と話したことを栞奈のために、私達が裏で伝達し合わなきゃいけないなんて、おかしいでしょう?」 「我が儘で面倒な要求だとは自覚してた。けど、それでも、面白かったこと、その日にあったこと、私達への気持ち、そういうものは全部、彼女の口から伝えて欲しかった。あの子の言葉で聞きたかった。付き合ってるんだから。私達の関係は、彼女同士なんだから」 「でも、これも、栞奈には酷な要求だったみたい」 「あの子は記憶力が残念だから」 「本当に、ゆりとは比較にならない」 「思考力も、判断力も、まさしく惨状だった」 「私達の関係を何度もクラスメイトの子達にバラしかけたし、私達が何度、親とは仲が悪い、家庭の話はしたくない、と告げても、次の日には、家族とあった出来事を楽しそうに話してくる。私達の家に上がりたがるし、両親に挨拶したい、付き合っていることは隠すから、って食い下がってきた」 「そんなことが続くから毎日イライラしてた。家族との団欒を聞かされるのも辛かった」 「付き合ってるならさ、彼女同士ならさ、辛い時は癒してくれるものじゃないの? 悩みを聞いてくれて、相談に乗ってくれて、味方になってくれて、支えてくれる存在が、彼女だよね? 普通はそういうもののはずだよね、って、ふたりで愚痴り合うようになった」 「時間が経つほどに、言葉を交わすほどに、あの子を信じられなくなった。頼るなんて、依存するなんて、できないと確信した」 「こうなるともう、完全に冷めちゃうよね」 「楽しかったのは、本当に最初の頃だけ」 「ゆりも見たでしょう? あの子は完全な直情型。思ったことがすぐ口に出るし、衝動的に行動する。自分の感情を制御するのも下手」 「私達を気遣おうとはしてくれていたけど、いつも空回りで、それでいて、甘えてくる。過剰に深入りしようとしてくる。それが、すごく、すごく、私達の神経を逆撫でした」 「私達の求めているものを理解してくれないのに、本人は好きだと言ってくる。彼女として依存してくる。愛情も欲しがる。その軋轢に、私達は耐えられなくなった」 「趣味が合わなかったことも、離別に拍車をかけた」 「あの子はJPOPが好きで、私達はV系が好き。カラオケに行っても歌う曲が違うし、私達の選曲は怖がられた」 「あれは、傷ついたなぁ」 「ファッションやメイクの好みも当然違った」 「私達はバンギャふうの恰好をしてみたかったし、ゴシック系に寄ったメイクが好き。だけど、休みの日に出かけると、あの子が着て来るのはサブカル系の服装で、流行りの明るいメイクをしてくる。私達にも勧めてくる。巡りたいお店もその系統」 「ウィンドウショッピングやファションのお話が楽しくないと感じたのは、あれが初めて」 「……こんなに散々な有り様でもね……あの子は、私達を好きだと言ってくれたんだ」 「恥ずかしがって、自分からキスしてくることは、ほとんどなかったけど」 「気持ちだけは、いつも明確に伝えてきた。素直な言葉で、真っ直ぐに私達を見据えて」 「私達との温度差には、気づいてなかったけど」 「栞奈とキスしたり、抱き合っている時は……その時だけは癒された」 「体温は嘘をつかないから」 「ほんの少しだけど、本当に愛されてる、必要とされてる、って実感できたから」 「だから、キスやハグは結構、頻繁にしてた」 「素直に言うことを聞いてくれたりした時の御褒美っていう名目で」 「ゆり、ごめん」 「こんなこと聞かせて、ごめん」 「けど、そんな状態が、関係が、長続きするはずがなくて」 「限界が来て、私達から別れを切り出した」 「私達が栞奈を捨てた」 「あの子は泣き喚いてた」 「どうして? なんで? って、何度も何度も聞かれた」 「悪いところ全部直すから、って」 「本当に好きなの、離れたくない、って言われた」 「私達は、そんなあの子を冷たく突き放した」 「役不足だ、と告げた」 「貴女は私達に相応しくない、って」 「理解してくれない理解者のフリをする子なんていらない、って」 「そうして、あの子を切り捨てた」 「これ以上ないほどに、あの子を傷つけた」 「……それこそ、この前と、ほとんど同じ状況だった」 「中学の時も、校門前で泣かせたから」 「あの時と、そっくり同じだった」 「過去を見ているようだった」 「同時に、思ったの」 「過去が追い縋って来た、って」 「私達の過ちが、私達に責任を取らせにやって来た、って」 「やったことの報いは、必ずどこかで、その本人達に返ってくる」 「それが今なのだと痛感した」 「代償を支払うのが恐ろしかった」 「私達にとってのそれは、どう考えても、ゆりだったから」 「一番失いたくないものが選定される……当然だよね」 「だから、必死に栞奈を追い払った。ゆりを傷つけられた怒りもあったけど、結局は、私達自身のためだった。ゆりを取り上げられたくなかったから、必死に抵抗したんだ」 「私達はまた、栞奈を傷つけた。中学の時と何も変わってない。何一つ成長してない」 「私達は、どうしようもないクズだよ。最低の双子」 「これが、私達と栞奈の過去。交際していた時のこと。私達が栞奈にした行いと、これまでの感情」 「さあ、ゆり、交代だよ」 「ゆりが抱えているものは何?」
 「ほら、聞かせてみせて」 「私達に、晒してみせて」  栞奈の話を聞き終えた私の内面は、さざめき立っていた。  楽しい時間ではなかった。自分の彼女達の昔の女の話を聞いて、どうして喜べるというのか。不快になるのは必然。  しかし、私の内側に存在する人格達は、もたらされる栞奈の情報を、感情的濾過処理を必要とせず、手際よく分類し、記録する、その作業を淡々とこなしていた。  街で栞奈の存在を知った際や、校門で栞奈に好き放題言われたり、自室であれこれ考え、思いつめた末に暴れた時とは全く異なる心理状態に、私自身驚いていた。  これが所謂、割り切れた、というやつなのだろうか?  翻りの瞬間を見ることができなかったせいで、まだ、しっくりこない。  でも、悪くない。すっきりした気分。  頭の中が片付いてくれたから、冷静に今後の展開を考えることができた。  栞奈への対処を、あの子と、どう向き合うのかを決められた。  けど、それは、ひとまず保留。  性急な問題が、もう一つある。  息を吐く。  諦めではない。  腹を括るため。  自分がどうしたいのか?  分かり切っている。意思は鮮明。  あとに必要なのは、理解と協力。  私は、ふたりに打ち明けた。先程この身に降りかかった忌々しい悪夢を、客観的事実のみに絞って話した。(主観的なものは、とにかく説明をややこしくするため、意図して省いた) 「ゆきとさき以外の女に触れられて、身体を許してしまって、本当にごめんなさい」  説明を終えた私を、さきとゆきは、もの凄い勢いで抱きしめてくれた。  力の強さで息が詰まり、肋骨が軋む。衝撃で胃が再び痙攣して、軽くえづく。  でも、そんなつまらないことで抗議したりしない。  ふたりは私を心配してくれている。私の為に怒ってくれている。それが分かったから。  私が欲していたものを、すぐに与えてくれた。それが嬉しくてたまらない。 「……許さない。私達のゆりに、ふざけたことしやがって」 「ゆり、ちょっと、ここで待っててね。いやよ。駄目、止めないで」  ふたりが見せた怒りは、私の想定以上に凄まじいものだった。  矛先は当然、ことの発端、諸悪の根源である竜胆先生へ向けられている。  芝生から跳ねるようにして立ち上がり、欠陥が手の甲に浮くほど拳を握りしめて、今にも駆け出そうとするふたりの手首を掴んで、私は引き止めた。  怒ってくれること自体は素直に嬉しい。それが私の為だと理解しているから、すごく、すごく嬉しい。心強いし、大事にされているのだと実感できて幸せ。  けど、このままふたりを行かせたら、どうなるか。それは火を見るより明らかで、明確で清々しい決着と共に、生涯をかけて手痛い代償を支払うことになるだろう。  ふたりが退学になったり、まして逮捕されるような真似は絶対にさせられない。させたくない。そんなのは駄目。あのクズに、そこまでの価値は無い。  それよりも、もっと良い方法がある。賢しく、卑劣で、確実な策がある。  私は直接的な暴力行為や殺害(過剰な表現だけど、ふたりならやりかねない)ではない、その代案の詳細を口頭で説明した。  ふたりは静かに聞いてくれていたけど、工程を告げる度に、その表情は険しくなり、眉根の皺は深くなった。聞き終えると、ふたりは同時に首を横に振った。 「嫌だ」 「絶対に嫌」  まあ、そうだよね。予想通りの反応。 「狙い自体は理解できるし、良い考えだとも思う」 「けど、過程が気に入らない」 「ダメです」 「認めません」 「でも、現状、これが一番手っ取り早いし、熱が上がってる今だからこそ効果的だよ」  私は肩をすくめながら述べる。  この提案が、さも当然の行為であるかのように。なんてことない事柄であるかのように。 「これ以上、ゆりが出て行く必要は無いじゃん。これ以上、辛い思いさせたくないよ」 「きちんと始末しておくから、任せて頂戴」 「ゆりが希望するなら、先生の顔の形変えるくらいで済ませるから」 「だからもう、自分で自分の傷口を広げるようなことはしないで」 「ゆりが良くても、いくら割り切れるからって言われても、私達が嫌なの」 「本当に嫌なのよ」 「分かってくれるでしょう?」 「うん、分かってる」私は軽く頷く。 「……もしかして、私達が嘘をついたことへの当てつけ?」  さきが眉を下げ、問いかけてくる。 「それは違う」  私は、ゆっくりと首を横に振り、はっきりとした発音で否定する。 「嘘をつかれてたことは、もう許した。事実を事実として認識して、記憶として処理した。後は、前に進むだけ」  私はふたりの手を握り、各々の顔を交互に見つめながら続ける。 「竜胆先生は、私に手を出してきた。抵抗する私に噛みついてきた。どこまでも、私に向けられた悪意なの。だから、私が片をつける。ふたりには、そのために力を貸して欲しい」 「だから、我慢しろ、っていうの?」  ゆきがそう言い、目を伏せる。 「あんまりよ……」 「違うよ、我慢じゃない。私は、ふたりに支えて欲しいんだよ」 「でも、それにしたって、方法が……」  さきが私の肩に縋る。 「お願い」私は食い下がる。 「どうしても?」 「どうしても」私は頷く。 「……信じて、いいの?」ゆきが問う。 「私の気持ちは、さきとゆきにしか向いてない。よく知ってるでしょ?」 「……私達から別れ話を切り出したら、ストーカーになるんだっけ?」  さきが諦めたような表情で、けれど笑いながら言う。 「家の前まで来るんだよね?」  ゆきも、それに同調する。 「そうだよ」私は頷き、言葉を続ける。 「私は、それくらい、ゆきとさきのことを愛してる。だから、私を信じて欲しい。私のために協力して、私のことを一番に考えて、私にだけ尽くして欲しい」 「……我が儘な彼女だなぁ」  さきがそう言いつつ、私の手を引いた。  芝の上にお尻をつけて、その足の間に私を抱き込む。 「本当に自分勝手」  ゆきが抱き込まれた私の正面に屈み、私の顔を両手で潰す。 「ゆりは酷い女よ。ちゃんと反省して」  耳元で、さきが囁く。熱の篭った、ハスキィな声で。  私は潰れた顔で返事をした。間の抜けた声しか出なかった。 「片が付いたら、私達の我が儘を聞いてもらうからね。分かった?」  ゆきが妖艶な笑みを湛え、そう告げてくる。 「私達はね、ゆりの多面的なところにも惹かれたの」 「自棄的で、省みない。だけどそこには、確かな愛情がある。そういう複雑さが好き」 「危なっかしいから、ふたりで見守っててあげる」 「私達が守ってあげる」 「やりましょう」 「仕返しよ」  頷く。  乗ってくれると思った。  だって、私の彼女達だから。  ゆきとさきは、自己の二面性を上手く操れる。  人格は優れていて、高い思考能力を有している。自分達の哲学を大切にする反面、必要とあらば、変則的な判断をすることもできる。理性的な感情制御は、同世代の生徒達とは一線を画す。故に、利害を正確に判別し、最適な行動を選択することができる。  今回は、これが最適解だと判断したのだ。私と同様に。  人間は濁った状態でしか、本来の純粋さを測れない。  本当に純粋なものには、基準や尺度がないからだ。  今回の件で、より強く、そう思った。  私は、竜胆先生に汚された。  栞奈の存在に衝撃を受け、幾重にも傷を負った。  さきとゆきにつかれた嘘で心が澱み、どす黒く染まった。  しかし、こうした解釈も、思考するために言語化できている事実も、純粋過ぎて尺度を持たなかった私の内面が汚れ、色を変え、形を変え、元の姿からは似ても似つかない有り様に変形したからに他ならない。  変わらなければ気づけなかった。  汚れ、傷つき、違う色に染まってみなければ、知れなかった。  変わること自体が悪ではない。傷つくこと、悩むこと、嫉妬や怒りに狂い、どうしようもなく落ち込むこと、それらを経てこそ、見えてくるものもある。喜ばしい事象ではないけれど、しかし振り返ってみれば、必要な行程であったと評価できる動機も存在するのだ。  この身に降りかかった出来事は、私に首輪として纏わり付いている。  ゆきとさきの過去。  元カノの栞奈。  保健室の悪女。  そのどれもが、自ら拘束を振り解き、意図して遠ざけなければ、一生このまま纏わり付き、巻き付き、締め上げてくるものばかり。勝手に外れて消えてくれることは決してない。  上等だ。  臆病さを捨て、後悔を噛み千切り、逃げ道を断つ。  狂犬を飼おうとする、その行為が、どれだけ無謀で愚かしいことか。  その身に思い知らせてやる。  首を洗って、待っていろ。
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