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第三章 紫染めの律動は線を伝う
私達は校舎裏の芝生に腰を下ろしたまま話し合い、細部まで打ち合わせを行った。
結果、やはりすぐに保健室へ戻ることを決めた。
時間を空けず、事態の急変という想定されづらいシチュエーションをあえて選択することで、竜胆先生を振り回し、詮索や疑念を回避できるという利点、他の生徒達が保健室へ出入りする頻度が少ない授業中の方が好都合、というのが主な理由。
無論、怒りや殺意を抱えたまま教室へ戻り、大人しく授業を受けながら機会を待つ、という真似ができそうにないのもあった。若者は我慢弱く、それは私達も例外ではない。
「よし、それじゃあ、始めよう」
言葉と共に、私は芝生から立ち上がる。
少し、ふらついた。
すぐに、ふたりが支えてくれる。
交互に視線を合わせて、にこりと笑い合う。
言葉は必要ない。
十分過ぎるほど、感情を介した後だったから。
手を繋いで、私達は歩き出す。
意外と陽が照る、明朗な校舎裏から、陰になって薄暗い、静かな校舎内の廊下へと。
無機質な通路を進む。
空気は少し冷たくて、私の両手は温かい。
さきとゆきが握ってくれているから、満たされる。
「ねえ、ゆり」
ふたりが同時に私を呼ぶ。
「知ってると思うけど、私達、すごく嫉妬深いんだよ」
「ゆりがまだ知らないくらいに、嫉妬深いの」
「ほとんど病気なくらいにね」
「ゆりは私達の彼女。そうでしょう?」
「私達以外の女になるなんて絶対に許さない」
「だからね、今回のことも、例外にはしてあげられない」
「仕返しのために、作戦だから、それは分かってる。それでも、やっぱりダメ」
「後で、覚悟しておいてね」
「えっ、私、どうなるの?」
思わず口を挟む。
「決まっているでしょう?」
ゆきが言葉と共に、柔らかく、私の首を掴む。
「おしおきよ」
さきが私の耳元に顔を寄せて囁いた。
「ふふ、分かった。覚悟しとく」私は頷く。
「痛いのがいい?」
「苦しいのがいい?」
「両方」即答する。
「あら、変態」
「そういうところが大好きだよ」
私は、あえて何も言わず、笑みだけを返して。
廊下の端、柱の隅で、短いキスを交互に交わした。
「行ってらっしゃい。また後で」
「とにかく、気をつけて」
「ありがとう」
繋いでいた手を離して、ふたりを見送る。
ここからは、ひとりだ。
けど、独りじゃない。
ただ生きていたいだけなら、自らが掘った穴に篭っていれば安全。
大袈裟に身を抱えて縮こまり、震えていれば、時は過ぎる。
時は止まることを知らない。時は迷うことを知らない。
だから人は、時に価値を見出し、時を崇拝し、時を恐れる。
時と共に過ごす毎、人は自分の寿命を失っていると理解している。
無為に溶かすのか、業火にくべるのか、堕として腐らせるのか、決められるのは己だけ。
こんなふうに考えることは、大袈裟だろうか?
けれど、覚悟を求められた時、人は、これまでの人生を振り返り、これからの行先を見据え、己の精神を補強しようとするものだ。
私の場合、それが多少、年齢に不相応な仰々しさで奉られている、というだけのこと。
胸に片手を当てる。
制服越しでも分かる。すぐに思い出せる。
浸食した毒の熱。体表に残存する不快感。
まるで傷跡のように残っている。
自らの欲望を満たそうとエゴを押し通し、幼い身体を傷つけ、相手の尊厳を踏みにじることも厭わない残虐性。誰でも良い、という軽蔑の極み。欲望の代替。
自ら関われば、心は裂かれ、見えない傷が刻まれる。人知れず血を流すことになる。
それでも私は、野良犬のように、がむしゃらに牙を立てる。
抗う必要があると判断した。
大切なふたりを護るために。
小さな誇りを取り戻し、稚拙で純粋な意地を貫くために。
あの女には、二度と立ち上がれないほどの恐怖を刷り込んであげる。
狂犬は身を奮い、自らの手を噛んで叱咤する。
痛い。
私は、まだ生きている。
この痛みが、その証拠。
噛んだ箇所を見る。
歯形が付いていた。
この身体も、まだ生きている。
確かめることができた。
生きているなら前に進める。
進めるなら負けない。
自信は、ふたりがくれたから。
深呼吸。
制服のポケットからスマートフォンを取り出して、アプリを起動する。その状態のまま、ブレザーの胸ポケットに仕舞って、保健室のスライド式の扉を勢いよく開けた。
室内に入り、扉を後ろ手に閉めながら素早く見回す。
先生一人だけだ。他には誰もいない。
「……あれ? ゆりちゃん?」
鼻にティッシュを詰め、右手に保冷剤を持ち、窓際に据え付けられた流しの前に立っていた竜胆先生が、こちらを振り向き、意外そうな表情で言った。
私は先生の元へ、つかつかと歩み寄り。
そして。
抱きついた。
「何なに、どうした? どうしたのよ」
先生は慌てた様子で聞いてくる。
私は口を開かず、代わりに、先生の胸へ顔を埋めた。
香水の匂いが強くなる。
この人が付けていなかったら、好きな香りなのに。
「まさか、気が変わったとか?」
私は答えない。黙ったまま。抱きついたまま。
「ねぇ、ゆりちゃん。言ってくれなきゃ先生、分かんないよ」
その言葉に、私は意を決して顔を上げる。
鼻にティシュを詰めた先刻の仇。憎悪の権化。
竜胆先生のにやけた顔が目の前にある。
私は唇を震わせ、意識して目に涙を溜めながら口を開く。
「先生、ごめんなさい。私のしたこと、許して……」
「鼻殴ったこととか?」
「それもですし、その、私、他にも沢山、酷いことを言いました。全部、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「ゆりちゃん、マジで、どうしたのさ。別人じゃん」
先生は軽く笑い、私の頭を撫でながら聞いてくる。
「……振られたんです」
答えながら、私は顔の角度を調整し、溜めていた涙を溢す。我ながら、あざとい演出。
泣くことは簡単だった。形式的なものであったとしても、並べた言葉の全てが嘘でも、ゆきとさきを悪者にしなきゃいけないのは辛くて、ふたりに申し訳なくて、たまらなく苦しかった。だから、苦悩して弱り切った女を演じるのは容易かった。
「先生に強く当たったのも、ふたりと上手くいってなかったからです。八つ当たりでした。ごめんなさい。それでも、あの時は、まだ何とかできると思ってて……関係が終わるなんて、想像もしてなかった。でも、終わっちゃったんです。もう、どうにもならない。私にはもう、何もない……」
私は、すすり泣きながら、切れ切れの息に嘘を織り混ぜる。
「それで、耐え切れなくなって、私のところに戻って来た?」
「……はい」
「はぁ、なるほどねぇ、そういうこと」
「……最低ですよね」
私は呟きながら目を伏せる。
「先生に酷いこと言って、拒絶して、怪我までさせて、逃げ出したくせに、いざ自分が独りになったら、苦しくて、寂しくて、馬鹿に成り下がって、手を返して、縋るなんて、こんな真似……」
「ゆりちゃん、私は、そんなふうには思ってないよ。待ってるって言ったでしょ?」
先生は、にっこりと笑いながら、再び私の頭を撫でる。
さぞ、嬉しいだろう。自分の足元で陥落寸前の獲物が赦しを請う様は、舌舐めずりしたくなるほど魅力的に違いない。
彼女の思考をトレースして怖気が走り、鳥肌が立った。
「あの双子から離れて、私を選んでくれた。私の所へ戻って来てくれた。それで十分。やったことも、言ったことも、そんなの全部、帳消し。なかったことにして忘れていい」
「……受け入れてくれるんですか?」
私は上目遣いで先生に問いかける。
「勿論だよ、感激してるからね」
「……それだけ?」
私は先生の白衣を両手で握り、強い視線をぶつける。
「先生、私のこと、好き?」
「えっ? うん、好きだよ」
「……全然足りない」
私は首を横に振って言葉を続ける。
「先生、私、怖いんです。口では簡単に、何とでも言えます。好きだとか、愛してるとか、私しか見てないとか、信じてるだとか、信じて欲しいとか。でも、そんなの所詮、言葉だけのことじゃないですか。もう嫌なんです。裏切られるのも、捨てられるのも、嫌なの……」
「分かったよ。ゆりちゃん、落ち着いて」
先生は私を抱きしめて、背中を軽く叩く。あやしているつもりらしい。
「……証拠、見せてください」
私からねだる。
逃さない。
「証拠? 好きっていう証拠?」
「はい。ここで見せてください」
「でもさ、ゆりちゃん、お腹痛いでしょ? 体調悪いんだから……」
「せんせ、お願い」
私は偽善の言葉を払いのけ、先生の手を引き、ベッドへと誘う。
「本気? ここ、学校の保健室だよ?」
「それ、先生が言う?」
おどけた口調と共に、二人でベッドに倒れ込む。
ベッドサイドのカーテンを引っ張って、外界から隔離。
竜胆先生と二人きりの空間。
獣のいる、逃げ場のない檻。
自分の手で創り出した此処が決戦場。
先生が気色の悪い顔で、私に覆い被さった。
心臓が跳ねる。
嫌な動きだった。
一瞬、呼吸が止まる。
次いで、凄まじい早さで脈打ち始める。
眩暈と吐き気が同時にきた。
気分が悪い。
先の展開が読めるだけに、尚更、不快。
今から晒されるのは、好きという証拠なんかじゃない。
ぶつけられるだけだ、欲望を。
私は弄ばれる。
それでいい。
それが狙い。
「嬉しそうですね、先生」
私は内心を気取られないよう、話しかけて意識を逸らす。
「久々だからね、こういうの」
「それは、女同士で、という意味ですか? それとも、こういうシチュエーションが?」
「私、女の子にしか興味ないよ。男は眼中に無し」
先生は笑いながら答える。言葉は流暢で、気が大きくなっているのが分かった。
「シチュエーションも、そうだね。保健室では、すっごい久々。こんなとこ見つかったら懲戒免職だもん」
「久々ってことは、私以外の女子とも、こういうことをしたんですか? 何回も?」
この問いかけに先生は、しまった、という表情を浮かべた。
遅いよ、先生。
私が本気で関係を求めてやって来た生徒だったら、怒って出て行っちゃってるよ。
この人、頭は回るけど詰めが甘い。気が大きくなると失敗する手合いなのだと確信した。私を同意無しに襲った時も、我慢の限界とかだったし、とにかく自制心が弱過ぎる。
「責めているわけじゃないんです。私だって、女同士で付き合って、しかも複数人での交際をしていたんですから。ただ……」
「ただ、なに?」
竜胆先生は猫なで声で優しく先を促す。
「知らないことがあるのは嫌なの。隠し事をされるのも嫌だし、嘘をつかれるのは、もっと嫌。どんなに残酷でも、グロテスクでも構わないから、全部、教えて欲しい。私を信用して欲しい。先生を信じたいから。だから、お願い。全部、教えて? 先生だけは、私に嘘をつかないで」
そう告げると、先生は私の頬を撫でた。
瞬間、私は自分の頬の内側を思い切り噛んだ。
次に何をされるのか、即座に理解したから。
反射的に身体が拒絶しないよう、気を散らせた。
先生は顔を近づけてきて。
私の唇にキスをした。
二回目。
最悪の行為。
これは浮気。
言い逃れ出来ない。
感触は感覚を遮断して消した。
口内には血の味が広がっている。
妥当。
そう感じた。
「ゆりちゃんは健気だね。そういうところが、たまらなく好きだよ。本当に良い子」
「私、良い子ですか?」
血の味がする口で問い返す。
「良い子だよ、すっごく」
先生は笑って、私の手を取り、その甲にもキスをする。
「正直に教えた方が安心できるっていうなら話すけど、ここだけの話にしてね。約束だよ? 私、捕まっちゃうからさ」
「うん、約束」
「私ね、学生相手じゃないと興奮できないのよ」
「先生の変態」
「アンタが聞きたいって言ったのにぃ」
先生は笑う。屈託なく、からからと。
やり取りの中身と場面さえ違えば、確かに生徒受けする振る舞いだ、と評価する。
だから余計、不気味に感じるのだろう。相反する二面性は得てして恐れられるもの。
「まぁ、でも、変態って言われても否定できないね。実際そうだし、自覚しちゃってからは、歯止めも利かなくなったしさ」
「自制できなくなって、実際に手を出して、その後、後悔した? やっちゃったって」
私は先生の長い前髪を指で梳きながら聞く。
「そりゃ、したよ。めちゃくちゃ後悔した。人生終わったと思ったね。懺悔して許してもらえるなら、その相手の子に土下座でも、何でもするつもりだった。けど、運が良かったのか、その子が聖人だったおかげか、バレなかった。誰にも告げ口されなかったし、ずっと内緒にしてくれてた。それで、一度味をしめたら、もうダメ。悪循環の始まり」
「沢山、手を出したんですね?」
「人聞き悪いなぁ」先生が笑う。
「けど、うん、そう。手を出した。ゆりちゃんにしたみたいに、自分から口説いたこともあれば、向こうから好いてくれることもあった。その度に関係を持った。一緒に買い物行ったり、ドライブに連れて行ったこともあるし、私の家にこっそり招いたこともある。今みたいに、保健室でイチゃついたりもしてね」
「先生、やっぱりモテるんですね。ていうか、同性が好きな女子って結構いるんだなぁ。私、自分だけかと思って、これでもかなり、悩んでたんですよ?」
私は笑いながら言う。調子づかせて、勢いに乗せて、先を促す。
「そうは言っても、ちゃんとした恋愛関係になれたのは、全部で三人だけだったよ。実態も知らずに、漠然とした憧れだけで、自分は女の子が好きかもしれない、って思い込んでた子が大半で、男女の恋愛みたいに、本気で依存したり、どうしようもなく相手のことが欲しくなるほどの強い感情が確立してる子は、ほとんどいなかった。若気の至り、思春期特有の勘違い、不安定さから生じた、単純な人恋しさ。中身は総じて、そんなもんだった」
「それは、保健室の先生としての見解ですか?」私は首を傾げて尋ねる。
「半分は、そう。もう半分は、私の主観」先生は口角を上げる。
「けど、この感覚も、この理屈も、ゆりちゃんなら分かってくれるでしょ?」
「うん、分かる」
私は頷き、先生の首に腕を回す。
もうひと押し。
引きずり出すんだ、コイツの口から。
誰もが認める確証を。
致命傷を与えるために。
「皆の言う好きは、本気の好きじゃない。男子と女子の恋愛でも嘘はあるのに、女同士の恋愛に、女同士の好きに、嘘や勘違いが入り込まないはずがない。皆、自分のことも分かってないんだ。自分のこと以外、好きじゃないんだ」
「あぁ、こら、また病んできてるじゃん」
先生が私の頭を優しく撫でる。
その優しさが癇に障る。病んでる原因は、お前だ。
「そう思うなら、先生が治してよ」
「どうしたら治るの?」
「先生は、私のこと好き? 嫌い?」
「嫌いなわけないじゃん。ゆりちゃんのこと好きだよ」
「普通の好きなの?」
「大好きだよ」
「嬉しい」
「ゆりちゃんは、私のこと好き?」
「好き。好きになっちゃった」
「こんな女でも? こんな話聞いた後でも?」
「好きだよ。気持ちは変わらない。これくらいのこと、私には効かない」
「ゆりちゃん、すごいね」先生が笑う。
「私は強い女だから」
少しだけ顎を上げて、私も笑う。
「うん、強い子だ。賢いし、そこが魅力的」
先生が、私の前髪を指で梳く。
斜めにカットしている、私の前髪。その長めの方を。
一回、二回、三回。
これ以上は引き伸ばせないと察する。
「先生、私ね、強引なのが好き……」
私は先生の手を、自分の首へと誘導する。
猶予は、もうない。
心は当然として、身体を許すつもりもない。
畳み掛ける。
お待たせ。
背負うべき咎をようやく、その腑抜けた顔の中央へ叩きつけてあげる。
「無理矢理な感じで、して欲しい。痛くしてもいいから、襲ってるみたいに……」
「ねえ、それ、最高。今の、もう一回言ってみて?」
「無理矢理にしてください。先生に襲って欲しい」
「良いねぇ、ゆりちゃん。おねだり上手な子は先生、大好きだよ。すっごい可愛い」
竜胆先生が嬉しそうに笑う。
上手だって、可愛いって、褒められた。
けど、全然嬉しくない。
同じ言葉なのに、さきとゆきに言われた時とは、全く違う感情が沸き上がる。
不快感。
それだけ。
ただ、ちょっと安心した。
私の心は、コイツには絶対靡かないと分かったから。
それだけは喜ばしい。
「本当に、苦しくなったら、私の身体叩いてね」
先生は、そう言ってから、私が誘導した方の手で、私の首を絞める。
すぐに息苦しくなった。
これも、ゆきとさきにしてもらう時とは全然違った。
ただ、苦しいだけ。
ただ、辛いだけ。
ちっとも楽しくない。気持ち良くなんてない。
この時間が早く終わることだけを望んでいる自分を自覚する。
なんて愚かな真似を、という憐れみを自分自身に抱いて、惨めになった。
「すごく良い顔してるよ、ゆりちゃん。もう大好き。最高。逸材だね」
先生は喜々として嗜好を駄々洩らしながら、私のブレザーのボタンを外し、脱がし始める。
お前の評価基準なんて、どうでもいい。興味ない。聞きたくもない。
御眼鏡に適ったところで何一つ嬉しくない。そもそも、お前に私を選ぶ権利などない。
その軽そうな頭を叩き割って、髪の毛毟ってやろうか? もいだ鼻も添えてやるよ。
私の内部人格達が口々に毒を吐く。中心人格である私が少し引くほどに口が悪い。
感情と表情の制御は別回路に分けてあるので、これらが表層に現れることはない。
それにしても、人を犬呼ばわりしてきた割に、愚かなまでのこの騙され具合は、どうだろう?
まるで駄犬のようだ、と連想する。
私の嗜好や思考は読み取りやすい、ともほざいていたけれど、所詮は、この程度。
この屑が私の内心を見抜けたのは、私が珍しく感情的になっていたからであり、倒れるほど弱っていたからであり、また、さきとゆきの関係も、不仲を疑うに至った理由も、漏れ聞こえた情報の端々から推察できる範疇にあった。それらを繋ぎ合わせる作業程度なら、まともな頭を持っている大人、もとい人間であれば、誰にでも可能だった。
つまり、こいつが特別優れているわけではない。当然、ゆきとさきには及ぶべくもない。可哀想なことに、私以下でもある。
いとも簡単に騙され、下衆顔を晒しながら制服を剥ぐこの様を見れば、それは明らか。
狂気を観たがること自体は、さして異常ではない。
それが、未成年達を食い散らし、自らの欲望を満たすことであったとしても。
正気を保ち続けることに飽きるのは、高度な思考能力を有し、理性と本能を衝突させることができる人間のみに顕現する特異性である。
理解していなければならないのだ。
狂気に堕ちること、その危うさを。
人間は社会性を重んじる生き物で。
故に、狂気を孕んだ者の危険性も承知している。
だから、観たい、と願い、しかし、観る、に留めている。
自らの手を汚すことなく、ただの娯楽として傍観することを選ぶ。
常ならぬものを、己の外側に探すのである。
それが狂気との付き合い方。
後に規範も明確に形成され、私達の中に浸透することとなる。その名は、倫理。
倫理を蔑ろにする者は、つまはじきにされる。迫害される。最悪、処刑される。
群れの中で倫理を犯すことは、相応のリスクが伴うと留意しておくべきなのだ。
それでも、己の内に宿した狂気が心身を焼き、外へと解放してしまう者はいる。
例えば、私。
例えば、目の前の女。
支えを手にした私は事実を受け入れる。
私とコイツは、部分的に似通っている。
出会い方が違ったなら、立場が違ったなら、良き理解者と相成り得たかもしれない。
これも、選択がもたらした結果だ。
言葉を交わし、交流を深め、内面を曝け出し、相互理解を深める、そういった可能性をコイツは投げ捨てて、欲望のままに私を襲った。
だから、これほどまでに嫌われ、憎まれ、隠した殺意の牙を向けられているのだ。
「ゆりちゃん、好き、だぁい好き。綺麗だよ、可愛いよ……」
先生は私の耳元で、気色の悪い甘声を垂れ流しながら、私のシャツのボタンを外し始める。
きっと、竜胆先生は欲張りなんだ。
必要かどうかではなく、ただ欲しがっている。
そのせいで、こんな人格に成り下がってしまったのだろう。
とっかえひっかえが当たり前で、だから、本当に大切な人に、自分を救済してくれる人に、出会えなかった。
大切にしてくれない相手と過ごしたがる人間なんて、いないんだよ、先生。
「……あれ? ゆりちゃん、スマホ光ってるよ」
一瞬の油断だった。
脱がされた私のブレザーは、ベッドの枕元に置かれていた。
その胸ポケットから、忍ばせていたスマートフォンが飛び出てしまっていた。
アプリを起動したままだったので、カーテンで仕切られた、少しだけ薄暗い、この空間では目立ってしまった。
言葉を発しようとした私の喉は、先生の手で絞められたままで。
スマートフォンを取ろうとした私の手は、先生の身体の下だった。
先生が私のスマートフォンを手に取り、画面を見る。
その表情が厳しいものに変わった。
私は、どうにか先生の拘束から抜け出して、スマートフォンをひったくる。
すかさず、アプリの録音を確定し、保存した。
良かった。少なくとも、証拠は押さえた。さきとゆきを裏切るような真似をしたのに成果無し、という最悪の事態は回避できた。
「……言質取ったつもり?」
低い声が降ってくる。
目を上げると、先程までの喜色満面とは、うって変わった形相。
怒り、羞恥、失望、それらが入り混じった様相の鬼が一匹。
「嘘だったんだね? 私に乗り換えてくれたのも、好きっていうのも、全部嘘。私に嘘ついたんだ」
「ええ、そうです」
私は素直に頷いた。ここから引き伸ばすのは不可能だし、もうその必要もない。
「ゆりちゃん、こういうことするんだね。先生、がっかりしたよ」
言いながら、先生は前髪をかき上げ、溜息をついた。
「都合良くお忘れみたいですけど、最初に同意も無しで襲ってきたのは先生の方です。私には交際相手がいるのに、それも無視して襲ったのは先生の方です。最低なのは、私と先生、どちらでしょうね?」
「だから仕返しに、やり取りを録音してやろうと思ったわけ?」
「ええ」
「それ使って、私を脅すの?」
「必要があれば、そうします」
「私を誘ったアンタの声も入ってんだから、私を脅す証拠には使えないでしょ。他人に聞かせても合意扱いになるよ」
「編集すれば、先生の声だけにできます」
「浅知恵だね。編集したものは証拠として成立しないよ。どこに提出しても、誰に訴えても、同じことを言われるから」
先生は鼻から息を漏らして、小さく顎を上げる。
「それは何に対して、誰に対しての証拠ですか?」
「はぁ? そりゃ、他の教員とか、警察相手にでしょ? セクハラされた、ってさ」
「警察以外だと、どうでしょうね?」私は、さらりと聞く。
「なにそれ、親にでも告げ口した時の話? それこそ、その程度じゃあ……」
「私の親に聞かせたなら、それはそれで、なかなかに効果を発揮するでしょうけど、もっと不特定多数の方達に聞いてもらった場合を想像できますか? 例えば、あえてクラスメイトにふれ回れば、事実かどうか、信憑性などを問わず、噂は簡単に学校全体へ広がります。ネットの場合を想像できますか? ネット社会は恐ろしいですよ。一度出回った個人情報や音声、画像、動画を完全に消し去るのは不可能に近い。情報の波及速度も、正義を盾に動く勢力の圧も、その過激さも、噂話とは比較になりません。昨今は特に顕著で酷い。そんな状況に陥ったとして、その余裕を保てますか? まだお若い先生の今後の人生を賭けて立ち向かえますか?」
「……アンタに都合良く加工したものを、あちこちにばら撒く気? そうすれば、アンタに都合の良い展開になるって? 破滅するのは私だけだって?」
「先生次第です」
すぐに切り返す。会話の主導権は渡さない。
「先生が謝罪してくださって、金輪際、私とゆきとさきに触れない、関わらないと約束してくださるなら、これをどこかへ晒したりはしません。ネットにも上げません。先生からされたことを誰かに言ったりもしません。秘匿します。どうなさいますか?」
「………ゆりちゃん。アンタは、やっぱり甘いよ。大人を舐めてる」
言うやいなや、先生は私に飛びかかってきた。
私はカーテンを跳ね除けて、ベッドから転がり落ちる。
そのまま保健室の扉へ向かって駆け出そうとした矢先、スマートフォンを握った方の手首を掴まれた。先生と私の手足の長さ、その差が誤算だった。
私はスマートフォンを持った方の手を、掴んだ先生の手ごと、胸に抱え込むようにして、その場で丸くなる。保健室の床に伏せ、全体重をかけて取り上げられないよう抵抗する。
「ゆりちゃん、良い子だから、それ渡しなって。ほら、渡せよ!」
先生が、私の脇腹を蹴った。
衝撃で息が止まり、痛みもすぐに追従してくる。
間髪入れず、二度、三度と脇腹を蹴られ、次いで、髪を鷲掴みにされ、床に頭を押しつけられた。
私は涙を流しながら、痛い、痛い、やめて、と溢す。
脇腹を蹴られるたび、肺の中の酸素を無理矢理吐き出さされて苦しい。掴まれている頭から、ぷちぷちと髪が千切れる音がする。脇腹の痛みも相まって、頭を上下に振られると眩暈がした。
それでも抵抗の言葉は、叫ばない程度に抑え、しかしはっきりと発音するよう心掛けた。
多分、そろそろだから。
「ゆりちゃん! ほら、それ寄越せって!」
先生が押し殺した声で吠えた、その瞬間だった。
ガチャリ。
鍵の閉まる音がした。
ゆっくり顔を上げると、保健室のスライド式の扉の前と、室内の奥、健診用のつい立てが並べて置かれたスペースに、それぞれスマートフォンを構えたゆきとさきが立っていた。
「……アンタら、いつ入って来た? それ、何のつもり?」
先生は交互にふたりへ視線を送り、動揺した声そのままで問いかける。
「それは、こちらの台詞です。竜胆先生」
私達の側へ歩み寄りながら、冷たい声で、ゆきが言う。
「一体、何をなさっているのですか?」
同じく冷たい声と共に歩み寄りながら、さきが続く。
「それは医療行為ですか? それとも、生徒への指導ですか?」
「どう見ても、そんな様子ではありませんね」
「今、授業中でしょ? アンタら二人、なんでこんなとこにいんのよ」
「質問の答えになっていません、竜胆先生」
ゆきが首を横に振って告げる。
「どうして、女子生徒を蹴ったり、髪を掴んだり、床に頭を押しつけたりしているんですか?」
「それ、撮ってんの?」
「ええ、撮っています」さきが頷く。
「撮るの止めな、今すぐに」
「先生、質問に答えてください」
「撮るなって言ってんだよ!」
竜胆先生が声を荒げた。
けど、乱暴な口調の割に、どうにも声量が小さくて迫力に欠ける。迫力の無い怒声に強制力が働くはずもなく、さきとゆきは構えたスマートフォンをそのままで問い続ける。
「悪いことをしている自覚が、お有りなんですね」
「だから、大声を出せない」
「この場面を他の先生方には見られたくない」
「そうですね? 竜胆先生」
「アンタら、二人共……いい加減にしなよ」
ふたりが同時に、構えていたスマートフォンを下げる。録画完了の音がした。
「いい加減にするのは貴女の方よ」
「私達のゆりに、なんてことをしてくれたの?」
「ゆりを離しなさい」
「今すぐに」
ふたりが言うと、先生は意外にも、あっさりと私から手を離した。
「あら、聞き分けがよろしいですね」
「もう少し抵抗されるかと思いました」
「……手詰まりだからね、もう」
先生は立ち上がって移動し、崩れるように椅子へ座り、溜息をついた。
「私の喋ったことが録音されたスマートフォンが一つ、私がやったことを録画したスマートフォンが二つ、私が手を出した生徒が一人、私がやったことを見た生徒が二人。こんなの、どうしたって口止めできないでしょ。抵抗するだけ無駄、大失敗だよ」
先生は語りながら私を見て、ゆきを見て、さきを見る。
「……アンタら、ホントに付き合ってたんだね」
「ええ、付き合っています」さきが肯定してくれる。
「だから、助けに入ったんです」ゆきが続いた。
「だから、怒っているんです」
「彼女に手を出されたから?」
私を指差して、先生が問う。
「そうです」
「当たり前でしょう?」
「彼女を餌にして、彼女に演技させて、私を陥れて、脅す材料の動画を撮ることが、当たり前なわけ?」
先生は指していた手をひらひらと振り、嘲るような調子で続ける。
「そんなのを当たり前とは言わないでしょ。異常だよ。やってることサイテーだし、それに同意したアンタも異常」
先生が私を見て吐き捨てるように言った。
「勘違いしないでください。提案したのは私です」
先生を睨みつけて、私は噛みつく。
「同じことでしょ。アンタの案だろうが、賛成して協力した時点で、仲良く異常だよ」
「ゆきとさきのことを、そんなふうに言うな!」
私は怒声を返す。けど、先生は鼻で笑った。
「だからさぁ、ゆりちゃんは強い言葉を使っても迫力が無いんだよ。全然、怖くない」
「私達なら怖いですか?」
ゆきが先生のすぐ横へ滑るように移動して、その頭を掴んだ。
さきも、いつの間にか先生の横に移動していて、机上のペン立てからカッターナイフを手に取り、音を立てながら刃を出す。
「竜胆先生、先程お伝えしたことを、もうお忘れですか?」
「私達は怒っています」
「大変、怒っています」
「貴女のもげかけのその鼻を、この手で引き千切りたいくらいには怒っています」
「貴女の首をかき切って差し上げたいくらいには怒っています」
「それだけの覚悟が、私達にはあります」
「それだけの憎悪が、私達にはあります」
「偽善並べて聖人気取り? 性格終わってんね。彼女の代わりに怒ってあげる素敵な女を演じたいだけでしょ? 格好つけてんなよ」
「あら、どういたしまして」
先生の嫌味に対して、ふたりは同時にそう応じ、笑みを浮かべる。
やっぱり、さきとゆきは強い。
追い詰められた悪者の最後の手段は、罵り合い、殴り合い、背後から刺し合う、そんな不安定で荒れた環境へ、狙った対象を引きずり込むことだ。
もし、それが叶えば、自分が置かれている絶対的に不利な状況を、たった一手で引っくり返すことができる。その可能性が生まれる。そうした外道さ、なりふりの構わなさが、悪が悪たる所以であり、悪の強み。
ふたりは、それを理解していた。
だから、先生の発する挑発には乗らないし、私と同じか、それ以上に、先生を観察して、言動に注意をして、自己の感情も制御している。
己が内の獣を飼い馴らさなければ、いずれ喰い破られて身は腐り、哀しい終焉が訪れる。
それを、ゆきとさきは、実の両親との確執から学習し、栞奈との関係で経験して、私との爛れた恋愛で刻み込んだ。
ふたりは既に完成している。人として、女として、個として、身を置くその場所は、もう平地では相応しくない。
そんなふたりを相手に、人間社会が定めたルールすらも守れない、安い欲に飲まれた者が敵うはずもない。規範を守れないなら、規範には守られない。倫理と同じ理屈。
貴女に味方はいない。
孤立している。
ねえ、竜胆先生?
これが報いだよ。
罰を与えるのは私達だけど、罰を引き寄せたのは他でもない、先生自身なの。
もっともらしい理屈を付けて、私の人格達は自己を正当化し、罪をなだらかにして、さきとゆきに庇護を招く。
そして、先生のことも。
先生が見せた嘲笑い顔で迎えてあげる。
ほら、これが私の仇返し。
受け取ってくれるよね?
「……楽しそうだね。ゆりちゃん」
私の狂喜を察した先生が溢す。
「そう見えますか?」
「顔、笑ってんじゃん」
「気づきませんでした。気に障りましたか?」
「……ゆりちゃんって、顔可愛いし、頭切れるし、怒っても怖くないし、何でもひとりで出来ちゃいそうで、でも寂しがりで、実際は、ひとりじゃ何もできなさそうな、そんな脆さが魅力的だったけど……」
先生は、そこで一度言葉を切り、私を、じっと見据える。
考えているんでしょう?
当てはめられるであろう表現に、すぐに思い当たる。自覚があるから、想像するのは簡単。
「やっぱり、私の手には負えないね。私、アンタが怖いよ。うん、そうだ、怖い。だって、壊れてるもん。狂ってる。壊れ方が単純に怖いし、ひと目じゃそれが分からないよう猫被ってるところが、上手くカムフラージュできちゃってるところが、すっごく怖い」
ほら、当たった。
正解できて嬉しい。
壊れてる?
狂ってる?
それは、そう。
元からそうだし、それに拍車をかけたのは先生なのに、今更、怖いとか、手に負えないとか、よくもまあ好き勝手に言えるものだ。
ともあれ、教師の吐いて良い言葉ではないので、しっかりと軽蔑しておく。
「ねぇ、竜胆先生」ゆきが呼ぶ。
「狂気とは、何をもってして、狂気とするのでしょうね?」さきが問う。
突然の問いかけに、先生は、ふたりを交互に見て、次に、私へ視線を向ける。
私も、これは想定外のことだったので、少しだけ首を傾げてみせた。
「人間は、いつだって、非道で未熟な行いを繰り返してきました」
「それは、ゆりも、先生も、それに、私達ふたりだって同じです」
「そんな者達が定める枠組みなんて、精神的な防壁その程度のことで、それ以上の機能は持たないはず」
「枠を踏み越えた者をあげつらって、贄として捧げて、自分こそが、自分だけが、正気だと主張するための理由として利用しているに過ぎません」
「違うでしょうか?」
「つまり、明確な狂気の基準なんて存在しないんです。何を根拠に据えても、その主張をしている人の主観が基準となってしまうからです。人は自らのその目でしか、その頭でしか、狂気を定義することができないんです」
「お分かりになりますか?」
「狂気の主張や、それを定義することは、その人のエゴだ、ということです」
「高尚な理由をいくつ並べようとも、それは自分の要求を押し通して、私欲を満たす為の建前と同義」
「先生が、ゆりや私達の振る舞いを狂気だと定めたがるのは、先生自身の価値観が独り善がりな証拠で、自己のプライドが傷つき、築いた立場が瓦解しそうになっていて、それが気に入らないからなのだと推察できます」
「これほどまでに追い込まれて尚、先生は反省や和解ではなく、愚かにも、保身のみを意識しているということです」
「どうか、お間違えなきよう」
「最善の選択をなさいますよう、助言致します」
ふたりは、そう締め括った。
私は驚き、鳥肌を立てていた。
ふたりが、こんな口上を用いたこと、その説得力も然り、何より、着目した要点と言葉選びが、私とそっくりだったことに衝撃を受けていた。
彼女とは、これほどまでに似るものなのか。
ゆきとさきの学習能力や応用力が度を越しているのか、私の見ていないところで、並々ならぬ努力を積んだ、その成果なのかは判然としない。
確かなのは、この問いかけと考察が的を射ていること、そして、先生への最上級の嫌味であること。
私の立場と評価を下げ、また自分から遠ざける為に、先生は狂気という言葉を用いた。
しかし、私を傷つけようとしたその言葉を、己の醜さ、愚かさ、弱さに結び付けられて、押し返された。しかも女子学生に、まだ十六にもなっていない子供に、である。
これ以上の屈辱はないだろう。私ごときを怖がっている場合ではなかったのだ。
真の強者は、さきとゆき。
芯の強さが、貴女をとうに超えてるよ、竜胆先生。
「……よくもまぁ、そんなにすらすらと、難しい表現が出てくるね。若いっていいなぁ」
先生は椅子に座ったまま、視線を宙に向けて言葉を続ける。
「アンタら二人、綺麗な顔して、頭も切れるとか、最高だね。同じ女として羨ましいよ。自己犠牲が大好きで、献身が行き過ぎてる彼女までいてさ」
「ありがとうございます。お褒め頂いた部分だけ受け取っておきます」
さきが口角を上げ、わざとらしく頭を下げながら切り返す。
「私達の説明を理解できましたことも、褒めて差し上げます。見た目より賢いですね」
ゆきも口角を上げ、上品な物言いで付け加えた。
「褒めてあげたのに、それ? 頭は良くても、性格は終わってんね。ゆりちゃんもさぁ、嫌にならないの?」
勝てないと判断してか、先生は、あてこする対象を私に変えた。
「こんなの二人と付き合ってたらさぁ、そりゃ泣かされるよ。上手くいくわけないじゃん」
「私は泣かされるのが嫌だとか、ふたりと付き合うことが辛いとか、そんなこと一言も溢していませんよ? ふたりの為に尽くしたいし、もし泣かされたとしても構いません。ふたりとの恋愛でなら悩みたいし、苦しみたい。人を好きになるって、そういうものではありませんか?」
「そうだった……アンタも頭おかしいんだった」
先生は片手で自分の両目を覆う。きっと、現実を見つめたくないのだろう。
「頭がおかしいのは、お互い様でしょう? ねぇ、先生?」
私は軽い口調で言葉を返す。事実、楽しくなってきていた。やはり、壊れているのだ。
「いいや、アンタの方がおかしいね。断言できる。アンタは頭のネジが外れてるし、いつ関係が切れるかも知れない相手に、しかも双子との複数交際なんかに入れ込んでる。そんなの、考え無しの馬鹿がやることだよ。この二人も偉そうな講釈垂れてたけど、結局は幼稚なママゴト恋愛が関の山……」
そこまでまくし立てた瞬間、ゆきとさきが先生の頬を左右から交互に平手打ちした。
乾いた音が連続で響く。
おそらく反撃しようとした先生の両腕を、ふたりは素早く連携して抑え込む。
ゆきが先生の後ろ髪を鷲掴みにして上を向かせ、無防備となった首筋に、さきがカッターナイフの刃を押し当てた。
「私達の彼女を侮辱するな」
さきが低い声で威圧する。
「考え無しの馬鹿? 幼稚なママゴト恋愛? どの口が、それを言うのかしら?」
ゆきが掴んだ先生の頭を揺すりながら続く。
「……アンタら、躾けられてんね。番犬か何か? 都合良く使われて、マジで哀れ。あとこれ、傷害罪だからね? 分かってる?」
先生は引きつった顔で、しかし気丈にも言葉を返す。
「貴女が、ゆりにしたことも傷害罪よ? お忘れ?」
「あぁ……このまま、喉をかき切ってしまいたいわ」
「この世で一番大切な私達の彼女を傷つけられたんですもの」
「先生は八つ裂きになって、ようやく赦されるかどうかなんですよ?」
「でも、ゆりに殺しちゃダメってお願いされたから、私達、我慢してあげているの」
「本当なら、両目を潰して、舌を引き抜いて、首を掻き切るつもりだったのに」
「だから、むしろ先生は、ゆりに感謝しなくてはいけないの。罵るなんて論外」
「さぁ、私達の言葉が理解できたなら、いい加減、ゆりに謝りなさい」
「土下座しましょう? 竜胆先生」
「……私がアンタらの言うことを、素直に聞くと思ってんの?」
先生は憎しみを込めた目でふたりを睨み、怒気を込めた声で抵抗の意を示す。
けれど、もう。
問い返した時点で、そう。
折れている、と察する。
貴女を支える動機は既に無い。
先生、そうでしょう?
「ええ、思います」
ゆきが、すぐに頷く。
「セクハラの証拠である音声も、生徒を暴行する動画も、私達の手元にある。被害者の生徒は私達の彼女。目撃者兼証人の生徒は二人。これで尚、強気でいられる先生の神経が分かりません」
さきが肩をすくめながら続く。カッターナイフの刃が首と擦れたらしく、先生の身体が、びくり、と跳ねた。
「先程、ご自分でも、手詰まりだ、とおっしゃったこと、お忘れですか?」
「チキン並みの記憶力ですね、お可哀想に。あ、鳥頭でしたっけ? ふふ、御免なさい」
「……他の先生達にバラすなり、ネットにばら撒くなり、好きにすればいいよ。私は最初から、破滅しても構わない覚悟で手を出してた。アンタらの言う通り、私も狂ってんだよ。じゃなきゃ、職場で未成年の生徒に手出したりしない」
「いいえ、それは違います」
ゆきが首を横に振って否定する。
「貴女は、きちんと計算した上で犯行に及んでいた。ゆりから聞きましたよ」
さきが静かな声で続く。
「いきなり手を出すのではなく、声をかけて、会話をして、優しさを見せて、距離を詰めて、アピールを重ねて、そうしてようやく、好意をちらつかせながら押して落とす。丁寧で、計画的で、用意周到な手口です」
「こんな目的の為でなければ、立派なコミュニケーションの取り方だとすらいえます」
「リスキーな戯びが御好きなのは本当でしょう。学生が御好みだというのもそう」
「ですが、見つかっても構わない、破滅を覚悟の上で事に及んでいる、という部分は、私達を油断させることを目的とした嘘です」
「自己の破滅にまでは振り切れていない」
「貴女は保身を捨て切れていない」
「……根拠あんの?」
眉根を寄せて、先生が聞く。
「私達が破滅型だからです」
ゆきが自分とさきの顔を交互に指差して言う。
「同類は嗅ぎ分けられます。貴女は偽物」
さきが空いている方の手で先生を指差し、続く。
「本当の破滅型は、私達みたいな、後先を考えない人間のことです」
「もしくは、ゆりみたいな子のことです」
「先生も、おっしゃっていたでしょう?」
「ゆりは頭が良い。いつも色々、考えています。本当に色々考えていて、そのせいで、先が見通せてしまっている」
「だから脆くて、弱くて、独りでは生きていけない、そんな危うさを引き寄せてしまう。知恵を持つ者は、大衆が気づかないような闇を見出して、それに触れて、壊れてしまう」
「壊れてしまった、その不安定さから、生きることを恐れて、もしくは、生きることに飽いて、全ての望みを手放してしまうかもしれない。自死の美しさに惚れ込んでしまうかもしれない。それが悲しいことだとは露ほども思わずに」
「最愛の者が隣にいても、長く生きることより、最期を伴に迎えられる方を願うかもしれない」
「つまり、心中を企てる」
「死を共にする覚悟を、それを実行に移せるだけの強さを、この子は持っている」
「そういう選択ができる人間のことを破滅型というのです」
「貴女に、その覚悟がありますか?」
「貴女は、ゆりに、一緒に死んで欲しい、と頼まれたとして、喜んで叶えてあげられますか?」
ふたりが同時に私を見る。
そうだよ。
私は頷く。
当たってるよ。
やっぱり、さきとゆきは、私のことを真に理解してくれている。
「……答えになってないじゃん。私が聞いてんのは根拠だよ。死にたがりの妄想語られても困るんだけど」
先生が吐き捨てるように言う。
「他には、私達ふたりに見つかった時の、先生の表情ですね」
怯むことなく、滑らかな口調で、さきが答える。
「諦めでも、狂気でもない。見て取れたのは焦りだけ」
「見つかっても構わない、仕事や人生を捨ててでも嗜好を優先する、私欲を満たすことが何よりも重要で、それ以外は、どうでもいい。そんな狂気的な思考に支配されているのなら、どうして見つかった程度のことで、焦りの感情が前面に出てくるのでしょう?」
「それはつまり、見つかるはずがない、今回も上手くやれるはずだ、という確信があったからに他なりません」
「にも関わらず、見つかってしまった。あの焦りの表情は、自信の裏返し、ということです」
「どうですか? 竜胆先生」
「違いますか? 竜胆先生」
沈黙。
先生の目だけが動く。
さきを睨んで、ゆきを睨む。
沈黙。
おそらく、思考。
考えている。
でも、もう分かっているはず。
選択肢は無い。
そうでしょう?
先生は溜息をついた。
次いで、小さく両手を上げる。
「……分かった、降参。私の負けでいい」
それを聞いたゆきは髪を掴んでいた手を離し、さきはカッターナイフの刃先を先生の首筋から離した。
先生は椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りで、私の前まで移動して来て膝をつき、土下座の恰好になる。頭の位置は、床からやや高い。
「鼻が痛いから、これで勘弁して欲しい。ゆりちゃん、襲って悪かった。色々言ったし、蹴ったり、髪引っ張ったり、暴力を振るったことも、ごめん。ごめんなさい。教師として、人間として、最低の行為だった。ごめんなさい」
「謝罪の言葉が御若いですね、先生」
私は笑いながら応じる。
「でも、形式ばかりかしこまって、感情も誠意もこもっていないよりは、何倍も良いと思います。私は、先生のしたことを赦します」
私の言葉に、先生が顔を上げる。鼻の腫れのせいか、自尊心を傷つけられたせいか、その顔は真っ赤だった。この人に恥じらいの感情があったことに私は驚いた。
「じゃあ、これで……」
先生が立ち上がりながら口を開いた、その瞬間。
「では、先生。これは私達からです」
言葉と共に、先生の目の前に移動したさきが、刃が飛び出たままのカッターナイフを素早く振った。
軌道は、先生の目前。
あとほんの数ミリで、眼球に接触するほどの近距離だった。
先生の長かった前髪が、ぱらぱらと床に落ちる。
「……殺す気?」
震えた声で、先生が抗議する。
「目を削いだくらいでは死にませんよ」
さきは軽い口調で返した。
「先生、ゆりのことを名前で呼ぶの、やめてくださいね。立花さん、と呼んでください。それ以外は許さないわ」
ゆきが私の隣に移動しながら釘を刺す。
「先生、鼻、痛そうですね。拳で殴りつけたら、さぞ良い反応が見られそうで、私、疼いてしまいます」
さきがカッターナイフの刃を納め、デスクに置きながら言う。
「その鼻が治るのを、私の手が邪魔してしまわないよう、ゆりの呼び方、ゆりへの接し方には、十分注意なさってくださいね」
「ゆりへの償いは、今後の行動でも示してください」
「貴女が約束を守るなら、私達も沈黙を守ります」
「お分かりになりましたか?」
「お返事は?」
矢継ぎ早に問われた先生は、数度頷いてから、私へ顔を向けて口を開く。
「アンタが……立花さんが、この二人に夢中になる理由、ちょっと分かった気がする。こんな顔の良い双子に高圧的な物言いされて、有無を言わさず従わされるの、意外と悪くないや。才能だね、これは」
「先生、もう何もおっしゃらない方が賢明です。知能の低さと、性欲でしか物事を考えられない、恥ずべき痴態が露呈していますよ」
私がそう応じると、先生は急に真顔になった。
「……ねぇ、立花さん。予言しといてあげる。この双子は、いつか絶対、あなたを捨てるよ」
その真顔のまま、何故か落ち着いた声で先生は言った。
呆れた。
この期に及んで、こんな安っぽい挑発を、くだらない負け惜しみを溢すなんて。
でも、言われっぱなしは癪に障るし、私が黙っていると、ふたりが傷ついてしまうかもしれない。
だからもう少しだけ、相手をしてあげる。
「それは、絶対にないです」
「へぇ、言い切るじゃん。根拠は?」
「とっておきのがあります。けど、先生には教えてあげません」
私は一度、言葉を切って、とびきりの笑顔を先生に向ける。
先生が目を見開いた。
「説明しても、きっと理解できない。だから、教えてあげない。私だけの宝物。ほかの、だぁれにも、おしえてあげない」
私は両手を自分の胸に置く。
ここに在る。
ふたりがくれた、大切なもの。
先生には絶対に見えない。見せてあげない。
悔しい? 気になる? ふふ、可笑しい。
「……あなた、誰よ」
引き攣った表情で先生が聞いてくる。
「立花ゆりです。はじめまして」
私はフルネームを名乗った。皮肉を込めて。
「……アンタら三人、揃いも揃って……イカれてんね」
先生は心底不快そうに吐き捨てた。
それを聞いた私達は、さんにんで交互に顔を見合わせてから、先生に向けて、しっかりと頷いてみせた。
昼休みになった。
さんにんで教室内の私の机に集まって、お昼ご飯にする。
さきは隣のクラスの生徒だけど、昼食時に生徒が教室間を移動するのはよくあることなので、誰からも咎められたりはしない。私達は入学してからすぐに、仲良しグループの一つとして存在していた。
私は身体があちこち痛かったのと、お腹も不調のままだったので、何も食べずに、購買横の自販機で買った缶コーヒーを飲む。ゆきとさきも、ご飯ではなく、スナック菓子を食べていた。
「正直、ここまで上手くいくとは思ってなかった。途中、スマートフォンがブレザーから飛び出て、録音中なの見つかった時は冷や汗かいたしさ」
あの光景を思い返しながら、私はコーヒーの缶を傾ける。
「確かに焦るね、それ」
ゆきが応えてくれる。
「肝が冷える、ともいうんだっけ?」
スナック菓子を指でつまんだまま、さきが聞く。
「そう、焦ったし、肝冷えたよ。下手したら、先生の喜ぶ言葉をあげて、自分の身体触らせただけで、成果無しになるところだったから」
私はコーヒーの缶を机に置きながら答える。少しだけ身震いがした。まだ身体中に感触が残っている。
「よく取り上げられなかったね」
「一度、取り上げられたけど、すぐに取り返して、ベッドから転がって逃げた。でも、先生の方が手足が長くて、その差のせいで捕まっちゃった」
「その場面から見てたよ。ゆりに膝蹴りし始めた時は、止めに入らないよう自制するの大変だった」
「パイプ椅子で頭かち割ってやろうかと思ったよ」
「そう、あの時、ふたり共、どこにいたの? ていうか、いつ入って来てたの?」
「あれ? 気づかなかった?」
「うん、全然」
「ゆりがベッドのカーテン引いた辺りからだよ」
「えっ? そんなに早くから?」
「私達、忍び足得意なの」
「こんなふうに役に立つ日がくるとは思ってなかったけどね」
「じゃあ、その……色々、聞いてた?」
「うん、聞いてた」
「私はともかく、さきは、ベッド横に並べてあった、診察用のつい立ての裏にいたから、よく聞こえてたでしょう?」
「バッチリ、聞こえてたよ」
「え、うそ」
口元を片手で覆って動揺する私の耳元に、さきが顔を寄せる。
「ゆりは、強引にして欲しいんだよね? 痛くしてもいいから」
「ちょっと、やだ、もう、恥ずかしい……」
私は、さきの胸元に顔を埋める。
録音した音声を聞きたいと言われたら、私のいないところで聞いてね、と承諾し、スマートフォンを渡すつもりでいたのだけど、まさか直に聞かれているとは思わなかった。
事前の打ち合わせでは、さきとゆきは、タイミングを見て忍び込むか、無理そうなら突入してもらう計画だった。ただ、忍び込んだ場合の隠れ場所までは取り決めていなかった。
だからこれは、とても恥ずかしい誤算。顔から火が出そう。
羞恥に悶えていると、私を胸に抱いたさきが、何やら私を嗅いでいることに気づく。
「さき?」
「……ゆりから、あの女の匂いがする……」
「えっ? 嘘でしょう?」
さきの呟きを聞いたゆきが机越しに身を乗り出して、私の首筋や頭に鼻をつける。
「ちょっと、ふたり共、ここ、教室だから……」
「やだ、本当……あの女の匂いがする」
「これは、いけないわ」
「ゆり、今日は帰りまで、私のブレザーを着ていなさい。このままはダメよ」
「あぁ、この香水の匂い、嫌いになりそう」
なんで、御嬢様言葉なんだろう? 精神的に、先程の記憶と事実から距離を取りたいのかもしれない。そうなら、気持ちは分からないでもない。
脊髄反射的にお嬢様言葉が出てしまうふたりが、とても可愛い、と感じた。
「ねぇ、ゆり。分かっているとは思うけど、もう二度と、他の女と、あんな真似しないでね」
ブレザーを脱ぎながら、ゆきが言う。
「ゆりから触れることも、触れられることも禁止。いい?」
私からブレザーをはぎ取りながら、さきが続く。
「うん、もうしない」私は素直に頷く。
「私達の独占欲を量り違えないように」
「今日みたいなこと、普段なら、理性では抑えられないから」
「約束する。浮気も、それと見間違えるようなことも、絶対にしない」
「そう、なら、ひとまずは安心ね」
「おしおきは、今週の土曜日にしましょう」
浮気の注意を受けていたはずが、週末の予定が決まった。不思議だ。
私の部屋に来てくれるのかな? それとも、ふたりの部屋に招いてくれるのかな?
けど、とりあえず、伝えたい言葉を優先する。
「ねぇ、ゆきとさきも体調悪いよね。それなのに、色々気を遣わせちゃって、無理な頼みも聞いてもらって、ごめんね。本当にありがとう」
私は受け取ったゆきのブレザーを着ながら告げる。
「気づいてたの?」
私のブレザーを着ながら、ゆきが驚いた顔になる。
「気づかれてたことに、気づかなかった」
さきが瞬きをしながら笑みを零す。
「いつ、気づいたの?」
「校舎裏で話してる時に、いつもと違うなって思ったの。指先とか、眉とか、視線とかが、いつもより落ち着きなくて、言葉の強弱も違ったから、体調悪いのかなって。それで今、ご飯じゃなくて、お菓子食べてるのを見て、確信した」
「さすが、よく見てる」
ゆきが褒めてくれる。
「でもね、ゆり。謝らなくていいんだよ。甘えたい時は、甘えて良い。私達がどんな状態でも気にしないで。迷惑かも、だなんて考えなくていい」
私を両腕の中に収めながら、さきが優しく言ってくれる。
「私達には好きなだけ甘えていいし、頼ってくれていい。私達も、そういう関係が理想だから」
「甘えてくれる彼女が好き」
「それで、私達のこともさ、甘やかして欲しいんだ」
「分かった。そうしよう。私も、そうしたい」
ふたりの正直な言葉に、その本心に、私は頷く。
「じゃあ、そろそろ、さき、ゆりを離しなさい」
ゆきが席を立ち、私とさきの隣に来て言った。
「えぇ~」
さきが不満そうに眉を下げる。
「ハグが長いのよ。さっきからずっと抱きついたままじゃない」
「いいじゃん、別にぃ」
「あの、その前に、ここ教室でさ……」
私は、ふたりの顔を交互に見ながら進言する。
「さき、代わりなさい。私も、ゆりをハグしたいのよ」
「……仕方ないなぁ、分かったよぅ」
ゆきは多少強引に、さきと位置を入れ替わった。
私の進言は何処かへやられてしまった。行方不明だ。可哀想に。
「お昼休み、あと何分ある?」ゆきが問う。
「あと、十八分」
黒板の上のアナログ時計を見ながら私は答える。
「どれくらい抱きついてていい?」
「いくらでも」
ゆきの耳元で私はそう囁き、抱きしめ返す手の片方を、さきの手と繋いで笑みを交わす。
愛する時は、平等に。
そう約束した。
ふたり共、私の彼女だから。
さきとゆき。
私の彼女達。
このふたりだけが、私に最も近い価値観を有している。意志を共有している。
同じものの見方をして、同じように考える。それが本当に嬉しくて仕方がない。
こんなにも愛している。想いに応える喜びをくれる。激情に駆られるほど、いつも私を求めてくれる。だからこそ、本気で愛してくれているのだと分かる。
きっと、もうすぐ溶けだして、混ざり合って、区別なんて、つかなくなるんだ。
それでいい。それがいい。
私達の愛は、どろどろで、粘質で、尋常じゃないほどに重い。
それくらいじゃないともう、物足りない。
愛してるよ、これからも、この先も。
死ぬまで、死んでも、変わらずに。
翌日の放課後。
私は、ゆきとさきの通っていた、中高一貫の女子校、その校門横に立っていた。
ここで待機し始めてから、既に二十分ほどが経過している。
門から出てくる女子生徒達は、他校の制服を着た他校の私を不思議そうに見ながら通り過ぎる。始めこそ、少し恥ずかしかったけど、すぐに慣れた。私も、自分のとはデザインの異なる制服を眺めていられるので、新鮮で退屈しない。(眺めている対象は制服だけであり、断じて浮気ではない)
スマートフォンで時間を確認する。
時刻は午後六時。そろそろのはず。
画面から顔を上げ、門をくぐって出てくる生徒達の顔を確かめる作業に戻る。
そこでついに、目当ての人物を見つけた。
「青木(あおき)さん」
私に気づかず、目の前を通り過ぎようとした彼女を呼び止める。
一拍の間を置いて、彼女が振り向く。
私の顔を視認した瞬間、その目と口が少しだけ開いた。
「こんにちは、青木栞奈(あおきかんな)さん」私は挨拶をする。
「貴女……ここで、何をしているの?」
掠れた声で、栞奈が問いかけてくる。
酷い声だった。前に私達の高校の校門前で聞いた声は、もっと高く、澄んでいた。
おそらく、さきとゆきから拒絶されたあの日から、毎晩泣いて過ごしているせいだろう。目の下の真っ黒なクマや、荒れ始めている肌や唇から、容易に想像できる。
「青木さんに会いに来たの。話したいことができたから」
「私は……話したくないわ。貴女とは、話したくない。会いたくもなかった。姿を見るのすら苦痛よ」
掠れた声で、しかし明確な怒気を含ませて、栞奈は言葉を返してきた。
流石だ、と私は彼女を評価する。
前回のことで傷ついたのは間違いない。ゆきとさきへの未練や、敬愛の念、淡い期待、それら全てを叩き壊されたのは事実で、それでも尚、私への敵意を、怒りを、未だ燻らせている。悲恋の哀愁と失望に浸かり、冷えてしまっているかもしれないと予想していたのだけど、そんなことはなかった。
意志が強くなければ、こうは振る舞えない。望む望まざるに関わらず、時間は傷を癒してしまうものだから。
さきとゆきは、この子はミーハー気質で、流されやすくて、忘れっぽい、当てにならない、弱い人格だと評価していたけれど、その分析は、少しだけ誤りだ。
ほんの僅かではあるけれど、信念の片鱗を栞奈は有している。だからこそ、二年という歳月を隔てても、通う高校が別になり、物理的に距離を置かれても、街でひと目見た、あの瞬間に、ゆきとさきへの執着を再燃させることができたのだ。
プライドを捨てて好意を示し、敵対する覚悟までもを携えて、現行の彼女へ宣戦布告を叩きつけるなど、生半可な意志ではあり得ない。それを叶えられるのはやはり、信念以外にない。
「私、帰るから……付いて来ないで。ここへも二度と来ないで。さようなら」
それだけ言うと、栞奈は私に背を向けて歩き出そうとする。
その背中に私は告げる。
「青木さん、ありがとう」
栞奈が足を止めて振り返る。
「……今、なんて言った?」
「ありがとう、って言った」
「どうして? 皮肉のつもり? それとも嫌味? 私のことを馬鹿にしているの?」
「皮肉でも、嫌味でもないよ。馬鹿にもしてない。私ね、青木さんのおかげで、さきとゆきと別れずに済んだし、自分を嫌いにならずに済んだの。今日は、そのお礼を言いに来たんだよ」
私が言い終えると同時に、栞奈は私に詰め寄り、ブレザーの襟を掴んできた。
疎らにいた周囲の生徒達が、何事かと視線を向けてきたけれど、栞奈は全く意に介する素振りを見せず、憎悪を宿した両目で私を睨み、口を開く。
「貴女、いい加減にしなさいよ。どこまで私を不愉快にさせるの? たまたま、周防さん達に気に入られて、それが長続きしてるだけのことで、たったそれだけの理由で、この前だって守ってもらって、どうにか繋がっていられただけ。それだけのくせに、どこまで……どこまで私を惨めにすれば気が済むの?」
「青木さんに叩かれた時は、私も不愉快だったよ」
私は栞奈の目を見て言い返す。
「あぁ、そういうこと? 私に謝らせたいのね? 負け犬は素直に頭を下げろって、そう言いたいわけ? 土下座でもしてあげようか? それで気が済むんでしょ?」
「そっちの話し方が本来なんだね。私しか聞いてないんだから、無理に御嬢様言葉使わなくていいんだよ」
「貴女、意味が分からない。何の話をしているの? 私に、どうして欲しいの? 私を、どうしたいのよ……」
栞奈は、かぶりを振り、掴んでいた私のブレザーから手を離す。
「青木さんをどうこうしたいとは思ってないよ。聞いて欲しい話があるだけ」
「だから、私は、貴女の話なんて……」
「私ね、昨日、保健室の女の先生に悪戯されたの」
「……えっ?」
「街で初めて貴女と会った次の日、私、体調崩しちゃって、保健室に運ばれたの。その時に、保健室の女の先生に目を付けられて、日を跨いだ昨日にね、保健室で迫られて、そこで無理矢理キスされて、身体を触られた」
栞奈は黙ったまま、私の目を見据えている。私の言葉の真偽を確かめるように。
「すごく嫌だった。本当に不快で、汚されたって思った。死にたいと思った。もう手遅れだって、ゆきとさきとは二度と触れ合えないって思った。自分にはもう、資格がないって」
私の語りを聞いて、何を思うだろう? どう感じるだろう?
ねぇ、青木栞奈。
さきとゆきの元彼女。
私の人生において、初めての関係性で、存在そのものが耐え難く、不快で、あらゆる障壁を築き上げてしまう人。それが貴女だった。
元カノという肩書きがある以上、それは避けられない。遠ざけることもできない。拭うことのできない特性。
そう、だけど……。
「……それで、その後、どうしたの?」
栞奈が問いかけてくる。ぶっきらぼうな口調で。
ほら、ね?
聞いた時点で無関心ではない。
栞奈は、私に無関心じゃない。
私と貴女は恋敵なのに。
「セクハラしてきた先生に仕返ししちゃった。ゆきとさきにも手伝ってもらって、動画を取って、音声を録音して、証拠を押さえたの」
「先生相手に、そんな上手くいく?」
「ちゃんと作戦立ててから実行したの。ふたりが率先して怒ってくれて、先制して立ち回ってくれたのも大きかったけど」
「周防さん達、怒ってたでしょ」
「うん、すごく怒ってくれたよ。先生の髪を掴んだり、先生の頬を張ったり、カッターナイフ振り回したりしてさ」
「いえ……あの、違うわ。そうではなくて、ふたりに頼ってばかりだから、貴女が怒られたでしょう? という意味だったんだけど、その、先生の髪の毛を掴んだり、先生を叩いたり、刃物を振り回したの? 周防さん達が?」
栞奈が瞬きを繰り返しながら問いかけてくる。信じられない、という口調だった。
「そうだよ」私は軽く頷いて見せる。
「貴女の為に、そこまで……そっか」
栞奈は言葉を溢した後、ふっ、と息を吐くと、校門前の通りの端、並木の間に設置されたベンチを片手で指して、ちょっと、座らない? と誘ってきた。
私は頷き、彼女と並んでベンチに腰かける。
「……私が周防ちゃん達と付き合ってた時はね、多分、二人を怒らせてばかりだった」
足元の石畳に視線を落として、栞奈が口を開く。
「表面上は、全然怒ってなかった。イライラしてるところなんて見たことなかった。いつも話しかければ返事してくれたし、私の話を聞いてくれた。けど、違和感がね、ずっとあったんだ。三人でいても、楽しそうなのは私だけで、周防ちゃん達がはしゃぐところは見たことなかった。心から笑ってない、そんな感じがしてた。いつもニコニコしてくれてたけど、本当に可笑しくて笑ったことは、なかったんじゃないかな」
「青木さんも、悩んでたんだね」
「う~ん、どうだろう……」
栞奈は小さく首を傾げながら続ける。
「あの頃の私って、付き合えたことに舞い上がってて、とにかく毎日が楽しくて、自分がしたいことしか頭になかったんだよね。少女漫画とか、恋愛映画みたいなシチュエーションを再現したくて、周防ちゃん達を、それに付き合わせて、振り回しちゃってて、だから……」
栞奈が言葉に詰まった。
彼女の方を見ると、その横顔には、既に涙が伝っていた。
「だから、私は、真面目に悩んでなんて、いなかったと思う。二人のことは大好きだったけど、二人のことを真剣に考えてはいなかった。二人の気持ちや事情よりも、自分のことを、自分の感情を、優先してた。それがきっと、二人の負担になってたんだと思う。そりゃ、そうだよね。自分のことしか話さない、彼女の話を聞いてあげない、彼女のことを考えてあげない、そんな女と、付き合い続けたいなんて、思えないよね……」
栞奈の流す涙は大粒となり、流れるより先に、ぽたぽたと落ちていく。言葉は途切れがち。
握った両手は震え、その白い肌に落ちた涙も微動する。
栞奈が吐き出す全ての言葉に、重い後悔が乗っていた。
毎晩、こうして泣いているのだろう。
今なら分かる。
理屈として、感覚として、彼女の感情を正確にトレースすることができた。
それは、元カノである栞奈の存在が私に認知され、私が栞奈と、おそらく近種の後悔を舐めたからに他ならない。
この手から離れてしまったもの、機会を逃してしまい、それに触れることは二度とないのだと知れた時、できることは、過去に追い縋ることだけ。
つまり、後悔しかない。
栞奈が流しているのは、後悔の涙。
ひとたび違えば、私が流していたかもしれない涙。
だから、他人事だと思えなくなったのだろう。
栞奈に対して抱いていた感情は希釈され、恋敵だという認識すら、もやがかかったように滲み、薄れていた。
先程、栞奈は私に聞いた。
自分を、どうしたいのか、私の望みは何なのか、と。
これからの私は、どうしたいのだろう?
「貴女といる時の周防ちゃん達はね、私といた時の周防ちゃん達とは、全然違うよ。先生相手に怒る姿なんて、私は見たことがないし、貴女に会いに行った時、貴女の為に、私を平手打ちして、感情を剥き出しにした、あの姿も、街で見た、貴女と手を繋いで、楽しそうに笑ってた周防ちゃん達も、私は知らない。全部、私が至らなかったのが原因で、でも、それでもさ……」
相性の問題だった、と言う他にない。
栞奈には栞奈の理想があり、ゆきとさきにも、抱えていた難題があり、譲れない条件と順守して欲しいルールがあった。
互いに求めていたものに差異があって、それが噛み合うことがなかった。
言ってしまえば、それだけのこと。
それだけのことが道を別けた。
願いと破滅は、渾然一体。
現実と虚構のように、ほとんど同義。
そうあって欲しくないものほど、その傾向が強い。
だからこそ、救済が求められるのだ。
私は手を伸ばし、栞奈の目元を指先で拭う。
涙は熱かった。
生きているのだから、当然か。
私も、栞奈も、まだ生きている。
栞奈は、私の手を振り払ったりはしなかった。
こちらを、ただ見ているだけ。
待っている、と感じた。
だから私は言葉を紡ぐ。
「私ね、今日は、ありがとう、を伝えようとだけ決めて、ここへ来たの。それ以外は、全くのノープラン。何を話すことになるのか、自分でも分からなかったし、青木さんと掴み合いの喧嘩になることも想定してきた」
「そうなの?」
涙を溢しながら栞奈が笑う。
「うん、実は、そうなの」
頷きながら、私は言葉を続ける。
「今の自分が青木さんと向き合った時、何を感じるのか、どうしたいと思うのか、不明瞭だった。街で初めて会った時の戸惑いか、学校の校門で罵られた時の怒りか、絞め殺して雑木林に放り込んでやろうと思った時の殺意か、それとも、さきとゆきに切り捨てられて、泣いている貴女の姿を見た時の危機感か、想像することはできたけど、結論は出せなかった」
「……ねぇ、さらっと言ったけど、私のこと、絞め殺そうとしてたの? 雑木林に放り込むって、貴女の高校の端にあった、あそこへ?」
「うん、そう考えた」
「え……貴女、それは、ちょっと……」
言いながら、栞奈は少しだけ私から身を引いた。
試しに上半身だけ寄ってみると、彼女も同じだけ仰け反る。
それが可笑しくて、私はふき出す。
そんな私の様子を、眉根を寄せて見る彼女は、既に泣き止んでいた。
「青木さんとの出会いと、やり取りで、私は強く成れた。青木さんにとって、私は目障りな女で、不愉快な野良犬で、消えて欲しい存在かもしれない。少なくとも、私にとっての青木さんは、そうだった。けど、今は違う」
「それは……どうして?」
「正直、分からない」私は首を横に振りながら答える。
「先生にセクハラされた衝撃が大き過ぎて、元カノとか、些末な衝突とか、想いの真偽とか、そういうことに固執してる場合じゃないと、私の人格達が判断したのか、それとも、時間が経ったことで、割り切れただけなのか、自分でも判然としない」
私は栞奈の目を見据えて告げる。
「はっきりしてるのは、私はもう、貴女を憎んだりしてない、ってこと。相対しても、首を絞めたいとは思わない。ゆきとさきと付き合っていたこと、貴女がふたりの元カノであることは、事実として受け止めてる。過去として記録してる。私は、そう処理したよ」
言い切った。
元カノの前で。
伝えたいと思った言葉は、これで全部。
あとは、栞奈次第。
「……貴女、なんだか、思ってた感じと違ったわ」
栞奈は笑った。
初めて見る、砕けた笑み。
「そう?」
「もっと弱々しい性格なのかと思ってた。街でも、校門でも、周防ちゃん達に守ってもらってたから、そう思い込んでた。けど、違った。多分、周防ちゃん達よりも、貴女の方が強いし、貴女の方が賢い。こうして話して、そう思った」
「ありがとう」私は礼を述べる。
「お世辞じゃないからね。勘違いしないでよ? 本当に、そう思ったんだから」
栞奈が、私の肩を小突きながら言った。やはり、こちらが本来の彼女なのだ。
「過去として、記録として処理した、っていうのが、一番効いたなぁ。私も貴女みたいに、綺麗に割り切りたい。いつまでも引きずって、ぐずぐず泣いて、ストーカーみたいな真似してさ。恰好悪いって、自分でも分かってるんだけど」
「けど、止められないんでしょう?」
「そう、そうなの」栞奈が頷く。
「気持ちは分かるよ。もし万が一、ふたりから別れを切り出されたら、私、ストーカーになるからって伝えてあるもん」
「えっ? そうなの? でも、そうよね。そうなっちゃうよね?」
栞奈は勢いのある言葉と共に、先程開けた以上の距離を詰めてくる。
「そうだよ。突然別れようとか言われても、好きだったら、追いかけちゃうよ」
「やっぱり、そうだよね。あぁ、良かった。私、自分がおかしいんじゃないかって、悩んでたの。貴女の言葉を聞いて、少し安心できた」
「なら、良かった」
私が笑いかけると、栞奈は、私の顔をじっと見る。
「貴女って、不思議な人。元カノと、こんなふうに笑い合うなんて、普通ないよ?」
「だろうね。私自身、そう思う」
「ねぇ、もし良かったら、名前、教えてくれない?」
「立花ゆりです。初めまして」
私は柔らかい声で応える。竜胆先生に告げた時とは違う、皮肉抜きの名乗り。
「立花さんね。よろしく、というのも変だけど、よろしくね」
栞奈は小さく頭を下げる。気品のある所作だった。
「ゆりでもいいよ?」
「下の名前はダメ。周防ちゃん達に怒られちゃう」
「あ、そっか」
「そうだよ」
私と栞奈は笑い合った。
同じ女の子ふたりに恋をした者同士が、ひとつのベンチに座って話をしている。
この状況が、ここに至るまでの思考が、感情の変化が、まったく不可思議だった。
人間の評価というものが、日頃いかに表面的で、偏った観察によって成されているか、よく分かる。
私は栞奈について、ほとんど何も知らない。
彼女の思考パターンも、彼女のこれまでの人生も、抱えているものも、その意思さえも。
まして、此処に至るまでの決意など、知る由もない。
それでも、こうしていられる。
知らなくても、歩み寄れるのだ。
さきとゆきが、そうだったように。
私から勝手に一目惚れして、強引なキスをして、愛する貴女はふたりいるのだと告げられて、驚きと共に、それでも執着して、告白して、好きだからと、手離したくないと依存して、そうして、今の関係を構築することができた。傷つけ合って、本心を晒すことを選択して、一緒に居ることを望んだ。
むしろ、知らないからこそ、愛せたのかも。
期待を寄せて、想いを預けて、返ってくることに賭けて、両の手を広げて、冷たい鉄線を噛んで、血を流しながら、耐えて待つ。
恋愛って、そういうもの。
恐いし、痛いし、不安定で、不確定。どう転ぶかなんて全然分からない。
だからこそ、それが愛情に転化した時は凄まじい。
互いを照らすほどに大きくて、それはもう膨大な熱量で、圧倒的な存在感を放ち、全身を、魂を、包み込むほどに濃密。
それが、愛。
私とゆきとさきの愛。
これが、竜胆先生に見せなかったもの。
栞奈にも、わざわざ見せびらかそうとは思わない。嫌味になっちゃうし。
けど、隣で笑う彼女は多分、理解しているように思う。
こうして分かり合えたのが、その証拠で。
さきとゆきが一時でも彼女を受け入れた理由であるはずだから。
チャイムの音が室内に響いた。
私はリビングの椅子から立ち上がり、玄関まで小走りで向かい、扉を開けた。
「ゆき、さき、おはよう。いらっしゃい」
「ゆり、おはよう」
「おはよう、お邪魔します」
挨拶を交わしながら、ふたりを自宅マンションの一室へと招き入れる。
今日は土曜日。約束の日。
今は朝の十時丁度。お父さんは仕事で不在。
室内には、さきとゆきと私のさんにんだけ。
これだけもう、とっても不健全。
私はキッチンに立ち、沸かしていたコーヒーをマグカップ二つに注ぐ。
作業をしていると、後ろから遠慮がちに名前を呼ばれた。
「ちょっと、ゆりの部屋で着替えてきてもいい?」
やや大きめの黒いバッグを持ち上げながら、ゆきが聞く。
「えっ? うん、いいけど」
「すぐだから、ここで待っててね。あ、覗いちゃダメだよ?」
私の部屋の扉を開けながら、さきが言う。
「うん、分かった。大人しく待ってる」
首を傾げながらも私は頷き、キッチンの椅子に腰かけて、既に冷めていた飲みかけのコーヒーを啜る。
汗かいたのかな? 私、気にしないのにな、と考えながら、約束通り、大人しく待った。
二分五十五秒後、扉が開いて、ふたりは出てきた。
その服装を見た私は、玄関チャイムが鳴った時以上の速さで椅子から立ち、ふたりに駆け寄る。
「これって、中学の時の制服? すごい! 持ってきてくれたの?」
「前に、着て見せてあげるって、約束したから」
さきが、はにかみながら言う。
「どうかな? 変じゃない?」
ゆきが恥ずかしそうに聞く。
「全然、変じゃないよ。すっごく可愛い!」
私はふたりを同時に抱きしめて、交互にキスを浴びせる。
以前にふたりから聞いていた通り、制服は紺色のジャンパースカートタイプ。ひと目で御嬢様学校の生徒だと分かるデザインだった。ゆきもさきも、中学卒業時と背丈や体格は変わっていないようで、違和感なく着こなしている。
何より私の目を惹き、心拍数を上げたのは、ふたりの髪型がツインテールになっていたことだ。
初めて見た、ふたりのツインテール姿。すっごく可愛い。もう本当に、死ぬほど可愛い。後で写真撮ろう。角度を変えながら連射で百枚は撮ろう。
「中学の時って、この髪型だった? でも、髪型変えちゃダメって、ご両親に言われてたんだよね?」
「そう、ずっと、黒のミディアムストレートで、基本的に、結んだり、髪上げたりするのも、親から禁止されてた」
肩をすくめながら、さきが答える。
「迷惑なこだわりだよね、それ」
私がそう言うと、本当にね、とさきが頷く。
「だから、この髪型を見せたのも、中学の制服と組み合わせて見せたのも、ゆりが初めて」
結んだ髪の先端を指でくるくると触りながら、ゆきが言う。
「そっか、やっぱり、そうなるよね」
私は、にやけながら、ゆきが触っているのとは反対の毛先を触る。先端まで艶のある、綺麗な黒髪が美しい。
「嬉しいな、本当に。飛び跳ねたいくらい」
「飛び跳ねてもいいよ?」
ゆきが笑いながら言う。
「私達にとっては、幼くて、もう恥ずかしい恰好だけど、ゆりが喜んでくれるかな、って思ったから、着てみたの」
さきが私の唇を指先でなぞりながら言う。
「この髪型も、そう。見せるのは、ゆりにだけ」
私の手を引きながらゆきが囁く。行先は、私の部屋。
さんにんで同時に、ベッドへ倒れ込む。
シングルサイズのベッドだから、寝転がるには狭い。手も、足も、はみ出てる。
でも、そんなのお構いなしに、私達はキスをする。
ゆきとキスして。
さきとキスして。
笑い合って、ふたりを同時に抱きしめる。
「ねえ、ゆり。私達は、ゆりが大好きだよ」
「ありがとう。私も、さきとゆきが大好き」
「愛してる」
「愛してるよ」
「私も、愛してる」
「その気持ちは、本物だよね?」
「本物だよ。嘘なんて、これっぽっちもない」
「私達だけを愛してるよね?」
「ゆきとさきだけを愛してる。他の人なんていらない。ふたりにだけ居て欲しい」
「信じていいのね?」
「信じて欲しい。だから、ほら……」
私は、ふたりの手を片方ずつ掴んで、自分の首へと誘導する。
言葉にできない想いはないけど、言葉に収まらない感情は在る。
こればっかりは、誰にも止められない。胸の内になんて留めておけない。
ついに放たれた怪物が、私を突き動かす。
目を剥いて、鼓動に押され、私の口をこじ開ける。
到底堰き止められない、濁流と成って放たれる。
ふたりの細くて綺麗な指が私の首に絡みつく。
徐々に力が込められて、息苦しくなってくる。
愛されている、と悦に浸る。
生きている、と実感できる。
幸福を噛みしめる。
嗚呼、異常。
自覚して、私は微笑む。
ふたりとの約束を、私は首に結ぶ。
それは、離れない、という誓いで。
この命と同等、という覚悟。
間違えないように惹いて、ふたりの手で絞めて、という欲求で。
私以外の誰かに探しても、決して見つからない信念の表れ。
ふたりが付き合うのは、私が最後。私の次なんて存在させない。
栞奈が越えられなかった六月を、私は超えてみせる。
その先もずっと、もっとずっと先まで、私達は、さんにんで生きていく。
恋を綴り、愛で刺し合い、刻み崩れる身体を払って液状の幸福に浸かる。
そうして残った、雁字搦めな、この手と、その手を。
どうか、離さないでね。
来世まで。
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