第一章 不枯の徒花(かれないあだばな)

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第一章 不枯の徒花(かれないあだばな)

 陽が通り抜けて明るいアーケード街を独り歩く。  両耳にイヤフォンを挿しているので、頭の中には大好きなV系の音楽だけが占めている。  すれ違う人間は、やや多い。日曜日だからだろう。そして、その人間のうちの一人が私。それぞれが各々に、様々に異なる感情を抱いて休日を謳歌している。  けれど、今日という日、私という個体の機嫌がすこぶる良いことに気づいているのは、間違いなく私自身だけ。小刻みに頭を縦揺すりしながらの移動。足取りは非常に軽い。下手をすれば、周囲には不審者に映ってしまうだろう。でもそれ以前に、黒色で統一した派手な服装をしていて、真っ白に塗った顔に黒色調のメイクをしているので、目立つことを意識するのは今更か、とも思う。 御機嫌の理由は至極単純で、私が交際している女の子達、周防(すおう)ゆき、周防(すおう)さきへの誕生日プレゼントを吟味するという、とっても楽しい用事で訪れているためで、そうした純粋恋愛から生じる心理高揚効果を全身に浴びることができるのは、恋愛をしている当事者だけだ、と満足しているためだった。  受け取る視覚情報をそのままに、頭の中でカレンダーを展開。祝いの品の購入から受け渡しまでの猶予を逆算する。  今はまだ、ぎりぎり四月で。  ふたりの誕生日は六月の十一日。  時間的、期間的余裕は十分にある。ただ、私は元来、準備や予習をきちんとしておきたい性格であるため、こうして早めの下見にやって来た次第。  運良く、これだ、と確信を得られる品が見つかれば、今日このままの流れで購入して自室に寝かせて(隠して)おけばいいし、たとえ今日中に、琴線に触れるものが皆無であったとしても、行動選択の豊富さ、当日までの猶予が揺らぐことはない。そうした楽観的条件群から気楽さが生じ、ほんのりと当てられた気分は滑らかになり、ひいては機嫌が良くなっているのだろう、と自己分析した。  気分か、と私の中の一部が思考を始める。いつものことだ。  考えていないと消えてしまう、なんて錯覚をしているのだろう。止まったら死んでしまう魚類のように、自分が霊長類であることも忘れて。  しかし、人の気分というものは、総じて一定では保たれない。これは揺るぎなき事実であり、多くの同類が賛同できる事象でもあるだろう。外的要因によって簡単に流動するし、発破や鎮静のきっかけとなるのは、己の感情に起因する変調が主だ。故に、自分の中に、また別の誰かが居るかのような、そんな感覚を誘致してくる。  例えるなら、炎が揺らめくさまが適当だろうか。  気体が酸化し、熱膨張による比重変化によって生じる流動、その現象に似ている。外見上、個人の感情というものが不変不動であるように映ったとしても、取り囲む人間達の影響で善意悪意、意識的無意識を問わず、変動が現実世界にもたらされる。また、その個々人も、自分以外の全てがあるからこそ自我を証明することができ、己を保つことに明確な意味が生まれる。動機を結び付けることができる。有する力に、明るさに、可能性に、将来性に、様々な価値を見出され、尊ばれ、あらゆる者が寄り集まってくる。  同時に危険性も孕んでしまう。この世に存在しているだけで周囲を消耗させ、消散させてしまう。利害と理想が隣り合わせな関係性が、類似の色彩を魅せていると私には思える。  表面上の、外部からの漠然とした観察では、その個人だけが勝手に揺らいでいる、と受け取られて終わりだろう。それぞれの関係をどのような条件に限定するかによって、抱く感想は多少変化するだろうけれど、基本的には、肉体の電気信号のような、原始的で、定性的で、ありきたりな、真理から程遠い分析にしか至れないと推測できる。  より深い理解と、そこへ到達するための理論構築には時間がかかるもの。完成したその結論に、自分の感情がフィードバックされる緩慢さといったら、ようやくか、と溜息が漏れてしまうほどには気が遠くなる。  一瞬だけ、目の前の景色を自らの脳が認識。  映る対象群と、自分という人間の対比を意識。  沢山の大人達。そこへ混ざる子供達。  男と女。  私と、それ以外。  どうだろう? と問う声。  何が? と笑い、応える声。  曖昧な疑問だ。言語化できていない。  それくらいには唐突で、故に人間らしい。  ものを考えている間は、こんなものだろう。  思慮に価値を求めるのは、私が人間だからだ。  人間だから、意味を、理由を、動機を、求め、また必要とする。  こんなことを考えながら生きているのは、私だけだろうか?  まどろっこしい手順を好むから、妙な性質を有しているから、複雑で多層な思考回路をしているから、往々にレスポンスが低下して、結論へと辿り着くのに時間がかかってしまう?  今度は自分の意思で、現実世界へ焦点を合わせる。  歩きながら、両手を小さく持ち上げ、目の前で広げてみた。  何も握っていない、白くて空っぽの手がふたつ。  どうしてだか、空虚。  寂しいな、と感じた。  絶えず繋いでいたい。  ひらけた視界の端々には、明るい街の様子と、行き交う人々がいる。  私の目や感覚は、それを一つずつ捉えている。  けれど私の頭が、それを処理しようとしない。  ぼんやりと認識しているだけで、振り分けたり、分析したりという工程に移行しない。先程まではしていたのに、今は本来の役割を放り出して、何処かへ遊びに出かけている。  残る頭の部分が考えているのは、ふたりのことばかり。  ゆきとさき。  私の愛しい彼女達。  それぞれを、それぞれに愛していて、大切に想っている。  私にとって不可欠な存在と成ったふたり。  学校では毎日一緒に過ごすし、休日は互いの部屋へと招き合って勉強をしたり、宿題をしたりする。街へと出かけて遊ぶことも多い。頻度が高いのは、カラオケかな。騒いでも怒られないし、お腹が空いたら、そのままご飯を注文して食べられるから重宝してる。  毎日、笑い合って、ふざけ合って、認め合って、愛し合う。これ以上ない幸せな日々。  ふたりに、べったりと依存している現状は、はたして正常だろうか? 善し悪しとしてどうなのか? 安定しているといえるのか? そんなふうに考えることもある。正常な状態なのか、そもそも正常とは、何を基準として定める概念なのか、と考え込んでしまう瞬間が、たまにはある。  しかし、これこそが正常な安全装置が働いている証拠といえるだろう。  現状に問題はないか? 崩壊が起きないか? と定期的に警戒して、客観的な評価を下せるからこそ、気づけば危険域に突入していた、手遅れだった、などの最悪を防げるというもの。恋愛対象、崇拝対象を理想化してしまうと、その者自身も感情ごと巻き込まれてしまう場合がある。珍しいことではない。よくあるケースだと見聞きした。  誰だって、完璧な人格ではあり得ない。間違いを犯さない者など存在しない。その者が人である以上、不変で普遍な価値観と未来視を想起させるような超常力を有してなどいない。行動にはどうしても、成功と惨敗が伴う。あらゆる結果は経験の集大成であり、それが評価されず、芳しくないと指摘されてしまうのは、ひとえに時代的な価値観の差異か、もしくは経験値の不足に起因する。  頭では判っている。理屈も理解できる。その通りだと納得した自分もいる。  ただ、ほんの数人、小さく異議を唱える自分もいるのだ。  そんな雁字搦めで、ただ一つの過ちも赦されないだなんて、不自由ではないか? と。  正しいことは、確かに正義だろう。読んで字のごとく、誰もが望む理想ではある。  それでも、実現することは困難だ。その辛さを、見上げなければならないほどの高度さを、阻む壁の多さを理解できるのもまた、正義という概念を創り出した人間だけのはず。  ただ赴くまま。戻る術もないままに、自覚をしつつも、光明と願望を紡ぎ合わせて。  積み重ねの先、不安定で不透明な霞かがる未来の奥、到達点では必ず顕現すると信じ込んで。  叶える覚悟があるか? 正義を理想に据え、それは大変なことで、いつ実現できるかも不明。  本当にできる? どうして限定したがる? 曖昧なままでは、都度変化させるのではいけないの? どうして考えることを、議論することを面倒臭がるの?  変なの、と思う。  愚かさを笑う私もいる。  考えることは、思考することが、そんなに面倒だろうか?  だって、考えなけれは、言葉を手放してしまったら、伝えることを諦めて、変化を止めてしまったら、その先にあるのは……。  アーケード街の一角で、私は足を止めた。  そう、ここだ。  関連する内容を思考していたので、連想から思わず身体が反応した。  この場所だった。  この場所で会った。  この場所から起きた、一連の災事を思い返す。  あれが、まさに好例だろう。勿論、皮肉を込めて。  最悪の代表例。首の皮一枚だった、素の危機回避。  選択を誤れば、全てが崩壊していた出来事だった。  カラオケ店から幸せを纏い浮かれて出てきた私達に、声をかけてきた女の子がいて。  それは、私にとって予想外の遭遇で、ゆきとさきにとっては、絶対に起きて欲しくない因果応報の宿命(さだめ)だった。  ふたりはその子を拒絶して立ち去ろうとしたけど、私は大いに混乱してしまって、大切なふたりを問い詰めてしまった。目の前の事実と頭をよぎった可能性から、一方的に腹を立てて、言葉でなじり、あろうことか手を上げてしまった。あの時のゆきの表情は忘れもしない。これからもずっと、一生忘れることはできないと思う。それくらい強烈に焼き付いた。  事情を直接聞いてからは、ふたりの過去にまつわる、その女の子を本気で憎んだりもした。その子が諸悪の根源で、その子さえ現れなければ、私達の間に問題なんて起きなかったのに、この手でこの世から消してしまおうか、土に埋めてしまえばいなくなったのと同じだからと、そんなふうにも考えたりもした。  しかし、人間同士のぶつかり合いである以上、何らかの形で、どうにか決着をつけることはできる。私と、その女の子との場合も例外ではなく、互いへの攻撃的排他行動、存在の許容その有無、私的な事情や、過去の履歴に至るまで正直に晒し合ったことで、お互いがお互いに同情できるようになった。相手の意思や意向を汲み取って、今後どう改善していこうとしているのか、その答えを待ち、聞き、言葉を返すだけの余裕を得た。少なくとも、目が合った瞬間に殺し合いを再開してしまうような、デンジャラスな関係の域は脱することができたと自負している。  あれからまだ、そう時間は経っていない。  それでも、同じようなことは二度と起きないし、起こさないと断言できる。何故かといえば、さきとゆきとも、例の女の子と同じかそれ以上に、深く密に腹を割って話をしたから。  先走る怒りを抑えつけて、不貞腐れることを止めて、相手の顔をしっかりと見据えて会話をしなければ、決して解決することはできなかった。断言できる。不可欠な行程だったのだ。  考えや不満を言葉にして伝えないと、人間は真に理解し合うことは叶わない。むしろ、そうした相互理解を推し進め、思い違いや悪質な誤解を減らし避けるために言葉は生まれ、多様化してきたのだから。  もしも、また別の問題が起きたり、私達さんにんが意図せず、何かしらの揉め事に巻き込まれてしまうような事態に陥ったとしても、今回ほど慌てふためくことはない。頭ごなしにふたりを責めたり、疑ったりすることなどしない。その逆も然り。  今の私達なら、どうとでも乗り越えられる。  解決策を共に見出して、前へ前へと進んでいくことこそを、成長と呼ぶ。  少しばかりの苦悩と苦痛を乗り越えた先で浸る、心からの嬌声、循環する情熱、そうしたものをまとめて、幸福と呼ぶ。  楽観的な女だろうか?  重くて歪な女だろうか?  愛してるを言い訳に依存し過ぎだろうか?  それでも私は想い、思ってしまう。  真心を向けずして、なにが恋かと。  記憶の場所から歩を進めながら、この両目が現実を超えて現実を捉えようと機能する。  可視の域を超えて、見えないはずの、そこに渦巻いているはずの概念を視ようとする。  高度に洗練された意思は漂い、幾重にも繋がり混ざって矛盾を包む。  空間の形成が成されるのは、そうした知性を有する者の意向ゆえに。  有限の秩序が無限の連鎖を育みながら、微小な複雑感情が明朗単純の関係を織り譲る。  どれほどに身勝手な想いを掻き抱いたとしても、それを恥じて閉じ籠る必要などない。  本気の恋であればあるほどに、嫉妬心や独占欲が声高に主張をかますのは必然のこと。  心より好いた者に自分以外の誰かが手を触れるなど、その相手以外の“何か”などいらないと断言できてしまうさまは、むしろ誇ってすら良い。それほどまでに強く相手を愛せるのだから、間違いであろうはずがない。妄執で御都合主義的な、妄想じみて加害までもを含む、前のめりな衝動に囚われでもしなければ、確固に人を愛するなどできはしない。  何故、人間は生きようとするのか? そんな大袈裟な命題の解答にすら相応しいだろう。  産まれたからには言葉を学び、学んだならば伝えようとする。自分以外を愛するがため。  人が人を愛するのは、それこそが生の本質で、到達点であり、生そのものであるがゆえ。  飛躍し過ぎだろうか? 強引な解釈? こじつけに過ぎない?  それでも私個人は、導き出したこの結論に大変満足している。  理由を考えたが末、解を知りたいと思考を始めたからこそ辿り着いた。善悪ではない。  真空中では音楽が在り得ないように、ふたりのいない世界では、私は存在し得なくて。  ただ居ることすら叶わずに、長く生きることもできはしない。座ってなど居られない。  愛する者の現存は生と同等であり、つまり等価。喪失など範疇に無い。不変の剛概念。  ふたりと一緒にいられるから。  ふたりに愛してもらえるから。  今も普通に息を吸えるからで。  未来を生きよう、という言葉と共に吐き出せるのだ。  涙を含まない大きな瞬きを介して眼前を認知。悲しくはないから泣いたりしない。  視覚情報から自分の居場所を再認識。そうだ、通りの一角にあるショップに入ったのだ。  主にゴシックやパンク系の服を取り扱っている、お気に入りのお店。さきとゆきとも、何度か一緒に服を探して訪れた聖域。私はイヤフォンを耳から外してポケットに仕舞う。聖域では失礼に当たるからだ。  しかし、頭では色々と考えながらも、見知った場所は違わないというのは、人間の面白い習性といえる。どうだろう? どちらかといえば、頭が忙しいから、身体はせめて、記憶にある安置へと移動もとい逃げ込もうとするものなのかもしれない。これは興味深い発想をした気がする。今度、お父さんの部屋にある学術書籍に関連した解説や論文が載っていないか探してみよう。  店内を適当に巡りながら、幾度かコーナーを曲がる。どれがふたりに似合うだろうか、と考えながら、ふたりが着た姿を想像しながら、ゆっくりと視線を巡らせ、イメージの照らし合わせを繰り返す。  試着室が近づいてくる。  あぁ、そういえば、そこで私が試着している時に、さきが突然入ってきて、半脱ぎの身体を抱きしめられて、しつこくキスをされたっけ、と恥ずかしくも愛おしい想い出を回想していると、店内の曲が切り替わったことに気づいた。 今の今まで流し聞きだったのに、急に波長が合致したかのように認識できたのは、その曲を私が知っていたからで、その曲が私のお気に入りの一つだったから。  頭で、身体で、リズムを取り始めてしまう。曲のタイトルが【踊る首】であることも多少関係しているかもしれない。いや、流石にこじつけだ。自らの行動に対する理由の後付けでもある。  小さく頭を縦振りしながら通路を歩く。傍から見れば不審な動き、妙な奴と眉を顰められてしまうだろうけれど、V系好きな者からすれば至極普通の反応で、私はV系が好きで、店内には私の他にお客さんも居なさそうなので、多少大袈裟でもいいかと、流れ込んでくる重低音に合わせて、思うままに身体を反応させる。  暴動に合わせて踊れ 鈍足で憐れな案山子(かかし)ども 細い脚でもイケるだろう?  泣く啼く笑い、鬱々(うつうつ)感情に喰われるのが正義? 言わせんなよ、恥ずかしい  仕方なく整理して通う明日が素敵? 嘘を着飾るなよ 聞くまでもないだろ  美しく鬱(うっ)して 死く死く咲いて 裂いてバラして誇り廻れ くたびれた薔薇絨毯の上  なぁ、自称写真家ども 自慢のカメラで写してくれよ 映え過ぎて萎える現実(リアル)の色を  レンズから逃げ惑う 麗しき御嬢様 狭い世界で何処へ逃げて逝く?  忘れず一緒に連れて行ってくれ 死ぬまで離れないと約束したろう?  心を悩ませる邪念は軸で殺した 己の内に据えられた薄色(はくしょく)の曲線だけが光ってる  次は恩寵(おんちょう)在る世界へ混ぜてくれ 何物にも代え難く、狂おしいほど愛切な件(くだん)の庭  今人(いまびと)が知らず、扱えもしない感情の上で寝そべって 無味(むみ)で尽きない話をしよう  郷愁(きょうしゅう)だか愛慕(あいぼ)だかの副作用に胸を絞め痛みながら、お互いに突き落し合えばいい  認められないアンディシンバーに閉じ込めて 努々(ゆめゆめ)夢だけを見るなんて失笑もの  いつかの救済なんて安い期待は捨てちまえ 素晴らしい感受性だけで生きて往け  魅了する目は蒼色 不浄に生きて不条理に死ぬ? それが望みか? 憐れだね  依存する目は翠色 渡し損ねた花束 伏せる視線を賛美(さんび)する讃美歌(さんびか) 綺麗だね  温もりは無いけど形だけでも 仕方なしに贈ってあげる 紫と白のベラドンナ  与え得る全てを渡しても 魂はいずれ不満を呈する 死ぬ準備だけはやり残して  成熟とはつまり、高貴なる欺瞞(ぎまん)さ 人生へ反逆を重ねてノスタルジィを歌う矛盾  変質してしまった意味の探求は時間の無駄だ 起源(きげん)なんて有って無いようなもの  心無い言葉こそが 後戻りできないほどに曲がり腐らせる だらしねえ独筆独想  湧き上がる美泡 間髪入れずに飽和していく まだ誰も、触れてすらいないのに  濁りに浸らせて嗤う群 泥越しに空を眺めて価値が分かる? いいさ、振り払え  儚い虚像に憧憬の念は宿らない 掴んでおくべき常軌横断 虹色の糸は降りない  どうせ嗤うなら笑い狂え 晒されて干乾びて 剥がれ ひび割れ 遂に孵るまで  重いだけの装飾は棄てろ 人らしさを殺そうとする観衆は片っ端から突き落とせ  眠って起きてを繰り返していたあの場所で 亡くしてしまった小指を見つけ出せ  もう腐ってる? 莫迦を言うなよ 生きてるんだから、まだあるはず よく探せ  明緑な蔓の絨毯の上で蠢いていたわ 私を探して あなたを探して 宵の刻まで  お待たせしてしまったわね この手に還ったが最期 必ず締め殺してあげるから  離反する目は月色 捉えられずに囚われて死ぬ? 冗談じゃないわ お断りよ  決意した目は緋色 受け取りそびれた花束 微笑みに視線を乗せて隠したまま  温もりが無いならいらないわ 潜ませたナイフで濡れる 紫と白のベラドンナ  汝曰く、私は騙す者 魅力的な沈黙を纏って踊る嬢 さあ、お迎え お出迎え  曲の聞き終わりと、細い鎖と皮ベルトで装飾された黒色のスカートが陳列されたコーナーを曲がったのが同時で、私はそこで意外な知り合いと出くわした。 「……びっくりした。ねえ、頭振り過ぎじゃない? 首痛めちゃうよ?」 「……ごめん、恥ずかしかったから、今の見なかったことにして欲しい」 「無理よ。きっと今晩、貴女が夢に出るわ。頭を振り回しながら私を追いかけて来るのよ」  それを聞いた瞬間、私はふき出した。口にした本人である彼女も笑った。 「でも、奇遇だね。いや、そうでもないか。初めて会ったのも、このお店の前の通りだったものね」  こうして急に出会っても、嫌な顔をするでなく、気さくに話しかけてくれる。  御嬢様言葉とフランクな口調が混じってしまっている、独特の話し方。  私より小柄で可愛らしい、でもどこか私と似た雰囲気の女の子。  名前は、青木栞奈(あおきかんな)。私と同い年の高校生。私やふたりとは異なる、女子高所属。  私が交際しているふたり、ゆきとさきの元同級生で、初代彼女。所謂、元カノ。  なので私とは、出会った瞬間から恋仇の関係にあった。  その過去が軋轢と衝突を誘発して、私と栞奈は罵り合うこととなった。私は胸倉を捕まれたり、頬を叩かれたりした。身勝手なこの子の言い分を最悪のタイミングで聞かされたため、本気の憎しみを抱いたし、両の手で首を絞めて殺し、学校近くの雑木林に放り込んでやろうかとさえ考えた。  けれど今は、停戦協定を結んだような、ぎこちない知り合いのような、そんな状態。  私と同じように、ふたりを相手にした交際を経験していて、それをそのまま素直に認めてくれる、ある意味、稀有な理解者へと認識が改められた。冷静にみれば、その素養は元々あった。出会い方がまったく良くなかったこと、互いに嫌悪感情が先行してしまったことが、関係悪化の要因であり、もう少し違えば、もっと早くここまでは辿り着くことができただろう。  以前ほど憎み嫌ってはいないけれど、すっかり仲良しというわけでもない、曖昧な距離感を保った関係を、私達は築いていた。 「今日は独り? 周防さん達は?」 「今日は独り。ふたりに内緒で、ふたりの誕生日プレゼントを下見に来たの」 「あら、そうなの」  返答を聞いた栞奈は頷いた。小柄で小顔なこの子が、このような動作をすると、小動物を連想させる。 「でも、周防さん達の誕生日って、六月でしょう? えらく用意が早いわね。いや、そうでもないか。直前で探しても見つかるか分かんないもんね。配達や取り寄せが絡んだりしたら、日にち逆算しなきゃだし」 「そういうこと」私は頷き、会話を続ける。 「青木さんは今日、どうしたの? もしかして、V系のファッションに興味持ってくれた? もしそうなら嬉しいな。一緒に髪セットして、白塗りメイクもしてみる?」 「残念だけど、私の好きなファッションの系統ではないわ。私はサブカル派だから。でも、そうね、今日このお店に入ったのは、貴女や周防さん達が着ていた服を見たからで、他にはどんなのがあるのかなって、少し見てみようかなって思ったからで、そういう意味では、興味がわいたのは違いないかな。自分で着てみたいとは、やっぱり思えないし、そのメイクをする勇気も、私にはないけれど」  栞奈は、ちらと私の顔へ視線を向けてから締め括った。 「え? これ、そんなに勇気いる? 格好良いでしょ?」 「格好良いのは否定しないわ。でも、外歩いてると注目されたんじゃない? 街の中で、そこの通りなんかだと特に」 「あぁ、うん。それはそう」 「ほらぁ、ね?」  栞奈は笑って言った。  何が、ね? なのか、よく分からなかったけれど、機嫌が良さそうなので言及するのはやめておく。 「あれから、どう? 周防さん達とは上手くいってる?」  手近な商品のスカートを触りながら栞奈は話題を変えた。 「うん、順調」  微笑みながらそう返すと、栞奈も微笑んで、なら良かった、と言ってくれる。  そう言ってくれて、目の前のスカートの皮ベルト部分を指先で触り続けながら、しかし栞奈からの言葉は続かない。どう見ても緊張している様子。ふいの遭遇から形式的な定番の挨拶までは勢いでこなせても、そこから先の話題に困った、何を話せばいいのか、そんなところだろう。  私からしてみれば、出会い頭にこちらの人格を否定してきて、一も二もなく怒鳴りつけてきたこの子のイメージがまだ根強く残っているので、しおらしくて大人しい、こんな常識的な反応をされる方が違和感を覚える。こんなこと、直接告げたりはしないし、やり取りを蒸し返すつもりもない。そんなことがしたいわけじゃない。お話がしたいだけ。気軽に、気楽に、お喋りしたい。そう、例えば、照れくさいけど、普通の友達みたいな感覚で。 「どーん」  言いながら私は、栞奈のすぐ隣まで移動して並び立ち、わざと身体を軽くぶつけた。 「あの、なに? いえ、何かしら?」 「店内で棒立ちしてたら不審者でしょ? だからせめて、服を眺めてるような立ち位置に来たわけ」 「お店への素敵な配慮ね。監視カメラもあるでしょうし、ええ、それは理解できる。でも、どうしてぶつかってきたの? どーんって、なに? 貴女、そんなキャラクタじゃないでしょう?」 「そうでもないよ。私、結構おふざけするよ。気分や勢いで行動決めるし、何も考えてないことだってある。思考が発散して、突拍子もない発想に流されて、意識が何処かへ連れて行かれてることだってしょっちゅうだしさ」 「そうやって論理的に返答できる時点で、考え無しに行動するタイプではないでしょうに」  そう溢しながらも、栞奈は笑ってくれた。  やはり黙っているよりも、こうして話をしている方がいい。会話が無いと空気が淀むし、互いの意思が循環しない。穏やかな沈黙は好きだけど、気まずいのはいやだ。大袈裟に盛り上がる必要はない。ただ、少しずつでもいいから仲良くなれたらな、という前向きな気持ちに支配されていたい。小さくてもいいから、お互いに満たされていられたらな、と思う。 「……貴女から見て、このスカートは、どう思う? 自分で履いてみたいと思う? 周防さん達に履かせてみたいな、って思う?」  すぐ目の前にずっとあるスカートを片手で手繰り寄せながら、栞奈が聞いてきた。 「お洒落なデザインだとは思う。ただ、私は自分で履くなら、黒のレザー材質のショートパンツとかがいいかな。ゆきとさきには履かせてみたいね。ふたりとも足長いから似合うし、映えそう」 「黒革にシルバーチェーンだから、合わせるなら、やっぱり黒のストッキングかしら?」 「もしくは、白の髑髏がプリントされたニーソックスかな」 「あら、そういうのがあるの? なら、そっちのがいいかも」 「何かしらもう一枚、履かせたいよね」 「うん、そうね。足全部出すには、まだ時期が早いもの」 「あっ、そっちか」私は笑いながら応える。 「えっ? どっち?」  栞奈が不思議そうな顔をこちらへ向けた。 「こんな短いスカートを履かせたら、さきとゆきが魅力的過ぎるからさ。一緒に街歩く時とか、私、足見ちゃう」 「貴女……意外と破廉恥なのね」  栞奈は片方だけ眉を上げて言った。 「そうかなぁ。ていうか、破廉恥って、もう死語じゃない?」 「じゃあ、えっちだわ」 「それは直線的過ぎる」  結局、栞奈と一緒に店内を見て回った。  並んで通路を歩きながら、コンスタントに立ち止まって服を眺め、意見を交換する。  ふたりにはどれが似合うだろうか、自分が着るならどれか、この服は好み? こんなのはどう? 普段は、他にどんな服を着ているの? そんなやり取りをしながら過ごす。 「今更だけど、私の話し方に違和感あったら、ごめんね」  取れてしまった両目を手探りしながら膝をつく、そんな様子のうさぎさんがプリントされたパーカーを手に取りながら、栞奈は唐突に言った。 「私さ、中学の頃から、周防ちゃん達の真似して御嬢様言葉を使い始めてね。振られちゃった後も、意地になって、未練もあって、忘れたいのか、追いかけたいのか、自分でも分かんないような、そんな感情に引っ張られて使い続けてるうちに、どうにも抜けなくなっちゃって。素の話し方と頻繁に、ごっちゃになっちゃうの。言葉が聞き取りにくかったり、意味が分かりにくかったりしたら、ごめんなさい」 「気にしないで。それだけ真剣かつ一生懸命だったわけでしょ? その努力と、こだわりは、素敵なことだよ」  栞奈が手にしているパーカーを眺めながら私は応える。 「そういえばさ、中学の頃も、周防ちゃん、って呼んでたの?」 「ええ、そう。私、どうしても二人を見分けることができなくて、せめて当たり障りがないように、この呼び方をしていたの。周防ちゃん、周防ちゃん達、って」  そこまで言って、栞奈は視線をこちらへ向けた。 「貴女は、二人を見分けられる? 正確に、絶対に間違えたりせずに、二人を傷つけないように、いつも名前で呼んであげられる?」 「うん」  真剣なその目と問いに対して、私は間髪入れず頷いた。  それを受けた栞奈は一瞬、驚いた表情を見せ、次いで、ふっと息を漏らした。 「そっか、できるんだね。ええ、今ので、とてもよく分かったわ。嘘じゃない。つまらない見栄でもない。自信が感じられた。貴女は持っているんだ。私が欲しかったものを」 「あのさ、嫌味とか自慢じゃなくて、真面目な質問なんだけど、こう、好きな相手の特徴って、体感で理解できてこない? 違いとか、癖とか、言葉として羅列できる要点として、挙げようと思えば挙げられるけど、そういうんじゃなくて、この人はこういう人だ、自分の彼女はこういう子だ、って時間をかければかけるだけ、分かってこない?」 「貴女が周防ちゃん達と上手くやれてる理由が、また一つ、分かった気がするわ」  手にしていたパーカーの同じ箇所、うさぎさんの飛び出した目の空洞部分を指先で何度も触りながら栞奈は溢した。観察するに、指先でものを触る癖があるらしい。新発見。 「中学の頃の私には、それができなかった。しようとしていなかったし、そういうふうに見ようともしてなかった。頑張っているつもりで、それが空回りしてる自覚もなくて、そもそも頑張るようなことじゃなくて、ようするに、好きの気持ちが足りなかった。気持ちが内向きで、周防ちゃん達の方へ向いてなかった。ダメだった部分を反省して、何が原因だったのかが分かったつもりでいる今でも、きちんと見分けられる自信は、やっぱりない。好きになった人を、人達を、傷つける覚悟がない。前のめりになり切れないの。どうしても保身が前にきちゃう」 「それが普通だと思うよ。誰だって、好きになった人を傷つけたくはないだろうし、自分が傷つくのだって嫌なものだよ。尻込みしちゃうのは、おかしなことじゃない」 「でも、貴女は違う。そうでしょう? 傷つけることから目を背けなかったし、傷つくことからも逃げなかった。痛い思いをすることを、いと……いと、えっと、なんだったかしら……」 「厭わない?」 「そう、それ。厭わなかった。実際、痛かったでしょう? 痛い思いをしたのでしょう? 向き合うために傷ついて、傷つけるつもりはなくても傷つけてしまう瞬間もあったりして」 「うん、そうだね。楽しい想い出ばかりじゃないかな。喧嘩もしたし、悲しい話もした。できる限り共有したし、泣き顔も見せ合った。こんな短期間で、激動が過ぎる気もするけどね」 「そう、そこなのよ。私とは、そこが違う」  言いながら、栞奈の片手が、私の肩を掴む。  軽く引かれる。  引き寄せられる。  思いの強さと、未だ漂う後悔の記憶が、そうさせるのだろう。  恋の作用だ、と発想した。  恋には、後ろ髪を引く余韻がある。  良い意味でも、後味の悪さという意味でも。  栞奈は、それを経験している。  それを今でも、噛み締めているのかもしれない。  よく、私と一緒に居てくれるな、と改めて思う。  私が彼女の立場なら、元カノなんて、やっぱり手にかけていたかもしれない。  それくらいには抑制が難しく、割り切り難いものなのだ。恋をしていた、という感情は。 「聞いた限り、貴女の交際期間は、私の中学の時の交際期間よりも短いのに、それなのに、私よりも周防ちゃん達の心に、より多く入り込めてる。そこが意外だった。ホントに驚いたわ。正直、嫉妬もした。だって、あの周防ちゃん達だよ? 気分がころころ変わって、悪戯好きで、意外と毒舌で、優しい人格者にみえて、とっても冷たい部分を抱えてて、それを普段は見えないところに隠してる、そんな二人だったから」 「そうだね。そういう面は、うん、確かにある」私は頷き、同意した。 「それでも……それでもね、不思議な心境の変化なのだけど、貴女になら負けてもいいかな、って思うようになったの」  ゆっくりと、私の肩を掴んでいた彼女の手が離れる。  制御している、と理解。  栞奈は、理性的な人格を獲得したのだ。  もしくは最初から、備わってはいたのかもしれない。  発現させる機会を逸していたのか、そうしようとしなかっただけで。  少なくとも、この子は自分で言うほど幼くはないし、未熟でもない。  足りなかったのは過去のことで、隣で語る彼女は充分に立派な女性。 「未だに勝ち負けなんて言ってる時点で、周防ちゃん達に対して失礼になっちゃうかもしれないけど、私にとっては、そういう価値観で、誰が相手であっても負けたくなかった恋のはずで、それでも、貴女と知り合って、喧嘩をして、お話をして、貴女をこうして少しでも、理解できたつもりになるとね。貴女の能力の高さに驚きながら、順調な交際をほんの少しだけ羨ましく思いながら、この恋に関しては、私の負けでいいかな、って、気持ち良く執着を手離せるの。言ってること可笑しいよね。どういう感情の変化なのかしら。こうして改めて言葉すると、やっぱり矛盾しているというか、支離滅裂だと自分でも思う。でもね、これが私の素直な気持ちなんだ。整理をつけたつもりな、ストレートな伝達」 「青木さんは、直線が好きなんだね」 「ええ、いつでも、誰が相手でも、真っ直ぐが好き。分かり易くて、間違わないから」  そう応えつつ、栞奈は私の肩を人差し指で軽く突いた。直情のジェスチャーと、誰へ向けてのものなのか、という意向の再表明と理解。 「素敵な考え方だと思う」私は微笑み、そう告げた。 「本当? 鬱陶しいとか、あてつけがましいとは感じない?」 「ないね、全然」 「少しでも引っかかるところがあったら、遠慮なく指摘してね。貴女とは、下手に飾ったり、誤魔化したりせずに言葉を交わしたいわ」 「それも、全面的に賛成。私もそうしたい」 「ああ、でも、不思議だわ。貴女とこうして、こんなふうに打ち明け合って、解け合うなんて、想像もしてなかった。周防ちゃん達のことだって、大事な想い出であると同時にトラウマだったのよ。それをこうして誰かと共有しながら笑って話せる日がくるなんて」 「人間って、そういうところあるよね」 「そういうところって?」 「不動だと認識していた価値観が急速に変化したり、自分でもよく分からないうちに納得できていたり、意外な方法やきっかけで感情に折り合いをつけられたり、絶対に嫌だ、認められない、って拒絶していた他人の意見や存在への印象を、切り替え一つで捻じ曲げられたり、っていう自己変革がね、唐突にやってくるんだ。些細なきっかけか、一大事か、理由は色々だけど」  説明しながら、私は栞奈の手から、彼女が執拗に目の箇所を触っていたパーカーを優しく取り上げる。 「あぁ、そうね。よく分かるわ」  頷きながらも、栞奈は私の行動に首を傾げた。首の稼働に過負荷が掛かっている。 「えっ、それ、買うの?」 「えっ? うん、買うよ」 「それを買うの?」 「話しながら眺めてて、可愛いな、って思ってたんだ。これ、センス良くない?」 「可愛い、かしら……? 本音を言わせてもらうと、ちょっとグロテスクというか、独特のセンスね、っていう感想なのだけど」 「そこが良くない?」 「嗚呼……私、貴女のことを、まだまだ理解できていないみたい」 「大袈裟だなぁ」  私は笑いながら、自分の身体の正面にうさぎさんのパーカーを当てがってみせる。 「ね? 可愛いでしょ? 着てみたくない?」 「言うまでもないことだと思っていたのだけど、あのね、うさぎさんの目が恐いわ」  グロテスクと評されたうさぎさんのパーカーを購入後、私達はお店から通りへと出た。  気に入ったのはこの一着だけだった。これをプレゼントの一つ目とするか、自分で着る用にするかは保留。ふたりへのプレゼント探しも保留。余裕があるという状態は、やはり良い。あらゆる選択を可能にできる。  目下、向かう先はカラオケだ。個室に入り、もう少し話そうということになった。 「ねえ、立花さん、意地悪かもしれない質問してもいい?」隣を歩く栞奈が口を開いた。 「なに?」 「中学から進学するにあたって、女子高に入りたいとは思わなかった? 勿論、この近くで女子高となれば私学だから、お金もかかるし、堅苦しいイメージもあったかもしれないけれど、貴女も私も、同性が恋愛の対象で、男性は恋愛対象外なわけでしょう? となれば、始めから、そういう限定された空間で生活しよう、その方が気楽だから、自分には合っているだろうから、ってならない? こういうのって、人それぞれだとは思うけれど、でも、どうだったのかなって、聞いてみたくて」 「女子高かぁ……」  呟きながら私は、視線を通りの奥へと放り投げる。何を見るわけでなく、思考のために。  栞奈の疑問は、もっともだ。  私の【好き】は、大衆総意の【好き】とは異なる。異性間での恋愛が常とされる世の中で、恋愛対象となるのは女性だけ。男の人が過剰に嫌いなわけではないけれど、興味の対象には決してならない。興味の無い相手に自分から関わりに行くほど、私はアクティブな性格をしていないので、同性以外と距離ができるのは必然。  それでも、女性が相手なら誰でも良い、同性相手であれば、全員を恋愛対象として見ている、取って食えそうなら喜んで食いつく、などという下品な大食漢では全然ない。性欲の赴くままに行動する尻軽女でもなければ、愛情に飢えた寂しいだけの輩でもない。  けど、だからこそ、私のこれまでの人生は、このような有り様だったのではないか、と最近になって発想した。  好意を向ける対象が他人と違うことで己を卑下し、他人とは一定距離を保ってきた結果、深い人付き合いができなかった。齢十五まで、親友と呼べる間柄の人間は男女に関わらず不在。故に、人間関係について相談したり、助けを請うことなどもできなかった。中学在校中は、好きの対象が同性であることをひた隠しにしていたにも関わらず、同級生の女子達から、するりと看破されてしまい、遠回しな軽蔑、畏怖の情念、奇異の視線を向けられたり、心無い文言を手渡しされるという結果に終始した。卒業まで、それは変わらなかった。  同性が好きで、異性に興味がないくせに、何故女子高へ進学しなかったのか?  問いに対する答えは、この一言に集約できる。 「多分、怖かったんだよね」  ちらと栞奈へ視線を向けてから口を開く。 「女子って基本、男子を好きになるじゃん? 小学生の頃にはもう、好きな男の子の話をするし、好きな男子のタイプを語り合うし、男女が恋愛する漫画や映画に夢中になるし、自分もときめきたい、素敵な恋愛がしたい、そのシチュエーションに自分を投影する。恋に恋し始めるんだよね。顔の良い男子との恋愛を、男の先輩とか、男の先生に恋してみたりして」  感情が先行しそうになるのを諫めている自分の一部を自覚。  むきにならずに話しなさいよ。自分の考えを述べているだけじゃない。  たったこれだけのことに自制が必要だなんて可笑しなの。我ながら、まだまだ幼稚。 「そんな周りの子達の気持ちや変化に、全然共感できなかった。小学四年生の頃に、自分は同性が好きなんだ、って判ったんだけどね、そこからずっと、可愛い子は構いたいと思ったし、美形な子に優しくされたら胸が熱くなった。一緒に過ごして楽しい相手は女の子だったし、手を繋ぎたい相手も、デートしたい相手も、キスをしたい相手も全部、女の子だった。こういう他人とは違う部分って、隠したくなるじゃん?」  自分の過去を語っている。  自分の弱みだった部分を晒している。  それでも、それなのに、あまり苦痛じゃない。  つい先程、感情が先行しかけたというのに、話していると違ってくるから不思議。  会話という他者の介在による条件からか、思考と対話を担う人格が異なるためか。  どうしてだろうと探りたくはあるけれど、止めて欲しい、などの抵抗は感じない。 「同性が好きっていう自分の感覚を、コンプレックスに感じていたのね」 「うん」  栞奈の言葉に対して素直に頷いてから、私は言葉を続ける。 「ひたすら大人しくしてたんだ。学校でも、プライベートでも、猫被って、無害であろうと努めてきた。告白なんて、もってのほかだと思ってたし、そこまで特定の誰かに入れ込むこともしなかった。できなかったのもあるけど、やっぱり積極的になるのが恐かった。それでも、気づく子は気づいちゃうんだよね」 「仕方ないよ、女子は鋭いから」  栞奈は言った。柔和な声で同調してくれた。 「そう、鋭かった。一番最初に、立花さん、もしかして、私達のこと、そういう目で見てる? って聞かれた時は心臓に水が入ったかと思った。生きてる心地しなかったね。それからすぐに噂が広まって、ごめん近寄らないで、ホント無理、気持ち悪い、って言われるようになって、露骨に避けられるようにもなった。最後の方は無視されてた。まあ、囲まれて殴られたりとか、制服脱がされたりとかのいじめに発展しなかったから、まだ良かったんだろうけどね」 「全然、良くない。そういうのは、良いとは言わないよ」  先程とは打って変わって、栞奈の口調が怒気を含んでいたので、私は思わず顔を向ける。  同時に、栞奈の手が、私の手を握った。  あ。  やばい。  これ、浮気になる。  動機はどうあれ、手を繋いでしまった。  起きたことへの反応より、ふたりのことが頭に浮かんだ自分に、少しだけ安心してから、やや呆れた。恋に焦がれていないだけで、恋に飲まれてしまっているのは、私も同じ。 「つまらない好奇心から、つまらない質問をしてしまって、ごめんなさい。辛かった記憶を引っ張り出させるつもりはなかったの。話させてしまって、本当にごめんなさい」  隣で私の代わりに怒ってくれる、真面目な子。  私の代わりに泣きそうになってくれている、複雑な関係性を帯びた女の子。  同意もなく、しかし優しさから不意に繋がれた手は熱い。  何が彼女の中で、このような熱を生み出すのだろう?  これほどの熱量を自分以外の者の為に宿すことができるのは何故?  可愛らしい顔を歪めて、涙が浮かぶのを押し留めている。見れば、それが分かる。  他人の為に泣ける、というだけで美しい。唐突の指先からも、それは伝播している。  恋敵であった過去の刻、物理的に振るわれた排他の意志、今なら全てを赦してしまえる。  差し出された優しさを、同情を、波打つ感情を、余すことなく、邪推することなく、受け留め、受け入れることができた。  この子には単純な部分がある。初対面の時から、そう感じていた。  その単純とはつまり、穢れ無き純粋さのこと。  多くの者達が成長を経て、年月と引き換えに失っていく、最も綺麗な心の姿。  この子はまだ、それを有している。  故に美しい、と笑みが零れるのだ。  美しいものを前にすると、人は無意識のうちに開放されるから。 「気にしないで。もう過ぎたことだから」  繋がれたままの手を軽く揺らしながら私は言った。 「でも、辛かったでしょう?」 「まあ、そりゃあね」 「私はね、女の子が好きだって気づいたの、中学に入ってからだったんだけど」  栞奈が話し始める。人差し指を自分の鎖骨辺りに当てながら。動作がいちいち可愛らしい。未完成の魔性、が適当な呼称だろうか。深い意味はない。 「女子中高一貫校特有なのかなぁ。私以外の周りの子達もね、おふざけと本気の入り混じった女の子同士の関係が出来上っているの。教室内でイチャイチャしたり、普通に付き合ったりしてる子達がいる。そういう関係を間近で見ているから、あまり違和感を覚えることがなかったというか、コンプレックスとして捉える機会がなかったのよね。自分は周りと違うんだとか、これ、どうしたらいいんだろうって悩んだり、隠さなきゃ、って一生懸命になったりすることがなかった。だからこうして、貴女の話を聞いて、私、驚いたの。自分の世間知らずな部分にも腹が立ったし、貴女の中学生活が、恋愛対象が同性だったただそれだけのことで、嫌な思いをしたり、楽しくなかったり、辛い思いをしていたり、そんなのって、あんまりだと思ったわ。ごめん、伝えたいことが、とっ散らかってて」 「大丈夫、ちゃんと伝わってる」私は笑いながら応えた。  栞奈の言葉は、単純な言葉以上の効果を伴ってくる。  複雑な情を具現化させた、温かくて、独特なもの。  不快感などありはしない。期待と意外性はある。  私は、ゆきとさきの元カノと話をしている。  こんな普通に、まるで友達のように。  知りたいと思う。この子のことを。  これは変化か、それとも変革か。  ともかくとして笑みが零れる。  今に至る自分の変わり様が。  やはり可笑しかったから。  カラオケ店に着いた。  フロントで手続きを済ませて、階段を使い、二階へ移動。セルフサービスのドリンクコーナーでブラックコーヒーを色の付いたグラスに注ぐ。栞奈はメロンソーダだった。グラスの縁で耐える表面張力に気を遣いながら、私達は個室へと入る。  ソファへ腰掛け、何かを話し始める前に、私は運んできたコーヒーにまず口をつけた。  とにもかくにも、人間はコーヒーを飲むべきなのだ。一口でも効果的。この暗黒色の液体には、万事と世界の法則をあるべき姿へと修正し、思考を透過させ蘇生する、そんな力が宿っている。コーヒーとは、まさに神懸かり的な作用もたらす顕在化した魔法そのものなのである。  過剰だろうか? 期待と理想の加積かもしれない。一種の錯覚かも。もしかして私だけ?  けれど依存しているのは事実で、信頼しているからこその効能であるのは確か。 「ブラックコーヒー飲めるの、すごいなぁ」  ストローに添え手をしながら上品にメロンソーダを一口飲んだ栞奈が、こちらを見て呟いた。 「そうかな」 「苦くない?」 「苦いよ」 「苦いのが美味しいの?」 「うん」  私は口元を緩めながら頷く。素直な問いかけの重複が微笑ましかった。 「周防ちゃん達もさ、コーヒー飲めるよね。お砂糖とか入れずに、そのままで」 「あ、中学の頃からそうだったんだ」 「ええ、私の知る限りでは。今でも相変わらず?」 「そうだね。例えば、私がコーヒーを淹れる時は、さんにん分ブラックで作るよ」 「そうなのね……あら?」  言いながら栞奈は上目遣いになりつつ、テーブルにゆっくりとグラスを置いた。 「ということは、もうお互いのお家へ遊びに行ったりしたのね?」 「あぁ、うん。してる」 「どちらがどちらのお家へ行くことが多いの?」 「割合でいうと、私の部屋に招く方が多いかな。ふたりの部屋には、放課後に少しの間だけお邪魔する感じ。いつも、ご両親が帰ってくる前に、なるべく早く退散する」 「いいなぁ。私、周防ちゃん達のお家にお邪魔したことないんだ」  栞奈は心底羨ましそうな表情をしながら言葉を続ける。 「何回か提案はしたんだけど、悉くタイミングが悪かったせいか、私がそこまで信用されてなかったからか、遊びに行きたいって告げても、適当にあしらわれたり、誤魔化されたりで断られてた。今になって振り返ってみると、考え無しに提案してた私の問題行動なんだけどね。周防ちゃん達には周防ちゃん達なりの、その時々の事情や理由があったかもしれないのに、何も知らない人間から、衝動任せで毎回のように迫られていたのは、相当に鬱陶しかったかもしれないわ」 「その時期のことを後悔してるわけだ」 「ええ、してる」 「心残りでもある?」 「ええ、そうね」 「ねえ、中学時代のふたりの話、もっと聞きたいな」  コーヒーを一口飲んでから、私は提案した。 「面白かった出来事とか、印象的だったやり取りとか、思い出せる範囲でいいから教えてくれない?」 「貴女、やっぱり変わってる」栞奈はふき出しながら応える。 「普通は、恋人の過去ののろけとか、自分以外の誰かとのエピソードって、聞きたいような、そうでもないような、どこか恐くて、躊躇ってしまうものだと思うんだけどな」 「私以外の人達は、そうかもね」 「貴女は違うの?」可笑しそうに栞奈は聞く。 「私は例外」 「へえ、どうして?」 「変わり者だから」私は肩をすくめながら言う。 「あら、珍しく誤魔化してる。ちゃんと聞かせてよ。そうしたら、私も話すわ」  栞奈は手を伸ばして私の肩を小突きながら、そう返してきた。  あら、と返してあげたくなる。  なかなかどうして、鋭いものだ。  女子同士の間で励起される察知機能、所謂、女の勘だろうか。  もしそうであるならば、恋をした対象、愛する相手が、同性であっても機能することは、素直に喜ばしいといえる。  脱線しそう?  そうかもしれない。  答えてもいいだろうか?  いいかもしれない。  それほどに信頼している?  少なくとも、疑ってはいない。  開け始めている。口を、心を、精神の一部を。 「私さ……ふたりの過去が知りたいんだよね。できるだけ多く正確に、他人から見れば病的かもしれないくらいに。ふたりも、内容によっては良い顔をしないかもしれないし、場合によっては嫌がるかもしれないけど、それでも、自分が知らないふたりの顔がある、っていう現実が、たまらなく嫌なんだ。どうしてそこまで? そんなに気にすること? 気にするにしても限度があるでしょう? そんなふうに指摘されたら反論できない。自分でも過剰だと認識しているから。それでも、どうしても知りたい。知ることで自分が傷ついたりして構わないから、誰の口から語られて、どんな遭遇の仕方だったとしても受け止めるから、私の認知していないふたりの姿をできるだけ減らしたい。そんな事実がある方が耐えられない。自分の行いがおかしくても止められない。大好きだから、心の底から愛しているから、不鮮明さを、黒くて分からない部分を、根こそぎ無くしてしまいたいんだ」 「あらら、予想よりもずっと重症ね。うん、それでこそ、その答えの方が、ちゃんと貴女らしい」  栞奈はくすくすと笑いながら、私の肩をまた小突いてきた。痛くはない。柔らかな戯れ。 「今のを聞いて、真っ先に思い出したやり取りがあるわ。周防ちゃん達とお付き合いを初めて、二週間経ったくらいだったかしら。二人からね、本当に好きの証明として、自分の指をどれでも良いから切り落として、私達にプレゼントして頂戴? って頼まれたことがあったの」 「えっ? マジで?」  さきとゆき、栞奈にそんなこと頼んでたんだ。  私の指は、まだ欲しがってもらっていない。  これは、ちょっと妬けちゃうかな。 「ええ、マジなの。本当にそう頼まれたの」  グラスの中の緑の炭酸を、ストローを介して一口飲んでから栞奈は続ける。 「こんなこと言われたら、びっくりするでしょう? 恐いと感じるでしょう?」 「びっくりはするだろうけど、恐くはないかな」  私がそう口を挟むと、栞奈は小さく首を傾げた。  私も小さく首を傾げてみせる。対応としては同等のはず。 「まあ、いいわ。いえ、良くはないけど、ひとまずは置いておきましょう。ええと、それでね、あの時はとにかく驚いたの。私の憧れで、沢山の他の女子達からも好かれていた、高嶺の花な御嬢様である周防ちゃん達が、こんな恐ろしいことを言い出すだなんて、とにかく意外で、何て返すのが正解なのか思いつかなくて、冗談で言ってるのか、まさか本気なのか、って色々考えちゃって、結局私は、もう、恐いこと言わないでよ、って笑って誤魔化して、流してしまったわ。そこでもっとちゃんと話を聞いて、追求をして、二人を理解する方向へ努めていれば、心理的なものか、関係性か、互いへの信頼か、どれか一つでも、今とは違うものが得られたんじゃないかって、ぐるぐると長らく考えることになったわ。うん、この一件も、後悔のうちの一つね」 説明し終えた栞奈はグラスへ視線を落とし、軽く揺らしてから再度、視線を私へ戻す。 「もし、立花さんが同じことを頼まれたなら、なんて返す?」 「いいよ、って言う」  即答した私へ、栞奈は目を見開いて表情を変えた。  とんでもないものでも見るかのような、そんな顔。  ちょっと面白い。写真撮ったら怒らせちゃうかな。 「ホントに?」 「うん」 「本気?」 「うん」 「物を頂戴とねだるのとはわけが違うでしょう? 痛みに耐えて、指を切り落とさないといけないのよ? とても現実的じゃない、そうでしょう?」 「うん」 「それでもいいの?」 「逆に聞くけど、どうしてダメなの? 何が嫌なの?」 「貴女……やっぱり、その、相当に“あれ”ね」 「なに“あれ”って」笑いながら私は聞き返す。 「えっと、ちなみに、どの指にするの?」  その聞き方もどうなの、と笑いつつ、私は答える。 「小指かな。一本でいいなら左手の、一本ずつ欲しがられたら、両手の小指一ずつ」 「どうして小指なの?」栞奈が首を傾げながら聞いてくる。 「小指にはね、絆とか、確かな信頼、って意味があるの。だから、小指を切り落として特定の相手に差し出すっていう行為は、信頼の証を貴女に捧げます、って意味になるんだよ。左小指の場合は特にね」 「……あぁ、そういうことだったんだ。うわぁ、そういうことかぁ……」  私の答えを聞いた栞奈は急に頭を抱え、テーブルの上へと額をぶつけた。 「ちょっと、大丈夫? 痛そうな音したし、ていうか、何してるの?」 「私の中で答え合わせができただけだから、気にしないで」  栞奈は机に額を付けたまま、くぐもった声で応える。 「周防ちゃん達は、きっとさぁ……それくらい重くて、他人から見ればおかしいって、重過ぎるって感じるくらいに愛して欲しかったんだろうなぁって……私には、それが理解できなかった。理解するよりも先に、恐がって逃げ出した。自分の感情ばかり優先していた。だから、二人の心に入り込めなかったんだなって……こうしてウジウジしてる今の自分も情けなくてイヤになる。昔と今を比較して、マシになったとか、まだ足りないとかさ、周防ちゃん達の中での私の順位がどれくらい改善されるだろうとか、しょうもないことを意識してる。下手をすれば私、中学の時よりも悪質になってるかもしれないわ。一番必要とされていた時でさえ期待に応えられず、二人の周りをうろうろしてるばっかりだったくせに……何よりね、これだけ考えても、未だ後ろ向きな思考で自虐に逃げている自分自身に興ざめしてる。こんな人格だから、フラストレーションの積み重ねばかりを晒してたから、振られたんだなって……あぁ……」  行動の理由を解説してくれながら、重篤な自己嫌悪に苛まれている栞奈を横目に、私は静かにグラスを傾けてコーヒーを飲んだ。  そういう筋合いではない場合、私は文句を言ったり、過度に掘り下げたりしない主義である。今がまさにそうだ。そういう場面である。  この子の邪魔をしてはいけない。  過去と今にまたがる想いの消化を妨げてはいけない。  こうした積み重ねを経て、己を省みて、新たな志を見つけ出して、人間の成長はようやくに成されるものだから。  しばらく呻いた後、栞奈が私の服の袖を引いた。  私は彼女に微笑みかけ、片手で軽く頭を撫でてあげた。これも浮気だな、と考えながら。  この子の過去を、内に残存している後悔を、しかし、どうしてあげることもできない。  私は、この子ではない。絶対的な“個”として異なる。  この子の内面を、私の意思や、私の手で、どうにかしてあげることはできないのだ。  受け流すには、あまりに巨大な劣情、無関係だと割り切れない、確かさの宿る理屈。  織り成す軌跡と、奇跡的に形成された繋がりの円環が作用して生み出された出会い。  故に、此処にいる。  由縁あって今のである。  攻撃を止めて、意思を介し終えて、赤裸々な想いの披露宴と、議論の場として、この箱が機能している。  元来、人は怒りや諍いの為に発した暴言よりも、泣き顔のまま紡がれる静かな告白を、より鮮明に記憶する生き物で。  悲愴な表情が、潤んだ目が、互いの胸をより穿つ。凄まじい破壊力を伴って。  滲み出してこようとする過去を必死に抑えつけ、一つ間違えば大泣きし始めてしまいそうな強がりで防御して。  だから、やはり哀しさとは、取り返しのつかない喪失の時間そのものの姿なのだと、再認識させられる。涙を伴うのは必然というもの。 「貴女はいつも、私を雑に扱わないのね。こんなに面倒臭い女なのに」  ようやく上げた顔を私へと向けて、栞奈が言った。 「沢山の理由があって、目を離せなかったからね」  空になったグラスをテーブルに置きながら私は応えた。 「今でも、そうなの? だから、こうして気遣ってくれるの?」 「今は、どっちかっていうと、興味があるからかな」 「動機が変わったのね」 「そう、前向きな方向にね」私は頷く。 「前を向いているのね。それなら、うん、良いことなのかな」  テーブルから離れ、手櫛で前髪を直しながら栞奈が呟いた。 「後ろ向いてるように見える?」  冗談でそう聞くと、栞奈はゆっくり口角を上げたかと思うと、小さく自分の下唇を噛み、私の肩を小さく小突いた。 「貴女は本当に……周防ちゃん達もだけどさぁ……うん」  呟きながら、栞奈は私から視線を外し、テーブル上からメロンソーダの入ったグラスを手に取る。ストローに指を添えて上品に、しかし一気にそれを吸って飲み干した。 「貴女達三人共、本当に自由だな、と感じるわ。その囚われなさが羨ましい」 「あ、自由って言葉は好き。いつも自由でいたいと想ってる」 「うん、そんな雰囲気あるよ」 「えっ、そう? 自覚ないな」  笑ながら、話しながら、考える。  この子への印象は、ころころと変わる。  単純な、一辺倒な、捉えやすい人格では、やはりない。  栞奈の本質は、攻撃的で独り善がりなものではないのだ。  柔和で、シンプルで、影響を受けやすく、壊すよりも同調を優先しようとする、そんな実態だと私は解した。  たとえ素直に共感できなかったとしても、相手が発した理屈を解しようと試みてくれる。一般的な解釈に当てはめてみても、やはり栞奈の、つまり自分の主張の方が正しいと認識されるに違いない。その結論に辿り着いてなお、私の人格や思考パターンを受け留めて、そのままにしておいてくれた。さきとゆきに対してもそう。ふたりの特性と特徴をある程度知っているからこそ、強引に常識を押し付けるのではなく、ああ、そういう選択をしたんだね、そういう生き方もあるのね、と手離して観察することができている。一歩引いた位置から感想を述べることができる。それがこの子の能力で、秀でた部分。優しい観測者、とでも表すれば適当だろうか。  素晴らしい機能で、私達とは異なる成長の方向性を示している。これこそを、人間個々に発現する個性というのかもしれない。  そして、私やゆきとさきと、どうにも噛み合わなかった、その理由の一端でもある。  今更に責めているわけじゃない。善し悪しではない。ただ単純に、そこにある事実としての解答を見た、という静かな納得。  基本的に、あのふたりの愛は重過ぎるのだ。  寄り添う者を破滅まででも構わずに引き込む、関わる者全てを当事者としてしまう、そんな愛し方しかできないし、ふたりがふたりとも、そう望むから。そこまでを望んでしまうから。  大抵の者達は皆、求められた中身に慄き、逃げ出してしまう。もしくは、ふたりから呆れられて、見限られて、見切りをつけられる。  誰だって、我が身が唯一で、一番に可愛いくて。  誰だって、自分の望みは素直に飲んで欲しがるもので。  そうした常識的な共通認識を覆すことができる者は、どうしたって少数派。  私が現状、唯一の例外であったから、ふたりを射止めることができただけ。 本当にたまたま、自分を優先しない稀有な人格をしていた。自分という存在があまり大切ではなくて、断じてしまうなら自棄的で、曖昧な自我や身体よりも、さきとゆきを優先したかった。ふたりの全てが私の全てだから、というスタンスだった。惚れた相手の希望は、何よりも優先して叶えてあげたい、と考える質だった。  勿論、私自身の死生観も動機として絡んではいる。  死について考えてナイーブになることよりも、無為に生き永らえることの方が、よほど恐ろしく、嫌だな、と感じる。無味を食らう人生に、はたして価値は在るのだろうか、と。  よく耳にする話として、死を迎える最期の時に、何の為の人生だったかと問われ、分からない、と答えてしまう、というものがある。  私は絶対に、そんな生き方をしたくはない。加えて、まだ死にたくない、と無様に縋るような真似も御免だ。  短くてもいい。儚くてもいい。  満足に時を過ごして、美しく散りたい。  物理的な長さばかりが正義じゃない。  生を生きる私が納得できるかどうか、それが全てだ。  独善的な思想だと指摘されても、マイナーな発想と嘆かれても、鼻で笑って返すだろう。  聞き齧った常識で、軽い軽い誰かの言葉や思想に流されて生きている者達なんて無視。  私は、私達は、誰よりも真剣に生きている。自分達の人生だと自覚をしている。  だからこそ、最期の時までをきちんと見据え、現実だと捉え、思考しているのだ。  報われないかもしれない淡い想いを抱いた者達は、そうした傾向を有するもの。  男女の恋愛のように、考える中身が、叶う叶わない、その二択では済まないないから。  見紛うほどに複雑で、とことん曖昧で、保障のない恋に戸惑い、身ぐるみに傷つき、それでも進まなければ、ミリほども可能性を掴むことは叶わない。どうして恋してしまったのか、どうすればこの恋は叶うのか、同性を愛することは罪なのか、この愛は罪なのか、もし罪なら、どうして愛情を感じてしまうのか、どうして愛して欲しいなどと願うのか、そんな問いかけの袋小路に迷い込むこととなる。  絶え間のない思考の繰り返しを経て、成功や失敗を経験して、より多くのジレンマと自問自答、風潮や圧力、タブー視やレッテルを見聞きした者達であるほどに、やはり真剣に、己の人生に向き合おうと思い立つのは、ごく自然なこと。同性同士の愛は、愛を介したその瞬間から、相手の人生を背負うことと同義だから。  私は、これくらい深く、重く、同性への恋を捉えていた。  だから、さきとゆきも満足してくれているのだと思う。  大き過ぎて、危う過ぎて、歪み過ぎているからこそに、噛み合ったのだ。  愛した人と、愛するふたりと、堕ちる先が奈落であっても愛していたい。  それくらいには、ふたりを愛している。だからこそ一緒にいられる。  まだ生きている。さんにんで過ごす今が楽しいから生きている。  大袈裟だろうか? 病んでいるだろうか? 人間らしい? 人間過ぎている?  でも、やっぱり、人間なんて、突き詰めていけば皆、こんなものではないだろうか。  明確なヴィジョンを常に携えて生きている者の方が少数派なはずで、目先の欲や、交わした明日の約束のために今日を生きている。頑張ってタスクを片付けようと頑張る。その積み重ねの先に、生がある。その繰り返しが、世に言う常ではなかろうか?  広いようで意外と狭い、自由なようで不自由な、それこそが世界の正体で、どうにか生きる動機付けをして、まだ見ぬ未知を求めて、人は今日を足掻き、明日に理想を託す。  何人も、私達も、例外ではあり得ない、ということ。  求める全てが達成された時、どうするか? 選択をすることとなるのか? 一体どんな?  それすらも分からない。決められるものではない。不確定要素が多過ぎる。簡単には見通せない。  こうして定義を晒してみても、自分の感性が、やはり修正すべきものだとは思えない。少なくとも致命的ではないはず。  私にとっての幸せは、私達さんにんで決めるから。  選択できる、という自由さこそが、幸福の証明だから。  “さんにんよがり”な思想だから、理解され難いのは仕方がない。それを悔いてはいない。  私達は、私達らしく、私達の好きなように生きるから。  世界は、道理は、法則は、どうか、そのままでいて。  大きく、騒がしく、大急ぎに、変革する必要はないから。  ただ、静かに、緩やかに、柔軟に、滑らかに、変化していけばいい。  争いや諍いなんて、誰も望んでいない。理想は人類皆同じ。幸せになりたい。それだけ。  多角に拡大し、高速で走っていた思考の各線は、その膨大さに似合わず、簡単に収束を始める。  その収束地点は、この上ない美奥。スケール的には、まさにコズミックラブ。  壮大な愛だ。どうしようもなく愛してしまっている。  でなければ、どうして人間のことなど考えるだろう?  内心、私の内のひとりがふき出す。  取り留めもないことばかり発想してしまうのね、と。  こうして思考が脱線したり、独り歩きのような動きをしたがるのはきっと、面白さを求めてのことなのだろう。  面白さとは、新たな知見のことであり、踏み込んだ表現をするなら、危うさのことでもある。  危ないからこそ面白い。危なくないものは、つまらない。幼い時ほど、こうした感覚を自らの肌で記憶したことは論を俟たないだろう。リスクのない単純作業に対して退屈という蔑称を付けるのと同義である。  リスクを愉しみ、広大さに身を投じて、終わりを待つことを嫌い、身を投じることを繰り返す。若いほどに重ねたがるもの。知的好奇心に突き動かされて忙しいから、正しさや保身なんて考えてあげる余裕はない。たとえ自分の為だったとしても、傷だらけになって構わないから。その先に待つ未知と愛を手掴みにできるなら、苦労も駆け引きも傷心も、この身で受けて立つ。勝ち取ってみせよう。苦労の先、挑戦の先にこそ、若者なりの未来がある、そうでしょう?  私と栞奈は連れ立って個室を出て、ドリンクバーで飲み物を入れ直し、再び部屋に戻った。  互いにグラスを傾けた後、栞奈が口を開いた。 「そうだ。ねえ、以前に言っていた、学校の保健室の先生から何かされたっていう話、あれ、詳しく聞かせてくれない?」 「ああ、そんなこともあったね」  ふき出しながら私は応える。 「気になるんだ?」 「ええ。だって、この前はさわりの部分だけだったでしょう? 思い返すのが苦痛でなければ、詳しく聞きたいわ」  背筋を伸ばし、真面目な表情で頷く栞奈を見て、私はまたふき出してしまう。気遣いと好奇心が反発性の違和感を生成している。そのさまが可笑しい。 「うん、全然いいよ。あれはね、本当に酷かったんだよ。まずね……」  私は過去を話す。  ほんの少し前の出来事を。  保健室の先生と何があったのかを。  その時、ゆきとさきと、どうなったのかを。  何を語り、何を思い、どう思考して、どう試行したのかを。  栞奈に話して聞かせる。  交わしているのは言葉だけ。  交わすことができるのは言葉だけ。  意思を乗せようと努力はしている。  けれど、どれだけ正確に伝達できるかは不明で不定。  広義か、狭義か、結局はその者の捉え方の違いに起因する。  ただ受け止めて理解する、それだけの工程でも困難は多い。  理屈を噛み砕くより先に感情が反応してしまい、理論構築の邪魔をする。他人への物理的な攻撃や排除行動は、自らが危機的状況に置かれている場合を除いて、基本的には不利益しか生み出さず、また人間同士の関係を悪化させるだけと明白であるにも関わらず。俗にいう、割り切れなかった、という心理状態である。体験してみたかったわけではないけれど、しかし実際に経験したことのある私としては、あの驚異的な高ぶり、抑制の難しい攻撃性の顕現を制することは、やはり困難であると評価せざるを得ない。  反省と認識の改定が必要だった。同時に、絶えず制御を惜しむまい、との新たな誓いも生まれた。思うがまま、言葉ですらない愚かな振る舞いは非生産的で人らしくない。感情任せに誰かを傷つけて、それを意に介することもなく、勝手気ままに振る舞うなど、動物と変わりがない。  たとえ、誰かと築き上げた何かを壊してしまって、それを元通りに直すことができなかったとしても、形を変えて再起することはできる。何事も、何人も、死に別れてしまった以外なら、改善の手段は選択できるほどには残されている。  そう。  違いなく。  だって。  ほら、見てよ。  私は、私自身に告げる。  この理屈は間違っていないよ、と胸を張る。  隣で無邪気に笑い、驚き、ころころと表情を変える栞奈が、その証。  ゆきとさきとさんにんで生きていく。そう決めていた。  それでいいと。それだけでいい。それ以外にはいらない。この身体すら惜しくないと。  ただ、こうして身体があるうちに、言葉だけでもと交わしてみると、予測していなかったことが起きるのだと、過去を共有することで未来へ志向できるのだと学んだ。  意外だったけど、嫌ではなくて、経験として、それこそ言葉として、私自身に浸透してきて、明らかな糧となってくれている。内側に織り重なって、美しい層を形成している。  争う花は、幾度かの夜明けと選りすぐりの言葉が織り成す作用で一区切りがついた。  泥に膝をついて屈することもなく、同時に排すため暴力の槍を突き立てずに済んだ。  恋敵と並び座り語らい、廻る陽を背に苦笑うことも、存外悪くないのかもしれない。
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