第二章 溜流の叡知(るりのえいち)

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

第二章 溜流の叡知(るりのえいち)

 私は目が覚めたら、何よりもまず先にコーヒーを淹れる。  女子なので、朝の身支度となれば当然、歯磨きや洗顔に始まり、化粧水や乳液を顔に塗って肌ケアをする。校則に引っかからない程度の抑え目なメイクもする。しかし極論、これらは出かける前にやっておきたい理想の行動であり、やらなくてはならないことではない。生物としての起動に不可欠ではない、ということ。  私の場合、あらゆるものより優先してコーヒーが居てくれないと活動を始められない。この齢としての相場、私という人間としての真価、それらを発揮できず、周囲から期待される、女子高生としてあるべき振る舞いを実現できない。ポジティヴな者はこれを魔法の液体の効能だと褒め称え、ネガティヴな者は依存性の問題だと指摘するだろう。どのような最終結論が提示されるにしろ、個人的には避けたいテーマの一つである。  出来上がった黒い液体をマグカップに注ぎ、キッチンのテーブル上に置く。未だ力の入らない身体をどうにか動かして椅子に腰かけ、スマートフォンを手に取り、ゆきとさきからの連絡の有無を確認。これ以上に性急で重要な情報なんてこの世には無い。  おはようの挨拶と体調の報告を交わし、いつも通りの時間に、ただし今日は適当なタイミングで各々登校することを確認。了解、また後でね、と返信。  落胆はしていない。不貞腐れたり、怒ったりもしない。日によって、時によって、行動が変化するのは生き物として、ごく自然。外的要因であろうとなかろうと、深い動機に由来する気分の変調であろうとなかろうと、とかく万事不変一律だけで過ごすことなどできはしない。変化は常に付き纏う。小さく、大きく、些細な、微細にでも、昨日と違った、これまでとは違った、そんな異なりは隣り合う。こうしたものと、私達も無縁ではない。  私達の場合は、しかしその法則に従ったからといって不都合があるわけでもない。数分後に会えないからといってどう困るというものでもない。数十分後には学校の教室で会えるし、会ってしまえば、そこから好きなだけお喋りすればいい。それだけの時間はある。今日も明日も、これからの人生にも、そんな自由時間が沢山待っている。  私達はまだ、たったの十五歳。これまでの人生よりも、これからの人生の方が長くて多い。焦ることはない。悔いるには早過ぎる。恋人同士としての、婚約者としての、そんな素敵な日々は、むしろこれから始まるのだ。  とりとめのない思考をしている間に熱拡散をして、温度がやや低下したコーヒーに、ゆっくりと口をつけた。これくらいなら飲める。私は猫舌なので、いつもこの瞬間はどきどきする。  マグカップを傾けるたび、カフェインが急速に吸収される錯覚を経て、小さな溜息が漏れる。神聖な飲み物だ、とつくづく思う。これ無しでは、もう生きられないだろう。苦みが絶妙に心地良い。脳内を爽やかに循環して、思考を活性化させる効能が認められる。科学的根拠は加味しない。そう思い込めることに価値がある。  視線を上げて、テーブル越し、対面の椅子を見る。  いつもなら居るはずの父がいない。主不在の椅子。  どうということはない。父は出張中。大学の准教授をしている父は多忙で、こうした日を跨ぐ出張や外泊はよくあることだった。大学内での催しや学会側の都合に合わせて動くので、それらが活発になる時期が近づくと途端に、目に見えて多忙となる。研究とは全く無関係なその多忙さを、父はたまにぼやいている。  やりたいわけでもない雑用や、自分が興味を抱いて踏み込んだ研究分野以外のことなど、確かにどうでもいいに違いない。誰だってやりたくない事とは距離を置きたくなるもの。  やりたいと感じて就く仕事は満足いくまでやればいいが、やりたくもないと嘆きながらする仕事は、やらなくて済む目算が立った時点でやらなくていい、と私は父から教わった。大人から、やらなくても良い、という言葉を聞いたのは初めてだったので、聞いた瞬間は驚いたけれど、社会というものを知り、肌で感じ、労働経験と育児を経験した父であるからこそ、必要と不要の取捨選択の結果を垣間見、そして理解しての教えだったと、今なら解る。世の中を器用に立ち回る術を教えてもらえるのはとっても助かる。自分で手探りをするよりはるかに効率的だし、練り上げられた経験則に基づく情報は本来、一朝一夕に手に入るものではない。ありがとう、という感謝の言葉が、父へ贈る私からの全てだ。  空になったマグカップを流しへと持って行き、洗う。  水を止めても、しかしまだ水音がすることに気づく。  テーブルの横を通り過ぎ、キッチンの端、縦長の窓のカーテンを少し開けて外を確認。  空は明るいけれど、視覚的にぎりぎり認識できる程度の小雨が降っていた。  一瞬のうちに対策の思考を巡らせてみたけれど、できることは結局、傘を持ち出すくらいしかない。昨日の夜に見た天気予報に雨とは書かれていなかったけれど、科学技術が発達した現代においても、予報や予測に絶対はない。突き詰めれば、そうした機器や計算式を扱う者のスペックや限界値に依存していると評価できる。人間が人間技を超えることはできないということだ。  雨音を聞きながら、私は気持ちが落ち込むどころか、小さく笑ってしまった。  小学生の時に少しだけ流行った、傘に関する引っかけ問題の心理テストを思い出したからだ。  今日、学校で、あれをふたりに話してみよう。  話題が見つかったこと、ふたりがどのような解答をするのか、その後の反応はどうだろう、そうした想像が既に頭の中を占め始めているため、自分は機嫌が良いのだ、と自己解釈。我ながら、幸せな人格をしている。  鞄を持って玄関へ移動。足下の棚から透明の傘を取り出して、独りふき出す。笑うのは、まだ早い、まだ早いよ、と自分を諫める。  扉を開けて、湿度の高い外界へと私は踏み出した。  今日も、今日が始める。  楽しめている学校生活。  ふたりと過ごす極楽園。  そりゃ、雨だって幸福。  楽しくて仕方ないもの。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加