露あがり

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 仕事柄、おれはスーツに馴染みがない。親が残した商店街のなかにある小さな酒屋の店番をしながら将来に絶望したり、絶望のあまり文章を書いたらそれがそこそこ評価されて、それ以来、雑誌やウェブメディアからたまに仕事をもらっているくらいの生活だ。聖のように大手広告代理店に勤めてる人間とは違う。腰に巻くエプロンさえあれば、あとはTシャツにデニムにサンダルばきでもこと足りる。そんなおれが、こんなにピシッとしたスーツが並ぶ店に入るのは、なんとなく場違いな気がした。  どこにどんな違いがあるんだかわからないスーツや、綺麗にたたまれて陳列されたワイシャツの棚を抜け、聖のあとに続く。奥のサービスカウンターにいるひっつめ髪の女に聖が声をかける。 「あ、榛名(はるな)さん」  女の店員は高めのトーンで返事をする。どうやら顔見知りらしい。 「こんにちは、(もり)さん。裾あげをたのんでいたスーツ取りにきました」  そんな台詞を鼻のしたを伸ばしながら言っている。あー、そういうことか。おれは手持ち無沙汰にそのへんに置いてあるハンカチのハンガーをぐるぐる回した。 「試着されて行かれますか? あ、でも榛名さん、お忙しいですよね」 「いえ、ぜんぜん。ぜひ試着します」 「それでは、どうぞこちらへ」  おれはひとり蚊帳の外でそんなふたりのやり取りを見ていた。 「なにかお探しですか?」  背後からずんぐりむっくりしたおばさん店員に声をかけられる。おれが「別に」というと、おばさん店員は「あ、そうですよね」なんて失礼なことを言って去っていく。感情にまかせて売りもののワイシャツを全部広げて帰ってやろうかと思ったが、二十八歳なのでさすがに我慢した。 「おー、ぴったりだー」  サービスカウンターの横にある試着室から間抜けな男の声がする。 「さすが森さん。ありがとう」 「私が裾あげしたんじゃないですよー」  なんてイチャコラしている。 「なあ、蓮。どうだ、似あうだろ」  そう言って腰に手をあて胸を張る。正直、それが似あっているのかはわからない。というより、そもそもどうして裾あげだけで全身着替える必要があるのかわからない。 「あ、お友達なんですか?」  そこからまた話が広がる。どうでもいいが、おれは早く帰りたいんだけどな。なんて思ってるうちに聖は試着室のなかに消えた。すぐにカーテンが開き、脱いだスーツをひっつめ髪の店員に渡す。 「それではおつつみしますね」  そう言って、白くて細長い綺麗な指で作業を始める。元のスーツに着替えた聖が少し離れたおれのところにやってきた。 「なあ、どうだった」 「おれにはスーツの良し悪しはわからん」 「違うよ、バカ。おれと彼女だよ」  それこそわからんバカと言おうとしたが、たまには気の利いたことでも言ってやろう。 「彼女も楽しそうにしてたよ。おれがうんざりするくらいにな」 「やっぱりか。ほかに好きな男とかいたらどうしようって不安になったりしていたが、こうやって第三者に客観的に言われると自信がもてるな。うん」  ひとりで納得しているが、まあ、いいや。 「榛名さん、お待たせしました」  そう言ってひっつめ髪がつつんだ商品を持ってくる。巨大な紙袋にはビニールがかけられていた。 「雨、降ってきちゃいましたから」 「え?」  その台詞に絶望した。ドアを抜けて外に出ると、聖に対して殺意が湧いた。 「いやあ、すまない」 「なんで、おまえの片想いの見学につきあわされたあげく、ずぶ濡れにならなきゃいけないんだよ」  目のまえではシャワーのような雨が降り、足元で小魚みたいに跳ねている。 「まあ、いいじゃねーか。おれだって新品のスーツがずぶ濡れになるんだから、それでおあいこだ」  こいつは、おあいこの意味をわかっているのだろうか。同じような業界で仕事をしているが、着ている服が違うように同じ言葉も意味がまるで違うらしい。 「さあ、帰ろうぜ」  ご機嫌な聖は土砂降りの雨をものともせずに、尻を濡らしておれのバイクにまたがった。やはり天気と人の心に相関関係はないようだった。
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