露あがり

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 ずぶ濡れになって聖を自宅まで送り、おれも商店街の酒屋に帰る。院田(いんだ)酒店。敷地内にバイクを停めて裏口から店内に入った。シャッターはこのまま閉めたままでいいか。どうせたいして客もこないのだ。ご用の方はインターフォンでも押すだろう。それよりなにより、おれはシャワーを浴びたかった。顔も服もずぶ濡れなのだ。おれは聖と違って、片想い中の女に会ってご機嫌な一日をすごしたわけじゃない。これが原因で風邪でも引いたらたまったもんじゃない。  四十二度の熱いシャワーで身体を流す。思いのほかに身体が冷えていた。じんわりと熱が身体に染みこむが、芯はまだ冷たいって感じがした。立ったまま頭をもたげてしばらく熱い雨に打たれた。まえ髪から流れる水が左足の甲の傷跡にあたる。その傷は足の甲の中心から足首を通り脛にかけてのぼっている。うっすらと盛りあがったピンク色の肉。四年まえ、配達の途中で事故をもらって、そのまま救急車で運ばれて手術をした。たしか、その日も雨が降っていたけれど、事故のせいで雨が降ったわけではない。むしろその逆。雨が降ったせいで、おれが事故をもらったのだ。これは単純な因果の関係。見通しが悪いなか、片側二車線の道路で老夫婦の運転する軽自動車が急な車線変更を行い、左側を走っていたおれのバイクを右脚ごと横から押して倒したのだ。  身体をたっぷり温めたあと、ビールでも飲もうかと思い小銭を持って酒屋の冷蔵庫に足を運ぶ。レジの横に置かれたスマートフォンがうなりをあげた。 「はいよ」  相手は聖だ。お得意さんからの大口注文の電話じゃない。こいつもシャワーを浴び終えたところなのだろうか。 「なあ、おまえ、フリーでコラムとか書いてたよな」 「ああ。おまえのところみたいな大手じゃ書いたことないけどな」 「そんなおまえに朗報だ」  楽しそうに聖が言う。 「今度、うちの会社の別の部署で、バイク特集をすることになったみたいだ。そこで、ちょっと気の利いたコラムを書けるやつを募集しているそうだ。おまえバイクにも詳しいし、コラムも書けるだろ。だから紹介しておいた」 「らしい」とか「そうだ」ばかりで曖昧ではあるが、めずらしくありがたい提案をしてくる。 「おまえ、このまま家業続けてても仕方ないんだろ。もし、うまくいけば連載が持てるかもしれない。そうすれば、少しはおまえの人生も道が開けるだろう」  こういうところも遠慮がない。ガキのころからのつきあいなので、隠す必要もオブラートにつつむ必要もないのだ。 「ああ、そうだな。助かるよ」 「じゃあ、そういうことだから、おまえのメールアドレスに今日中にうちの会社から連絡がいくはずだ。きたら、言われる通りに対応してくれ」 「あいよ」 「今日のおれは機嫌がいいからな。おまえにも幸せをおすそわけしてやる」  電話を切るとおれは小さくガッツポーズをした。今は居酒屋もキャバクラも地元商店街とのつながりなんてだいじにしない。多少遠くても大手の問屋や激安のリカーショップから大量に仕入れるから近所の酒屋から酒を注文することなんてない。昔からの個人のお得意様だけでギリギリ成り立たせているジリ貧の酒屋を続けていても、いずれ道の先が途切れることは目に見えている。それを打破するために、おれは物書きの仕事を始めたのだ。うまくいけば、大手出版社とのコネができ、売れない酒屋とは別に安定収入が得られる。その先にはもっと大きな仕事が待っている可能性もあるかもしれない。頭のなかで皮算用のそろばんを弾く。これは空論ではない。人生においての数少ないチャンスがめぐってきた。あとは、それを活かせるかの問題だ。  おれはレジに五百円を投げ入れて、冷蔵庫からバドワイザーを二本抜き取った。ちょっと早めの祝杯だ。
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