露あがり

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 聖の会社の担当から連絡がきたのはその日の真夜中だった。『ザ・大手企業』といった感じのやたらと丁寧な文面で、おれへの挨拶と今後のスケジュールについての説明が書かれている。  再来月号からスタートするから、今月末までに原稿用紙十枚分のコラムがほしい。そんな内容だった。コラムはバイクとのつきあい方を魅力的に書いてほしいとのことらしい。ずいぶんとざっくりしたオーダーだが、詳細は直接会って打ちあわせをしたいとも書かれていたので、そこでだいたいの方針を決めるつもりなのだろう。訪問可能な平日の日程をたずねられたから、二日後の金曜日と答えておいた。締切まではまだ三週間ある。スケジュール的には問題はない。おれは眠った。  翌日、おれは配達のあいまに、駅の近くのツープライススーツの店に足を運んだ。昨日、聖のつきそいできた店だ。昨日の雨はやんでいて蒸し暑い。店のまえにバイクを停めて自動ドアを抜ける。企業に挨拶に行くなら、スーツとは言わずともシャツにネクタイくらいはしていった方がいいのだろう。ワイシャツは親の葬式で使ったものがあるから、買うのはネクタイだけでいい。それで、どうせならと思って、昨日の店員に会いにきた。たしか、森って言っていたっけ。聖が片想いしている店員から買えば、そいつの売りあげにでもなって、その結果、女からの聖の評価があがればいいななんて思ったのだ。  例によって、違いのわからないスーツと綺麗にたたまれたワイシャツの棚を抜けて、サービスカウンターに向かう。昨日と同じ場所に、ひっつめ髪の女がいた。テカテカでピシッとした後頭部が見える。 「どうも」  おれが声をかけると、森という女の店員が振り返る。不審者と思われたらどうしようと一瞬思ったが、そんな心配は必要なかった。 「あ、昨日の、榛名さんの……」  そう言っておれの顔をまっすぐ見た。声がどことなく楽しげだ。おれは自己紹介をする。 「院田です。院田蓮。今日は自分の買いものにきたんだけど……」  ネクタイがほしいけど、わからないから選んでほしい。そんな内容を伝えた。 「そうなんですね。それでは、こちらにどうぞ」  なにがそんなに楽しいのか、スキップするようにスタスタ歩いていく。ネクタイコーナーには、赤、青、灰色なんかのおおまかな色にわかれて同じようなネクタイが並んでいた。 「お好きな色はありますか?」 「とくにないけど、しいて言えば、バドワイザーの赤」 「それでは、このあたりはいかがですか?」  そう言って、赤系統のネクタイが並ぶ棚から何本か取り出した。 「あれ?」  その指におれは見た。左手薬指にピカピカの指輪がはめられている。 「それ、昨日はしてなかった」  無意識に口をついていた。 「あ、これ」  そう言ってひっつめ髪の店員は指輪をなでる。 「じつは昨日、プロポーズされたんです」  まさか、聖が? そう思ったが、あいつは昨日、帰ってシャワーを浴びたあとおれに電話をしてウキウキで眠ったはずだ。夜に出かけたなんて話は聞いていない。 「学生時代からつきあっている彼なんですけど。それで、折りを見て退職するんです」  なるほど、それで機嫌がいいわけか。聖にとっては酷な話ではあるが、おれは「おめでとう」と心ない台詞をたいして身近でもない女に伝えた。そして、ご祝儀代わりに、その店員が選んでくれたネクタイのなかから一番値段の高いものを購入して店を出た。もっとも、最安のものと五百円しか違わなかったが。  自動ドアを抜けると、夏の日ざしがまぶしかった。これはあの森という女の心のあらわれなのだろうか。それならば、告白もせずに振られた聖のまわりには局地的な集中豪雨でも降っているのかもしれない。そんな非科学的なことを考えつつバイクにまたがって店に帰った。おれはこの事実を聖に伝えるような野暮をするつもりはなかった。  あいつは、これからもなにか理由をつけてはあの店に立ち寄るだろう。そのときに事実をいやでも知ることになる。それで十分だ。
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