タイムスリップ

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タイムスリップ

 現在の上田市は、2006年3月6日に旧上田市・丸子町・真田町・武石村が合併して発足した。 千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧・真田町)に達する。都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。 上田市は、長野県の中央からやや東北の所にあり、県庁所在地の長野市から40キロメートル、東京から190キロメートルのところにある。 市域は上田盆地全体に広がり、それを二分するように千曲川が横断している。市中心部(狭義の上田)は千曲川の河岸段丘上に位置する(標高約450メートル)。  市のほぼ中央を東から北西に千曲川が流れる。 千曲川右岸の河岸段丘上に、上田城を中心とした市街地が位置する。 市街地の北側の扇状地上ではりんごをはじめとした果樹栽培がさかん。 千曲川左岸の塩田地区には水田地帯がひろがる。  葛城と美咲は、現代の上田市でデートを楽しんだ後、特別な計画を実行に移すことにした。実は、美咲は未来から来たタイムトラベラーであり、自分で開発したタイムマシンを操縦できるのだ。彼女は葛城に、そのタイムマシンを使って様々な時代の上田市を巡る旅に誘った。  葛城は驚きと興奮で胸がいっぱいになった。二人は美咲の操縦するタイムマシンに乗り込み、まずは戦国時代の上田市へと向かった。タイムマシンが光に包まれ、次の瞬間には賑やかな城下町の光景が広がっていた。上田城がまだ新しく、武士たちが行き交うその時代に、二人はしばらくその歴史的な雰囲気を楽しんだ。  次に、二人は江戸時代の上田市へとタイムトラベルした。江戸時代の上田市は平和で繁栄しており、商人たちが行き交う賑やかな街並みが広がっていた。美咲は葛城に、当時の文化や生活様式について語り、二人は時代劇のような体験を楽しんだ。  さらに時を進めて、明治時代の上田市にも訪れた。この時代は、近代化が進み始めたばかりの頃で、洋風の建物や鉄道が導入され、街の景観が大きく変わり始めていた。二人はその変革の様子を目の当たりにし、新しい時代の息吹を感じた。  現代に戻る頃には、二人はすっかり様々な時代の上田市に魅了されていた。美咲は「これからも、こうやって一緒に色んな時代を旅してみたいね」と微笑んだ。葛城も彼女に同意し、二人は強い絆を感じながら、再び現代の上田市の温泉宿へと戻った。  夜が更ける中、二人はタイムトラベルの話や、これからの未来について語り合った。葛城は美咲の頬に優しくキスをし、二人は互いの存在を確かめ合いながら深い愛情を感じて、その夜を過ごした。  各時代の主な出来事。  古代 奈良時代 すでに別所温泉が開湯されていたという。奈良時代以前の景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたとも伝わる。 8世紀に信濃国分寺、国分尼寺が建立された。最初の国府もこの近くに置かれたとする説もある。 奈良末期から平安時代初頭にかけての時期に、国府が松本に移る。 平安時代 938年(承平8年) - 平将門に追われて東山道を京にむけて関東を脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監(管理者)滋野氏の下に立ち寄っている。旧知の間柄であったとも伝わるが、正確な関係は不明である。滋野氏のみならず、郡司とされる他田真樹ら信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。この戦闘によって国分寺は焼かれたものと考えられている。 中世 鎌倉時代 鎌倉幕府政所初代別当大江広元の孫大江佐房が承久の乱の後上田に所領を得たという。その子らが上田を名乗るが、1285年(弘安8年)霜月騒動で没落した。 戦国時代 1583年(天正11年)4月、甲斐武田氏の家臣・真田昌幸は、小泉氏の居城である尼ヶ淵城を改修して上田城とし、翌年城の完成とともに小県郡伊勢山の戸石城からこの城に移ったという。一方で、上田城は越後国の上杉氏に対して徳川家康により築城された城で、後に家康から昌幸に下賜された城であるとする説もある。築城後、真田昌幸は、真田氏に縁故のある海野郷(現在の東御市の一部)と原郷(市内の(旧)真田町の一部に本原の地名がみられる)の住民を招いて城下町を形成するに至る。 1585年(天正13年)8月 - 徳川家康がさしむけた真田討伐の大軍をむかえたが、真田昌幸は少ない兵と上田城や周辺の地理的条件を利用して、遂にこれを撃退せしめた。第一次上田合戦 1600年(慶長5年)- 関ヶ原の戦いのとき、真田昌幸とその子真田信繁(幸村)は、徳川秀忠が率いて押し寄せた大軍を完全に阻止し、そのため秀忠が関ヶ原の戦期を失うに至ったことは、史上名高いところである。(第二次上田合戦) 関ヶ原の戦い後、真田昌幸は次男である信繁とともに紀州高野山に幽閉されたため、上田城は一時空城となったが、依田肥前守信守が守衛の任に当たる。その後、徳川家康の女婿となっていた昌幸の長男真田信之が、徳川方に属し将軍秀忠のもとで上田城攻撃を行う忠誠を尽くしたことが評価され、沼田藩とともに上田藩の藩主にもなり、父の地盤を受け継いだ。 江戸時代 1622年(元和8年)- 真田信之が松代(現:長野市)に移り、その後小諸の仙石忠政が上田に移る。仙石家は3代85年にわたった。この間に現在残っている上田城が築かれる。 1742年(寛保2年)- 戌の満水・寛保の大水とも言われる千曲川の大洪水で市域に広く被害が及んだ。 1706年(宝永3年)- 但馬出石の松平忠周と所替になる。松平氏は在城7代164年の長きに及んだが、明治2年の版籍奉還によって上田藩となる。  
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