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振り返った山住の目に、横たわったままながらも、不敵な笑みを浮かべた八重の姿が飛び込んでくる。
姿かたちは間違いなく彼女だが、何かが違うと肌で感じ取る山住をよそに、ゆらりと彼女は立ち上がった。
「ちと、話があるでな。暫し、下がっていてもらおうか――の‼」
《ヌオッ⁉》
八重の口から、八重ではない声が響き、握った拳をぐんと振るう。
その動きに合わせて、蛇は尾に絡んでいた何かに引きずられながら、その体が宙を舞った。
影だ、と山住はようやく、蛇の尾に絡みついてた何かの正体に気づく。
八重の体から伸びた影の先が地面から持ち上がり、あたかも網のごとく、蛇の尾に絡みついてたのだ。
ドォンと派手な音と共に、山住の視界の遥か彼方へと蛇は落下する。
「はてさて、と。本当は呼ばれるまでは出るつもりはなかったのじゃが、こやつを見捨てなかったお主を見殺しにするのは寝覚めが悪いでな」
パンパンと手を払いながら、八重の体を借りた何者かは、山住にそう語り掛ける。
「君は――ッ」
月明かりに照らされた八重の顔を、改めて見た山住ははっと息を飲む。
八重の瞳、その瞳孔は、丸ではなく、縦長になっていたのだ。
「フフフ、安心せい。とっては食わぬわ。ほれ、そろそろ、起きんか、ほれ」
八重が自分の頭を自分で軽くはたいて見せる。彼女の瞳が片方、人間のそれへと変化した。
「あまり勝手をされては困ります」
「お主がいつまでも寝ておるからじゃ。ワシが動かねば、こやつが死んでおったぞ」
山住を指さす八重の口から、二つの声が交互に飛び出してくる。
どうやら、二人の間できっちり意識は共有されており、会話もできるようだが、そんなものを聞かされる山住は、なんとかついていくだけで精一杯である。
「さすがに、ここの主だけあるわ。アレが相手では、お主もさすがに厳しかったであろう」
「確かに、閉口しました」
「口どころか気まで閉じておったろうに。だから最初からワシを呼べと言ったろう?」
「あなたに任せると穏便に終わるものも終わりません」
「今まで穏便に済んだ試しがあったかのう?」
「ちょっと、その、いいかな?」
このまま無限に続かれてはかなわない、と山住は二人の会話を中断させる。
「おお、すまぬな。すぐに片付けるで、お前さんはその辺に下がっておれ」
「山住刑事、ここは言うとおりにしていただいてもよろしいですか」
ひらひらと手を振って下がるように言われた山住は、ぐっと拳を握りしめる。
このどこか緊張感のない様子は一体なんなのだ。八重は先ほどまで完全に気を失っていたというのに。
だが、今の山住に出来る事などない事は、痛いほどわかってしまっていた。
だからこそ、彼は、一つだけ質問をする。
「二人なら、なんとかできるんだな?」
答えよりも先に、八重の顔で“彼女”は鼻をならす。
「はっ、当然よ。ワシがワシに負ける道理はないでな」
「ご心配なく。個人的には不本意な形にはなりますが、騒ぎは終わらせられます」
「わかった。それなら、任せよう」
山住は彼女達の邪魔だけはしないようにしよう、と言われた通り適当な影になりそうな方へ向かう。
はた、と手にした鏡を八重の方に示すと、彼女は首を横に振った。
「持っていてください。手放したら、死にますよ」
「……わかった」
もはや何が起こるのか彼には全く予想がつかなかったが彼女の忠告には素直に従うに限る、と鏡を抱えて距離を取った。
直後、地響きを引き連れて、蛇の巨体が毒息を吐き散らしながら迫ってくる。
「うわっ⁉」
鏡を掲げて山住はなんどか踏みとどまる。
八重はどうしたのかと目をやると、彼女は立っていた。
何をするでもない、先ほどと同じ場所にただ、立っていたのだ。
「カカカ、さすがに威勢はよいのう」
額に手をやって、毒の風が吹き抜けていく中、彼女は笑う。
目を凝らせば、何をしてもいないはずなのだが、彼女の周囲に壁でもあるかの如く、毒の息がぶつかっては周囲に散らされており、彼女には一切届いていないのがうかがえた。
《渡シハセヌ! 渡シハセヌ! 例エ狗デアロウトモ!》
「わたすぅ? やれやれ、本当にどうしようもない奴じゃな」
彼女がパンと手を叩く。それだけで、猛烈な風が吹き荒れ、山住は思わずのけぞってしまう。
蛇の毒息も一瞬にして止まり、その巨体がわずかにだが後ろへと押し出された。
「では、お気の住むままに。どうぞ我が身、ご自由にお使いください」
八重の声がそう告げたかと思うと、足元の影が立ち上り、彼女の姿を飲み込んでいく。
渦を巻き始めた影は、粒子状に弾けて八重の体を包みこみ、月明かりの中、彼女の姿をひと際強く浮かび上がらせる。
丈長が束ねられていた黒髪は枝分かれして広がっていく。それは、何本もの尾ように見えた。さらに影のドレスの効果なのか、月の光を反射して、金色の様相を呈している。
《ヌオオオオオ!》
蛇がうなり声をあげて、八重に向けてLの字を描くように上体を大きくくねらせる。
破裂音が響きわたり、叩きつけられる風に、山住は木を背にしてなんとか踏みとどまる。
《グウォオオ――》
呻き声に顔を上げると、蛇が上体を苦しそうに揺らす中、八重は一歩も動いた様子はなく、力強くその場に立っていた。
その左手は叩きつけられたはずの蛇の尾が握られていた。
「カカカ、それは先ほど止めてやったのをもう忘れたのかえ? それならば、存分に思い出させてやろうぞ!」
高笑いと共に、彼女は両手で蛇の尾を握りしめると、蛇の体を振り回す。
巨体の重さなど微塵もないかのように、蛇の体はやすやすと宙に浮かび、彼女の動きに合わせて四方八方へ弧を描いた。
《ガアアアアア!》
「どうじゃ、少しは頭に血が行ったかのぉ?」
彼女はそのまま力強く、蛇の体を地面へと叩き付ける。勢い余って、蛇の体は何度も跳ね上がっては転がっていく。
パンパンと埃を払い、彼女は先ほど自身が倒れていた辺りまで悠々と歩いて戻り、落ちていた剣を拾い上げる。
再び、空に雲が集まり始めた。
《バ、バカナ――何故持テル⁉ 贋物トハイエ、神気ハ本物! 狗ノ身デ、何故⁉》
蛇の狼狽を、はん、と彼女は鼻で笑い飛ばした。
「確かに、此は贋物よ。八重のヤツが年がら年中歩いて、地脈の気を練り上げて、日夜の祈祷で神性を叩き込んだ、限りなく本物に近い贋物じゃ。この神気では、陰の気のワシが持つのは、本来であれば無理じゃな」
だが、と彼女は大きく剣を振るう。強烈な風が巻き起こり、その圧は周囲に静寂をもたらした。
「この体を借りておるからな。八重を通じておるがゆえに、ワシの陰の気は、神気と同様の陽の気へと変わっておるわけじゃ」
《ダトシテモ、渡シハセヌ! コノ力、渡シハセヌ! 我ガ、我ガコノ地ヲ守ルタメニ‼》
彼女の余裕の言葉に、蛇は大きく体を揺らして声を荒げる。
やれやれ、と彼女は大きく頭を振って、山住の方を指さした。
「それでこやつを攻撃しておれば、世話はないわ。お主とて、多少の自覚はあるのじゃろう。その力、お主は長く持ち過ぎたのじゃ」
蛇はパンパンと音を立て、何度も尾を彼女に向けて叩き付けるが、その全てはむなしく地面を叩く。
外しているわけではない、と山住は彼女の足元を見て理解する。
ほんの少しだが、彼女は動いていた。相手の、音を超えた攻撃の全てを見切り、最小限の動きだけですべて交わしているのだ。
「そろそろやめておいた方がよいのではないか。なくなるぞ」
《ヌオオオオ‼》
蛇の動きが一瞬止まり、直後に苦悶の声を上げてのたうち回り始める。
音速を超えて放たれていたはずの蛇の尾が、気づけばかなり短くなっていたのだ。
「まあ、どちらにせよ、なくなる事に変わりはないがな」
剣を脇に構えて腰を深く落とした彼女は「今度こそ、返してもらうぞ」と呟き、駆ける。
巨体をくねらせのたうち回る蛇の懐へ、彼女は難なく踏み込んでいく。
「そおれ!」
月明かりにきらめく剣が、光の線となって蛇の体に吸い込まれていく。
一閃。
山住に見えたのはそれだけだ。
しかし、彼女が振りぬいた剣を戻して肩にかけると、蛇の体がバラバラに切り裂かれていく。
再び、崩れ落ちていく蛇の体の中から、輝く石が姿を現す。
八重の姿を借りた彼女は、飛び出さない。手を伸ばさない。
軽く手招きをする。呼応するかのように、石は静かに動き出し、彼女の手の中へと納まった。
「返してもらったぞ」
彼女は、蛇に向かってそう告げると、グッと石を握りしめる。
指の隙間から、石が放っていたのと同じ光の粒がこぼれだし、八重の体がまとった影に馴染んでいく。
直後、彼女の髪の枝分かれが一つ増えていく。
《ソレヲ、ソレヲカエセェ!》
ばらばらになった蛇の声が響き渡る。
体内にあった石がなくなったせいなのか、先ほどに比べるとはるかにゆっくりだが、蛇の体は少しずつくっつき、再生の様子を見せていた。
「やれやれ、さすがに蛇はしぶといのぉ」
ふうと、息をついた彼女は、そうつぶやいて山住の方を振り向く。
「お主、アレをよこせ」
「アレ――あれ?」
彼女が言うアレが何かはすぐに思い至った山住は腰に手をやる。
だが、そこにあるはずのものがなかった。このゴタゴタで、ベルトごと完全に落っことしてしまったらしい。
くそ、と心中で毒づいて辺りを見渡すが、アレはスマホなどを入れるケースの中で、ケースの色はと言えば黒である。
この夜の山の中でそう簡単に見つかるわけがない。
必死に辺りを伺う山住の視界にふと、一筋の光が差す。
見れば、まるで視線を導くかのように、山住の手にしていた鏡からその光は延びており、山住の探し物を照らし出した。
山住はケースに向けて走り出す。
距離にして数メートル程度だが、今はやけに遠くに感じられる。
《何ヲスル気ダ⁉》
山住の動きに気づいたのか、蛇の声が降って来て、一気に頭上から影が差す。
切り裂かれていた蛇の尾の部分だけが、山住に狙いを定めていた。
「うおおおお!」
叩き潰そうとばかりに迫る蛇の尾に、とっさに山住は手にしていた鏡を叩きつけていた。
どっしりとした手ごたえが伝わってくるが、気づけば、彼はそのまま蛇の尾を鏡で打ち返していた。
《グッ⁉》
反撃に動揺する蛇の声を聞きながら、山住はケースを拾い上げると、彼女に向かって力いっぱい投げつけた。
彼女がそれを受け取ったのを確認した山住の頭上が再び暗がりになる。
《小癪ナ真似ヲ‼》
蛇の尾が再び彼に狙いを定めていたのだ。
「くそ!」
鏡を両手に持ち直した矢先、蛇の尾が完全に視界から消える。
死んだな、と瞬間、呑気な考えが山住の頭をよぎる。
直後に、猛烈な風が彼の体を叩いた。
「ん?」
一瞬の静寂とはっきりとまだある意識に、風が先に来る事への違和感が山住の中に湧き上がる。
《ウォオオオ⁉》
蛇の呻き声が頭の中を激しく叩き付ける。
見れば、山住のすぐ目の前に蛇の尾はあった。すぐそこまで迫ったそれはしかし、まるで時が止まったかのように、そこで停止していた。
「まったくもって、今のお主の行動、地位に見合ったものかどうか改めて考えた方がよいぞ」
声にふり向いた山住は、彼女の手に、ケースから取り出されたあの木彫りの像が置かれているのを見た。
《ヌオオオオ――ッ!》
蛇の呻き声が大きくなり、ズルッズルッと何かがこすれるような音が響く。
少しずつだが、再生していた蛇の上体が、彼女の方に引っ張られているようだった。
「そろそろ、お休みの時間じゃ」
彼女がそう告げ、フッと像に息を吹きかける。ぼんやりと、像が光を放ち始め、蛇が一段と大きく呻き声をあげた。
「世の為、人の為、この地の者達の生健やかなるために、今はお鎮まりくださいますよう、かしこみかしこみもうしあげます」
それは、八重の声だった。彼女の呟きに応えるように、山住の目前に迫っていた蛇の尾は一気に、引きずられるのに耐える上体の方へと戻っていく。
《狗メガアアア! 私ガ、コノ地ハ私ガ――!》
「お前さんは、確かによく治めた。だが、わかっていたはずじゃ。代償を払う時が来たのじゃ」
八重から切り替わった彼女は、像に向けてフッと息を吹き付ける。
彼女が手にしていた像が光を放ち、蛇の体に向かって伸びていく。
強制的に上体にくっつき、一身となっていた蛇の体は、像から伸びた幾多もの光の線にからめとられていく。
《ウオォオオオオオ――!》
「今は、休むがよい。改めて、お主が、真にお主が治める時がこようぞ」
彼女は諭すように蛇に語り掛けた。
呻き声を上げ続ける蛇の体は、絡みついた光の線によって、ついに地面から離れ、彼女の手にした像に引きずり込まれていく。
《我ハ――我ハ――!》
悲しげな声を残して、蛇の姿は像の中へと完全に吸い込まれて、消えた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、山住の頭の中も周囲も、一瞬にして静まり返る。
彼女が懐から取り出したお札に息を吹きかけると、それだけで文字が浮かび上がる。そのお札を像に張り付けて大きく頷いた姿に、ようやく山住は終わったのだと言う実感が追い付いてきた。
「手こずらせおってからに」
「終わった、でいいんだな?」
「うむ」
彼女は小さくそう答えると、八重のバッグから鞘を取り出して剣を収める。
途端に、彼女の頭上にあった叢雲が消え失せていく。
月明かりが照らす彼女の纏っていた影のドレスもまたすっうと足元へと吸い込まれていった。
山住は、八重のもとへと歩み寄り、彼女が手にした像を指さす。
「結局、なんだったんだ……?」
「あれは、元は心優しき蛟。この地やここに生きる人々を守りたいと言う願いから、目先の力に飛びつき、いつしか主となり、この地の土地神の地位を得たものです」
「その力の根源が、ワシの力の欠片よ」
「うおっ⁉」
八重の足元から突如伸びた影が立ち上がり、山住はたたらを踏んでしまう。
立ち上がった影はやがて、尾が何本もある犬のような姿へと形を変える。
「カカカ、久しぶりによい反応を見たのぉ」
「その声は、さっきの」
犬のような影の声は、先ほどまで八重の体を借りていた者と同じ声であった。
「む、一応行っておくと、ワシはかつては犬ではなく狐と呼ばれたのでな。先ほどの奴も狗狗とうるさかったが、狐で頼むぞ」
心を読んだようにそう言われ、山住はただ頷くしかできなかった。
「して、じゃ。アヤツが体の中に持っておった石は、かつての我が身の欠片の一つでな。今回、ワシの身に戻った故、こうして出歩けるようになったわ」
やっと終わったと思ったが、まだまだ自分の理解を超えた現象に付き合わないといけないと気づかされ、山住は頭を振った。
「で、その影響でアレは暴走したって言うのか? だが――」
「先ほども申しましたが、地位としては土地神でした。石をその身に宿せば、欠片の力を己の者とできますが、陰の気を集めてしまう性質はあります。しかし、その隠の気は、社に祀られ、人々が詣で、神気を保つことで中和されていたのです」
山住の問いを見透かしたように、八重が告げる。
「だが、あの社はもう長い事参る者もおらんかったであろう。そのせいで神気を保てず、どんどん陰に傾いて、蝕まれたわけじゃ。むしろ、今までよくもったものよ」
「そして、遷座される事もなく、社を取り壊された事で、タガが外れてしまったのです」
山住は、話を聞いているうちに、先ほどの蛇に憐みの情が浮かぶ。
人々のために神の座についたのに、人々に忘れ去られた神の末路に、じっと八重の手にした像を見つめてしまう。
「どうぞ」
「は?」
八重は、あの蛇が吸い込まれた像を山住に差し出す。
「石を失った今、出てくる心配はありませんよ」
「いや、そういう事ではなくてだな」
曲りなりにも、この地の神様だった存在が宿っている像であり、受け取るには山住の手には大きすぎた。
八重の隣にいた影が、ふいと像をくわえて、山住に放りだす。
「おわっ」
山住が慌てて受け止めると、影はカカカと口を大きく開けて笑う。
「おい!」
「いいから受け取っておけ。ワシらは所詮は外の人間よ。ソレは、この地に根差した者達が扱うべきものじゃ」
文句の一つでも言おうとした矢先に、影にそう告げられ、山住はグッと言葉に詰まってしまう。
同時に、そうは言ってもどうしろというのか、と言う気持ちが湧いてくる。
どうしても、ただの警察官の己には重すぎる。
そんな彼の心を見透かしたように、八重が山住の手ごと像をそっと両手で掴んだ。
「彼の方の怒りや、溜め込んだ陰の気がすべてなくなったわけではありません。これから末永く、鎮めていかねばなりません」
「安置しろ、と?」
「はい。この地に住まう人々が崇め、神気を与えてこそ、その心は鎮まり、やがてまた、神としての心を取り戻すでしょう」
「今まで、神様の恩恵に与った人々が、神様に恩恵を与える、という事か」
「人も神も、持ちつ持たれつよ。この国ではな」
「責任は重大だが、そういう事なら、わかった。代表なんて言うのはさすがにおこがましいかもしれんが、この土地の人間としてきちんと祀らせてもらう」
山住はしっかりと、気持ちをもって土地神の像を抱きしめる。
その様子に、八重は満足そうに頷いて両手を放すと、影の方へと向き直る。
「それでは、そろそろ最後の仕上げと参りましょうか」
「うむ、そうじゃな」
声をかけられた影は八重を飲み込む。再び、ドレスのように影をまとった彼女は大きく息を吸い込み、体をぐっと夜に広げる。
月の光をその身に受けた彼女が合わせた両手から、パンッと放たれた音と風が、辺りに一瞬にして静寂をもたらす。
「な、ん――?」
途端に、周囲で不可解な事が起こり始めて、山住は目を見張った。
先ほど、彼女が切り裂いた木が、まるで映像を巻き戻しているかのように、元の姿へと戻っていく。
それも、一本や二本ではない。蛇との争いでやられた木々が次々と戻っていく。
「何が、何が起きてるんだ――」
「カカカ、欠片が戻ったのでな。それによって起きた事を、修正しておるのよ」
「修正だって?」
ただただ戸惑う山住に、彼女から戻った八重が、指をクルクルさせて、説明してくる。
「ええ。力の欠片、石を見ましたよね。アレがこちらに戻りましたので、今回の一連の事象から“欠片の影響”という事実を、をなかった事に直している所です」
「一連の事象そのものを全くなかった事にすることはいくらワシでもできん。ワシらが斬った木くらいは、曲りなりにも神器に似せたものでやっとるからやっておるがな。事象全部とはなるとそうもいかんのじゃ。さすがに世の理に対して影響がデカすぎるでな。却って悪い影響が出るかもわからんからな」
「つまり、なんだ。一部の例外を除いては、土砂崩れなんかは実際に起きたまま、あれは土地神様の仕業ではなく、その修正とやらが終われば、単なる事故という事に変わっているという事か?」
その通りです、と言わんばかりに八重は小さく拍手を返す。
やれやれ、と山住は肩をすくめた。それが事実なら、どうやら今夜見た内容をどうやって調書にまとめるべきか悩む必要は皆無らしい。
「一晩も立てば、すべての修正は終わる事でしょう」
「そう、か。それなら、もう本当にこれで終わり、か」
山住は、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
「ええ。山住刑事、参りましょうか」
八重に促されるまま、山住は連れ立ってその場を後にする。
駐車場へ着いた時、彼は戻って来た、と言う脱力感と、本当に今日見た物事への現実感のなさを改めて感じ、どこか地に足がついていないような気持ちに襲われていた。
「それでは、安置の件はよろしくお願いいたしますね」
「あ、ああ。ありがとう。世話になったな」
「いえいえ、元々、欠片を回収する目的がありましたから、礼には及びませんよ」
「そうか。それじゃあ、ここでお別れ、でいいのかな?」
「ええ。送っていただく必要もありませんので、お気になさらず」
さすがに送るか、と思っていた所に先手を打たれて、山住は苦笑する。
本当になんでもお見通しのようだ。
「こやつの力は、歩くのが肝要じゃ、気にするな」
狐の影がそう言って笑う。
言われてみれば、そんな事も言っていたような気がするが、少々曖昧だった。
「君たちは、この後も、なんだ、その――」
「ワシの力の欠片はまだいくつかあるでな。それを集めきるまで契約しておる」
「ですので、ここは離れますが、同じような事を終わるまで続けるだけですね」
「そう、か。わかった。くれぐれも、気を付けてくれ。改めて、世話になったな」
山住は、八重と影に頭を下げ、踵を返す。
車を発進させると、バックミラー越しに手を振っている彼女の姿が見えた。
全く、本当に、夢としか思えないような出来事だった。だが、紛れもない現実だった。
助手席でシートベルトをしている土地神の像がその証だ。
安置の場所は、山住はもう決めていた。そちらを済ませてから、一眠りしよう。
そんな事を考えながら、山住は山を下り始める。
バックミラーからその姿が消えるまで、八重は手を振り続けていた。
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